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第二百六十三話 市声改流・名目如水
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元亀二年(西暦一五七一年)六月、京都・洛中。
梅雨は退かぬが、空がときおり短い明るみをくれる。洛中がひとたび明るめば、街巷は目を覚ます。車軸の音が巷口から転がり出て、担ぎ声と呼び声が檐下でぶつかり合い、また湿気に半分ほど押さえられて、尖らず、却って密に絡みつく。銭が木皿に落ちて「チン」と鳴る。大きな音ではないが、一日の気を点すような音だ。
京都の昼の熱は、火にはない。市にある。市が熱すれば、規矩は弛みやすい。規矩が弛めば、弛みを路にし、路を利にする者が出る。利が手に馴染めば影は伸び、影が伸びれば、暗い所で手がもう半寸、伸びる。
東山澄斎はなお静かだ。門外の市声が上がり下がりしても、門内に聞こえるのは盃の縁が軽く触れる音と、紙角が無言で落ち着く気配だけ――静は空ではない。乱れるべき声を先に押さえている。
内室に繁物はない。机上には硯と、まだ墨を含ませぬ筆。傍らには冷えた石の鎮紙が一つ――紙は白を露わにせず、先に石が冷えを露わにする。柳澈涵は机前に坐し、視線を筆先に落とすが、墨は落とさぬ。その一瞬は待っているようだった。局が自ら、筆を落とすべき処を露わにするのを。露わになってから書けば、多くを書かずに済む。
明智光秀が入る。衣冠は整い、袖口は乾いている。洛中の声と湿りを、道中ずっと深く隠してきたかのようだ。柳澈涵の向かいに座す。礼は繁くなく、言も繁くない。だが京人の敏がある――問うべきものと、問うべからざるものを知っている。
柳澈涵が先に口を開く。「比叡山」の三字も、昨夜の分脈も出さぬ。一句で方向だけを落とす。
「北嶺の筋は、いかほど財を握るかではない。天下の財が、どれほど彼の径を経て流れるかにある。」
光秀が目を上げる。
「径を断つか。」
柳澈涵は首を振る。きわめて軽く、しかし硬く。
「断たぬ。断てば驚く。驚けば洛中が先に疑う。」
彼は硯の傍を指で軽く一つ叩く。水勢の一線を扣えるように。
「流れを替える。」
「銭に、もっと近く、もっと確かで、もっと手間のかからぬ行き先を与える。商人は算に最も明い。路が割に合えば、脚が自ら替わる。」
「脚が替わる」という二字を聞いて、光秀の眉間がわずかに締まる。これは粗利の争いではない。天下の足取りそのものに、自分で向きを変えさせる策だ。足が替われば、北嶺の影と手も付いて替わらねばならぬ。付いて来られねば、露わになってはならぬ形が露わになる。
柳澈涵がさらに一言添える。落点は一層冷たい。
「この事は雅正に書かねばならぬ。」
「洛中には、清道・便商・去扰だけを見せる。奪利を見せてはならぬ。」
光秀はゆっくり頷く。雅正の重さを知っている。雅正が立てば、公卿諸家は面を護ろうとする。面が護られれば、旧勢は「武家が寺利を奪う」と書き立てにくい。
光秀が問う。
「何の名で。」
柳澈涵は新政とも改制とも言わぬ。京が最も慣れて聞く二字だけを出す。
「正市。」
「市が正しければ、路は自ずと清い。路が清ければ、財は自ずと聚まる。」
光秀はこれ以上「細目」を問わぬ。細目は澄斎で語り尽くすべきではない。語り尽くせば、刀を先に紙へ見せるに等しい。
彼は執行の分寸だけを問う。
「この雅正は、誰が書く。」
柳澈涵が言う。
「藤孝が席次を定められる。」
「言継が辞色を定められる。」
「そなたが手脚を定めよ。」
分けた一言は、三本の釘を最も合う木へ打つようだ。藤孝は礼と席を掌り、言継は筆と辞を掌り、光秀は路と人を掌る。
光秀は伏して承る。出る前、机上の冷石を一度見た。石は冷え、そして揺るがぬ。思い出させる――この局は声の高さで勝たず、落点の安定で勝つ。
同日午後、細川藤孝邸。
室内の香は淡い。席次は明らかだ。藤孝はどっしり坐す。動かぬ砥石のように。山科言継は笑みが温い。扇骨を指で静かに一転させ、急いで言を受けず、まず光秀に「清」の字を言い切らせる。笑みは収めず、放ちもせぬ――言葉を半空に吊るし、相手が自分から「名目」を差し出すのを待つ笑みだ。
