戦国澄心伝

RyuChoukan

文字の大きさ
261 / 268

第二百六十三話 市声改流・名目如水

しおりを挟む
元亀二年(西暦一五七一年)六月、京都・洛中。

梅雨は退かぬが、空がときおり短い明るみをくれる。洛中がひとたび明るめば、街巷は目を覚ます。車軸の音が巷口から転がり出て、担ぎ声と呼び声が檐下でぶつかり合い、また湿気に半分ほど押さえられて、尖らず、却って密に絡みつく。銭が木皿に落ちて「チン」と鳴る。大きな音ではないが、一日の気を点すような音だ。

京都の昼の熱は、火にはない。市にある。市が熱すれば、規矩は弛みやすい。規矩が弛めば、弛みを路にし、路を利にする者が出る。利が手に馴染めば影は伸び、影が伸びれば、暗い所で手がもう半寸、伸びる。

東山澄斎はなお静かだ。門外の市声が上がり下がりしても、門内に聞こえるのは盃の縁が軽く触れる音と、紙角が無言で落ち着く気配だけ――静は空ではない。乱れるべき声を先に押さえている。

内室に繁物はない。机上には硯と、まだ墨を含ませぬ筆。傍らには冷えた石の鎮紙が一つ――紙は白を露わにせず、先に石が冷えを露わにする。柳澈涵は机前に坐し、視線を筆先に落とすが、墨は落とさぬ。その一瞬は待っているようだった。局が自ら、筆を落とすべき処を露わにするのを。露わになってから書けば、多くを書かずに済む。

明智光秀が入る。衣冠は整い、袖口は乾いている。洛中の声と湿りを、道中ずっと深く隠してきたかのようだ。柳澈涵の向かいに座す。礼は繁くなく、言も繁くない。だが京人の敏がある――問うべきものと、問うべからざるものを知っている。

柳澈涵が先に口を開く。「比叡山」の三字も、昨夜の分脈も出さぬ。一句で方向だけを落とす。

「北嶺の筋は、いかほど財を握るかではない。天下の財が、どれほど彼の径を経て流れるかにある。」

光秀が目を上げる。

「径を断つか。」

柳澈涵は首を振る。きわめて軽く、しかし硬く。

「断たぬ。断てば驚く。驚けば洛中が先に疑う。」

彼は硯の傍を指で軽く一つ叩く。水勢の一線を扣えるように。

「流れを替える。」

「銭に、もっと近く、もっと確かで、もっと手間のかからぬ行き先を与える。商人は算に最も明い。路が割に合えば、脚が自ら替わる。」

「脚が替わる」という二字を聞いて、光秀の眉間がわずかに締まる。これは粗利の争いではない。天下の足取りそのものに、自分で向きを変えさせる策だ。足が替われば、北嶺の影と手も付いて替わらねばならぬ。付いて来られねば、露わになってはならぬ形が露わになる。

柳澈涵がさらに一言添える。落点は一層冷たい。

「この事は雅正に書かねばならぬ。」

「洛中には、清道・便商・去扰だけを見せる。奪利を見せてはならぬ。」

光秀はゆっくり頷く。雅正の重さを知っている。雅正が立てば、公卿諸家は面を護ろうとする。面が護られれば、旧勢は「武家が寺利を奪う」と書き立てにくい。

光秀が問う。

「何の名で。」

柳澈涵は新政とも改制とも言わぬ。京が最も慣れて聞く二字だけを出す。

「正市。」

「市が正しければ、路は自ずと清い。路が清ければ、財は自ずと聚まる。」

光秀はこれ以上「細目」を問わぬ。細目は澄斎で語り尽くすべきではない。語り尽くせば、刀を先に紙へ見せるに等しい。

彼は執行の分寸だけを問う。

「この雅正は、誰が書く。」

柳澈涵が言う。

「藤孝が席次を定められる。」

「言継が辞色を定められる。」

「そなたが手脚を定めよ。」

分けた一言は、三本の釘を最も合う木へ打つようだ。藤孝は礼と席を掌り、言継は筆と辞を掌り、光秀は路と人を掌る。

光秀は伏して承る。出る前、机上の冷石を一度見た。石は冷え、そして揺るがぬ。思い出させる――この局は声の高さで勝たず、落点の安定で勝つ。

同日午後、細川藤孝邸。

室内の香は淡い。席次は明らかだ。藤孝はどっしり坐す。動かぬ砥石のように。山科言継は笑みが温い。扇骨を指で静かに一転させ、急いで言を受けず、まず光秀に「清」の字を言い切らせる。笑みは収めず、放ちもせぬ――言葉を半空に吊るし、相手が自分から「名目」を差し出すのを待つ笑みだ。

