京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

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第五話 伏見稲荷・狐の嫁入りと捨てられた願い(一)

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 夕方の伏見稲荷には、「昼がまだ終わりたくないのに、夜がもう始まってしまった」ような、どっちつかずの気配があった。

 楼門前の石段を、人の波が絶え間なく上へと流れていく。参道の両側では、店じまい前の呼び込みが最後のひと押しとばかりに声を張っていた。焼き串の炭火はまだ落ちきらず、甘酒の木桶からは白い湯気が立ちのぼる。さまざまな願いごとが書き込まれた絵馬が風に揺れ、ぶつかり合っては、かすかな音を立てた。

「賑やかだねぇ、道士の先生。」

 綾女はバッグを提げたまま、目の前に連なっていく朱塗りの鳥居を見上げて、花火大会でも見に来たかのような口ぶりで言った。

 今日は細かな狐柄の地模様が入った淡い色の小紋に、橙がかった羽織を重ねている。鳥居の朱と絶妙な具合で「色かぶり」していて、足元は歩きやすい布靴。山道にすっかり慣れたような、軽い足取りだった。

「君に呼び出されるときって、大抵ろくなことがない。」

 劉立澄は、熱い甘酒を一杯ぶらさげていた。木の杯の中で白い液体が揺れ、米の香りと淡い酒の匂いが、歩くたびにふわりと広がる。濃い色のコートの下にはタートルネック、肩にはいつもの古びた布袋――これまでの事件のときと変わらない装いで、見ようによっては京都に長居している留学生にしか見えない。

「今回はいい話だってば。」

 綾女は首を傾けて笑う。

「伏見稲荷といえば商売繁盛と願望成就だよ? 留学生の先生こそ、神様の狐と仲よくしておくべき。」

「……今の一言で、ますます不安になった。」

 甘酒を一口すする。温度はちょうどいいが、少しばかり甘すぎる。

「それにね。」綾女は羽織の袖に手を突っ込み、彼にぐっと近づいて、小声でささやいた。

「最近ここの“願い”は、ちょっと度を越して増えすぎてる。」

 そう言って、前方の鳥居のトンネルを指さす。

 本殿から上に向かって、何百、何千という朱の鳥居がきっちりと並び、山の奥へ奥へと伸びている。一本一本の鳥居の柱には奉納者の名と年号が刻まれていて、その墨文字が夕陽に長く引き伸ばされると、まるで見えない無数の眼が、両側から黙って通行人を見つめているようだった。

 山の中腹から吹きおろす風が、鳥居の列をなでていく。木と木がこすれる音が微かに続き、じっと聞いていると、どこかで誰かがひそひそと囁いているようにも思えてくる。

「昼間は人が願いごとをして、夜になると――」

 綾女はそこで言葉を切り、口もとに、冗談とも不安ともつかない笑みを浮かべた。

「夜は、“願いのほうが”お返しに下りてくる。」

「詳しく。」

 劉立澄の足は止まらない。だが視線だけがふっと上がり、鳥居の上端を掠めた。

 そこに、ごく細い灰色の線が一本、鳥居の中心線に沿って山の上へと伸びている。普通の人なら見間違いだと思うだろう。だが彼にははっきりと見えた――それは亀裂だ。誰かが空気の中に指先で強く一線を引き、その線がそのまま龍脈の流れを押さえ込むように走っている。

「このひと月で、ここの“怪談セット”が一気に増えた。」

 綾女は歩きながら、指折り数えていく。

「まず、一つ目――『狐の嫁入り一夜ツアー』。夜、鳥居のいちばん奥で、狐の花嫁行列が見えるって噂。最後までついていって見届けた人は、翌朝目が覚めたとき、一生忘れないと思っていた何かを、きれいさっぱり忘れている。」

「二つ目――『お得な還願サービス』。『恋人と別れたい』『仕事を辞めたい』『目が覚めたら全部終わっていてほしい』みたいな願いをここでして、結局何ひとつ実行してないのに、『あの件、なんだか一度もう終わった気がする』って妙な感覚だけ残る。」

「三つ目は――」

 そこで綾女は一度口をつぐみ、横目で彼をうかがった。

「先生にいちばん関係あるやつ。」

「ほう。」

「『山の上に、中国語を話す“あの世の案内人”がいる』ってうわさ。」綾女は思わず吹き出す。

「夜の千本鳥居で迷った観光客が、鳥居のいちばん奥に、ダークカラーのコートを着た、すごく目つきの怖い男の人を見たんだって。缶コーヒー片手に、道案内してくれたらしいよ。」

「心当たりはない。」

「……せめて缶だけでも隠してよ、先生。」

 しばらく登るうちに、観光客の姿はだんだん減っていった。山の中腹へ続く鳥居の一角は、灯りも少なく、柱の間に吊られた小さな灯りがぽつり、ぽつりと地面に橙色の斑を落とすばかり。

 ひとつ角を曲がったところで、空気の匂いが変わった。

 熱い米と砂糖、それに焦げた醤油の匂いが混ざり合って、鼻先をくすぐる。

「まずは血糖チャージ。」

 綾女は当然のように、脇の小さな屋台へと進路を変えた。

 角にひっそりと張り付くようにして構えた店で、手書きの立て看板には「稲荷揚げ餅・甘酒」とある。鉄板の上では油揚げが小さな四角に切られ、その間に搗きたての餅が挟まれていた。表面には醤油とみりんを合わせたタレが塗られ、端が少し焦げるくらいまで炙られている。立ちのぼる香ばしさに、火にあぶられた醤油の匂いが混ざり、あたりにふわっと広がっていた。

「揚げ餅を二本、甘酒一つに、柚子ソーダ一つ。」

 綾女は手慣れた様子で注文し、彼のほうを振り返る。

「山で妖怪退治をする前にね、このあたりが普段どれくらい『ちゃんと生きる胃袋』を育ててるか、味見しておかないと。」

 揚げたての揚げ餅が串に刺されて差し出される。劉立澄が一口かじると、外側の豆腐の皮はほんのり香ばしく、タレが豆腐と餅の隙間に染み込んでいる。焼かれた餅は外が少し弾力を帯び、中はまだ柔らかい。噛むほどに、甘さと塩気が舌の上で溶け合っていく。

「……これは、錦市場の揚げ物より危険だな。」

 彼は淡々と言った。

「気を抜くと、串が三本四本と増える。」

「先生は龍脈を何往復もすればいいし、私は屋台を何往復もする。お互いできることをやるだけ。」

 綾女は柚子ソーダを一口。氷がグラスの内側に当たり、澄んだ音を立てた。

「で、本題。」

 空になった串を横の籠へ放り込むと、声を落とす。

「おとといの夜ね、一人の女の子が、山の上で“嫁に行きかけた”。」

「誰に。」

「自分で捨てた願いに。」

 綾女の表情から、冗談っぽさが引いていく。

「大学生。二十一か二十二くらい。勉強がきつくてね。バイトをしながら受験勉強してて、ある夜ここでこう願ったんだって――『合格できるなら、今の自分を全部別の私と入れ替えてもいい』って。」

 そこで彼女は小さく息をついた。

「結果、落ちた。本人はその願いを、自分の黒歴史みたいなものだと思って、冗談半分で忘れてた。でもその一言だけは、鳥居のどこかにぶら下がったまま、誰にも回収されなかった。」

「おとといの夜、バイト帰りに、気晴らしにここへ来た。そのまま歩いているうちに、“狐嫁行列”の中に入り込んだ。彼女の話だと、いちばん奥から花嫁行列が出てきて、白無垢に狐面をつけた人たちが何列も何列も通り過ぎていった。誰も自分のことなんて見てないのに、ただ一人、赤い衣をまとった“花嫁”だけが、手を伸ばしてきた。」

「その先は――何も覚えていない。」

「目が覚めたら山の麓。靴は泥だらけで、スマホには着信の履歴がぎっしり。最初は昏倒したと思ったらしいけど、この二日、どうしても消えない感覚が一つあって――」

 綾女は胸に手を当て、そのまま言葉を引き取った。

「『もっと頑張れる“私”が、お嫁に行ってしまって、ここには中身のない殻だけ残ってるみたい』って。」

 劉立澄は何も言わない。

 竹串の最後の一切れを口に運び、食べ終えた串を二つに折って、横のゴミ箱に放り込む。

「君が俺を呼んだのは。」彼はゆっくりと言う。

「“もっと頑張れる彼女”を連れ戻すためじゃない。」

「こういう願いごとの後始末を、誰がやってるのかを見極めるためだ。」

「そう。」

 綾女はうなずき、視線を鳥居の奥へと滑らせた。

 朱塗りのトンネルは、夜の闇に沈むほどに、かえって底知れない深さを帯びていく。ある地点を境に、観光客の足音は目に見えて減り、さらに奥には、ときどき笑い声が風に乗って届くだけで、すぐに霧散してしまう。

「狐の嫁入りなんて古い話は、もともと伏見稲荷にいくらでもある。」

「でも、そういう昔話は、せいぜい子どもを脅かすくらいで、本当に人を“処理”したりはしない。」

「今のこの行列は――」声を低くする。

「手際が良すぎる。」

「神様が人を捕まえてるんじゃない。神様の名義を借りて、“捨ててもいい人生”を選別してるやつがいる。」

「いや。」

 劉立澄は、鳥居の梁に沿って走る細い灰色の線を見上げたまま、目をさらに冷たくした。

「“利用できる裂け目”を選んでいる。」

「清水寺の山肌に一本、錦市場のアーケードの上に一本、鴨川の川底に一本――」

「ここで四本目だ。」

 空の杯を屋台のカウンターに置き、店主に軽く会釈をしてから、山の上へ続く朱の海と向き合う。

「行こう。」

 そう言った。

「今夜の狐嫁が、誰を連れて行くつもりなのか、見てこよう。」

 山の上から吹きおろす風が、鳥居の間に結ばれた小さな鈴を揺らし、澄んだ音を連ねる。

 その鈴の音の列に導かれるように、ふたりの背中は、夜の千本鳥居の中へと、少しずつ飲み込まれていった。
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