光秀は席に入り、まず「市」を語らず、「清」を語る。
「洛中この頃、路に小扰多し。」
「盗にもならず、税にもならぬ。ただ処々に私の一線を設け、商賈の足下の路を細断する。細断が増えれば市は不安。市が不安なら諸家もまた安からず。」
言継の笑みがわずかに締まる。これは治安に聞こえて、実は名目だ。名目が立てば、後の刃は先に抜かずに済む。
藤孝がゆるりと言う。
「清道は、京が自ずと聴く。」
そこで光秀は「正市」の二字を席に置く。廃座も禁座も言わぬ。京都が受け入れる書き方を取る――旧例は存してよい、新行を塞いではならぬ。
「諸座の旧例は、名を存すべし。」光秀が言う。
「然れど旧名をもって新行を阻むこと、許さず。直来直去を願う者には直来直去を。市中に売買を願う者には、余計な手を経ずとも済むように。」
言継が扇骨を軽く叩く。
「これが楽市か。」
光秀は「楽」の軽さを受けず、「市」の正しさだけを受ける。
「市が正しくなければ商は聚まらぬ。商が聚まれば歳用も供奉も却って散る。京は散る声を忌む。」
藤孝が小さく頷く。将軍方が恐れるのは利の減ではなく、散声が帘を逼って人を前へ引きずり出すことだ。
言継は辞色を、書ける筆へ収斂させる。清道便商、正市去扰。雅に書く。雅に書けば、誰もが面を護りたくなる。
そして光秀の「手脚」は、この刻に地へ落ちる――しかも一つの手ではない。
第一手――口を立てる。
「正市」を名として、洛中に一処、最も宜しい地を選び新市の口を開く。一口で呑み尽くさぬ。ただ武家が護り得る処で、先に安く開く。駅路に近く、倉場に近く、護る兵に近い。禁裏が最も敏な旧門旧例からは距離を取る。
第二手――清道。
道番・巡目を密にし、私設の関・路上の盤剥は一概に「扰市」として治す。殺さず、騒がず、ただ名を污させる。名が污れれば、誰も代わりに口を開けぬ。
第三手――凭を換える。
「手形」を凭として、舟車出入の札を整える。利を取るためではない。路を清めるためだ。旧例を尽く廃さずとも、旧例が必経ではなくなるようにし、新路を直行できるようにする。
第四手――路を護る。
兵を道側に置く。奪貨のためではない。護路のためだ。護路は扰貨せず。扰貨する者は軍法で治す――この一句は札に書かず、口令にだけ釘として打つ。
第五手――衡を正す。
市口で争端が生まれやすい処には、定貫の衡と公度の秤を設け、強買強売に勢を借りさせぬ。収受の例を明らかにし、暗抽が潜む余地を狭める。これを奪利と呼ばせず、「正市」と呼ばせる。
最も要の一句を、光秀は身内にのみ言い、紙には載せぬ。
「紙の上は軽く、路の上は稳く。」
京都が最も忌むのは「重」だ。重ければ人を出声へ追い込み、追い込めば久しく収まらぬ。追い込まぬからこそ、久しく収められる。
数日後、新市の口が開く。
喧しくない。鼓も打たぬ。早朝、数台の車が先に来ただけだ。車轅は泥を引き、布はまだ解かれぬ。旧座の人々は遠くから見ている。眼は険しいが、先に動けぬ。動けば「扰」となる。扰となれば「正市」の名目の中へ落ちる。
商人は算に長ける。算じるのは義ではない。路だ。
この新市口は、路が直く、手替えが少なく、暗抽が少ない。貨が一手多く経れば利は一分薄い。手が減れば利は厚い。厚いがゆえに、人は一つ走り方を替える気になる。
誰かが小さく言う。
「旧例を経て転手するより、却って省ける。」
声は高くない。だが呼び声より狠い。北嶺を罵らず、名義を争わず、ただ脚を改めさせる。脚が改まれば、筋は先に虚ろになる。
午後、市中の人はさらに稠くなる。旧座の者が新市口の周りを回り始める。新しい井を覗くように。先に飲む勇はないが、見ないで済ませることもできぬ。旧い口上で止めようとする者がいたが、道番が一瞥するだけで、その言葉は喉へ戻った。刀が怖いのではない。「扰市」の二字が自分の名へ落ちるのが怖いのだ。
同時に、美濃・岐阜。
信長は廊下で簡札を閲す。風は湿るが、甲は乾いている。近侍が近江と洛中、二路の報を呈する。一つは浅井・朝倉の動き。もう一つは洛中新市口開設と道途整粛。