光秀は席に入り、まず「市」を語らず、「清」を語る。

「洛中この頃、路に小扰多し。」

「盗にもならず、税にもならぬ。ただ処々に私の一線を設け、商賈の足下の路を細断する。細断が増えれば市は不安。市が不安なら諸家もまた安からず。」

言継の笑みがわずかに締まる。これは治安に聞こえて、実は名目だ。名目が立てば、後の刃は先に抜かずに済む。

藤孝がゆるりと言う。

「清道は、京が自ずと聴く。」

そこで光秀は「正市」の二字を席に置く。廃座も禁座も言わぬ。京都が受け入れる書き方を取る――旧例は存してよい、新行を塞いではならぬ。

「諸座の旧例は、名を存すべし。」光秀が言う。

「然れど旧名をもって新行を阻むこと、許さず。直来直去を願う者には直来直去を。市中に売買を願う者には、余計な手を経ずとも済むように。」

言継が扇骨を軽く叩く。

「これが楽市か。」

光秀は「楽」の軽さを受けず、「市」の正しさだけを受ける。

「市が正しくなければ商は聚まらぬ。商が聚まれば歳用も供奉も却って散る。京は散る声を忌む。」

藤孝が小さく頷く。将軍方が恐れるのは利の減ではなく、散声が帘を逼って人を前へ引きずり出すことだ。

言継は辞色を、書ける筆へ収斂させる。清道便商、正市去扰。雅に書く。雅に書けば、誰もが面を護りたくなる。

そして光秀の「手脚」は、この刻に地へ落ちる――しかも一つの手ではない。

第一手――口を立てる。

「正市」を名として、洛中に一処、最も宜しい地を選び新市の口を開く。一口で呑み尽くさぬ。ただ武家が護り得る処で、先に安く開く。駅路に近く、倉場に近く、護る兵に近い。禁裏が最も敏な旧門旧例からは距離を取る。

第二手――清道。

道番・巡目を密にし、私設の関・路上の盤剥は一概に「扰市」として治す。殺さず、騒がず、ただ名を污させる。名が污れれば、誰も代わりに口を開けぬ。

第三手――凭を換える。

「手形」を凭として、舟車出入の札を整える。利を取るためではない。路を清めるためだ。旧例を尽く廃さずとも、旧例が必経ではなくなるようにし、新路を直行できるようにする。

第四手――路を護る。

兵を道側に置く。奪貨のためではない。護路のためだ。護路は扰貨せず。扰貨する者は軍法で治す――この一句は札に書かず、口令にだけ釘として打つ。

第五手――衡を正す。

市口で争端が生まれやすい処には、定貫の衡と公度の秤を設け、強買強売に勢を借りさせぬ。収受の例を明らかにし、暗抽が潜む余地を狭める。これを奪利と呼ばせず、「正市」と呼ばせる。

最も要の一句を、光秀は身内にのみ言い、紙には載せぬ。

「紙の上は軽く、路の上は稳く。」

京都が最も忌むのは「重」だ。重ければ人を出声へ追い込み、追い込めば久しく収まらぬ。追い込まぬからこそ、久しく収められる。

数日後、新市の口が開く。

喧しくない。鼓も打たぬ。早朝、数台の車が先に来ただけだ。車轅は泥を引き、布はまだ解かれぬ。旧座の人々は遠くから見ている。眼は険しいが、先に動けぬ。動けば「扰」となる。扰となれば「正市」の名目の中へ落ちる。

