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第四話・鴨川逆流・未来へ宛てた遺書(五)
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「遺書の残りかす」が、鋭い悲鳴を上げた。
それは、ひとりの声ではない。「読まれないまま終わった最後の一文」たちが、幾重にも折り重なって放つ、耳に刺さる叫びだ。
「やめろ、おまえには――」
「俺が、『生きてるほうがいい』なんて言えるわけがないだろ。」
劉立澄は、静かな声で遮る。
「それは、そいつら自身が決めることだ。」
彼は一歩前へ出た。
さっきより深いところまで水に入り、冷たさが足首から脛、膝へと骨の内側を伝って這い上がってくる。
「俺がやるのは、書き間違えた一画を、さっきと同じように消してやることだけ。」
「その先を何と書くかは――」
剣先が黒い影の胸元をまっすぐ指す。
「おまえの出番じゃない。」
次の瞬間、音のない雷光が走った。
空を裂く大きな稲妻ではない。
この短い区間の鴨川の頭上に、ほとんど見えないほど細い白い線が一本、雲の高みから走り下り、水面の文字陣をなぞるように滑り落ちてくる。
白い線が影に触れた刹那、重なり合った文字たちが、高温で炙られたフィルムのように、短い「ジッ」という音を立てて縮れ、壊れていった。
川全体が一瞬だけ、不自然な逆流を起こす。
水面の光の筋が、下流から上流へ駆け上がっていく。映像を巻き戻した河川のように。
黒い殻は一気に崩れ落ち、中心に小さな核だけが残った。
それは、ひどく弱々しく、それでもしがみつくようにそこに残る、かすかな光の塊だった。
「……元は、何だったんだろうね。」
綾女が思わず問う。
暗い光が、微かに震える。
劉立澄には、そのいちばん奥に、一通のごく普通の手紙が見えていた。
薄く黄ばんだ便箋。深い折り目。角のひとつには、雨粒が落ちて滲んだ跡がある。字は決して達筆ではないが、一画一画が真面目に書かれていた。
「――母さん、ごめんなさい。」
最初の行には、それだけが書かれている。
後ろには、仕事のこと、失敗のこと、プレッシャーのこと、「ただ少し休みたかっただけだ」という言い訳が続いていた。
最後の行は、まだ何も書かれていない。書きかけの「ありがとう」の一文字目だけがある。
この手紙は、かつて誰かのポケットにしまわれ、ある橋の上まで運ばれ、最後にはその持ち主とともに水底へ沈んでいったのだろう。
「そういうことか。」
劉立澄は、小さく息を吐いた。
「本当は、一人の人間にちゃんと読んでもらいたかっただけなのに。」
暗い光の粒は、答えない。
「なのに、この街中が、あんたの“最後の一跳び”の再演をしてる。」
彼は左手を伸ばし、人差し指と中指を揃えて空をつまむように動かした。
一枚の新しい符が、その指先に生まれる。そこには複雑な呪句はなく、たったひと文字だけが書かれていた。
「留」――。
彼は、その光の粒をそっと符の上へ誘い、紙面にゆっくりと染み込ませていく。
「みんなの代わりに死ぬ必要なんてない。」
声はごく静かだった。
「ちゃんと読まれさえすれば、それで十分だ。」
彼は振り返り、その符を石段の上の綾女に差し出した。
「場所を探してきて。」
「どんなところ?」
「こういう手紙を受け取ってくれて、ちゃんと最後まで読んでくれて、すぐに燃やしたりはしない人がいるところ。」
綾女は符を受け取り、指先で紙の縁をなぞる。夜風の中から拾い上げられた封筒のように、ひんやりした感触が残っていた。
「たとえば――」
彼女は少し考える。
「寺の片隅に木箱を置いて、『生きたい人へ』とか書いておくとか。」
「それでいい。」
彼は岸へ向き直り、水を滴らせた裾を引きずりながら歩き出した。
川の流れは、少しずつ元の姿を取り戻していく。
波が解け、灯りが水面に揺れる。何事もなかったかのように。
ただ、遠くの山影のあいだから、一瞬だけ微かな光が瞬いた。どこか遠い場所が、この音のない雷に応えたように。
「見えた?」
綾女は、その一瞬の光を見上げながら言った。
「三本目。」
劉立澄も視線を追い、目を細める。
「清水寺の下で一本。錦市場の天井で一本。そして、今の鴨川。」
「龍脈の亀裂だ。」
それ以上、説明はしない。その言葉だけを夜気の中に置き、風に任せて流していく。
風がまた吹き始め、夜に少し冷たさが混じる。
「帰ろう。」
綾女は手にした符をひらひらさせる。
「あんたみたいなびしょ濡れの道士、こんなところで立たせてたら、明日は仕事どころか病院行きだよ。」
「その“京都中の遺書”、どうするつもり。」
彼は何気なく訊ねる。
「とりあえず、うちに置いとく。」
綾女はふっと笑った。
「西木屋なら、一応“話ぐらいはちゃんと聞く場所”ってことになってるし。」
それは、ひとりの声ではない。「読まれないまま終わった最後の一文」たちが、幾重にも折り重なって放つ、耳に刺さる叫びだ。
「やめろ、おまえには――」
「俺が、『生きてるほうがいい』なんて言えるわけがないだろ。」
劉立澄は、静かな声で遮る。
「それは、そいつら自身が決めることだ。」
彼は一歩前へ出た。
さっきより深いところまで水に入り、冷たさが足首から脛、膝へと骨の内側を伝って這い上がってくる。
「俺がやるのは、書き間違えた一画を、さっきと同じように消してやることだけ。」
「その先を何と書くかは――」
剣先が黒い影の胸元をまっすぐ指す。
「おまえの出番じゃない。」
次の瞬間、音のない雷光が走った。
空を裂く大きな稲妻ではない。
この短い区間の鴨川の頭上に、ほとんど見えないほど細い白い線が一本、雲の高みから走り下り、水面の文字陣をなぞるように滑り落ちてくる。
白い線が影に触れた刹那、重なり合った文字たちが、高温で炙られたフィルムのように、短い「ジッ」という音を立てて縮れ、壊れていった。
川全体が一瞬だけ、不自然な逆流を起こす。
水面の光の筋が、下流から上流へ駆け上がっていく。映像を巻き戻した河川のように。
黒い殻は一気に崩れ落ち、中心に小さな核だけが残った。
それは、ひどく弱々しく、それでもしがみつくようにそこに残る、かすかな光の塊だった。
「……元は、何だったんだろうね。」
綾女が思わず問う。
暗い光が、微かに震える。
劉立澄には、そのいちばん奥に、一通のごく普通の手紙が見えていた。
薄く黄ばんだ便箋。深い折り目。角のひとつには、雨粒が落ちて滲んだ跡がある。字は決して達筆ではないが、一画一画が真面目に書かれていた。
「――母さん、ごめんなさい。」
最初の行には、それだけが書かれている。
後ろには、仕事のこと、失敗のこと、プレッシャーのこと、「ただ少し休みたかっただけだ」という言い訳が続いていた。
最後の行は、まだ何も書かれていない。書きかけの「ありがとう」の一文字目だけがある。
この手紙は、かつて誰かのポケットにしまわれ、ある橋の上まで運ばれ、最後にはその持ち主とともに水底へ沈んでいったのだろう。
「そういうことか。」
劉立澄は、小さく息を吐いた。
「本当は、一人の人間にちゃんと読んでもらいたかっただけなのに。」
暗い光の粒は、答えない。
「なのに、この街中が、あんたの“最後の一跳び”の再演をしてる。」
彼は左手を伸ばし、人差し指と中指を揃えて空をつまむように動かした。
一枚の新しい符が、その指先に生まれる。そこには複雑な呪句はなく、たったひと文字だけが書かれていた。
「留」――。
彼は、その光の粒をそっと符の上へ誘い、紙面にゆっくりと染み込ませていく。
「みんなの代わりに死ぬ必要なんてない。」
声はごく静かだった。
「ちゃんと読まれさえすれば、それで十分だ。」
彼は振り返り、その符を石段の上の綾女に差し出した。
「場所を探してきて。」
「どんなところ?」
「こういう手紙を受け取ってくれて、ちゃんと最後まで読んでくれて、すぐに燃やしたりはしない人がいるところ。」
綾女は符を受け取り、指先で紙の縁をなぞる。夜風の中から拾い上げられた封筒のように、ひんやりした感触が残っていた。
「たとえば――」
彼女は少し考える。
「寺の片隅に木箱を置いて、『生きたい人へ』とか書いておくとか。」
「それでいい。」
彼は岸へ向き直り、水を滴らせた裾を引きずりながら歩き出した。
川の流れは、少しずつ元の姿を取り戻していく。
波が解け、灯りが水面に揺れる。何事もなかったかのように。
ただ、遠くの山影のあいだから、一瞬だけ微かな光が瞬いた。どこか遠い場所が、この音のない雷に応えたように。
「見えた?」
綾女は、その一瞬の光を見上げながら言った。
「三本目。」
劉立澄も視線を追い、目を細める。
「清水寺の下で一本。錦市場の天井で一本。そして、今の鴨川。」
「龍脈の亀裂だ。」
それ以上、説明はしない。その言葉だけを夜気の中に置き、風に任せて流していく。
風がまた吹き始め、夜に少し冷たさが混じる。
「帰ろう。」
綾女は手にした符をひらひらさせる。
「あんたみたいなびしょ濡れの道士、こんなところで立たせてたら、明日は仕事どころか病院行きだよ。」
「その“京都中の遺書”、どうするつもり。」
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