京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

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第五話 伏見稲荷・狐の嫁入りと捨てられた願い(三)

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 霧は足元から立ち上がった。

 最初は夜の冷え込みで出た湿気のような、ごく薄い層。だがそれはすぐに、誰かがそっと水を足したかのように濃さを増し、石段のくるぶしのあたりまでを白く覆い隠した。

 その霧の上に、一つの行列がゆっくりと形を取っていく。

 先頭を行くのは、提灯持ちだ。

 提灯には簡略化された狐の顔が描かれ、紙の胴を半分ふさぐように貼られた板のせいで、灯りは目の部分からだけ漏れ、ぼんやりとした二つの光点になっていた。その提灯の下を、白い装束をまとった者たちが二人一組で並んで歩いていく。足取りは揃い、誰もが狐面をつけている。笑顔の面、泣き顔の面、半分だけ白紙の面――様々な表情の面が、灯りの下で無言のまま通り過ぎていく。

 そのさらに後ろには、白無垢の列が続いていた。

 裾が霧の上を引きずり、そこを通ったあとの石段は、現実の光と影の上から、白いフィルターを一枚かけ直されたように見える。鳥居の柱に刻まれた奉納の文字も、そこでは墨が抜かれたようにぼやけ、黒い影の塊に変わっていた。

 行列は誰一人口を開かない。

 聞こえるのは、布が擦れ合うささやかな音と、足が石段に落ちていくときの微かな反響だけ。

「……見えてる?」

 綾女は、思わず彼のそばへ寄り添う。

「君の目には、何が見えてる?」

「白無垢一行、ずらっと。」

「提灯も。先生には見えないの?」

「俺には、別のものが見えている。」

 彼の視界では、白無垢の影一つひとつの胸のあたりに、半透明の殻のようなものがぶらさがっていた。

 殻の中は文字でびっしりだ。

 祝福の言葉ではない。

 口から出たきり、誰も責任を取らなかった願いごと――

 「合格さえできれば、今の自分なんて誰でもいい」、

 「離婚できるなら、私がどうなってもかまわない」、

 「目が覚めたら全部終わっていてほしい」……。

 本来なら、絶望や苛立ちのあまり、つい吐き捨てただけの「賭け言葉」たち。

 言い終えてすぐに忘れ、あとから後悔し、「なかったこと」にしたい言葉。

 だがここでは、一つひとつがきれいに摘み取られ、揉み固められて、「花嫁」の輪郭に仕立てられ、順番待ちの列に並ばされている。

「これは狐の嫁入りなんかじゃない。」

 彼は低くつぶやいた。

「“捨てられた自分たち”の、一斉処分だ。」

 その列の端から、一人の白無垢がふらりと抜け出し、こちらへ向かって歩いてくる。

 綾女の心臓がひやりと縮み、思わず一歩後ずさった。

 彼女にとってそれは、狐面をつけた花嫁にしか見えない。袖が霧を引きずり、頭上の角が微かに光っている。

 だが劉立澄には、その面の裏側が見えていた。

 大学生の顔だ。

 徹夜のレポートで乱暴に結ばれた髪、目尻に刻まれた細い皺、スマホのメモ帳にびっしりと散らばる日本語単語の走り書き、バイトで身につけた愛想笑い。そして――あの夜、鳥居の下で立ち尽くしながら、半分崩れかけ、半分はやけ気味に口にした願い。

 「合格できるなら、もっと出来のいい“私”と入れ替わっても構わない。」

 その一言を、この場所の何かが真に受けた。

 そして「もっと出来のいい彼女の姿」が抜き出され、白無垢を着せられ、今まさに連れて行かれようとしている。

「彼女には、君が見えない。」綾女が押し殺した声で言う。

「だからこそ、止めないと。」

 白無垢の影が、ふたりの前を通り過ぎようとした。

 袖が彼のコートの布をかすめた、その瞬間。

 劉立澄が動いた。

 左手を上げ、空をつかむように指を閉じる。

 空無から、一筋の細い剣身が凝り固まる。

 澄心剣。金属質の光沢はほとんどなく、研ぎ澄まされたガラス片のような透明な刃。周囲の空気さえ、触れたところからひやりと削がれていく。

 剣先が空を軽くすくい上げ、白無垢の腰のあたりを静かになぞった。

 血は出ない。

 ただ薄い霧が一枚、剥がれ落ち、その中から小さな塊が姿を現した。

 ガラス玉に押し込められた紙片のようなものだ。そこには、薄れかけた文字が一行だけ浮かんでいる。

 「もっと出来のいい“私”と入れ替わっても構わない――」

 剣先がくるりと回転し、紙片の上に短く一刀。

 「もっと出来のいい私と入れ替わっても構わない」の部分が、細かな文字の破片になって四方に散り、夜風に溶けていく。そこに残ったのは、最初の二文字だけだ。

 「――さえ……」

 残りの空白は、あの言葉を口にした本人に返した。書き直すにせよ、破り捨てるにせよ、自分で決めろという余白。

 白無垢の影がふるりと震える。誰かに背中をそっと押されたように、一歩前に出かけた足が、その場で止まった。風が頭上を一すじ抜ける。

 次の瞬間、彼女を形づくっていた布も面も紙片も、霧となってほどけ、跡形もなく消える。

 遠く離れたどこかの狭いワンルームで、布団にくるまってスマホをいじっていた女の子が、はっと頭を上げた。胸の奥が不意に締めつけられ、勝手に涙がこぼれ落ちる。

 何に泣いているのか、自分でもわからない。

 ただ、ずっと遠くから、「大事な自分の一部」が歩いて戻ってくるような感覚だけが、確かにあった。

「……今の、何をしたの?」

 綾女は、霧の晴れた場所を見つめたまま、乾いた声を出す。

「彼女が書いた“悪ふざけ”の一行を、婚姻届から線で消した。」

 彼は淡々と答える。

「残りは?」

「書きなおすか、書き足すか、紙ごと破るか。」

 剣先を少し下げた。

「それは、あいつら自身の仕事だ。」

 狐嫁の列は、それで止まったわけではなかった。

 白無垢が一体、また一体と、彼らの脇を通り過ぎていく。そのどれもが、誰かが投げ捨てた「もしも」や「どうでもいい」を寄せ集めて、雑に縫い合わせた、歩く抜け殻だ。

「一人ずつ切ってたら、夜が明けても間に合わない。」

 綾女は歯を噛みしめる。

「どっかで“呼んでる奴”がいる。」

「俺もそう思う。」

 視線を、列のいちばん先頭へと向ける――

 提灯の後ろの影が、ふっと揺れた。

 そこに立つ、他の「花嫁」とはまるで違う輪郭が、灯りの中に浮かびあがってきた。
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