27 / 109
第五話 伏見稲荷・狐の嫁入りと捨てられた願い(三)
しおりを挟む
霧は足元から立ち上がった。
最初は夜の冷え込みで出た湿気のような、ごく薄い層。だがそれはすぐに、誰かがそっと水を足したかのように濃さを増し、石段のくるぶしのあたりまでを白く覆い隠した。
その霧の上に、一つの行列がゆっくりと形を取っていく。
先頭を行くのは、提灯持ちだ。
提灯には簡略化された狐の顔が描かれ、紙の胴を半分ふさぐように貼られた板のせいで、灯りは目の部分からだけ漏れ、ぼんやりとした二つの光点になっていた。その提灯の下を、白い装束をまとった者たちが二人一組で並んで歩いていく。足取りは揃い、誰もが狐面をつけている。笑顔の面、泣き顔の面、半分だけ白紙の面――様々な表情の面が、灯りの下で無言のまま通り過ぎていく。
そのさらに後ろには、白無垢の列が続いていた。
裾が霧の上を引きずり、そこを通ったあとの石段は、現実の光と影の上から、白いフィルターを一枚かけ直されたように見える。鳥居の柱に刻まれた奉納の文字も、そこでは墨が抜かれたようにぼやけ、黒い影の塊に変わっていた。
行列は誰一人口を開かない。
聞こえるのは、布が擦れ合うささやかな音と、足が石段に落ちていくときの微かな反響だけ。
「……見えてる?」
綾女は、思わず彼のそばへ寄り添う。
「君の目には、何が見えてる?」
「白無垢一行、ずらっと。」
「提灯も。先生には見えないの?」
「俺には、別のものが見えている。」
彼の視界では、白無垢の影一つひとつの胸のあたりに、半透明の殻のようなものがぶらさがっていた。
殻の中は文字でびっしりだ。
祝福の言葉ではない。
口から出たきり、誰も責任を取らなかった願いごと――
「合格さえできれば、今の自分なんて誰でもいい」、
「離婚できるなら、私がどうなってもかまわない」、
「目が覚めたら全部終わっていてほしい」……。
本来なら、絶望や苛立ちのあまり、つい吐き捨てただけの「賭け言葉」たち。
言い終えてすぐに忘れ、あとから後悔し、「なかったこと」にしたい言葉。
だがここでは、一つひとつがきれいに摘み取られ、揉み固められて、「花嫁」の輪郭に仕立てられ、順番待ちの列に並ばされている。
「これは狐の嫁入りなんかじゃない。」
彼は低くつぶやいた。
「“捨てられた自分たち”の、一斉処分だ。」
その列の端から、一人の白無垢がふらりと抜け出し、こちらへ向かって歩いてくる。
綾女の心臓がひやりと縮み、思わず一歩後ずさった。
彼女にとってそれは、狐面をつけた花嫁にしか見えない。袖が霧を引きずり、頭上の角が微かに光っている。
だが劉立澄には、その面の裏側が見えていた。
大学生の顔だ。
徹夜のレポートで乱暴に結ばれた髪、目尻に刻まれた細い皺、スマホのメモ帳にびっしりと散らばる日本語単語の走り書き、バイトで身につけた愛想笑い。そして――あの夜、鳥居の下で立ち尽くしながら、半分崩れかけ、半分はやけ気味に口にした願い。
「合格できるなら、もっと出来のいい“私”と入れ替わっても構わない。」
その一言を、この場所の何かが真に受けた。
そして「もっと出来のいい彼女の姿」が抜き出され、白無垢を着せられ、今まさに連れて行かれようとしている。
「彼女には、君が見えない。」綾女が押し殺した声で言う。
「だからこそ、止めないと。」
白無垢の影が、ふたりの前を通り過ぎようとした。
袖が彼のコートの布をかすめた、その瞬間。
劉立澄が動いた。
左手を上げ、空をつかむように指を閉じる。
空無から、一筋の細い剣身が凝り固まる。
澄心剣。金属質の光沢はほとんどなく、研ぎ澄まされたガラス片のような透明な刃。周囲の空気さえ、触れたところからひやりと削がれていく。
剣先が空を軽くすくい上げ、白無垢の腰のあたりを静かになぞった。
血は出ない。
ただ薄い霧が一枚、剥がれ落ち、その中から小さな塊が姿を現した。
ガラス玉に押し込められた紙片のようなものだ。そこには、薄れかけた文字が一行だけ浮かんでいる。
「もっと出来のいい“私”と入れ替わっても構わない――」
剣先がくるりと回転し、紙片の上に短く一刀。
「もっと出来のいい私と入れ替わっても構わない」の部分が、細かな文字の破片になって四方に散り、夜風に溶けていく。そこに残ったのは、最初の二文字だけだ。
「――さえ……」
