9 / 109
第二話・清水寺雨夜・何度も死んだ女(三)
しおりを挟む
清水坂の中ほどに並ぶ店は、花見小路に比べるとずっと静かだ。
その湯豆腐屋の軒先には、少し古びた木の看板がぶら下がり、「ゆどうふ」の文字が雨に打たれて色を落としている。入口の風鈴が風に揺れて、澄んだ金属音を二、三度鳴らした。
劉立澄は傘をたたんで店に入る。ドアの向こうは暖房がきいていて、豆腐と昆布の香りが一度に押し寄せてきた。
店内は広くない。小さな卓が四つ。窓際の席は空いていて、隅には旅館へ戻る前らしい夫婦が座り、明日の予定を変更すべきか小声で話し合っている。
「いらっしゃい。」
カウンターの奥で手を拭いていた中年の店主が顔を上げ、彼を一目見た。
「湯豆腐定食でいいかい?」
「湯豆腐だけで。小鉢を少し。」
劉立澄はそう答えた。
やがて、浅い口の鉄鍋が一つ、卓に置かれる。
白い鍋の中では、一口大に切られた絹ごし豆腐が乳白色の湯に浸かっている。湯の表には、細かく刻んだ葱と柚子の皮が数片、浮かんでいる。脇には小皿に入った醤油、ポン酢、胡麻塩。
湯は、かすかに泡を立てながら温度を保ち、豆腐の角は揺れもしないほど静かに震えていた。まるで目を覚ましたばかりの何かみたいに。
まず、レンゲを湯に差し入れ、一口すくってすすぐ。
昆布の旨味は、主張しすぎず、底に敷かれた掛け布団のように、湯の温度を柔らかく支えていた。塩気はぎりぎり「水ではない」と舌に思い出させる程度に抑えられている。
次に、豆腐をそっと箸でつまむ。
白さは濁りなく、角は崩れていない。火加減が的確な証拠だ。一口かじると、歯はほとんど抵抗なく豆腐を切り裂き、その瞬間、豆の甘みを含んだ熱い湯気が口の中に広がる――油揚げのように前に出過ぎず、冷奴のように味気ないわけでもない。ただひたすら、「濡れた身体をこの世側に引き戻す」ことに徹した味だ。
「うまいだろ。」
店主は、彼の表情を見てふっと笑う。
「ここは、雨にやられた人のためにやってるようなもんだからな。」
「……そうだな。」
劉立澄は、豆腐を飲み込みながら言う。
「失敗に打ちのめされた人間にも、よく効きそうだ。」
店主の笑みが、ほんのわずか揺らいだ。
「あんたも役者なのかい? それとも……あの子と同業か。」
「ただの通りすがりだよ。」
彼は湯匙を皿のふちに置きながら答える。
「西木屋で聞いた。最近、ここでよくぼんやりしてる女の子がいるって。」
店主は小さくため息をついた。
「ああ、一ヶ月くらい前から来てる子だ。近くの安宿に泊まって、あっちこっちオーディション受けてるんだと。昼間は姿を見ないけど、夕方になると清水さんのほうを何度か見に行って、夜になるとあの石段に座る。」
彼は指で、店の外側を示す。
「最初のうちは、きちんと湯豆腐の定食を頼んで、うまそうに食べてた。だんだん食べる量が減っていって、最後のほうはお茶か、一番安いつけものだけ。顔色があまりに悪い日があって、何度かタダで豆腐おまけしてやったよ。」
「それから?」
「そっからだ、へんな夢を見るようになったのは。」
店主は声をひそめる。
「うちのかみさんが先に気づいたんだけどな。あの子が店の前の石段を上ってるのを、何度も見たんだ。ある夜、急に顔色が変わってさ、欄干の手すりをものすごい力で握ったらしい。今にも落ちそうな感じで。でも、しばらくすると、何事もなかったみたいに立ってる。」
そこで一拍置き、店主は少し迷信じみた表情を浮かべた。
「一度なんか、オレにははっきり、後ろにすべって落ちるのが見えた。あわてて外に飛び出したら、本人はちゃんとそこに立ってて、靴だって動いてない。ただ、顔だけが豆腐みたいに真っ白でな。」
「本人は?」
「『夢を見てたみたいです』って。」
店主は答える。
「清水の舞台から転げ落ちて、何度も何度も死ぬ夢。どこをどんなふうにぶつけて、どの骨が折れたかまで、はっきりわかるのに――目を開けると、何も起きてない。」