信長は読み終えると、辞章を評さず、二句だけ命を落とす。
「近江の路上、盗と私の拦え、併せて粛清せよ。」
「兵は道側に在れ。護路して扰貨するな。兵の名を借りて利を取る者あらば、斬れ。」
雅ではない。だが、極めて清い。信長は好い言葉で信を取らぬ。用に足るもので信を取る。路が稳ければ商は聚まる。商が聚まれば、財勢は自然に向きを変える。
さらに一言、笑いのようで冷たい。
「その路を直くせよ。」
省かれるのは半日の脚程ではない。北嶺の筋である。
――
北嶺の方で、最初に変化を覚えるのは堂内の講経者ではない。山下で転手に慣れた、あの幾つかの手だ。
坂本口の舟が、少し減った。忽然と絶えたのではない。一割二割の減りだ。その程度の減りが最も人を磨く――まだ撑えられるように見え、撑え続けるほど底が削れる。
募縁で戻る物も, 少し軽くなった. 供奉が消えたのではない. 供奉が行き先を改めたのだ. より近く、より稳く、より余計な手を経ずに済む処へ。
山門の内で、誰かが低く言う。
「人が来ぬのではない。路が換わったのだ。」
この言葉が外へ出れば面が落ちる。ゆえに暗がりでしか言えぬ。だが暗がりで言う者が増えるほど、あの手が焦っている証になる。焦れば越分しやすい。越分すれば指されやすい。
東山澄斎。柳澈涵は報を聞き、ただ軽く「うむ」と言った。
「成った」とも「勝った」とも言わぬ。
彼は茶盏をそっと一転させた。まるでより長い路を、心の内で“校定”するかのように。
「財の流れが一度緩めば、衆の心は遅れる。」
「遅れれば、北嶺は手と影同時に養い難い。」
傍らの光秀は、眉を解かない。京を知り過ぎているからだ。京で最も危ういのは明反ではない。「影」である。影が薄くなれば、別の法で補おうとする。
光秀が低く言う。
「北嶺がこの欠け口を補うなら、先に手を露わにする。」
柳澈涵は目を上げる。眼はなお静かだ。
「補わせよ。」
「補いが急げば急ぐほど、隠し難い。」
門外の市声は尽きぬ。銭の音が木皿に一つ一つ落ちる。その音は水のように、ひそかに流れを改めた。水が改まれば、北嶺の影は、もはや旧のままでは在れぬ。
梅雨は退かぬが、空がときおり短い明るみをくれる。洛中がひとたび明るめば、街巷は目を覚ます。車軸の音が巷口から転がり出て、担ぎ声と呼び声が檐下でぶつかり合い、また湿気に半分ほど押さえられて、尖らず、却って密に絡みつく。銭が木皿に落ちて「チン」と鳴る。大きな音ではないが、一日の気を点すような音だ。
京都の昼の熱は、火にはない。市にある。市が熱すれば、規矩は弛みやすい。規矩が弛めば、弛みを路にし、路を利にする者が出る。利が手に馴染めば影は伸び、影が伸びれば、暗い所で手がもう半寸、伸びる。
東山澄斎はなお静かだ。門外の市声が上がり下がりしても、門内に聞こえるのは盃の縁が軽く触れる音と、紙角が無言で落ち着く気配だけ――静は空ではない。乱れるべき声を先に押さえている。
内室に繁物はない。机上には硯と、まだ墨を含ませぬ筆。傍らには冷えた石の鎮紙が一つ――紙は白を露わにせず、先に石が冷えを露わにする。柳澈涵は机前に坐し、視線を筆先に落とすが、墨は落とさぬ。その一瞬は待っているようだった。局が自ら、筆を落とすべき処を露わにするのを。露わになってから書けば、多くを書かずに済む。
明智光秀が入る。衣冠は整い、袖口は乾いている。洛中の声と湿りを、道中ずっと深く隠してきたかのようだ。柳澈涵の向かいに座す。礼は繁くなく、言も繁くない。だが京人の敏がある――問うべきものと、問うべからざるものを知っている。
柳澈涵が先に口を開く。「比叡山」の三字も、昨夜の分脈も出さぬ。一句で方向だけを落とす。
「北嶺の筋は、いかほど財を握るかではない。天下の財が、どれほど彼の径を経て流れるかにある。」
光秀が目を上げる。
「径を断つか。」
柳澈涵は首を振る。きわめて軽く、しかし硬く。
「断たぬ。断てば驚く。驚けば洛中が先に疑う。」
彼は硯の傍を指で軽く一つ叩く。水勢の一線を扣えるように。
「流れを替える。」