残りの空白は、あの言葉を口にした本人に返した。書き直すにせよ、破り捨てるにせよ、自分で決めろという余白。
白無垢の影がふるりと震える。誰かに背中をそっと押されたように、一歩前に出かけた足が、その場で止まった。風が頭上を一すじ抜ける。
次の瞬間、彼女を形づくっていた布も面も紙片も、霧となってほどけ、跡形もなく消える。
遠く離れたどこかの狭いワンルームで、布団にくるまってスマホをいじっていた女の子が、はっと頭を上げた。胸の奥が不意に締めつけられ、勝手に涙がこぼれ落ちる。
何に泣いているのか、自分でもわからない。
ただ、ずっと遠くから、「大事な自分の一部」が歩いて戻ってくるような感覚だけが、確かにあった。
「……今の、何をしたの?」
綾女は、霧の晴れた場所を見つめたまま、乾いた声を出す。
「彼女が書いた“悪ふざけ”の一行を、婚姻届から線で消した。」
彼は淡々と答える。
「残りは?」
「書きなおすか、書き足すか、紙ごと破るか。」
剣先を少し下げた。
「それは、あいつら自身の仕事だ。」
狐嫁の列は、それで止まったわけではなかった。
白無垢が一体、また一体と、彼らの脇を通り過ぎていく。そのどれもが、誰かが投げ捨てた「もしも」や「どうでもいい」を寄せ集めて、雑に縫い合わせた、歩く抜け殻だ。
「一人ずつ切ってたら、夜が明けても間に合わない。」
綾女は歯を噛みしめる。
「どっかで“呼んでる奴”がいる。」
「俺もそう思う。」
視線を、列のいちばん先頭へと向ける――
提灯の後ろの影が、ふっと揺れた。
そこに立つ、他の「花嫁」とはまるで違う輪郭が、灯りの中に浮かびあがってきた。
最初は夜の冷え込みで出た湿気のような、ごく薄い層。だがそれはすぐに、誰かがそっと水を足したかのように濃さを増し、石段のくるぶしのあたりまでを白く覆い隠した。
その霧の上に、一つの行列がゆっくりと形を取っていく。
先頭を行くのは、提灯持ちだ。
提灯には簡略化された狐の顔が描かれ、紙の胴を半分ふさぐように貼られた板のせいで、灯りは目の部分からだけ漏れ、ぼんやりとした二つの光点になっていた。その提灯の下を、白い装束をまとった者たちが二人一組で並んで歩いていく。足取りは揃い、誰もが狐面をつけている。笑顔の面、泣き顔の面、半分だけ白紙の面――様々な表情の面が、灯りの下で無言のまま通り過ぎていく。
そのさらに後ろには、白無垢の列が続いていた。
裾が霧の上を引きずり、そこを通ったあとの石段は、現実の光と影の上から、白いフィルターを一枚かけ直されたように見える。鳥居の柱に刻まれた奉納の文字も、そこでは墨が抜かれたようにぼやけ、黒い影の塊に変わっていた。
行列は誰一人口を開かない。
聞こえるのは、布が擦れ合うささやかな音と、足が石段に落ちていくときの微かな反響だけ。
「……見えてる?」
綾女は、思わず彼のそばへ寄り添う。
「君の目には、何が見えてる?」
「白無垢一行、ずらっと。」
「提灯も。先生には見えないの?」
「俺には、別のものが見えている。」
彼の視界では、白無垢の影一つひとつの胸のあたりに、半透明の殻のようなものがぶらさがっていた。
殻の中は文字でびっしりだ。
祝福の言葉ではない。
口から出たきり、誰も責任を取らなかった願いごと――
「合格さえできれば、今の自分なんて誰でもいい」、
「離婚できるなら、私がどうなってもかまわない」、
「目が覚めたら全部終わっていてほしい」……。
本来なら、絶望や苛立ちのあまり、つい吐き捨てただけの「賭け言葉」たち。
言い終えてすぐに忘れ、あとから後悔し、「なかったこと」にしたい言葉。
だがここでは、一つひとつがきれいに摘み取られ、揉み固められて、「花嫁」の輪郭に仕立てられ、順番待ちの列に並ばされている。
「これは狐の嫁入りなんかじゃない。」
彼は低くつぶやいた。
「“捨てられた自分たち”の、一斉処分だ。」
その列の端から、一人の白無垢がふらりと抜け出し、こちらへ向かって歩いてくる。
綾女の心臓がひやりと縮み、思わず一歩後ずさった。
彼女にとってそれは、狐面をつけた花嫁にしか見えない。袖が霧を引きずり、頭上の角が微かに光っている。
だが劉立澄には、その面の裏側が見えていた。
大学生の顔だ。
徹夜のレポートで乱暴に結ばれた髪、目尻に刻まれた細い皺、スマホのメモ帳にびっしりと散らばる日本語単語の走り書き、バイトで身につけた愛想笑い。そして――あの夜、鳥居の下で立ち尽くしながら、半分崩れかけ、半分はやけ気味に口にした願い。
「合格できるなら、もっと出来のいい“私”と入れ替わっても構わない。」
その一言を、この場所の何かが真に受けた。
そして「もっと出来のいい彼女の姿」が抜き出され、白無垢を着せられ、今まさに連れて行かれようとしている。
「彼女には、君が見えない。」綾女が押し殺した声で言う。
「だからこそ、止めないと。」
白無垢の影が、ふたりの前を通り過ぎようとした。
袖が彼のコートの布をかすめた、その瞬間。
劉立澄が動いた。
左手を上げ、空をつかむように指を閉じる。
空無から、一筋の細い剣身が凝り固まる。
澄心剣。金属質の光沢はほとんどなく、研ぎ澄まされたガラス片のような透明な刃。周囲の空気さえ、触れたところからひやりと削がれていく。
剣先が空を軽くすくい上げ、白無垢の腰のあたりを静かになぞった。
血は出ない。
ただ薄い霧が一枚、剥がれ落ち、その中から小さな塊が姿を現した。
ガラス玉に押し込められた紙片のようなものだ。そこには、薄れかけた文字が一行だけ浮かんでいる。
「もっと出来のいい“私”と入れ替わっても構わない――」
剣先がくるりと回転し、紙片の上に短く一刀。
「もっと出来のいい私と入れ替わっても構わない」の部分が、細かな文字の破片になって四方に散り、夜風に溶けていく。そこに残ったのは、最初の二文字だけだ。
「――さえ……」
残りの空白は、あの言葉を口にした本人に返した。書き直すにせよ、破り捨てるにせよ、自分で決めろという余白。
白無垢の影がふるりと震える。誰かに背中をそっと押されたように、一歩前に出かけた足が、その場で止まった。風が頭上を一すじ抜ける。
次の瞬間、彼女を形づくっていた布も面も紙片も、霧となってほどけ、跡形もなく消える。
遠く離れたどこかの狭いワンルームで、布団にくるまってスマホをいじっていた女の子が、はっと頭を上げた。胸の奥が不意に締めつけられ、勝手に涙がこぼれ落ちる。
何に泣いているのか、自分でもわからない。
ただ、ずっと遠くから、「大事な自分の一部」が歩いて戻ってくるような感覚だけが、確かにあった。
「……今の、何をしたの?」
綾女は、霧の晴れた場所を見つめたまま、乾いた声を出す。
「彼女が書いた“悪ふざけ”の一行を、婚姻届から線で消した。」
彼は淡々と答える。
「残りは?」
「書きなおすか、書き足すか、紙ごと破るか。」
剣先を少し下げた。
「それは、あいつら自身の仕事だ。」
狐嫁の列は、それで止まったわけではなかった。
白無垢が一体、また一体と、彼らの脇を通り過ぎていく。そのどれもが、誰かが投げ捨てた「もしも」や「どうでもいい」を寄せ集めて、雑に縫い合わせた、歩く抜け殻だ。
「一人ずつ切ってたら、夜が明けても間に合わない。」
綾女は歯を噛みしめる。
「どっかで“呼んでる奴”がいる。」
「俺もそう思う。」
視線を、列のいちばん先頭へと向ける――
提灯の後ろの影が、ふっと揺れた。
そこに立つ、他の「花嫁」とはまるで違う輪郭が、灯りの中に浮かびあがってきた。
0
あなたにおすすめの小説
あやかし家族 〜五人の兄と愛され末妹〜
南 鈴紀
キャラ文芸
妖狩りにより両親を奪われ、囚われの身となった半妖の少女・鈴音は浄化の狐火を利用するだけの道具のように扱われていた。呪いにより成長は止まり、容姿も思考も幼いまま、感情が消え失せてもなおただ生かされるままに生きていた。
しかし妖保護部隊本部第一部隊との出会いにより、鈴音の止まっていた時間が動き出す。
掴みどころはないが頼れる氏神・雅仁、兄には厳しいが弟妹には優しい狼の妖・千里、人間嫌いだが人当たりの良い振りが得意な人間・遥杜、可愛いもの好きで元気いっぱいの猫又・鴇羽、大人しいが思いやりに溢れる猫又・瑠璃。
五人の兄と過ごす時間の中で、無いものだらけだった鈴音にもやがて大切なものが増えていく。
妖×家族の心温まる和風ファンタジー。
後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました
由香
キャラ文芸
後宮で怪異を祓う下級巫女・紗月は、ある日突然、「鬼」と噂される将軍・玄耀の妻になれと命じられる。
それは愛のない政略結婚――
人ならざる力を持つ将軍を、巫女の力で制御するための契約だった。