彼は卓上の湯豆腐を見つめ、複雑な思いが入り混じったような顔で息を吐いた。
「その表情ってのが、実際に怪我してる人よりずっときつそうでね。うちのかみさんは、『本番前に監督に何十回も怒鳴られて、それでも舞台には笑って出ていかなきゃいけない役者』みたいな顔だって。」
「今日も来たのか。」
「さっき、上の方へ上ってった。」
店主は窓の外を見る。
「雨も強くなってきたし、今日はさすがに宿に引き上げると思ってたんだけどな。」
「いい湯豆腐を出す。」
劉立澄は立ち上がり、代金をトレイに置いた。
「少なくとも、本当に死ぬ前に、“失敗してない味”を一つ覚えられる。」
「おい、縁起でもないこと言うなよ。」
店主は苦笑いを浮かべた。
「あんた、西木屋の人間に聞いたが、“中華道士”なんだってな……。もしあの子をうまく説得できたら、次はタダで食わせてやるよ。」
「そのときにでも。」
劉立澄は、そう言って戸を押し開けた。
雨が顔に打ちつける。さっき口に含んだ豆腐の塩気が、舌の脇にうっすら残っていた。
彼は傘を握り直し、坂を上る。一歩上がるごとに、足裏から「この道は今日、何度も“死ぬ稽古”に使われた」という確かな感触が伝わってくる。
その湯豆腐屋の軒先には、少し古びた木の看板がぶら下がり、「ゆどうふ」の文字が雨に打たれて色を落としている。入口の風鈴が風に揺れて、澄んだ金属音を二、三度鳴らした。
劉立澄は傘をたたんで店に入る。ドアの向こうは暖房がきいていて、豆腐と昆布の香りが一度に押し寄せてきた。
店内は広くない。小さな卓が四つ。窓際の席は空いていて、隅には旅館へ戻る前らしい夫婦が座り、明日の予定を変更すべきか小声で話し合っている。
「いらっしゃい。」
カウンターの奥で手を拭いていた中年の店主が顔を上げ、彼を一目見た。
「湯豆腐定食でいいかい?」
「湯豆腐だけで。小鉢を少し。」
劉立澄はそう答えた。
やがて、浅い口の鉄鍋が一つ、卓に置かれる。
白い鍋の中では、一口大に切られた絹ごし豆腐が乳白色の湯に浸かっている。湯の表には、細かく刻んだ葱と柚子の皮が数片、浮かんでいる。脇には小皿に入った醤油、ポン酢、胡麻塩。
湯は、かすかに泡を立てながら温度を保ち、豆腐の角は揺れもしないほど静かに震えていた。まるで目を覚ましたばかりの何かみたいに。
まず、レンゲを湯に差し入れ、一口すくってすすぐ。
昆布の旨味は、主張しすぎず、底に敷かれた掛け布団のように、湯の温度を柔らかく支えていた。塩気はぎりぎり「水ではない」と舌に思い出させる程度に抑えられている。
次に、豆腐をそっと箸でつまむ。
白さは濁りなく、角は崩れていない。火加減が的確な証拠だ。一口かじると、歯はほとんど抵抗なく豆腐を切り裂き、その瞬間、豆の甘みを含んだ熱い湯気が口の中に広がる――油揚げのように前に出過ぎず、冷奴のように味気ないわけでもない。ただひたすら、「濡れた身体をこの世側に引き戻す」ことに徹した味だ。
「うまいだろ。」
店主は、彼の表情を見てふっと笑う。
「ここは、雨にやられた人のためにやってるようなもんだからな。」
「……そうだな。」
劉立澄は、豆腐を飲み込みながら言う。
「失敗に打ちのめされた人間にも、よく効きそうだ。」
店主の笑みが、ほんのわずか揺らいだ。
「あんたも役者なのかい? それとも……あの子と同業か。」
「ただの通りすがりだよ。」
彼は湯匙を皿のふちに置きながら答える。
「西木屋で聞いた。最近、ここでよくぼんやりしてる女の子がいるって。」
店主は小さくため息をついた。
「ああ、一ヶ月くらい前から来てる子だ。近くの安宿に泊まって、あっちこっちオーディション受けてるんだと。昼間は姿を見ないけど、夕方になると清水さんのほうを何度か見に行って、夜になるとあの石段に座る。」
彼は指で、店の外側を示す。
「最初のうちは、きちんと湯豆腐の定食を頼んで、うまそうに食べてた。だんだん食べる量が減っていって、最後のほうはお茶か、一番安いつけものだけ。顔色があまりに悪い日があって、何度かタダで豆腐おまけしてやったよ。」
