京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

文字の大きさ
64 / 109

第十一話・三十三間堂・終わらない稽古の自分(四)

しおりを挟む
「勝手に彼女たちの姿勢をいじるのね。」

本物の弓を握っている女が、ようやく視線を彼に戻した。

その目には、かすかな苛立ちが浮かんでいる。

――自分の組んだ教案を、勝手に書き換えられた教師のような顔だ。

彼女はつま先で床を軽く蹴り、回廊の木目に沿ってすべるように移動し、別の柱のそばへと立ち位置を変えた。

彼女が動くと、その背後の影たちもそろって一団ごと滑る。

弓を構える。

今度、弦は彼女ひとりの指先だけにあるのではなかった。

背後の残形たちから無数の細い線が引き出され、一本の太い力へと束ねられている。

「あなたにも、避けきれない一本があるでしょう。」

女は冷たく言った。

彼女の手の中の弓は、今やほとんど生き物のようだった。

龍脈の裂け目から無数の細い線がのびてきて、彼女の腕や肩、背中に絡みつき、「教本通りの弓道姿勢」に彼女を固定する。

その姿は、端正であることにおいては、ほとんど荘厳ですらある。

同時に、近づけば切り傷を負いそうなほど、危うい。

彼女が一歩、前へ踏み出す。

足が落ちた瞬間、龍脈の裂け目がかすかに鳴った――長い木材が、さらにもう一段強く踏みしめられたような音だ。

矢が続けざまに放たれる。

どの一本も、彼自身の急所ではなく、彼の足もとの「折れ線」を狙って飛んでくる。

この世界にあるはずの「別の選択肢」という折れ目を、片っ端から真っ直ぐに撃ち抜こうとする矢。

彼は逃げ続けるわけにはいかない。

彼が下がれば下がるほど、その折れ線は元通りの一本線に戻されてしまう。

息を吸い込む。

彼は剣先をふっと下ろし、二枚の石畳の継ぎ目に差し込んだ。

「拈罡一線――骨を借りて脈を引く。」

そう小さく唱える。

その瞬間、剣は単なる金属ではなくなった。

一時的な「鎮め」として働き、龍脈の裂け目から噴き上がる苛立ちの力を一拍ぶんせき止める。

その隙に、彼は右足を前へ、左足をわずかに斜めへと運び、身体を斜に構えた。

戦場での正面の斬り結びではない。

何かの祭礼で、中心から少し外れた位置を回り込む者の歩き方――

前にも後ろにも出ない。ただ「本来、人が立つはずのなかった一マス」に身を置く姿勢。

「廊罡・挪位歩。」

これは、「誰かにあらかじめ設計された立ち位置の外側」に立つための歩法だ。

彼女と「どちらが一番正しく立っているか」を争わず、その争いごと全体から半歩ずれる。

そうして初めて、彼女の矢は認めざるをえない。

自分の設計図にない座標にも、人が立ちうるのだと。

女は眉を寄せた。

「あなたみたいな人が、一番やっかい。」

歯を噛みしめるように言うと、彼女はふいに弓を低く構え、弓身を横に倒した。

次の瞬間、それを木杖のように振り抜き、彼の膝を一気にはね上げようとする。

速い。

長年繰り返してきた身体の記憶が、その一撃に凝縮されている。

普通の人間なら、そのまま派手に吹っ飛ばされるだろう。

だが彼は、その一瞬、逆に一歩前へ踏み込んだ。

ほとんど弓身に自分の身体を沿わせるようにして、滑り抜ける。

背後で弓の木が風を裂く。紙一重だ。

空いている左手の二本指が、弓弦が本来あるはずの空間を軽くつついた。

「断弦指。」

ごく小さな力だが、残形が力を借りている一点だけを正確に外す。

背後の影たちの弓弦が、何本か一度にゆるんだ。

「完璧な姿勢」を支えていた緊張が数か所、ぷつりと切れる。

何人かの構えが、とたんに崩れた。

肩は教本の図よりわずかに低くなり、背筋もこれまでほど反っていない。中には、足もとの位置が教科書の定位置からほんの少し外れてしまう者もいた。

「え?」

スーツの女の影が、自分の足もとを見つめる。

「……こうやって立ってもいいんだ?」

その言葉がこぼれた瞬間、残形の力にひとつ、綻びができた。

弓の上に張りつめていた、「すべての結果の責任を一人で背負う」力が、わずかに削がれていく。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あやかし家族 〜五人の兄と愛され末妹〜

南 鈴紀
キャラ文芸
 妖狩りにより両親を奪われ、囚われの身となった半妖の少女・鈴音は浄化の狐火を利用するだけの道具のように扱われていた。呪いにより成長は止まり、容姿も思考も幼いまま、感情が消え失せてもなおただ生かされるままに生きていた。  しかし妖保護部隊本部第一部隊との出会いにより、鈴音の止まっていた時間が動き出す。  掴みどころはないが頼れる氏神・雅仁、兄には厳しいが弟妹には優しい狼の妖・千里、人間嫌いだが人当たりの良い振りが得意な人間・遥杜、可愛いもの好きで元気いっぱいの猫又・鴇羽、大人しいが思いやりに溢れる猫又・瑠璃。  五人の兄と過ごす時間の中で、無いものだらけだった鈴音にもやがて大切なものが増えていく。  妖×家族の心温まる和風ファンタジー。

後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました

由香
キャラ文芸
後宮で怪異を祓う下級巫女・紗月は、ある日突然、「鬼」と噂される将軍・玄耀の妻になれと命じられる。 それは愛のない政略結婚―― 人ならざる力を持つ将軍を、巫女の力で制御するための契約だった。 後宮の思惑に翻弄されながらも、二人は「契約」ではなく「選んだ縁」として、共に生きる道を選ぶ――。

【完結】非モテアラサーですが、あやかしには溺愛されるようです

  *  ゆるゆ
キャラ文芸
疲れ果てた非モテアラサーが、あやかしたちに癒されて、甘やかされて、溺愛されるお話です。 名前が  *   ゆるゆ  になりましたー! 中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

あまりさんののっぴきならない事情

菱沼あゆ
キャラ文芸
 強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。  充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。 「何故、こんなところに居る? 南条あまり」 「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」 「それ、俺だろ」  そーですね……。  カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。

後宮の偽花妃 国を追われた巫女見習いは宦官になる

gari@七柚カリン
キャラ文芸
旧題:国を追われた巫女見習いは、隣国の後宮で二重に花開く ☆4月上旬に書籍発売です。たくさんの応援をありがとうございました!☆ 植物を慈しむ巫女見習いの凛月には、二つの秘密がある。それは、『植物の心がわかること』『見目が変化すること』。  そんな凛月は、次期巫女を侮辱した罪を着せられ国外追放されてしまう。  心機一転、紹介状を手に向かったのは隣国の都。そこで偶然知り合ったのは、高官の峰風だった。  峰風の取次ぎで紹介先の人物との対面を果たすが、提案されたのは後宮内での二つの仕事。ある時は引きこもり後宮妃(欣怡)として巫女の務めを果たし、またある時は、少年宦官(子墨)として庭園管理の仕事をする、忙しくも楽しい二重生活が始まった。  仕事中に秘密の能力を活かし活躍したことで、子墨は女嫌いの峰風の助手に抜擢される。女であること・巫女であることを隠しつつ助手の仕事に邁進するが、これがきっかけとなり、宮廷内の様々な騒動に巻き込まれていく。

火輪の花嫁 ~男装姫は孤高の王の夢をみる~

秦朱音|はたあかね
キャラ文芸
王を中心に五家が支配する、綺羅ノ国。 五家に覡(かんなぎ)として仕える十六夜家の娘、久遠(くおん)は、幼い頃から男として育てられてきた。 都では陽を司る日紫喜家の王が崩御し、素行の悪さで有名な新王・燦(さん)が即位する。燦の后選びに戦々恐々とする五家だったが、燦は十六夜家の才である「夢見」を聞いて后を選ぶと言い始めた。そして、その夢見を行う覡に、燦は男装した久遠を指名する。 見習いの僕がこの国の后を選ぶなんて、荷が重すぎる――! 久遠の苦悩を知ってか知らずか、燦は強引に久遠を寝室に呼んで夢見を命じる。しかし、初めて出会ったはずの久遠と燦の夢には、とある共通点があって――? 謎に包まれた過去を持ち身分を隠す男装姫と、孤独な王の恋と因縁を描く、和風王宮ファンタジー。 ※カクヨムにも先行で投稿しています

烏の王と宵の花嫁

水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。 唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。 その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。 ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。 死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。 ※初出2024年7月

処理中です...