「銭に、もっと近く、もっと確かで、もっと手間のかからぬ行き先を与える。商人は算に最も明い。路が割に合えば、脚が自ら替わる。」
「脚が替わる」という二字を聞いて、光秀の眉間がわずかに締まる。これは粗利の争いではない。天下の足取りそのものに、自分で向きを変えさせる策だ。足が替われば、北嶺の影と手も付いて替わらねばならぬ。付いて来られねば、露わになってはならぬ形が露わになる。
柳澈涵がさらに一言添える。落点は一層冷たい。
「この事は雅正に書かねばならぬ。」
「洛中には、清道・便商・去扰だけを見せる。奪利を見せてはならぬ。」
光秀はゆっくり頷く。雅正の重さを知っている。雅正が立てば、公卿諸家は面を護ろうとする。面が護られれば、旧勢は「武家が寺利を奪う」と書き立てにくい。
光秀が問う。
「何の名で。」
柳澈涵は新政とも改制とも言わぬ。京が最も慣れて聞く二字だけを出す。
「正市。」
「市が正しければ、路は自ずと清い。路が清ければ、財は自ずと聚まる。」
光秀はこれ以上「細目」を問わぬ。細目は澄斎で語り尽くすべきではない。語り尽くせば、刀を先に紙へ見せるに等しい。
彼は執行の分寸だけを問う。
「この雅正は、誰が書く。」
柳澈涵が言う。
「藤孝が席次を定められる。」
「言継が辞色を定められる。」
「そなたが手脚を定めよ。」
分けた一言は、三本の釘を最も合う木へ打つようだ。藤孝は礼と席を掌り、言継は筆と辞を掌り、光秀は路と人を掌る。
光秀は伏して承る。出る前、机上の冷石を一度見た。石は冷え、そして揺るがぬ。思い出させる――この局は声の高さで勝たず、落点の安定で勝つ。
同日午後、細川藤孝邸。
室内の香は淡い。席次は明らかだ。藤孝はどっしり坐す。動かぬ砥石のように。山科言継は笑みが温い。扇骨を指で静かに一転させ、急いで言を受けず、まず光秀に「清」の字を言い切らせる。笑みは収めず、放ちもせぬ――言葉を半空に吊るし、相手が自分から「名目」を差し出すのを待つ笑みだ。
光秀は席に入り、まず「市」を語らず、「清」を語る。
「洛中この頃、路に小扰多し。」
「盗にもならず、税にもならぬ。ただ処々に私の一線を設け、商賈の足下の路を細断する。細断が増えれば市は不安。市が不安なら諸家もまた安からず。」
言継の笑みがわずかに締まる。これは治安に聞こえて、実は名目だ。名目が立てば、後の刃は先に抜かずに済む。
藤孝がゆるりと言う。
「清道は、京が自ずと聴く。」
そこで光秀は「正市」の二字を席に置く。廃座も禁座も言わぬ。京都が受け入れる書き方を取る――旧例は存してよい、新行を塞いではならぬ。
「諸座の旧例は、名を存すべし。」光秀が言う。
「然れど旧名をもって新行を阻むこと、許さず。直来直去を願う者には直来直去を。市中に売買を願う者には、余計な手を経ずとも済むように。」
言継が扇骨を軽く叩く。
「これが楽市か。」
光秀は「楽」の軽さを受けず、「市」の正しさだけを受ける。
「市が正しくなければ商は聚まらぬ。商が聚まれば歳用も供奉も却って散る。京は散る声を忌む。」
藤孝が小さく頷く。将軍方が恐れるのは利の減ではなく、散声が帘を逼って人を前へ引きずり出すことだ。
言継は辞色を、書ける筆へ収斂させる。清道便商、正市去扰。雅に書く。雅に書けば、誰もが面を護りたくなる。
そして光秀の「手脚」は、この刻に地へ落ちる――しかも一つの手ではない。
第一手――口を立てる。
「正市」を名として、洛中に一処、最も宜しい地を選び新市の口を開く。一口で呑み尽くさぬ。ただ武家が護り得る処で、先に安く開く。駅路に近く、倉場に近く、護る兵に近い。禁裏が最も敏な旧門旧例からは距離を取る。
第二手――清道。
道番・巡目を密にし、私設の関・路上の盤剥は一概に「扰市」として治す。殺さず、騒がず、ただ名を污させる。名が污れれば、誰も代わりに口を開けぬ。
第三手――凭を換える。
「手形」を凭として、舟車出入の札を整える。利を取るためではない。路を清めるためだ。旧例を尽く廃さずとも、旧例が必経ではなくなるようにし、新路を直行できるようにする。
第四手――路を護る。
兵を道側に置く。奪貨のためではない。護路のためだ。護路は扰貨せず。扰貨する者は軍法で治す――この一句は札に書かず、口令にだけ釘として打つ。
第五手――衡を正す。
市口で争端が生まれやすい処には、定貫の衡と公度の秤を設け、強買強売に勢を借りさせぬ。収受の例を明らかにし、暗抽が潜む余地を狭める。これを奪利と呼ばせず、「正市」と呼ばせる。
最も要の一句を、光秀は身内にのみ言い、紙には載せぬ。
「紙の上は軽く、路の上は稳く。」
京都が最も忌むのは「重」だ。重ければ人を出声へ追い込み、追い込めば久しく収まらぬ。追い込まぬからこそ、久しく収められる。
数日後、新市の口が開く。
喧しくない。鼓も打たぬ。早朝、数台の車が先に来ただけだ。車轅は泥を引き、布はまだ解かれぬ。旧座の人々は遠くから見ている。眼は険しいが、先に動けぬ。動けば「扰」となる。扰となれば「正市」の名目の中へ落ちる。
商人は算に長ける。算じるのは義ではない。路だ。
この新市口は、路が直く、手替えが少なく、暗抽が少ない。貨が一手多く経れば利は一分薄い。手が減れば利は厚い。厚いがゆえに、人は一つ走り方を替える気になる。
誰かが小さく言う。
「旧例を経て転手するより、却って省ける。」
声は高くない。だが呼び声より狠い。北嶺を罵らず、名義を争わず、ただ脚を改めさせる。脚が改まれば、筋は先に虚ろになる。
午後、市中の人はさらに稠くなる。旧座の者が新市口の周りを回り始める。新しい井を覗くように。先に飲む勇はないが、見ないで済ませることもできぬ。旧い口上で止めようとする者がいたが、道番が一瞥するだけで、その言葉は喉へ戻った。刀が怖いのではない。「扰市」の二字が自分の名へ落ちるのが怖いのだ。
同時に、美濃・岐阜。
信長は廊下で簡札を閲す。風は湿るが、甲は乾いている。近侍が近江と洛中、二路の報を呈する。一つは浅井・朝倉の動き。もう一つは洛中新市口開設と道途整粛。
信長は読み終えると、辞章を評さず、二句だけ命を落とす。
「近江の路上、盗と私の拦え、併せて粛清せよ。」
「兵は道側に在れ。護路して扰貨するな。兵の名を借りて利を取る者あらば、斬れ。」
雅ではない。だが、極めて清い。信長は好い言葉で信を取らぬ。用に足るもので信を取る。路が稳ければ商は聚まる。商が聚まれば、財勢は自然に向きを変える。
さらに一言、笑いのようで冷たい。
「その路を直くせよ。」
省かれるのは半日の脚程ではない。北嶺の筋である。
――
北嶺の方で、最初に変化を覚えるのは堂内の講経者ではない。山下で転手に慣れた、あの幾つかの手だ。
坂本口の舟が、少し減った。忽然と絶えたのではない。一割二割の減りだ。その程度の減りが最も人を磨く――まだ撑えられるように見え、撑え続けるほど底が削れる。
募縁で戻る物も, 少し軽くなった. 供奉が消えたのではない. 供奉が行き先を改めたのだ. より近く、より稳く、より余計な手を経ずに済む処へ。
山門の内で、誰かが低く言う。
「人が来ぬのではない。路が換わったのだ。」
この言葉が外へ出れば面が落ちる。ゆえに暗がりでしか言えぬ。だが暗がりで言う者が増えるほど、あの手が焦っている証になる。焦れば越分しやすい。越分すれば指されやすい。
東山澄斎。柳澈涵は報を聞き、ただ軽く「うむ」と言った。
「成った」とも「勝った」とも言わぬ。
彼は茶盏をそっと一転させた。まるでより長い路を、心の内で“校定”するかのように。
「財の流れが一度緩めば、衆の心は遅れる。」
「遅れれば、北嶺は手と影同時に養い難い。」
傍らの光秀は、眉を解かない。京を知り過ぎているからだ。京で最も危ういのは明反ではない。「影」である。影が薄くなれば、別の法で補おうとする。
光秀が低く言う。
「北嶺がこの欠け口を補うなら、先に手を露わにする。」
柳澈涵は目を上げる。眼はなお静かだ。
「補わせよ。」
「補いが急げば急ぐほど、隠し難い。」
門外の市声は尽きぬ。銭の音が木皿に一つ一つ落ちる。その音は水のように、ひそかに流れを改めた。水が改まれば、北嶺の影は、もはや旧のままでは在れぬ。
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