「それから?」
「そっからだ、へんな夢を見るようになったのは。」
店主は声をひそめる。
「うちのかみさんが先に気づいたんだけどな。あの子が店の前の石段を上ってるのを、何度も見たんだ。ある夜、急に顔色が変わってさ、欄干の手すりをものすごい力で握ったらしい。今にも落ちそうな感じで。でも、しばらくすると、何事もなかったみたいに立ってる。」
そこで一拍置き、店主は少し迷信じみた表情を浮かべた。
「一度なんか、オレにははっきり、後ろにすべって落ちるのが見えた。あわてて外に飛び出したら、本人はちゃんとそこに立ってて、靴だって動いてない。ただ、顔だけが豆腐みたいに真っ白でな。」
「本人は?」
「『夢を見てたみたいです』って。」
店主は答える。
「清水の舞台から転げ落ちて、何度も何度も死ぬ夢。どこをどんなふうにぶつけて、どの骨が折れたかまで、はっきりわかるのに――目を開けると、何も起きてない。」
彼は卓上の湯豆腐を見つめ、複雑な思いが入り混じったような顔で息を吐いた。
「その表情ってのが、実際に怪我してる人よりずっときつそうでね。うちのかみさんは、『本番前に監督に何十回も怒鳴られて、それでも舞台には笑って出ていかなきゃいけない役者』みたいな顔だって。」
「今日も来たのか。」
「さっき、上の方へ上ってった。」
店主は窓の外を見る。
「雨も強くなってきたし、今日はさすがに宿に引き上げると思ってたんだけどな。」
「いい湯豆腐を出す。」
劉立澄は立ち上がり、代金をトレイに置いた。
「少なくとも、本当に死ぬ前に、“失敗してない味”を一つ覚えられる。」
「おい、縁起でもないこと言うなよ。」
店主は苦笑いを浮かべた。
「あんた、西木屋の人間に聞いたが、“中華道士”なんだってな……。もしあの子をうまく説得できたら、次はタダで食わせてやるよ。」
「そのときにでも。」
劉立澄は、そう言って戸を押し開けた。
雨が顔に打ちつける。さっき口に含んだ豆腐の塩気が、舌の脇にうっすら残っていた。
彼は傘を握り直し、坂を上る。一歩上がるごとに、足裏から「この道は今日、何度も“死ぬ稽古”に使われた」という確かな感触が伝わってくる。
0
あなたにおすすめの小説
あやかし家族 〜五人の兄と愛され末妹〜
南 鈴紀
キャラ文芸
妖狩りにより両親を奪われ、囚われの身となった半妖の少女・鈴音は浄化の狐火を利用するだけの道具のように扱われていた。呪いにより成長は止まり、容姿も思考も幼いまま、感情が消え失せてもなおただ生かされるままに生きていた。
しかし妖保護部隊本部第一部隊との出会いにより、鈴音の止まっていた時間が動き出す。
掴みどころはないが頼れる氏神・雅仁、兄には厳しいが弟妹には優しい狼の妖・千里、人間嫌いだが人当たりの良い振りが得意な人間・遥杜、可愛いもの好きで元気いっぱいの猫又・鴇羽、大人しいが思いやりに溢れる猫又・瑠璃。
五人の兄と過ごす時間の中で、無いものだらけだった鈴音にもやがて大切なものが増えていく。
妖×家族の心温まる和風ファンタジー。
後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました
由香
キャラ文芸
後宮で怪異を祓う下級巫女・紗月は、ある日突然、「鬼」と噂される将軍・玄耀の妻になれと命じられる。
それは愛のない政略結婚――
人ならざる力を持つ将軍を、巫女の力で制御するための契約だった。
後宮の思惑に翻弄されながらも、二人は「契約」ではなく「選んだ縁」として、共に生きる道を選ぶ――。
【完結】非モテアラサーですが、あやかしには溺愛されるようです
* ゆるゆ
キャラ文芸
疲れ果てた非モテアラサーが、あやかしたちに癒されて、甘やかされて、溺愛されるお話です。
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
灯台の猫と、嘘をつく少女(キャラ文芸短編集)
倉木元貴
