京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

文字の大きさ
47 / 109

第八話・河原町・薦められる人生の脚本(五)

しおりを挟む
刀が抜かれた途端、回廊の光は、わずかに色を失った。

篠原灯子の目が、きゅっと細くなる。

「そんなものまで持ち歩いてるなんてね。」

彼女は退かない。むしろ、さらに距離を詰めてきた。

ハイヒールのつま先をひねり、ガラス壁ぎりぎりをなぞるように、タイトなリズムで彼の死角へ回り込む。

もはや遠くから線を書き換えることはしない。身体そのものをぶつけにくる。膝は彼の軸足を折りにかかり、肘は背中を押しつぶし、金属ペンは手首を狙って鋭く突き込まれる。

今度の彼女は、完全に「同じ土俵に立つ格闘相手」として彼を扱っていた。遠隔操作できる「サンプル」ではなく。

刀の役割もすぐに現れる。

彼は刀で彼女を斬りつけようとはしない。まず、刀の背を、自分の前腕の外側にぴたりと沿わせた。

彼女のハイヒールが横から蹴り込んできて、刀の背にガツンと当たる。鉄そのものより硬いのではないかと錯覚するほどの重さで、彼女のつま先には、じんとした痺れが走った。

金属ペンが突き出される。彼は刀の刃をそっと上げ、その一刺しを受け流した。刀先はそのまま床を払う。

床板の上に、淡い線が一本走る。

その一本で、足首を絡め取っていた数本の線がまとめて断ち切られ、左右へ弾けていく。幕の下で、見えるはずのない水紋が広がる。

彼女の身体は、柔らかさという言葉では追いつかないほどしなやかだった。刀背で蹴りを受け止められても、足が床につく瞬間には、すでに反対方向へ腰をひねり、もう一本の脚で、今度は彼の膝裏を払う。

彼は左膝をわずかに曲げ、その力を利用して、前へ飛び込んだ。

肩が彼女の肩甲骨にぶつかり、二人の身体が回廊の中央でぶつかり合う。

彼女は、彼がこんな「道士らしからぬ荒っぽい技」を使うとは思っていなかったのだろう。思いのほか強く押されて、一歩後ろに弾かれ、背中がほとんどガラスに貼り付いた。

ガラスが、彼女の背中の後ろで、不安げに震える。

彼が肉薄したとき、手には剣と刀が一つずつ。

剣先は斜めに持ち上げられ、彼女の手首を押さえつける。ペン先が、彼の喉に近づくのを許さない。刀は横向きにし、背を彼女の腰に押し当て、刃は外側へ向けた。

二人の距離は、相手の睫毛の数が数えられるほど近い。

彼女の呼吸はわずかに速くなり、香水の香りは、ここまで近づくと、もはや隠しようがない濃さで押し寄せる。

「へえ……あなたも、こんな近い間合いで『卑怯な手』を使うんだ。」

彼女はかすかに笑う。声には、さっきとは違う、本物の息切れが混じっていた。

「遠くからきれいごとばかり言う人だと、勝手に思ってたのに。」

「ただ、人を紙のように扱うやり方が気に入らないだけだ。」

彼は静かに言い返す。

次の瞬間、彼女の膝が急激に跳ね上がり、彼の太腿の付け根を狙った。

彼はすでにそれを読んでいた。右足を後ろへ引き、左膝を沈める。その瞬間、二人の重心は同時に崩れる。

その崩れを、彼はさらに利用した。身体を少し回転させ、その勢いで彼女の身体もまとめて側面へと転がす。

刀先が彼女の耳のすぐそばをかすめ、ガラスと床の間の金属の枠に落ちる。

金属は、細い切り口を一筋刻まれ、小さな火花が雨気の中で一瞬だけ弾け、すぐに消えた。

刀がかすめたガラスの縁には、細い亀裂が一本走り、その隙間から雨水がじわじわと染み込んでくる。

冷たい風が、その新しい裂け目から回廊の中へと入り込んだ。閉じた空気は、その一息でかき回される。

幕が、風に煽られてかすかに揺れた。

幕の映像も、それに合わせてわずかに乱れる。

安穏で柔らかな結末の映像に、細かい震えが生じ、中には、カットされたはずの断片が一コマだけ紛れ込んだ。夜更けのバスで、「安定ルート」を選んだはずの誰かが窓にもたれ、ぼんやりと外を見ている場面。子どもが寝静まったあと、「これでいい」と口にしたはずの母親が、一人でシンクの皿を前に立ち尽くしている場面。

