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第三話・錦市場・影を食べる少年(五)
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影が動き始めた。
はじめは、隅のほうにへばりついていた小さな暗がりが、猫が伸びをするようにゆっくりと伸びただけだった。すぐに、その伸びた部分が細い線になり、さらに触手のような形になって、タイルの目地に沿ってずるずると這い出していく。
人の足元の影が引っ張られ、靴底の裏にほんの一瞬、空を踏むような感覚が走る。思わず声を上げて足を上げても、目に映るのはいつも通りの自分の影ばかりだ。
「走らないで!」
綾女が声を張り上げた。「その場から動かないで。むやみに足をばたつかせちゃだめ!」
市場で長年鍛えられた声には、それだけで場を抑える力があった。店主たちは条件反射のように従い、半分まで降ろしたシャッターを下ろしながら、それでも隙間から外の様子をうかがう。
少年の背中から、残形が完全に「はみ出した」。
それは影を寄せ集めて作られた子どものシルエットで、本体とよく似た輪郭をしているが、細く尖っている分だけ、どこか鋭く見える。目も口もない顔で、見えないはずの口をもぐもぐと動かし、あちこちから流れ込んでくる影の糸を噛み砕いては、黒い破片を胸の中に吸い込んでいく。胸のあたりには、どんどん厚みが増していた。
「食べているのは影じゃない。」
劉立澄は、ゆっくりと歩み出た。足取りは驚くほど落ち着いている。「あいつらの生活に、かろうじて残っていた、わずかな光だ。」
影の子どもが動きを止め、ぎぎぎ、と首を彼のほうへねじる。顔にははっきりした目鼻はないが、わずかに濃く塗られた二つの黒が、その役目を果たしていた。その奥には、稲妻のような怒りが一瞬だけ閃いた。
「なんで、あんたに文句言われなきゃいけないの?」
声には、何人もの声が重なっていた。子どもの声、大人の声、すすり泣き、押し殺した笑い声。
「みんな、ぼくのこと見ないくせに。だったら、ぼくが食べたっていいじゃない。あの人たちには光があって、ぼくにはないんだよ。」
言葉と同時に、さらに多くの影が引き寄せられる。
それは店主の影であり、観光客の影であり、通りすがりの会社員や学生、配達員たちの残り香でもあった。影を引かれた人々は、胸のあたりに妙な疲労感を覚える。あたかも見えない長距離走を、急に走らされてしまったかのように。
「食べるっていうのは、悪いことじゃない。」
劉立澄は認める。「人間だって、食べなきゃ生きられない。残形だって同じだ。」
彼は右手を上げた。
空中に、いつもの細い剣が形を取り始める。
派手な光もなければ、雷鳴ひとつ鳴らない。ただ次の瞬間、市場中の影の輪郭が、一斉に見えない刃先で「なぞられた」ようにわずかに緊張する。
澄心の剣。
「問題は、食べたあとで、何になりたいかだ。」
彼が剣を握る姿は、刀を振るうというより、一本の筆を構えるようだった。
最初の一筆が、地面に映った影のひとつに落ちる。
それは、さきほどの京野菜の女将の影だった。剣先がそっと触れた途端、影の中にぼんやりした映像が浮かび上がる。早朝四時の薄暗い台所の灯り。赤くなるまで冷水で野菜を洗う指先。子どもに持たせた弁当が、そのまま手つかずで戻って来たときの、胸の奥に沈む重さ。
映像は一瞬だけ明るくなり、泥を払われた石のように、輪郭を取り戻す。
二筆目は、いなり寿司屋の老婦人の影に滑り込んだ。
くすんだ灰色の中に、柔らかな光景がにじみ広がる。まだ若かった頃、同じ市場の中に屋台を出し、最初のいなり寿司の箱をそっと並べて、「どうか、よろしくお願いします」と誰もいない通りに向かって小さく呟いたこと。商品が余ってしまい、夜家に帰るときには、まず子どもに食べさせてから、自分の分をようやくつまんだこと。
そんな筆致が、次々と通り一帯の影をなぞっていくうちに、あちこちの影の中から、持ち主が必死に生きてきた証のような光景が、勝手に浮かび上がり始めた。
本当なら誰にも見られないまま埋もれていた光の断片が、剣先で残形の口元から、ひとつひとつ取り返されていく。
「おまえが食べているのは、いらなくなったものなんかじゃない。」
劉立澄の声が、アーケード全体に静かに響く。「彼らがまだ、自分で『よくやった』と言えていない、自分自身だ。」
影の子どもが、悲鳴とも笑い声ともつかない声をあげ、通り全体がその余波で震えたように感じられた。
「ぼくだって、誰にも褒めてもらえなかった。」
その声は、いつのまにか一つに収束していた。
影の子どもは、ゆっくりと顔を上げる。そこには、人目を避けて帳簿と客と仕入れに追われ続けてきた親たちの姿が、ぼんやりと映っている。
「ぼくだって、この通りを毎日ぐるぐる歩いて、お腹が空いても、誰も見てくれなかった。」
「だから学んだんだろ。」
劉立澄は一歩、前へ出る。剣先をわずかに傾け、影の子どもの胸のあたりを指す。
「誰かの光をかじったときだけ、自分が存在している気になれるって。」
「じゃあ、ひとつ聞いてみよう。」
彼は一拍置いて、言葉を区切った。
「その光の持ち主たちは、自分の光を失いたがっているのか?」
剣先が、くるりと一回転する。
天井に貼りついていた四枚の符が、同時にぱっと輝いた。金色の線がシンプルな陣を描き、その光の膜が市場全体をふんわりと包み込む。
噛みちぎられた影の一片一片が、その瞬間、輪ゴムを放したときのように元の場所へと跳ね返った。
影の子どもは、何百本もの線にいっせいに引っ張られたかのように、四方八方から中心に押し潰されていく。輪郭が崩れ、その内側から、小さく縮こまった本当の核が露わになった――普通の子どもよりひと回り小さな姿が、ひざを抱えて、顔を腕に埋めて震えていた。
はじめは、隅のほうにへばりついていた小さな暗がりが、猫が伸びをするようにゆっくりと伸びただけだった。すぐに、その伸びた部分が細い線になり、さらに触手のような形になって、タイルの目地に沿ってずるずると這い出していく。
人の足元の影が引っ張られ、靴底の裏にほんの一瞬、空を踏むような感覚が走る。思わず声を上げて足を上げても、目に映るのはいつも通りの自分の影ばかりだ。
「走らないで!」
綾女が声を張り上げた。「その場から動かないで。むやみに足をばたつかせちゃだめ!」
市場で長年鍛えられた声には、それだけで場を抑える力があった。店主たちは条件反射のように従い、半分まで降ろしたシャッターを下ろしながら、それでも隙間から外の様子をうかがう。
少年の背中から、残形が完全に「はみ出した」。
それは影を寄せ集めて作られた子どものシルエットで、本体とよく似た輪郭をしているが、細く尖っている分だけ、どこか鋭く見える。目も口もない顔で、見えないはずの口をもぐもぐと動かし、あちこちから流れ込んでくる影の糸を噛み砕いては、黒い破片を胸の中に吸い込んでいく。胸のあたりには、どんどん厚みが増していた。
「食べているのは影じゃない。」
劉立澄は、ゆっくりと歩み出た。足取りは驚くほど落ち着いている。「あいつらの生活に、かろうじて残っていた、わずかな光だ。」
影の子どもが動きを止め、ぎぎぎ、と首を彼のほうへねじる。顔にははっきりした目鼻はないが、わずかに濃く塗られた二つの黒が、その役目を果たしていた。その奥には、稲妻のような怒りが一瞬だけ閃いた。
「なんで、あんたに文句言われなきゃいけないの?」
声には、何人もの声が重なっていた。子どもの声、大人の声、すすり泣き、押し殺した笑い声。