商人は算に長ける。算じるのは義ではない。路だ。

この新市口は、路が直く、手替えが少なく、暗抽が少ない。貨が一手多く経れば利は一分薄い。手が減れば利は厚い。厚いがゆえに、人は一つ走り方を替える気になる。

誰かが小さく言う。

「旧例を経て転手するより、却って省ける。」

声は高くない。だが呼び声より狠い。北嶺を罵らず、名義を争わず、ただ脚を改めさせる。脚が改まれば、筋は先に虚ろになる。

午後、市中の人はさらに稠くなる。旧座の者が新市口の周りを回り始める。新しい井を覗くように。先に飲む勇はないが、見ないで済ませることもできぬ。旧い口上で止めようとする者がいたが、道番が一瞥するだけで、その言葉は喉へ戻った。刀が怖いのではない。「扰市」の二字が自分の名へ落ちるのが怖いのだ。

同時に、美濃・岐阜。

信長は廊下で簡札を閲す。風は湿るが、甲は乾いている。近侍が近江と洛中、二路の報を呈する。一つは浅井・朝倉の動き。もう一つは洛中新市口開設と道途整粛。

信長は読み終えると、辞章を評さず、二句だけ命を落とす。

「近江の路上、盗と私の拦え、併せて粛清せよ。」

「兵は道側に在れ。護路して扰貨するな。兵の名を借りて利を取る者あらば、斬れ。」

雅ではない。だが、極めて清い。信長は好い言葉で信を取らぬ。用に足るもので信を取る。路が稳ければ商は聚まる。商が聚まれば、財勢は自然に向きを変える。

さらに一言、笑いのようで冷たい。

「その路を直くせよ。」

省かれるのは半日の脚程ではない。北嶺の筋である。

――

北嶺の方で、最初に変化を覚えるのは堂内の講経者ではない。山下で転手に慣れた、あの幾つかの手だ。

坂本口の舟が、少し減った。忽然と絶えたのではない。一割二割の減りだ。その程度の減りが最も人を磨く――まだ撑えられるように見え、撑え続けるほど底が削れる。

募縁で戻る物も, 少し軽くなった. 供奉が消えたのではない. 供奉が行き先を改めたのだ. より近く、より稳く、より余計な手を経ずに済む処へ。

山門の内で、誰かが低く言う。

「人が来ぬのではない。路が換わったのだ。」

この言葉が外へ出れば面が落ちる。ゆえに暗がりでしか言えぬ。だが暗がりで言う者が増えるほど、あの手が焦っている証になる。焦れば越分しやすい。越分すれば指されやすい。

東山澄斎。柳澈涵は報を聞き、ただ軽く「うむ」と言った。

「成った」とも「勝った」とも言わぬ。

彼は茶盏をそっと一転させた。まるでより長い路を、心の内で“校定”するかのように。

「財の流れが一度緩めば、衆の心は遅れる。」

「遅れれば、北嶺は手と影同時に養い難い。」

傍らの光秀は、眉を解かない。京を知り過ぎているからだ。京で最も危ういのは明反ではない。「影」である。影が薄くなれば、別の法で補おうとする。

光秀が低く言う。

「北嶺がこの欠け口を補うなら、先に手を露わにする。」

柳澈涵は目を上げる。眼はなお静かだ。

「補わせよ。」

「補いが急げば急ぐほど、隠し難い。」

門外の市声は尽きぬ。銭の音が木皿に一つ一つ落ちる。その音は水のように、ひそかに流れを改めた。水が改まれば、北嶺の影は、もはや旧のままでは在れぬ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

天正の黒船

KEYちゃん
歴史・時代
幕末、日本人は欧米諸国が日本に来た時の黒船に腰を抜かした。しかしその300年前に日本人は黒船を作っていた。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

ヤバイ秀吉

魚夢ゴールド
歴史・時代
題名通り、性格をヤバくした羽柴秀吉の伝記モノです。

強いられる賭け~脇坂安治軍記~

恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。 こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。 しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。

不屈の葵

ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む! これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。 幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。 本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。 家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。 今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。 家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。 笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。 戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。 愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目! 歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』 ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

マルチバース豊臣家の人々

かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月 後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。 ーーこんなはずちゃうやろ? それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。 果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?  そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

処理中です...