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第十一話・三十三間堂・終わらない稽古の自分(五)
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回廊を吹き抜ける風が、一瞬だけ滑らかになった。
軒先の風鈴の音が、先ほどよりもはっきりと聞こえる。
それでも、女は簡単には手を緩めなかった。
彼女は彼を見据え、その目の奥に溜め込んだ疲れを、今度は隠さなかった。
「もし、私がここから動くのをやめたら。」
彼女は言う。
「この人たちが、しくじったらどうするの。
子どもがいい学校に入れなかったら、どうするの。
同僚がミスして、プロジェクトが失敗して、家族がっかりしたら――」
「どうするの」を一つ口にするたびに、背後の影たちが顔を上げる。
さっき薄れかけていた姿勢が、また彼女へと寄り集まってくる。
残形の本質は、単純な悪意ではない。
多くの場合、それは歪んだ形をした愛情だ。
「だから、あなたはここに立って、みんなの代わりに一生弓を引き続ける?」
劉立澄は静かに尋ねた。
「誰の目にも見えなくなるまで。」
彼女の唇が震えた。
言葉にはならない。
彼は剣をもう一度、石畳の継ぎ目に差し込んだ。
今度は線を折るのではなく、裂け目に沿って、少しずつ前へ押し進めていく。
「下の龍脈が、ずっと身動き取れずに痺れてる。」
彼は彼女を見つめる。
「あなたがここに立ち続けるせいで、あなた自身だけじゃなく、この回廊ぜんぶが詰まってしまってる。」
彼がそう言うあいだにも、裂け目の奥から、もっと遠いところの響きが返ってきた。
言葉ではない。
もっと古い、「伸びたい」という意志に近いもの――
水のように前へ進みたい。ただ、それだけの感覚だ。
無限の行列のようにいつまでもそこで足踏みさせられるのは、本来の性質ではない。
彼女もそれを感じ取ったのだろう。
腕にこもった力と、足もとから伝わってくる震えが、噛み合わなくなっていく。
「一本、射ってもいい。」
彼は言う。
「本当の意味での一本を。」
「もし、その矢が外れたら?」
彼女が問う。
「外れたって言えばいい。」
彼は嘘をつかなかった。
「ここで、一生涯『絶対に失敗しない姿勢』の演技を続けるんじゃなくて。」
彼女は長いこと、彼の顔を見つめていた。
油の灯芯が短くなり、炎が少し低くなっても、その沈黙は続いた。
「……もう、射ち方を忘れた。」
やっとのことで、彼女はつぶやく。
「型を取ることしか、できなくなった。」
その言葉は、自分自身の真実を暴くものだった。
――彼女が守り抜いてきた「完璧」は、もうだいぶ前から、「完璧に見える形だけ」にすり替わっていたのだ。
あとは術の出番だった。
劉立澄は、空いていたほうの手をゆっくりと上げた。
袖の中を指先で探り、薄い木札を一枚取り出す。
木札には、ごく細い刻み目のような符が彫られていて、木目に沿うように走り、最後は一点に収束している。
「一木換形――弓を残し、矢を返す。」
ほとんど口の動きだけで、その句を紡ぐ。
木札は軽く投げ上げられ、彼女とその背後の残形たちのあいだで、ふっと宙に止まった。
次の瞬間、影たちから一部が吸い込まれた。
丸ごとではない。
彼女たちの中から、「姿勢を維持する」ためだけに使われていた部分が、いったん木札に預けられる。
彼女の手の中には、「外に飛ばしたい」という、拙くて不器用な衝動だけが残った。
弓が途端に重くなる。
肩がわずかに落ち、そこで初めて、何年分もの荷重を自分が受け止めていたことを実感する。
「一度だけ、自分のために射ってみればいい。」
彼は言った。
「……誰も、満足してくれない。」
彼女はかすかに漏らす。
「それでいい。」
彼は静かに答えた。
「最初から、この一本は、誰のための矢でもない。」
その一言は、風のように軽く、だが確かに彼女を影の列から一歩分引き抜いた。
回廊の向こうから風が吹き抜け、額の短い髪を揺らす。
彼女は弓を握り直し、ようやく深く息を吸い込んだ。
腕は震えていた。
構えは教本どおりとは言いがたく、足も教官に矯正されそうな位置から少しずれている。
――それでも、今度は本当に「射ちたい」と思っていた。
彼女は弦を放った。
誰も彼女の立ち姿を採点しない。
正しいかどうか口にする者もいない。
あるのはただひとつ。
龍脈の裂け目が、その矢に導かれて、前へとわずかに一歩進んだという事実だけ。
見えない矢は、回廊を駆け抜ける。
観音像たちの影を貫き、最後は夜の奥へと消えていった。
背後の影の列から、何人かがほっと息をついた。
部屋着姿の女の影は、自分の手に握りしめているスマートフォンを見下ろし、急に少しだけ眠気を覚える。今夜はそろそろ布団に入ろうか――そう思う。
スーツの女の影は、自分のハイヒールを見下ろし、なぜか明日はもう少し足を締め付けない靴を履きたくなった。
ほんの小さな「変化」だが、その中で、いくつかの残形はそれぞれの肉体へと戻っていく。
地の底で、龍脈が静かに伸びをした。
長廊は夜の中で、ほんの半寸だけ長くなった――建物が伸びたのではない。
この場と、京都全体の気の流れとの繋がりが、少しだけ遠くまで届いたのだ。
軒先の風鈴の音が、先ほどよりもはっきりと聞こえる。
それでも、女は簡単には手を緩めなかった。
彼女は彼を見据え、その目の奥に溜め込んだ疲れを、今度は隠さなかった。
「もし、私がここから動くのをやめたら。」
彼女は言う。
「この人たちが、しくじったらどうするの。
子どもがいい学校に入れなかったら、どうするの。
同僚がミスして、プロジェクトが失敗して、家族がっかりしたら――」
「どうするの」を一つ口にするたびに、背後の影たちが顔を上げる。
さっき薄れかけていた姿勢が、また彼女へと寄り集まってくる。
残形の本質は、単純な悪意ではない。
多くの場合、それは歪んだ形をした愛情だ。
「だから、あなたはここに立って、みんなの代わりに一生弓を引き続ける?」
劉立澄は静かに尋ねた。
「誰の目にも見えなくなるまで。」
彼女の唇が震えた。
言葉にはならない。
彼は剣をもう一度、石畳の継ぎ目に差し込んだ。
今度は線を折るのではなく、裂け目に沿って、少しずつ前へ押し進めていく。
「下の龍脈が、ずっと身動き取れずに痺れてる。」
彼は彼女を見つめる。
「あなたがここに立ち続けるせいで、あなた自身だけじゃなく、この回廊ぜんぶが詰まってしまってる。」
彼がそう言うあいだにも、裂け目の奥から、もっと遠いところの響きが返ってきた。
言葉ではない。
もっと古い、「伸びたい」という意志に近いもの――
水のように前へ進みたい。ただ、それだけの感覚だ。
無限の行列のようにいつまでもそこで足踏みさせられるのは、本来の性質ではない。
彼女もそれを感じ取ったのだろう。
腕にこもった力と、足もとから伝わってくる震えが、噛み合わなくなっていく。
「一本、射ってもいい。」
彼は言う。
「本当の意味での一本を。」
「もし、その矢が外れたら?」
彼女が問う。
「外れたって言えばいい。」
彼は嘘をつかなかった。
「ここで、一生涯『絶対に失敗しない姿勢』の演技を続けるんじゃなくて。」
彼女は長いこと、彼の顔を見つめていた。
油の灯芯が短くなり、炎が少し低くなっても、その沈黙は続いた。
「……もう、射ち方を忘れた。」
やっとのことで、彼女はつぶやく。
「型を取ることしか、できなくなった。」
その言葉は、自分自身の真実を暴くものだった。
――彼女が守り抜いてきた「完璧」は、もうだいぶ前から、「完璧に見える形だけ」にすり替わっていたのだ。
あとは術の出番だった。
劉立澄は、空いていたほうの手をゆっくりと上げた。
袖の中を指先で探り、薄い木札を一枚取り出す。
木札には、ごく細い刻み目のような符が彫られていて、木目に沿うように走り、最後は一点に収束している。
「一木換形――弓を残し、矢を返す。」
ほとんど口の動きだけで、その句を紡ぐ。
木札は軽く投げ上げられ、彼女とその背後の残形たちのあいだで、ふっと宙に止まった。
次の瞬間、影たちから一部が吸い込まれた。
丸ごとではない。
彼女たちの中から、「姿勢を維持する」ためだけに使われていた部分が、いったん木札に預けられる。
彼女の手の中には、「外に飛ばしたい」という、拙くて不器用な衝動だけが残った。
弓が途端に重くなる。
肩がわずかに落ち、そこで初めて、何年分もの荷重を自分が受け止めていたことを実感する。
「一度だけ、自分のために射ってみればいい。」
彼は言った。
「……誰も、満足してくれない。」
彼女はかすかに漏らす。
「それでいい。」
彼は静かに答えた。
「最初から、この一本は、誰のための矢でもない。」
その一言は、風のように軽く、だが確かに彼女を影の列から一歩分引き抜いた。
回廊の向こうから風が吹き抜け、額の短い髪を揺らす。
彼女は弓を握り直し、ようやく深く息を吸い込んだ。
腕は震えていた。
構えは教本どおりとは言いがたく、足も教官に矯正されそうな位置から少しずれている。
――それでも、今度は本当に「射ちたい」と思っていた。
彼女は弦を放った。
誰も彼女の立ち姿を採点しない。
正しいかどうか口にする者もいない。
あるのはただひとつ。
龍脈の裂け目が、その矢に導かれて、前へとわずかに一歩進んだという事実だけ。
見えない矢は、回廊を駆け抜ける。
観音像たちの影を貫き、最後は夜の奥へと消えていった。
背後の影の列から、何人かがほっと息をついた。
部屋着姿の女の影は、自分の手に握りしめているスマートフォンを見下ろし、急に少しだけ眠気を覚える。今夜はそろそろ布団に入ろうか――そう思う。
スーツの女の影は、自分のハイヒールを見下ろし、なぜか明日はもう少し足を締め付けない靴を履きたくなった。
ほんの小さな「変化」だが、その中で、いくつかの残形はそれぞれの肉体へと戻っていく。
地の底で、龍脈が静かに伸びをした。
長廊は夜の中で、ほんの半寸だけ長くなった――建物が伸びたのではない。
この場と、京都全体の気の流れとの繋がりが、少しだけ遠くまで届いたのだ。
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