後宮の思惑に翻弄されながらも、二人は「契約」ではなく「選んだ縁」として、共に生きる道を選ぶ――。
【完結】非モテアラサーですが、あやかしには溺愛されるようです
* ゆるゆ
キャラ文芸
疲れ果てた非モテアラサーが、あやかしたちに癒されて、甘やかされて、溺愛されるお話です。
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
後宮なりきり夫婦録
石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」
「はあ……?」
雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。
あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。
空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。
かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。
影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。
サイトより転載になります。
あまりさんののっぴきならない事情
菱沼あゆ
キャラ文芸
強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。
充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。
「何故、こんなところに居る? 南条あまり」
「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」
「それ、俺だろ」
そーですね……。
カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。
後宮の偽花妃 国を追われた巫女見習いは宦官になる
gari@七柚カリン
キャラ文芸
旧題:国を追われた巫女見習いは、隣国の後宮で二重に花開く
☆4月上旬に書籍発売です。たくさんの応援をありがとうございました!☆ 植物を慈しむ巫女見習いの凛月には、二つの秘密がある。それは、『植物の心がわかること』『見目が変化すること』。
そんな凛月は、次期巫女を侮辱した罪を着せられ国外追放されてしまう。
心機一転、紹介状を手に向かったのは隣国の都。そこで偶然知り合ったのは、高官の峰風だった。
峰風の取次ぎで紹介先の人物との対面を果たすが、提案されたのは後宮内での二つの仕事。ある時は引きこもり後宮妃(欣怡)として巫女の務めを果たし、またある時は、少年宦官(子墨)として庭園管理の仕事をする、忙しくも楽しい二重生活が始まった。
仕事中に秘密の能力を活かし活躍したことで、子墨は女嫌いの峰風の助手に抜擢される。女であること・巫女であることを隠しつつ助手の仕事に邁進するが、これがきっかけとなり、宮廷内の様々な騒動に巻き込まれていく。
烏の王と宵の花嫁
水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。
唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。
その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。
ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。
死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。
※初出2024年7月
大正ロマン恋物語 ~将校様とサトリな私のお試し婚~
菱沼あゆ
キャラ文芸
華族の三条家の跡取り息子、三条行正と見合い結婚することになった咲子。
だが、軍人の行正は、整いすぎた美形な上に、あまりしゃべらない。
蝋人形みたいだ……と見合いの席で怯える咲子だったが。
実は、咲子には、人の心を読めるチカラがあって――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる