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第八話・河原町・薦められる人生の脚本(五)
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刀が抜かれた途端、回廊の光は、わずかに色を失った。
篠原灯子の目が、きゅっと細くなる。
「そんなものまで持ち歩いてるなんてね。」
彼女は退かない。むしろ、さらに距離を詰めてきた。
ハイヒールのつま先をひねり、ガラス壁ぎりぎりをなぞるように、タイトなリズムで彼の死角へ回り込む。
もはや遠くから線を書き換えることはしない。身体そのものをぶつけにくる。膝は彼の軸足を折りにかかり、肘は背中を押しつぶし、金属ペンは手首を狙って鋭く突き込まれる。
今度の彼女は、完全に「同じ土俵に立つ格闘相手」として彼を扱っていた。遠隔操作できる「サンプル」ではなく。
刀の役割もすぐに現れる。
彼は刀で彼女を斬りつけようとはしない。まず、刀の背を、自分の前腕の外側にぴたりと沿わせた。
彼女のハイヒールが横から蹴り込んできて、刀の背にガツンと当たる。鉄そのものより硬いのではないかと錯覚するほどの重さで、彼女のつま先には、じんとした痺れが走った。
金属ペンが突き出される。彼は刀の刃をそっと上げ、その一刺しを受け流した。刀先はそのまま床を払う。
床板の上に、淡い線が一本走る。
その一本で、足首を絡め取っていた数本の線がまとめて断ち切られ、左右へ弾けていく。幕の下で、見えるはずのない水紋が広がる。
彼女の身体は、柔らかさという言葉では追いつかないほどしなやかだった。刀背で蹴りを受け止められても、足が床につく瞬間には、すでに反対方向へ腰をひねり、もう一本の脚で、今度は彼の膝裏を払う。
彼は左膝をわずかに曲げ、その力を利用して、前へ飛び込んだ。
肩が彼女の肩甲骨にぶつかり、二人の身体が回廊の中央でぶつかり合う。
彼女は、彼がこんな「道士らしからぬ荒っぽい技」を使うとは思っていなかったのだろう。思いのほか強く押されて、一歩後ろに弾かれ、背中がほとんどガラスに貼り付いた。
ガラスが、彼女の背中の後ろで、不安げに震える。
彼が肉薄したとき、手には剣と刀が一つずつ。
剣先は斜めに持ち上げられ、彼女の手首を押さえつける。ペン先が、彼の喉に近づくのを許さない。刀は横向きにし、背を彼女の腰に押し当て、刃は外側へ向けた。
二人の距離は、相手の睫毛の数が数えられるほど近い。
彼女の呼吸はわずかに速くなり、香水の香りは、ここまで近づくと、もはや隠しようがない濃さで押し寄せる。
「へえ……あなたも、こんな近い間合いで『卑怯な手』を使うんだ。」
彼女はかすかに笑う。声には、さっきとは違う、本物の息切れが混じっていた。
「遠くからきれいごとばかり言う人だと、勝手に思ってたのに。」
「ただ、人を紙のように扱うやり方が気に入らないだけだ。」
彼は静かに言い返す。
次の瞬間、彼女の膝が急激に跳ね上がり、彼の太腿の付け根を狙った。
彼はすでにそれを読んでいた。右足を後ろへ引き、左膝を沈める。その瞬間、二人の重心は同時に崩れる。
その崩れを、彼はさらに利用した。身体を少し回転させ、その勢いで彼女の身体もまとめて側面へと転がす。
刀先が彼女の耳のすぐそばをかすめ、ガラスと床の間の金属の枠に落ちる。
金属は、細い切り口を一筋刻まれ、小さな火花が雨気の中で一瞬だけ弾け、すぐに消えた。
刀がかすめたガラスの縁には、細い亀裂が一本走り、その隙間から雨水がじわじわと染み込んでくる。
冷たい風が、その新しい裂け目から回廊の中へと入り込んだ。閉じた空気は、その一息でかき回される。
幕が、風に煽られてかすかに揺れた。
幕の映像も、それに合わせてわずかに乱れる。
安穏で柔らかな結末の映像に、細かい震えが生じ、中には、カットされたはずの断片が一コマだけ紛れ込んだ。夜更けのバスで、「安定ルート」を選んだはずの誰かが窓にもたれ、ぼんやりと外を見ている場面。子どもが寝静まったあと、「これでいい」と口にしたはずの母親が、一人でシンクの皿を前に立ち尽くしている場面。
そうした断片は、ほんの一瞬だけ現れたかと思うと、すぐに幕がピンと張り直されて押しつぶされる。
「舞台に穴を開けてくれたわけね。」
篠原灯子は低くつぶやいた。今度の笑みは、目の奥からすっかり消えかけている。
彼女は剣先に押されて赤くなった手首を振りほどき、金属ペンを掌の中でくるりと回した。短剣のような握り方だ。
彼女は再び前へ詰め寄る。ハイヒールの踵が、今しがた刀に割られた金属枠の上に、ぴたりと立つ。その足場は、まるでそこで生まれた一本の杭のように、揺るぎなく彼女の体重を支えていた。
彼女は手にしたペンの先で、床を軽く突いた。
さきほど刀で刻まれた裂け目が、そこから両側に広がっていく。細い分岐をいくつも生みながら、やがて床一面に線を描き、その一筋一筋の上に、薄く文字が浮かび上がる。
「この街に残る」
「故郷に戻る」
「今の仕事を続ける」
「おすすめを受け入れる」
それは、彼に向けられたものではない。先ほどの通りに立っていた、すべての迷える者たちに向けられた文字だ。
この回廊は、一瞬にして巨大な「選択肢の枠」に変わった。
もし彼が退けば、この線はそのまま閉じて、下にいる人々の足元を、いちばん近くにある文字の上に固定してしまう。
彼は、その文字列を一瞥する。
そして、刀を返し、刃をその交点へと叩き込んだ。
龍牙の刃は、ひとつの飾りもなく、真っ向から交差点を貫いた。
床の奥から、かすかだが鋭い裂ける音が響く。
文字と線を繋いでいた筋が、その一撃で半分ほど断ち切られる。
通りのあちこちで、誘導されかけていた足が、同時に、一歩分だけもつれた。
スマホの画面に指を置いていた誰かの指先が、そこで止まる。サインペンを紙に走らせようとした手が、不意に震える。「じゃあ、言われたとおりで」と頷こうとしていた口が、急に喉の渇きを覚え、言葉を呑み込む。
彼らは、何が起きたのかわからない。ただ、自分が「また迷ってしまった」と苦笑するだけだ。
だが、線の向こう側で、「おすすめ」の力は、たしかにいくらか削がれていた。
「どんな文字を書こうと、それは所詮『選択肢』であって、『命令』じゃない。」
劉立澄は低く言う。
彼がしているのは、ただ一つ――「唯一の正解」に見せかけられていたものを、「数ある可能性の一つ」に戻すこと。
篠原灯子は、刀で裂かれたその溝を見つめた。
回廊がかすかに揺れ、雨の中で、ビル全体が深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出したようにも感じられる。
透明な幕が、両側から静かに巻き取られ、布が閉じられるように、回廊を覆っていた帳が引っ込んでいく。
映像は消え、ガラスには、雨粒の軌跡だけが残った。
彼女は長く息を吐き、手にしていた金属ペンをひょいと放り投げた。
ペンは空中に弧を描き、床に落ちてコロコロと転がり、壁際に当たって小さな音を立てて止まる。
「いいわ。」
彼女は彼を見つめ、声色は相変わらず穏やかだが、その奥底には、本物の疲労がにじんでいた。
「今夜に限り、この回廊はあなたのもの。
ここでは、もう何も書かない。」
彼女は数歩下がり、反対側の欄干に背を預け、腕を組んで、下の通りの灯りを見下ろした。
「勘違いしないで。」
「あなたが手に入れたものは、大した勝利じゃないわ。
彼らは、明日も迷い続ける。結局、私が書いたルートを選ぶ人だって、山ほどいる。」
「構わない。」
彼は剣を収め、刀もまた、掌の中でわずかに揺らしてから、影のように消した。
「自分で選べると、知りさえすれば、それでいい。」
彼は回廊の端へ向かって歩き出す。
背中のほうで、ハイヒールのかかとが一度、床を軽く叩いた。
それは、悔しさとも、諦めともつかない、小さな送別の音だった。
篠原灯子の目が、きゅっと細くなる。
「そんなものまで持ち歩いてるなんてね。」
彼女は退かない。むしろ、さらに距離を詰めてきた。
ハイヒールのつま先をひねり、ガラス壁ぎりぎりをなぞるように、タイトなリズムで彼の死角へ回り込む。
もはや遠くから線を書き換えることはしない。身体そのものをぶつけにくる。膝は彼の軸足を折りにかかり、肘は背中を押しつぶし、金属ペンは手首を狙って鋭く突き込まれる。
今度の彼女は、完全に「同じ土俵に立つ格闘相手」として彼を扱っていた。遠隔操作できる「サンプル」ではなく。
刀の役割もすぐに現れる。
彼は刀で彼女を斬りつけようとはしない。まず、刀の背を、自分の前腕の外側にぴたりと沿わせた。
彼女のハイヒールが横から蹴り込んできて、刀の背にガツンと当たる。鉄そのものより硬いのではないかと錯覚するほどの重さで、彼女のつま先には、じんとした痺れが走った。
金属ペンが突き出される。彼は刀の刃をそっと上げ、その一刺しを受け流した。刀先はそのまま床を払う。
床板の上に、淡い線が一本走る。
その一本で、足首を絡め取っていた数本の線がまとめて断ち切られ、左右へ弾けていく。幕の下で、見えるはずのない水紋が広がる。
彼女の身体は、柔らかさという言葉では追いつかないほどしなやかだった。刀背で蹴りを受け止められても、足が床につく瞬間には、すでに反対方向へ腰をひねり、もう一本の脚で、今度は彼の膝裏を払う。
彼は左膝をわずかに曲げ、その力を利用して、前へ飛び込んだ。
肩が彼女の肩甲骨にぶつかり、二人の身体が回廊の中央でぶつかり合う。
彼女は、彼がこんな「道士らしからぬ荒っぽい技」を使うとは思っていなかったのだろう。思いのほか強く押されて、一歩後ろに弾かれ、背中がほとんどガラスに貼り付いた。
ガラスが、彼女の背中の後ろで、不安げに震える。
彼が肉薄したとき、手には剣と刀が一つずつ。
剣先は斜めに持ち上げられ、彼女の手首を押さえつける。ペン先が、彼の喉に近づくのを許さない。刀は横向きにし、背を彼女の腰に押し当て、刃は外側へ向けた。
二人の距離は、相手の睫毛の数が数えられるほど近い。
彼女の呼吸はわずかに速くなり、香水の香りは、ここまで近づくと、もはや隠しようがない濃さで押し寄せる。
「へえ……あなたも、こんな近い間合いで『卑怯な手』を使うんだ。」
彼女はかすかに笑う。声には、さっきとは違う、本物の息切れが混じっていた。
「遠くからきれいごとばかり言う人だと、勝手に思ってたのに。」
「ただ、人を紙のように扱うやり方が気に入らないだけだ。」
彼は静かに言い返す。
次の瞬間、彼女の膝が急激に跳ね上がり、彼の太腿の付け根を狙った。
彼はすでにそれを読んでいた。右足を後ろへ引き、左膝を沈める。その瞬間、二人の重心は同時に崩れる。
その崩れを、彼はさらに利用した。身体を少し回転させ、その勢いで彼女の身体もまとめて側面へと転がす。
刀先が彼女の耳のすぐそばをかすめ、ガラスと床の間の金属の枠に落ちる。
金属は、細い切り口を一筋刻まれ、小さな火花が雨気の中で一瞬だけ弾け、すぐに消えた。
刀がかすめたガラスの縁には、細い亀裂が一本走り、その隙間から雨水がじわじわと染み込んでくる。
冷たい風が、その新しい裂け目から回廊の中へと入り込んだ。閉じた空気は、その一息でかき回される。
幕が、風に煽られてかすかに揺れた。
幕の映像も、それに合わせてわずかに乱れる。
安穏で柔らかな結末の映像に、細かい震えが生じ、中には、カットされたはずの断片が一コマだけ紛れ込んだ。夜更けのバスで、「安定ルート」を選んだはずの誰かが窓にもたれ、ぼんやりと外を見ている場面。子どもが寝静まったあと、「これでいい」と口にしたはずの母親が、一人でシンクの皿を前に立ち尽くしている場面。
そうした断片は、ほんの一瞬だけ現れたかと思うと、すぐに幕がピンと張り直されて押しつぶされる。
「舞台に穴を開けてくれたわけね。」
篠原灯子は低くつぶやいた。今度の笑みは、目の奥からすっかり消えかけている。
彼女は剣先に押されて赤くなった手首を振りほどき、金属ペンを掌の中でくるりと回した。短剣のような握り方だ。
彼女は再び前へ詰め寄る。ハイヒールの踵が、今しがた刀に割られた金属枠の上に、ぴたりと立つ。その足場は、まるでそこで生まれた一本の杭のように、揺るぎなく彼女の体重を支えていた。
彼女は手にしたペンの先で、床を軽く突いた。
さきほど刀で刻まれた裂け目が、そこから両側に広がっていく。細い分岐をいくつも生みながら、やがて床一面に線を描き、その一筋一筋の上に、薄く文字が浮かび上がる。
「この街に残る」
「故郷に戻る」
「今の仕事を続ける」
「おすすめを受け入れる」
それは、彼に向けられたものではない。先ほどの通りに立っていた、すべての迷える者たちに向けられた文字だ。
この回廊は、一瞬にして巨大な「選択肢の枠」に変わった。
もし彼が退けば、この線はそのまま閉じて、下にいる人々の足元を、いちばん近くにある文字の上に固定してしまう。
彼は、その文字列を一瞥する。
そして、刀を返し、刃をその交点へと叩き込んだ。
龍牙の刃は、ひとつの飾りもなく、真っ向から交差点を貫いた。
床の奥から、かすかだが鋭い裂ける音が響く。
文字と線を繋いでいた筋が、その一撃で半分ほど断ち切られる。
通りのあちこちで、誘導されかけていた足が、同時に、一歩分だけもつれた。
スマホの画面に指を置いていた誰かの指先が、そこで止まる。サインペンを紙に走らせようとした手が、不意に震える。「じゃあ、言われたとおりで」と頷こうとしていた口が、急に喉の渇きを覚え、言葉を呑み込む。
彼らは、何が起きたのかわからない。ただ、自分が「また迷ってしまった」と苦笑するだけだ。
だが、線の向こう側で、「おすすめ」の力は、たしかにいくらか削がれていた。
「どんな文字を書こうと、それは所詮『選択肢』であって、『命令』じゃない。」
劉立澄は低く言う。
彼がしているのは、ただ一つ――「唯一の正解」に見せかけられていたものを、「数ある可能性の一つ」に戻すこと。
篠原灯子は、刀で裂かれたその溝を見つめた。
回廊がかすかに揺れ、雨の中で、ビル全体が深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出したようにも感じられる。
透明な幕が、両側から静かに巻き取られ、布が閉じられるように、回廊を覆っていた帳が引っ込んでいく。
映像は消え、ガラスには、雨粒の軌跡だけが残った。
彼女は長く息を吐き、手にしていた金属ペンをひょいと放り投げた。
ペンは空中に弧を描き、床に落ちてコロコロと転がり、壁際に当たって小さな音を立てて止まる。
「いいわ。」
彼女は彼を見つめ、声色は相変わらず穏やかだが、その奥底には、本物の疲労がにじんでいた。
「今夜に限り、この回廊はあなたのもの。
ここでは、もう何も書かない。」
彼女は数歩下がり、反対側の欄干に背を預け、腕を組んで、下の通りの灯りを見下ろした。
「勘違いしないで。」
「あなたが手に入れたものは、大した勝利じゃないわ。
彼らは、明日も迷い続ける。結局、私が書いたルートを選ぶ人だって、山ほどいる。」
「構わない。」
彼は剣を収め、刀もまた、掌の中でわずかに揺らしてから、影のように消した。
「自分で選べると、知りさえすれば、それでいい。」
彼は回廊の端へ向かって歩き出す。
背中のほうで、ハイヒールのかかとが一度、床を軽く叩いた。
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