キャラ文芸
灯台の猫と、嘘をつく少女
海沿いの町に住む高校生・澪は、灯台に住みつく白猫の声が聞こえる。
猫は澪の“嘘”を見抜き、彼女の心の奥にある後悔を揺さぶる存在だった。
転校生の遥斗が澪の秘密に気づき、二人は白猫の正体を探り始める。
しかし灯台の取り壊しが迫る中、白猫は突然姿を消す。
取り壊し前夜、白猫は澪に「最後の嘘をついてほしい」と告げる。
澪がその嘘を口にした瞬間、白猫は静かに消え、澪は初めて“本音”で未来と向き合う。
紅葉に消える恋
秋の山里で沙耶は、不思議な青年と出会う。彼は人懐っこく優しいが、どこか秘密を抱えている。交流を重ねるうちに心を通わせる二人。しかし秋祭りの夜、月明かりの下で青年の正体が露わになる。
火輪の花嫁 ~男装姫は孤高の王の夢をみる~
秦朱音|はたあかね
キャラ文芸
王を中心に五家が支配する、綺羅ノ国。
五家に覡(かんなぎ)として仕える十六夜家の娘、久遠(くおん)は、幼い頃から男として育てられてきた。
都では陽を司る日紫喜家の王が崩御し、素行の悪さで有名な新王・燦(さん)が即位する。燦の后選びに戦々恐々とする五家だったが、燦は十六夜家の才である「夢見」を聞いて后を選ぶと言い始めた。そして、その夢見を行う覡に、燦は男装した久遠を指名する。
見習いの僕がこの国の后を選ぶなんて、荷が重すぎる――!
久遠の苦悩を知ってか知らずか、燦は強引に久遠を寝室に呼んで夢見を命じる。しかし、初めて出会ったはずの久遠と燦の夢には、とある共通点があって――?
謎に包まれた過去を持ち身分を隠す男装姫と、孤独な王の恋と因縁を描く、和風王宮ファンタジー。
※カクヨムにも先行で投稿しています
後宮なりきり夫婦録
石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」
「はあ……?」
雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。
あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。
空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。
かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。
影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。
サイトより転載になります。
烏の王と宵の花嫁
水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。
唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。
その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。
ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。
死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。
※初出2024年7月
あまりさんののっぴきならない事情
菱沼あゆ
キャラ文芸
強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。
充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。
「何故、こんなところに居る? 南条あまり」
「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」
「それ、俺だろ」
そーですね……。
カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる