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第四話・鴨川逆流・未来へ宛てた遺書(二)
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川沿いの通りを挟んだ向こう側に、小さなリバーサイドのカフェがある。大きな窓が鴨川に向かって開いていて、窓辺にはいくつかの鉢植えが並んでいる。店内の灯りは柔らかな黄色で、席数は多くないが、客たちは皆、静かに時間を過ごしていた。
三人は窓際のテーブルを選んだ。ガラスの向こうで、夕焼けのオレンジは夜の色に少しずつ飲み込まれていき、川面には灯りの筋だけが残って揺れている。
「三つ。」
綾女は店員に向かって指で「三」をつくり、
「抹茶ラテ二つ、ドリップコーヒー一つ。スイーツの盛り合わせは大きいほうで。」
と手短に告げた。
「ずいぶんツボを押さえた注文するね。」
メニューを一応広げていた劉立澄が、何とはなしに言う。
「死にたくなってる人には、とりあえず甘いもの。」
綾女は顎を手のひらに乗せる。
「“生きてると何が食べられるか”って感覚が死んでたら、何言っても届かないから。」
ほどなくして、注文したものが運ばれてきた。
一杯の抹茶ラテが、劉立澄の前に置かれる。カップの縁には薄くミルクの泡が縁どり、その真ん中には、やや崩れかけた抹茶のラテアートが描かれている。雑誌に載っているような完璧な葉っぱではなく、誰かが急いでハートを描こうとして、途中でやめたような形。
スイーツの盛り合わせは、ほとんどテーブル半分を占領した。
小さな抹茶の生チョコ。表面には薄く抹茶パウダーが振ってある。表面がこんがりとカラメル色になるまで焼かれたフレンチトーストには、一玉のバニラアイスが乗っていて、その縁からは熱で溶け出したミルク色の雫が、ゆっくりと垂れていた。隅には黒糖蜜に浸かった小さな団子が二つ。黄粉をまとい、横に季節の果物の薄切りが添えられている。
「かなり“京都標準セット”って感じでしょ。」
綾女はフォークを手に取り、フレンチトーストの端をひと口分だけ刺す。アイスクリームが、縁からとろりと滑り落ちていく。
「捨てられたカロリーたちよ、よろしくね。」
中島は、自分の前に置かれたドリップコーヒーのカップを取った。指先はまだ、かすかに震えている。
「中島さん。」
劉立澄は抹茶ラテのカップを口元へ運ぶ。ミルクの泡が上唇に少しついたが、気にした様子もなく、その視線は中島の顔から離れなかった。
「“死ぬ前の夜に書いた”っていうやつ、まだスマホの中にある?」
中島の動きが、ぴたりと止まる。
真田は一瞬きょとんとし、それから振り向いた。
「書いたこと、あるんですか。」
「送ってません。」
中島は、音が漏れないほど小さな声で答えた。
「消した……はずだったんですけど。」
劉立澄は、静かに首を横に振る。
彼は目を上げ、中島の瞳の奥を見た。
そこに、「半分だけ折れた」手紙が見えた。
比喩ではない。ごく具体的なイメージとして――
画面の光でできた便箋が、真ん中から折れて、「送信」と「削除」のあいだでひっかかったまま、どちらにも落ち切れずに宙ぶらりんになっている。それは完成しなかった文章たちで、目に見えないどこかの臓器に横向きに刺さった魚の骨のように、そこにずっと引っかかっていた。
「何を書いたんですか。」
「……くだらないことです。」
中島は、乾いた笑いを浮かべる。
「『ごめん』から始まって、『別にみんなを困らせたくてこうするんじゃない』みたいなことを延々と……自分で書いてて、途中で馬鹿馬鹿しくなってきました。」
そこで言葉を切り、彼はテーブルを見下ろした。
「でも書き終わった瞬間、変な感覚があって。ボタンさえ押せば、全部の音が一斉に止まる気がしたんです。」
「でも、押さなかった。」
劉立澄が、淡々と続きを継ぐ。
中島の喉仏が、ひとつ上下する。それ以上、何も言わなかった。
「だから、鴨川が代わりに一回跳んでくれたんだよ。」
綾女は自分の皿の上のデザートをフォークでつつき、口元に皮肉な笑みを浮かべる。
「親切な“都市サービス”じゃない。」
劉立澄はカップを置いた。
「誤解しないで。」
「飛び込んだのは、この川じゃない。川の水を借りてる“何か”がいる。」
視線を窓の外からテーブル上のスイーツに移す。
「遺書を書き終えたのに死にそこなったとき、その文字たちは、ただ消されるのをよしとしない。」
彼はテーブルの上に指先で小さな円を描いた。
「いったん街の中をさまよって、一番“終点”らしい場所に落ち着こうとする。」
「鴨川。」
真田が低く名を呟く。
「そう。」
劉立澄は、うなずいた。
「ドラマでもニュースでも、『最後の一跳び』みたいな象徴を、誰かがせっせと上塗りしてきた。いつの間にか、ここは『死にたくて死ねなかった言葉』たちの保管所になった。」
彼はふと口をつぐみ、何かの気配を聞き取るように耳を澄ました。
窓の外には、すでにすっかり夜が降りている。川面の光は金色から青白い色に変わり、水面に沿って流れてくる風には、言葉にしづらい冷たさが混じり始めていた。それは冬の寒さではなく――言いかけてやめた言葉が、風の中でいつまでも輪を描いているような冷え方だった。
「今夜は、ちょっと派手になるかもしれない。」
彼は小さく言った。
「今のうちに、甘いものは食べておきな。」
綾女は首を傾げる。
「それ、私を落ち着かせてるの? それとも、自分?」
「どっちでもない。」
彼は抹茶の生チョコをひとつつまみ、口に含む。程よい苦味と甘さが、舌の上にじわりと広がった。
「体力の前払い。」
あまりに真顔で言うものだから、綾女は堪え切れずに吹き出した。
三人は窓際のテーブルを選んだ。ガラスの向こうで、夕焼けのオレンジは夜の色に少しずつ飲み込まれていき、川面には灯りの筋だけが残って揺れている。
「三つ。」
綾女は店員に向かって指で「三」をつくり、
「抹茶ラテ二つ、ドリップコーヒー一つ。スイーツの盛り合わせは大きいほうで。」
と手短に告げた。
「ずいぶんツボを押さえた注文するね。」
メニューを一応広げていた劉立澄が、何とはなしに言う。
「死にたくなってる人には、とりあえず甘いもの。」
綾女は顎を手のひらに乗せる。
「“生きてると何が食べられるか”って感覚が死んでたら、何言っても届かないから。」
ほどなくして、注文したものが運ばれてきた。
一杯の抹茶ラテが、劉立澄の前に置かれる。カップの縁には薄くミルクの泡が縁どり、その真ん中には、やや崩れかけた抹茶のラテアートが描かれている。雑誌に載っているような完璧な葉っぱではなく、誰かが急いでハートを描こうとして、途中でやめたような形。
スイーツの盛り合わせは、ほとんどテーブル半分を占領した。
小さな抹茶の生チョコ。表面には薄く抹茶パウダーが振ってある。表面がこんがりとカラメル色になるまで焼かれたフレンチトーストには、一玉のバニラアイスが乗っていて、その縁からは熱で溶け出したミルク色の雫が、ゆっくりと垂れていた。隅には黒糖蜜に浸かった小さな団子が二つ。黄粉をまとい、横に季節の果物の薄切りが添えられている。
「かなり“京都標準セット”って感じでしょ。」
綾女はフォークを手に取り、フレンチトーストの端をひと口分だけ刺す。アイスクリームが、縁からとろりと滑り落ちていく。
「捨てられたカロリーたちよ、よろしくね。」
中島は、自分の前に置かれたドリップコーヒーのカップを取った。指先はまだ、かすかに震えている。
「中島さん。」
劉立澄は抹茶ラテのカップを口元へ運ぶ。ミルクの泡が上唇に少しついたが、気にした様子もなく、その視線は中島の顔から離れなかった。
「“死ぬ前の夜に書いた”っていうやつ、まだスマホの中にある?」
中島の動きが、ぴたりと止まる。
真田は一瞬きょとんとし、それから振り向いた。
「書いたこと、あるんですか。」
「送ってません。」
中島は、音が漏れないほど小さな声で答えた。
「消した……はずだったんですけど。」
劉立澄は、静かに首を横に振る。
彼は目を上げ、中島の瞳の奥を見た。
そこに、「半分だけ折れた」手紙が見えた。
比喩ではない。ごく具体的なイメージとして――
画面の光でできた便箋が、真ん中から折れて、「送信」と「削除」のあいだでひっかかったまま、どちらにも落ち切れずに宙ぶらりんになっている。それは完成しなかった文章たちで、目に見えないどこかの臓器に横向きに刺さった魚の骨のように、そこにずっと引っかかっていた。
「何を書いたんですか。」
「……くだらないことです。」
中島は、乾いた笑いを浮かべる。
「『ごめん』から始まって、『別にみんなを困らせたくてこうするんじゃない』みたいなことを延々と……自分で書いてて、途中で馬鹿馬鹿しくなってきました。」
そこで言葉を切り、彼はテーブルを見下ろした。
「でも書き終わった瞬間、変な感覚があって。ボタンさえ押せば、全部の音が一斉に止まる気がしたんです。」
「でも、押さなかった。」
劉立澄が、淡々と続きを継ぐ。
中島の喉仏が、ひとつ上下する。それ以上、何も言わなかった。
「だから、鴨川が代わりに一回跳んでくれたんだよ。」
綾女は自分の皿の上のデザートをフォークでつつき、口元に皮肉な笑みを浮かべる。
「親切な“都市サービス”じゃない。」
劉立澄はカップを置いた。
「誤解しないで。」
「飛び込んだのは、この川じゃない。川の水を借りてる“何か”がいる。」
視線を窓の外からテーブル上のスイーツに移す。
「遺書を書き終えたのに死にそこなったとき、その文字たちは、ただ消されるのをよしとしない。」
彼はテーブルの上に指先で小さな円を描いた。
「いったん街の中をさまよって、一番“終点”らしい場所に落ち着こうとする。」
「鴨川。」
真田が低く名を呟く。
「そう。」
劉立澄は、うなずいた。
「ドラマでもニュースでも、『最後の一跳び』みたいな象徴を、誰かがせっせと上塗りしてきた。いつの間にか、ここは『死にたくて死ねなかった言葉』たちの保管所になった。」
彼はふと口をつぐみ、何かの気配を聞き取るように耳を澄ました。
窓の外には、すでにすっかり夜が降りている。川面の光は金色から青白い色に変わり、水面に沿って流れてくる風には、言葉にしづらい冷たさが混じり始めていた。それは冬の寒さではなく――言いかけてやめた言葉が、風の中でいつまでも輪を描いているような冷え方だった。
「今夜は、ちょっと派手になるかもしれない。」
彼は小さく言った。
「今のうちに、甘いものは食べておきな。」
綾女は首を傾げる。
「それ、私を落ち着かせてるの? それとも、自分?」
「どっちでもない。」
彼は抹茶の生チョコをひとつつまみ、口に含む。程よい苦味と甘さが、舌の上にじわりと広がった。
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