そうした断片は、ほんの一瞬だけ現れたかと思うと、すぐに幕がピンと張り直されて押しつぶされる。

「舞台に穴を開けてくれたわけね。」

篠原灯子は低くつぶやいた。今度の笑みは、目の奥からすっかり消えかけている。

彼女は剣先に押されて赤くなった手首を振りほどき、金属ペンを掌の中でくるりと回した。短剣のような握り方だ。

彼女は再び前へ詰め寄る。ハイヒールの踵が、今しがた刀に割られた金属枠の上に、ぴたりと立つ。その足場は、まるでそこで生まれた一本の杭のように、揺るぎなく彼女の体重を支えていた。

彼女は手にしたペンの先で、床を軽く突いた。

さきほど刀で刻まれた裂け目が、そこから両側に広がっていく。細い分岐をいくつも生みながら、やがて床一面に線を描き、その一筋一筋の上に、薄く文字が浮かび上がる。

「この街に残る」

「故郷に戻る」

「今の仕事を続ける」

「おすすめを受け入れる」

それは、彼に向けられたものではない。先ほどの通りに立っていた、すべての迷える者たちに向けられた文字だ。

この回廊は、一瞬にして巨大な「選択肢の枠」に変わった。

もし彼が退けば、この線はそのまま閉じて、下にいる人々の足元を、いちばん近くにある文字の上に固定してしまう。

彼は、その文字列を一瞥する。

そして、刀を返し、刃をその交点へと叩き込んだ。

龍牙の刃は、ひとつの飾りもなく、真っ向から交差点を貫いた。

床の奥から、かすかだが鋭い裂ける音が響く。

文字と線を繋いでいた筋が、その一撃で半分ほど断ち切られる。

通りのあちこちで、誘導されかけていた足が、同時に、一歩分だけもつれた。

スマホの画面に指を置いていた誰かの指先が、そこで止まる。サインペンを紙に走らせようとした手が、不意に震える。「じゃあ、言われたとおりで」と頷こうとしていた口が、急に喉の渇きを覚え、言葉を呑み込む。

彼らは、何が起きたのかわからない。ただ、自分が「また迷ってしまった」と苦笑するだけだ。

だが、線の向こう側で、「おすすめ」の力は、たしかにいくらか削がれていた。

「どんな文字を書こうと、それは所詮『選択肢』であって、『命令』じゃない。」

劉立澄は低く言う。

彼がしているのは、ただ一つ――「唯一の正解」に見せかけられていたものを、「数ある可能性の一つ」に戻すこと。

篠原灯子は、刀で裂かれたその溝を見つめた。

回廊がかすかに揺れ、雨の中で、ビル全体が深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出したようにも感じられる。

透明な幕が、両側から静かに巻き取られ、布が閉じられるように、回廊を覆っていた帳が引っ込んでいく。

映像は消え、ガラスには、雨粒の軌跡だけが残った。

彼女は長く息を吐き、手にしていた金属ペンをひょいと放り投げた。

ペンは空中に弧を描き、床に落ちてコロコロと転がり、壁際に当たって小さな音を立てて止まる。

「いいわ。」

彼女は彼を見つめ、声色は相変わらず穏やかだが、その奥底には、本物の疲労がにじんでいた。

「今夜に限り、この回廊はあなたのもの。

  ここでは、もう何も書かない。」

彼女は数歩下がり、反対側の欄干に背を預け、腕を組んで、下の通りの灯りを見下ろした。

「勘違いしないで。」

「あなたが手に入れたものは、大した勝利じゃないわ。

彼らは、明日も迷い続ける。結局、私が書いたルートを選ぶ人だって、山ほどいる。」

「構わない。」

彼は剣を収め、刀もまた、掌の中でわずかに揺らしてから、影のように消した。

「自分で選べると、知りさえすれば、それでいい。」

彼は回廊の端へ向かって歩き出す。

背中のほうで、ハイヒールのかかとが一度、床を軽く叩いた。

それは、悔しさとも、諦めともつかない、小さな送別の音だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あやかし家族 〜五人の兄と愛され末妹〜

南 鈴紀
キャラ文芸
 妖狩りにより両親を奪われ、囚われの身となった半妖の少女・鈴音は浄化の狐火を利用するだけの道具のように扱われていた。呪いにより成長は止まり、容姿も思考も幼いまま、感情が消え失せてもなおただ生かされるままに生きていた。  しかし妖保護部隊本部第一部隊との出会いにより、鈴音の止まっていた時間が動き出す。  掴みどころはないが頼れる氏神・雅仁、兄には厳しいが弟妹には優しい狼の妖・千里、人間嫌いだが人当たりの良い振りが得意な人間・遥杜、可愛いもの好きで元気いっぱいの猫又・鴇羽、大人しいが思いやりに溢れる猫又・瑠璃。  五人の兄と過ごす時間の中で、無いものだらけだった鈴音にもやがて大切なものが増えていく。  妖×家族の心温まる和風ファンタジー。

後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました

由香
キャラ文芸
後宮で怪異を祓う下級巫女・紗月は、ある日突然、「鬼」と噂される将軍・玄耀の妻になれと命じられる。 それは愛のない政略結婚―― 人ならざる力を持つ将軍を、巫女の力で制御するための契約だった。 後宮の思惑に翻弄されながらも、二人は「契約」ではなく「選んだ縁」として、共に生きる道を選ぶ――。

【完結】非モテアラサーですが、あやかしには溺愛されるようです

  *  ゆるゆ
キャラ文芸
疲れ果てた非モテアラサーが、あやかしたちに癒されて、甘やかされて、溺愛されるお話です。 名前が  *   ゆるゆ  になりましたー! 中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

あまりさんののっぴきならない事情

菱沼あゆ
キャラ文芸
 強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。  充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。 「何故、こんなところに居る? 南条あまり」 「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」 「それ、俺だろ」  そーですね……。  カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。

後宮の偽花妃 国を追われた巫女見習いは宦官になる

gari@七柚カリン
キャラ文芸
旧題:国を追われた巫女見習いは、隣国の後宮で二重に花開く ☆4月上旬に書籍発売です。たくさんの応援をありがとうございました!☆ 植物を慈しむ巫女見習いの凛月には、二つの秘密がある。それは、『植物の心がわかること』『見目が変化すること』。  そんな凛月は、次期巫女を侮辱した罪を着せられ国外追放されてしまう。  心機一転、紹介状を手に向かったのは隣国の都。そこで偶然知り合ったのは、高官の峰風だった。  峰風の取次ぎで紹介先の人物との対面を果たすが、提案されたのは後宮内での二つの仕事。ある時は引きこもり後宮妃(欣怡)として巫女の務めを果たし、またある時は、少年宦官(子墨)として庭園管理の仕事をする、忙しくも楽しい二重生活が始まった。  仕事中に秘密の能力を活かし活躍したことで、子墨は女嫌いの峰風の助手に抜擢される。女であること・巫女であることを隠しつつ助手の仕事に邁進するが、これがきっかけとなり、宮廷内の様々な騒動に巻き込まれていく。

烏の王と宵の花嫁

水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。 唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。 その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。 ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。 死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。 ※初出2024年7月

大正ロマン恋物語 ~将校様とサトリな私のお試し婚~

菱沼あゆ
キャラ文芸
華族の三条家の跡取り息子、三条行正と見合い結婚することになった咲子。 だが、軍人の行正は、整いすぎた美形な上に、あまりしゃべらない。 蝋人形みたいだ……と見合いの席で怯える咲子だったが。 実は、咲子には、人の心を読めるチカラがあって――。

処理中です...