京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

文字の大きさ
23 / 109

第四話・鴨川逆流・未来へ宛てた遺書(五)

しおりを挟む
 「遺書の残りかす」が、鋭い悲鳴を上げた。

 それは、ひとりの声ではない。「読まれないまま終わった最後の一文」たちが、幾重にも折り重なって放つ、耳に刺さる叫びだ。

「やめろ、おまえには――」

「俺が、『生きてるほうがいい』なんて言えるわけがないだろ。」

 劉立澄は、静かな声で遮る。

「それは、そいつら自身が決めることだ。」

 彼は一歩前へ出た。

 さっきより深いところまで水に入り、冷たさが足首から脛、膝へと骨の内側を伝って這い上がってくる。

「俺がやるのは、書き間違えた一画を、さっきと同じように消してやることだけ。」

「その先を何と書くかは――」

 剣先が黒い影の胸元をまっすぐ指す。

「おまえの出番じゃない。」

 次の瞬間、音のない雷光が走った。

 空を裂く大きな稲妻ではない。

 この短い区間の鴨川の頭上に、ほとんど見えないほど細い白い線が一本、雲の高みから走り下り、水面の文字陣をなぞるように滑り落ちてくる。

 白い線が影に触れた刹那、重なり合った文字たちが、高温で炙られたフィルムのように、短い「ジッ」という音を立てて縮れ、壊れていった。

 川全体が一瞬だけ、不自然な逆流を起こす。

 水面の光の筋が、下流から上流へ駆け上がっていく。映像を巻き戻した河川のように。

 黒い殻は一気に崩れ落ち、中心に小さな核だけが残った。

 それは、ひどく弱々しく、それでもしがみつくようにそこに残る、かすかな光の塊だった。

「……元は、何だったんだろうね。」

 綾女が思わず問う。

 暗い光が、微かに震える。

 劉立澄には、そのいちばん奥に、一通のごく普通の手紙が見えていた。

 薄く黄ばんだ便箋。深い折り目。角のひとつには、雨粒が落ちて滲んだ跡がある。字は決して達筆ではないが、一画一画が真面目に書かれていた。

 「――母さん、ごめんなさい。」

 最初の行には、それだけが書かれている。

 後ろには、仕事のこと、失敗のこと、プレッシャーのこと、「ただ少し休みたかっただけだ」という言い訳が続いていた。

 最後の行は、まだ何も書かれていない。書きかけの「ありがとう」の一文字目だけがある。

 この手紙は、かつて誰かのポケットにしまわれ、ある橋の上まで運ばれ、最後にはその持ち主とともに水底へ沈んでいったのだろう。

「そういうことか。」

 劉立澄は、小さく息を吐いた。

「本当は、一人の人間にちゃんと読んでもらいたかっただけなのに。」

 暗い光の粒は、答えない。

「なのに、この街中が、あんたの“最後の一跳び”の再演をしてる。」

 彼は左手を伸ばし、人差し指と中指を揃えて空をつまむように動かした。

 一枚の新しい符が、その指先に生まれる。そこには複雑な呪句はなく、たったひと文字だけが書かれていた。

 「留」――。

 彼は、その光の粒をそっと符の上へ誘い、紙面にゆっくりと染み込ませていく。

「みんなの代わりに死ぬ必要なんてない。」

 声はごく静かだった。

「ちゃんと読まれさえすれば、それで十分だ。」

 彼は振り返り、その符を石段の上の綾女に差し出した。

「場所を探してきて。」

「どんなところ?」

「こういう手紙を受け取ってくれて、ちゃんと最後まで読んでくれて、すぐに燃やしたりはしない人がいるところ。」

 綾女は符を受け取り、指先で紙の縁をなぞる。夜風の中から拾い上げられた封筒のように、ひんやりした感触が残っていた。

「たとえば――」

 彼女は少し考える。

「寺の片隅に木箱を置いて、『生きたい人へ』とか書いておくとか。」

「それでいい。」

 彼は岸へ向き直り、水を滴らせた裾を引きずりながら歩き出した。

 川の流れは、少しずつ元の姿を取り戻していく。

 波が解け、灯りが水面に揺れる。何事もなかったかのように。

 ただ、遠くの山影のあいだから、一瞬だけ微かな光が瞬いた。どこか遠い場所が、この音のない雷に応えたように。

「見えた?」

 綾女は、その一瞬の光を見上げながら言った。

「三本目。」

 劉立澄も視線を追い、目を細める。

「清水寺の下で一本。錦市場の天井で一本。そして、今の鴨川。」

「龍脈の亀裂だ。」

 それ以上、説明はしない。その言葉だけを夜気の中に置き、風に任せて流していく。

 風がまた吹き始め、夜に少し冷たさが混じる。

「帰ろう。」

 綾女は手にした符をひらひらさせる。

「あんたみたいなびしょ濡れの道士、こんなところで立たせてたら、明日は仕事どころか病院行きだよ。」

「その“京都中の遺書”、どうするつもり。」

 彼は何気なく訊ねる。

「とりあえず、うちに置いとく。」

 綾女はふっと笑った。

「西木屋なら、一応“話ぐらいはちゃんと聞く場所”ってことになってるし。」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あやかし家族 〜五人の兄と愛され末妹〜

南 鈴紀
キャラ文芸
 妖狩りにより両親を奪われ、囚われの身となった半妖の少女・鈴音は浄化の狐火を利用するだけの道具のように扱われていた。呪いにより成長は止まり、容姿も思考も幼いまま、感情が消え失せてもなおただ生かされるままに生きていた。  しかし妖保護部隊本部第一部隊との出会いにより、鈴音の止まっていた時間が動き出す。  掴みどころはないが頼れる氏神・雅仁、兄には厳しいが弟妹には優しい狼の妖・千里、人間嫌いだが人当たりの良い振りが得意な人間・遥杜、可愛いもの好きで元気いっぱいの猫又・鴇羽、大人しいが思いやりに溢れる猫又・瑠璃。  五人の兄と過ごす時間の中で、無いものだらけだった鈴音にもやがて大切なものが増えていく。  妖×家族の心温まる和風ファンタジー。

後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました

由香
キャラ文芸
後宮で怪異を祓う下級巫女・紗月は、ある日突然、「鬼」と噂される将軍・玄耀の妻になれと命じられる。 それは愛のない政略結婚―― 人ならざる力を持つ将軍を、巫女の力で制御するための契約だった。 後宮の思惑に翻弄されながらも、二人は「契約」ではなく「選んだ縁」として、共に生きる道を選ぶ――。

カモフラ婚~CEOは溺愛したくてたまらない!~

伊吹美香
恋愛
ウエディングプランナーとして働く菱崎由華 結婚式当日に花嫁に逃げられた建築会社CEOの月城蒼空 幼馴染の二人が偶然再会し、花嫁に逃げられた蒼空のメンツのために、カモフラージュ婚をしてしまう二人。 割り切った結婚かと思いきや、小さいころからずっと由華のことを想っていた蒼空が、このチャンスを逃すはずがない。 思いっきり溺愛する蒼空に、由華は翻弄されまくりでパニック。 二人の結婚生活は一体どうなる?

白い結婚の行方

宵森みなと
恋愛
「この結婚は、形式だけ。三年経ったら、離縁して養子縁組みをして欲しい。」 そう告げられたのは、まだ十二歳だった。 名門マイラス侯爵家の跡取りと、書面上だけの「夫婦」になるという取り決め。 愛もなく、未来も誓わず、ただ家と家の都合で交わされた契約だが、彼女にも目的はあった。 この白い結婚の意味を誰より彼女は、知っていた。自らの運命をどう選択するのか、彼女自身に委ねられていた。 冷静で、理知的で、どこか人を寄せつけない彼女。 誰もが「大人びている」と評した少女の胸の奥には、小さな祈りが宿っていた。 結婚に興味などなかったはずの青年も、少女との出会いと別れ、後悔を経て、再び運命を掴もうと足掻く。 これは、名ばかりの「夫婦」から始まった二人の物語。 偽りの契りが、やがて確かな絆へと変わるまで。 交差する記憶、巻き戻る時間、二度目の選択――。 真実の愛とは何かを、問いかける静かなる運命の物語。 ──三年後、彼女の選択は、彼らは本当に“夫婦”になれるのだろうか?  

【完結】非モテアラサーですが、あやかしには溺愛されるようです

  *  ゆるゆ
キャラ文芸
疲れ果てた非モテアラサーが、あやかしたちに癒されて、甘やかされて、溺愛されるお話です。 名前が  *   ゆるゆ  になりましたー! 中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!

灯台の猫と、嘘をつく少女(キャラ文芸短編集)

倉木元貴
キャラ文芸
灯台の猫と、嘘をつく少女  海沿いの町に住む高校生・澪は、灯台に住みつく白猫の声が聞こえる。  猫は澪の“嘘”を見抜き、彼女の心の奥にある後悔を揺さぶる存在だった。  転校生の遥斗が澪の秘密に気づき、二人は白猫の正体を探り始める。 しかし灯台の取り壊しが迫る中、白猫は突然姿を消す。  取り壊し前夜、白猫は澪に「最後の嘘をついてほしい」と告げる。  澪がその嘘を口にした瞬間、白猫は静かに消え、澪は初めて“本音”で未来と向き合う。 紅葉に消える恋  秋の山里で沙耶は、不思議な青年と出会う。彼は人懐っこく優しいが、どこか秘密を抱えている。交流を重ねるうちに心を通わせる二人。しかし秋祭りの夜、月明かりの下で青年の正体が露わになる。

火輪の花嫁 ~男装姫は孤高の王の夢をみる~

秦朱音|はたあかね
キャラ文芸
王を中心に五家が支配する、綺羅ノ国。 五家に覡(かんなぎ)として仕える十六夜家の娘、久遠(くおん)は、幼い頃から男として育てられてきた。 都では陽を司る日紫喜家の王が崩御し、素行の悪さで有名な新王・燦(さん)が即位する。燦の后選びに戦々恐々とする五家だったが、燦は十六夜家の才である「夢見」を聞いて后を選ぶと言い始めた。そして、その夢見を行う覡に、燦は男装した久遠を指名する。 見習いの僕がこの国の后を選ぶなんて、荷が重すぎる――! 久遠の苦悩を知ってか知らずか、燦は強引に久遠を寝室に呼んで夢見を命じる。しかし、初めて出会ったはずの久遠と燦の夢には、とある共通点があって――? 謎に包まれた過去を持ち身分を隠す男装姫と、孤独な王の恋と因縁を描く、和風王宮ファンタジー。 ※カクヨムにも先行で投稿しています

夫に捨てられた私は冷酷公爵と再婚しました

香木陽灯
恋愛
 伯爵夫人のマリアーヌは「夜を共に過ごす気にならない」と突然夫に告げられ、わずか五ヶ月で離縁することとなる。  これまで女癖の悪い夫に何度も不倫されても、役立たずと貶されても、文句ひとつ言わず彼を支えてきた。だがその苦労は報われることはなかった。  実家に帰っても父から不当な扱いを受けるマリアーヌ。気分転換に繰り出した街で倒れていた貴族の男性と出会い、彼を助ける。 「離縁したばかり? それは相手の見る目がなかっただけだ。良かったじゃないか。君はもう自由だ」 「自由……」  もう自由なのだとマリアーヌが気づいた矢先、両親と元夫の策略によって再婚を強いられる。相手は婚約者が逃げ出すことで有名な冷酷公爵だった。  ところが冷酷公爵と会ってみると、以前助けた男性だったのだ。  再婚を受け入れたマリアーヌは、公爵と少しずつ仲良くなっていく。  ところが公爵は王命を受け内密に仕事をしているようで……。  一方の元夫は、財政難に陥っていた。 「頼む、助けてくれ! お前は俺に恩があるだろう?」  元夫の悲痛な叫びに、マリアーヌはにっこりと微笑んだ。 「なぜかしら? 貴方を助ける気になりませんの」 ※ふんわり設定です

処理中です...