「みんな、ぼくのこと見ないくせに。だったら、ぼくが食べたっていいじゃない。あの人たちには光があって、ぼくにはないんだよ。」
言葉と同時に、さらに多くの影が引き寄せられる。
それは店主の影であり、観光客の影であり、通りすがりの会社員や学生、配達員たちの残り香でもあった。影を引かれた人々は、胸のあたりに妙な疲労感を覚える。あたかも見えない長距離走を、急に走らされてしまったかのように。
「食べるっていうのは、悪いことじゃない。」
劉立澄は認める。「人間だって、食べなきゃ生きられない。残形だって同じだ。」
彼は右手を上げた。
空中に、いつもの細い剣が形を取り始める。
派手な光もなければ、雷鳴ひとつ鳴らない。ただ次の瞬間、市場中の影の輪郭が、一斉に見えない刃先で「なぞられた」ようにわずかに緊張する。
澄心の剣。
「問題は、食べたあとで、何になりたいかだ。」
彼が剣を握る姿は、刀を振るうというより、一本の筆を構えるようだった。
最初の一筆が、地面に映った影のひとつに落ちる。
それは、さきほどの京野菜の女将の影だった。剣先がそっと触れた途端、影の中にぼんやりした映像が浮かび上がる。早朝四時の薄暗い台所の灯り。赤くなるまで冷水で野菜を洗う指先。子どもに持たせた弁当が、そのまま手つかずで戻って来たときの、胸の奥に沈む重さ。
映像は一瞬だけ明るくなり、泥を払われた石のように、輪郭を取り戻す。
二筆目は、いなり寿司屋の老婦人の影に滑り込んだ。
くすんだ灰色の中に、柔らかな光景がにじみ広がる。まだ若かった頃、同じ市場の中に屋台を出し、最初のいなり寿司の箱をそっと並べて、「どうか、よろしくお願いします」と誰もいない通りに向かって小さく呟いたこと。商品が余ってしまい、夜家に帰るときには、まず子どもに食べさせてから、自分の分をようやくつまんだこと。
そんな筆致が、次々と通り一帯の影をなぞっていくうちに、あちこちの影の中から、持ち主が必死に生きてきた証のような光景が、勝手に浮かび上がり始めた。
本当なら誰にも見られないまま埋もれていた光の断片が、剣先で残形の口元から、ひとつひとつ取り返されていく。
「おまえが食べているのは、いらなくなったものなんかじゃない。」
劉立澄の声が、アーケード全体に静かに響く。「彼らがまだ、自分で『よくやった』と言えていない、自分自身だ。」
影の子どもが、悲鳴とも笑い声ともつかない声をあげ、通り全体がその余波で震えたように感じられた。
「ぼくだって、誰にも褒めてもらえなかった。」
その声は、いつのまにか一つに収束していた。
影の子どもは、ゆっくりと顔を上げる。そこには、人目を避けて帳簿と客と仕入れに追われ続けてきた親たちの姿が、ぼんやりと映っている。
「ぼくだって、この通りを毎日ぐるぐる歩いて、お腹が空いても、誰も見てくれなかった。」
「だから学んだんだろ。」
劉立澄は一歩、前へ出る。剣先をわずかに傾け、影の子どもの胸のあたりを指す。
「誰かの光をかじったときだけ、自分が存在している気になれるって。」
「じゃあ、ひとつ聞いてみよう。」
彼は一拍置いて、言葉を区切った。
「その光の持ち主たちは、自分の光を失いたがっているのか?」
剣先が、くるりと一回転する。
天井に貼りついていた四枚の符が、同時にぱっと輝いた。金色の線がシンプルな陣を描き、その光の膜が市場全体をふんわりと包み込む。
噛みちぎられた影の一片一片が、その瞬間、輪ゴムを放したときのように元の場所へと跳ね返った。
影の子どもは、何百本もの線にいっせいに引っ張られたかのように、四方八方から中心に押し潰されていく。輪郭が崩れ、その内側から、小さく縮こまった本当の核が露わになった――普通の子どもよりひと回り小さな姿が、ひざを抱えて、顔を腕に埋めて震えていた。
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