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第十一話・三十三間堂・終わらない稽古の自分(三)
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空気が、少し粘つき始めた。
「もう一度」という三文字が、龍脈の裂け目の上で何度も擦られ、見えない火花を散らしている。
その火花は炎にはならない。
代わりに、さらに細い糸となって、ここを通りがかった人間一人ひとりの身に巻きついていく。
昼間の参拝客の中には、回廊を歩くうちに急に背筋が寒くなり、「風かな」と首をすくめた者もいれば、千体の観音を眺めながら「どれか一体が、自分のやり残したことをじっと見ている気がする」と感じた者もいる。
彼らがここを去るとき、完了しなかった「動作」が小さな欠片になって、この場所に置き去りにされる。
そうやって少しずつ、今夜ここに並ぶ長い行列ができあがっていった。
「君たち。」
劉立澄は顔を上げ、一列に並んだ影たちを順に見やった。
「射ち放たれるのは、君たちじゃない。」
彼の掌の中に、一本の剣が形をとった。
澄心の剣。
刃は鈍い銀色で、余分な装飾は何もない。線だけがそこにある。
彼はあわてて踏み込んだりはせず、ゆっくりと一歩を踏み出した。
つま先は龍脈の裂け目の縁に、かかとは反対側の石の上に軽くかける。
次の一歩は、ほんのわずかに斜め。
三歩目は横向きに出し、二枚の石畳の継ぎ目の真ん中を踏む。
細い裂け目の上に、極小さな「折れ」を描くようにして歩く。
「折罡廊歩。」
これは、「一つの線をひたすら進んでも出口にたどり着けない」ときのための歩き方だ。
線そのものを断ち切るのではなく、その上に小さく折り目をつけて、「真っ直ぐしかない」道に、曲がれる角をひとつ与える。
足が落ちるのと同時に、彼は剣を掲げた。
刃先は誰か一人の影ではなく、見えない矢道そのものに向けられている。
「折影三式――一の式、停形。」
言葉とともに、剣先が空中でぴたりと止まる。
その刹那、すべての弓を引き絞っている動きが、一息分だけ一斉に固まった。
回廊の中に、ごく小さな「カチッ」という音が走る――
骨ではない。「姿勢」という形が、強制的に凍り付いた音だ。
背後の影の中で、高校の弓道服を着た少女の目に、初めて戸惑いの色が浮かぶ。
「私……何やってるんだっけ。」
彼女は呟いた。
次の瞬間には、残形の慣性が彼女をもとの位置へと押し戻す。
「もう一度!」
彼女はまた叫ぶ。
龍脈の下の気が、どんと沈む。
その重みで、劉立澄の足もとに描いた折れ線が、ぐっと真っ直ぐに引っ張られた。
彼は、静かに息を吐いた。
「折影三式、二の式――照形。」
左手の指先で印を結び、ひとつまみの光を剣先から飛ばす。
その光は回廊の柱に落ち、古い鏡の表面に水滴が一粒落ちたかのように、そこへ吸い込まれた。
三十三間堂の奥に据えられた供物鏡が、夜の中でそっと揺れる。
本来は人の影を映し、「誰しも仏の姿になりうる」と示すための鏡だ。
だが今、その面には、同じ姿勢ばかりが連なって映っている――
同じように弓を引き、同じように歯を食いしばり、同じように放つことを恐れている「私」たち。
背後の影のうち、一人二人が、その鏡に映る自分の姿を目にした。
「……これも私?」
スーツ姿の女の影が、小さく漏らす。
手の中の弓弦が、びくりと震えた。
「もう弓道なんてやってないはずなのに。」
本来なら、今気にしていいのはKPIや四半期のレポートだけのはずだった。
けれど膝の奥、畳と足袋が当たる感触だけは、まだ忘れずに残っていた。
いったん鏡を差し出されてしまえば、「何も見えないふり」は、途端にしにくくなる。
「折影三式、三の式――散形。」
剣先が一度、くるりと回り、ほんの少し下へ傾く。
狙いは影ではない。
龍脈の裂け目そのものに沿って、斜めに線を引く。
その線は瞬時に地面にほどけ、水波のように両側へと散っていく。
ここに溜まり続けていた「何度も何度も繰り返された準備動作」は、その裂け目から少し横へとずらされた。
消えたわけではない。
それぞれが本来戻るべき持ち主のところへ、一部ずつ返されていく。
高校の制服を着た少女の影は、そっと何かに押し戻された。
彼女は、あの日の午後の射場に立っている。
木の回廊。緊張で手のひらが汗ばみ、弓懸が少し滑っている。
彼女は確かに「今日はやめておこう」と口に出した。
けれど、そのすぐあとで、弓立てのほうをちらりと振り返っていたのだ。
今になってようやく気づく。
「矢を放てなかった」のは事実。
だが、「私は永遠にここで準備だけを続けるしかない」という決めつけは、そのあと自分で上書きしたものだったのだと。
放さずに残っていた弓弦の断片が、誰かに拾い上げられ、そっと結び直される。
影はぐらりと揺らぎ、
次の瞬間、制服の姿は木の廊下の影に溶け、いくつもの観音像の足もとへと吸い込まれるようにして消えた。
風が、ひときわ冷たく感じられた。
長く押し込められていた龍気が、この瞬間を逃すまいと、前へ半寸ほど躍り出る。
「もう一度」という三文字が、龍脈の裂け目の上で何度も擦られ、見えない火花を散らしている。
その火花は炎にはならない。
代わりに、さらに細い糸となって、ここを通りがかった人間一人ひとりの身に巻きついていく。
昼間の参拝客の中には、回廊を歩くうちに急に背筋が寒くなり、「風かな」と首をすくめた者もいれば、千体の観音を眺めながら「どれか一体が、自分のやり残したことをじっと見ている気がする」と感じた者もいる。
彼らがここを去るとき、完了しなかった「動作」が小さな欠片になって、この場所に置き去りにされる。
そうやって少しずつ、今夜ここに並ぶ長い行列ができあがっていった。
「君たち。」
劉立澄は顔を上げ、一列に並んだ影たちを順に見やった。
「射ち放たれるのは、君たちじゃない。」
彼の掌の中に、一本の剣が形をとった。
澄心の剣。
刃は鈍い銀色で、余分な装飾は何もない。線だけがそこにある。
彼はあわてて踏み込んだりはせず、ゆっくりと一歩を踏み出した。
つま先は龍脈の裂け目の縁に、かかとは反対側の石の上に軽くかける。
次の一歩は、ほんのわずかに斜め。
三歩目は横向きに出し、二枚の石畳の継ぎ目の真ん中を踏む。
細い裂け目の上に、極小さな「折れ」を描くようにして歩く。
「折罡廊歩。」
これは、「一つの線をひたすら進んでも出口にたどり着けない」ときのための歩き方だ。
線そのものを断ち切るのではなく、その上に小さく折り目をつけて、「真っ直ぐしかない」道に、曲がれる角をひとつ与える。
足が落ちるのと同時に、彼は剣を掲げた。
刃先は誰か一人の影ではなく、見えない矢道そのものに向けられている。
「折影三式――一の式、停形。」
言葉とともに、剣先が空中でぴたりと止まる。
その刹那、すべての弓を引き絞っている動きが、一息分だけ一斉に固まった。
回廊の中に、ごく小さな「カチッ」という音が走る――
骨ではない。「姿勢」という形が、強制的に凍り付いた音だ。
背後の影の中で、高校の弓道服を着た少女の目に、初めて戸惑いの色が浮かぶ。
「私……何やってるんだっけ。」
彼女は呟いた。
次の瞬間には、残形の慣性が彼女をもとの位置へと押し戻す。
「もう一度!」
彼女はまた叫ぶ。
龍脈の下の気が、どんと沈む。
その重みで、劉立澄の足もとに描いた折れ線が、ぐっと真っ直ぐに引っ張られた。
彼は、静かに息を吐いた。
「折影三式、二の式――照形。」
左手の指先で印を結び、ひとつまみの光を剣先から飛ばす。
その光は回廊の柱に落ち、古い鏡の表面に水滴が一粒落ちたかのように、そこへ吸い込まれた。
三十三間堂の奥に据えられた供物鏡が、夜の中でそっと揺れる。
本来は人の影を映し、「誰しも仏の姿になりうる」と示すための鏡だ。
だが今、その面には、同じ姿勢ばかりが連なって映っている――
同じように弓を引き、同じように歯を食いしばり、同じように放つことを恐れている「私」たち。
背後の影のうち、一人二人が、その鏡に映る自分の姿を目にした。
「……これも私?」
スーツ姿の女の影が、小さく漏らす。
手の中の弓弦が、びくりと震えた。
「もう弓道なんてやってないはずなのに。」
本来なら、今気にしていいのはKPIや四半期のレポートだけのはずだった。
けれど膝の奥、畳と足袋が当たる感触だけは、まだ忘れずに残っていた。
いったん鏡を差し出されてしまえば、「何も見えないふり」は、途端にしにくくなる。
「折影三式、三の式――散形。」
剣先が一度、くるりと回り、ほんの少し下へ傾く。
狙いは影ではない。
龍脈の裂け目そのものに沿って、斜めに線を引く。
その線は瞬時に地面にほどけ、水波のように両側へと散っていく。
ここに溜まり続けていた「何度も何度も繰り返された準備動作」は、その裂け目から少し横へとずらされた。
消えたわけではない。
それぞれが本来戻るべき持ち主のところへ、一部ずつ返されていく。
高校の制服を着た少女の影は、そっと何かに押し戻された。
彼女は、あの日の午後の射場に立っている。
木の回廊。緊張で手のひらが汗ばみ、弓懸が少し滑っている。
彼女は確かに「今日はやめておこう」と口に出した。
けれど、そのすぐあとで、弓立てのほうをちらりと振り返っていたのだ。
今になってようやく気づく。
「矢を放てなかった」のは事実。
だが、「私は永遠にここで準備だけを続けるしかない」という決めつけは、そのあと自分で上書きしたものだったのだと。
放さずに残っていた弓弦の断片が、誰かに拾い上げられ、そっと結び直される。
影はぐらりと揺らぎ、
次の瞬間、制服の姿は木の廊下の影に溶け、いくつもの観音像の足もとへと吸い込まれるようにして消えた。
風が、ひときわ冷たく感じられた。
長く押し込められていた龍気が、この瞬間を逃すまいと、前へ半寸ほど躍り出る。
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