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第十一話・三十三間堂・終わらない稽古の自分(六)
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雨はとうとう上がった。
雲は風に押されてゆっくりと脇へ寄せられ、街の灯りに白く照らされた夜空の一部がのぞき始める。
彼女は柱に背を預け、長く息を吐き出した。
手に下げた弓は、ただの道具へと戻っていた。
もう彼女を縛る杭ではない。
「……明日も、会社には行かないと。」
しばらくたってから、彼女はぽつりと言った。
「うん。」
「子どもの弁当も作らなきゃ。」
「うん。」
彼女は顔を上げ、彼を一度見てから、長廊の奥へと視線を流した。
「もし、またここに戻って立ちたくなったら?」
そう尋ねる。
「そのときは、自分で決めればいい。」
彼は答えた。
「ただひとつだけ覚えておけばいい。あなたに『一生ここに立ってろ』なんて頼んだ人は、どこにもいない。」
彼女は、今度ははっきりと笑った。
ごく小さな、しかし顔全体を横切っていく笑みだった。
深く一礼すると、彼女は回廊の出口へ向かって歩いていった。
彼女が去ったあとも、龍脈の裂け目のそばには、細かな影が少し残っている。
それは彼女が長年かけて身につけた「姿勢」だけで、まだ完全には消えたがらない。
劉立澄は手を伸ばし、宙に浮かんでいる木札をそっと呼び戻した。
札の上の符は、さっきよりいくらか色を失っている。
預かっていた残形の一部は、それぞれの日常の中で居場所を見つけ、札を離れていったのだ。残ったのは、ごく薄い痕跡だけ。
彼はそれを袖にしまう。
ふと目をやると、回廊の隅に、ごく小さな金属片が石の隙間に埋め込まれているのが見えた。
金属片には、機械的な刻み目がいくつも並んでいる。
自然な龍脈の線とは、どこまでも噛み合わない無機質な刻度だ。
誰かの組織が残していった「測定針」。
――やはり、ここを龍脈のねじれを使った実験場にしようとしていたか。
指先を軽く弾くと、澄心剣の光が一閃し、金属片は音もなく石の隙間から外れて、彼の掌に落ちた。
彼はそれを一瞥し、木札と一緒にしまい込む。
今夜の帳簿に、またひとつ書き込みが増えた。
長廊を後にするとき、風が彼の脇をやわらかく撫でていった。
三十三間堂の、あまりにも長い屋根が、夜の中でかすかに震える――
ようやく、少しだけ姿勢を変えて、楽な寝返りを打てたかのように。
小さな料理屋へ戻ると、行灯はまだ灯っていた。
中は出かける前よりも温かい。
炭火が空気をほどよく焦がし、わずかにカラメルのような甘い匂いが混じっている。
カウンターには、すでに「少し遅い時間」のための料理が並べられていた。
小さな鉄鍋の中では湯豆腐が揺れている。
厚めに切った豆腐が昆布出汁の中で、ふるふると震えながら温まっている。表面には細かな泡が立ち、横には刻み葱とおろし生姜、少しの柚子胡椒が小皿に盛られ、好みでタレに加えられるようになっている。
細長い皿には、皮はぱりっと、身はしっとりと焼き上げた鴨の胸肉が数切れ。
皮目には均一なきつね色の焼き目、切り口にはうっすらとした桜色が残る。横には焼き葱が添えられ、七味が軽く振られていた。
もう一椀は煮物――
京都のおばんざい。
大根と小芋、薄切りの油揚げが、淡い色ながらしっかりと味のしみた出汁で柔らかく煮含められている。
汁の色は浅く、雨上がりの石畳に溜まった水面のようだった。
隅の木盆には、蕨餅の器が一つ。
半透明の蕨餅の角が黒蜜をまとい、きな粉がふんわりと覆いかぶさる。抹茶の粉は中心に少しだけ、雲の切れ端のように乗せてある。
「おかえり。」
綾女はちらりと彼を見て言う。
「まだ立っていられる?」
「どうにか。」
彼は腰を下ろし、箸を手に取った。
湯豆腐を箸でそっとすくい上げると、豆腐はかすかに震えた。
葱と生姜を添えたタレにひたし、口へ運ぶ――
まず、熱が、雨の夜から戻ってきた冷えを喉から腹へと押し下げていく。
続いて昆布の旨みと豆腐の柔らかさが広がる。ほとんど負担のない味なのに、身体の内側がしっかりと満たされていく。
鴨肉の脂は舌の上で静かに溶け、葱の甘みと絡まり、そこへ七味の刺激がひとさじ刺さると、全体の輪郭がきゅっと締まる。
煮物の大根は箸先が触れただけで崩れそうで、小芋はほろりとほどけるが決してぐずぐずにはならない。油揚げは出汁をたっぷり吸い込んでいて、一口噛めば、「雨上がりの木の床」のような温かさがじんわりと染み出してくる。
「こっちのほうは?」
綾女が、ぬる燗を小さな杯に注ぐ。
「一本の線の上に、立ち尽くしている人がいた。」
彼は杯をとり、軽く縁を指で叩く。
「その人に、自分の矢を一本だけ射ってもらった。」
「ふうん。」
綾女は詳しくは聞かず、煮物を箸で軽く寄せただけだった。
「あの長廊の下のアレも、少しほぐれたわ。」
劉立澄は内ポケットから、一冊のノートを取り出した。
すでに数ページ、びっしりと書き込まれている帳面だ。
新しいページを開き、ペン先を落とす。
「十一件目:三十三間堂・終わらない稽古の自分。」
その行の下に、少し迷ってから、短い注釈を添えた。
「一線を折り、一息を返す。」
インクが灯りの下でゆっくりと乾いていく。
彼はペンをしまい、蕨餅をひとつ口に運んだ。
柔らかな蕨餅と黒蜜の甘さが歯の間で溶け、きな粉の香ばしさがそれを包む。最後に、抹茶のほろ苦さが舌の奥に少しだけ残った。
外の夜は、さらに一段深くなっている。
見えない龍脈は地中で静かに伸び続け、三十三間堂の長廊の縁から離れ、また別の場所へと歩を進めていく。
別の交差点、別の裂け目、別の残形が、どこかで待っている。
この帳簿もまた、そうして一ページずつ、ゆっくりとめくられていくのだ。
雲は風に押されてゆっくりと脇へ寄せられ、街の灯りに白く照らされた夜空の一部がのぞき始める。
彼女は柱に背を預け、長く息を吐き出した。
手に下げた弓は、ただの道具へと戻っていた。
もう彼女を縛る杭ではない。
「……明日も、会社には行かないと。」
しばらくたってから、彼女はぽつりと言った。
「うん。」
「子どもの弁当も作らなきゃ。」
「うん。」
彼女は顔を上げ、彼を一度見てから、長廊の奥へと視線を流した。
「もし、またここに戻って立ちたくなったら?」
そう尋ねる。
「そのときは、自分で決めればいい。」
彼は答えた。
「ただひとつだけ覚えておけばいい。あなたに『一生ここに立ってろ』なんて頼んだ人は、どこにもいない。」
彼女は、今度ははっきりと笑った。
ごく小さな、しかし顔全体を横切っていく笑みだった。
深く一礼すると、彼女は回廊の出口へ向かって歩いていった。
彼女が去ったあとも、龍脈の裂け目のそばには、細かな影が少し残っている。
それは彼女が長年かけて身につけた「姿勢」だけで、まだ完全には消えたがらない。
劉立澄は手を伸ばし、宙に浮かんでいる木札をそっと呼び戻した。
札の上の符は、さっきよりいくらか色を失っている。
預かっていた残形の一部は、それぞれの日常の中で居場所を見つけ、札を離れていったのだ。残ったのは、ごく薄い痕跡だけ。
彼はそれを袖にしまう。
ふと目をやると、回廊の隅に、ごく小さな金属片が石の隙間に埋め込まれているのが見えた。
金属片には、機械的な刻み目がいくつも並んでいる。
自然な龍脈の線とは、どこまでも噛み合わない無機質な刻度だ。
誰かの組織が残していった「測定針」。
――やはり、ここを龍脈のねじれを使った実験場にしようとしていたか。
指先を軽く弾くと、澄心剣の光が一閃し、金属片は音もなく石の隙間から外れて、彼の掌に落ちた。
彼はそれを一瞥し、木札と一緒にしまい込む。
今夜の帳簿に、またひとつ書き込みが増えた。
長廊を後にするとき、風が彼の脇をやわらかく撫でていった。
三十三間堂の、あまりにも長い屋根が、夜の中でかすかに震える――
ようやく、少しだけ姿勢を変えて、楽な寝返りを打てたかのように。
小さな料理屋へ戻ると、行灯はまだ灯っていた。
中は出かける前よりも温かい。
炭火が空気をほどよく焦がし、わずかにカラメルのような甘い匂いが混じっている。
カウンターには、すでに「少し遅い時間」のための料理が並べられていた。
小さな鉄鍋の中では湯豆腐が揺れている。
厚めに切った豆腐が昆布出汁の中で、ふるふると震えながら温まっている。表面には細かな泡が立ち、横には刻み葱とおろし生姜、少しの柚子胡椒が小皿に盛られ、好みでタレに加えられるようになっている。
細長い皿には、皮はぱりっと、身はしっとりと焼き上げた鴨の胸肉が数切れ。
皮目には均一なきつね色の焼き目、切り口にはうっすらとした桜色が残る。横には焼き葱が添えられ、七味が軽く振られていた。
もう一椀は煮物――
京都のおばんざい。
大根と小芋、薄切りの油揚げが、淡い色ながらしっかりと味のしみた出汁で柔らかく煮含められている。
汁の色は浅く、雨上がりの石畳に溜まった水面のようだった。
隅の木盆には、蕨餅の器が一つ。
半透明の蕨餅の角が黒蜜をまとい、きな粉がふんわりと覆いかぶさる。抹茶の粉は中心に少しだけ、雲の切れ端のように乗せてある。
「おかえり。」
綾女はちらりと彼を見て言う。
「まだ立っていられる?」
「どうにか。」
彼は腰を下ろし、箸を手に取った。
湯豆腐を箸でそっとすくい上げると、豆腐はかすかに震えた。
葱と生姜を添えたタレにひたし、口へ運ぶ――
まず、熱が、雨の夜から戻ってきた冷えを喉から腹へと押し下げていく。
続いて昆布の旨みと豆腐の柔らかさが広がる。ほとんど負担のない味なのに、身体の内側がしっかりと満たされていく。
鴨肉の脂は舌の上で静かに溶け、葱の甘みと絡まり、そこへ七味の刺激がひとさじ刺さると、全体の輪郭がきゅっと締まる。
煮物の大根は箸先が触れただけで崩れそうで、小芋はほろりとほどけるが決してぐずぐずにはならない。油揚げは出汁をたっぷり吸い込んでいて、一口噛めば、「雨上がりの木の床」のような温かさがじんわりと染み出してくる。
「こっちのほうは?」
綾女が、ぬる燗を小さな杯に注ぐ。
「一本の線の上に、立ち尽くしている人がいた。」
彼は杯をとり、軽く縁を指で叩く。
「その人に、自分の矢を一本だけ射ってもらった。」
「ふうん。」
綾女は詳しくは聞かず、煮物を箸で軽く寄せただけだった。
「あの長廊の下のアレも、少しほぐれたわ。」
劉立澄は内ポケットから、一冊のノートを取り出した。
すでに数ページ、びっしりと書き込まれている帳面だ。
新しいページを開き、ペン先を落とす。
「十一件目:三十三間堂・終わらない稽古の自分。」
その行の下に、少し迷ってから、短い注釈を添えた。
「一線を折り、一息を返す。」
インクが灯りの下でゆっくりと乾いていく。
彼はペンをしまい、蕨餅をひとつ口に運んだ。
柔らかな蕨餅と黒蜜の甘さが歯の間で溶け、きな粉の香ばしさがそれを包む。最後に、抹茶のほろ苦さが舌の奥に少しだけ残った。
外の夜は、さらに一段深くなっている。
見えない龍脈は地中で静かに伸び続け、三十三間堂の長廊の縁から離れ、また別の場所へと歩を進めていく。
別の交差点、別の裂け目、別の残形が、どこかで待っている。
この帳簿もまた、そうして一ページずつ、ゆっくりとめくられていくのだ。
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