京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

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第十二話・哲学の道・引用される人生の声(一)

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 細かな雨は、誰かが薄めた墨を空からこぼしたように、静かに東山の夜へ降りていた。

町家の並ぶ坂道を抜けきるころには、左右の店はほとんど店じまいを終えている。木格子の向こうの明かりは七割方消え、ところどころ紙灯籠だけが、雨の中でやわらかい光をにじませていた。

目立たない角をひとつ曲がると、低い軒下に小さな丸灯籠がひとつ下がっている。

白い灯籠の腹には、簡潔な三文字。

「綾女料理」

住所も営業時間も書かれていない。戸口脇の木札に、細い字でたった一行。

「本日 哲学の道担当」

劉立澄は傘をたたみ、石畳にそっと穂先を打ちつけて水滴を払うと、指の関節で戸枠を二度、軽く叩いた。

「入ってきて」

戸の向こうから返ってきた声は、いつものように気だるげで、よく通る。

木戸が横に滑り、筋のような暖かな光が夜へこぼれ出た。

店は広くないが、よく整えられた静けさがある。

壁際に小さな卓が四つ、半開きの厨房を囲むようにL字のカウンター。河原町の店や鴨川の店と比べると、ここには少し本の匂いが混じっていた。隅の棚には読み古された雑誌とガイドブックが何冊か積まれ、窓際には小さな苔盆栽。苔の上にはまだ拭いきれていない雨粒がいくつか残り、灯りを受けて光った。

「今夜はここだけ開けてる」

綾女は濃色のエプロンをかけ、袖を肘までたくし上げ、細い竹串で鍋の中身を静かに動かしていた。

ちらりと彼に目をやり、口端をわずかに上げる。

「哲学の道のほう、喋ってる声が多すぎてね。耳がうるさくなったから、こっちで夜番」

カウンターの前には、すでに一人分の器が並んでいる。

浅い口の磁器の椀、竹箸、小さなグラスの酒杯。椀の中に最初に出てきたのは、出汁の色を映して半ば透き通った大根。その横に、厚揚げと丸くまとめた鶏団子――京風のおでんだ。

黄金色に近い薄い出汁。表面には油がほんのり輪を作っている。大根の切り口はなめらかで、箸を入れれば抵抗もなく割れ、芯まで火が通ってほの白く光っている。

「まずは温めて」

綾女は小さな徳利を彼の前に置き、横から細長い木箱を取り出した。

箱の中には鯖寿司が六切れ、整然と並んでいる。淡く酢締めされた鯖が白い酢飯の上に密着し、皮目には薄く醤油が刷かれ、ひとつひとつに細い昆布が一枚、帯のようにかかっていた。

「鯖寿司か」

彼は一切れつまみ、身の模様を確かめるように目を細める。

「京都のメンツ料理」

綾女は火を少しだけ弱めた。

「遠くから頼み事に来る時とか、誰かを送り出す時とか。たいてい一籠二籠は用意する。今日あんたが行くところで送り出すのは、自分の若い頃に言いそびれた言葉たち。まあ、一応は筋が通るでしょ」

大根を口に入れると、まず出汁の温度が、雨夜で冷えた気配を舌の根から喉の奥へと押し流していく。

それに続いて立ち上がるのは大根自身の甘み。繊維は歯の下で音もなくほどけ、昆布の香りを含んだ出汁がゆっくりと口内に戻ってくる。

鯖寿司はまったく違う表情をしていた。

脂の乗った鯖の旨味は、酢によってきれいに締められ、ほんの少しだけ海水の塩気を残す。酢飯はぬるく温かく、一粒一粒がほどよく立っている。昆布は歯の間で小さく切れ、かすかな粘りを残した。

「哲学の道で、何かあったの?」

彼は酒を一口含む。冷えた酒がやわらかく喉を滑り、米の香りが半歩遅れて浮かび上がる。

「喋りすぎ」

綾女は顔を上げ、彼を通り越して、窓の外のぼんやりした雨影に視線を投げた。

「あの水の脇を歩く人は、みんな何か考えながら歩きたがる。ここ数年はね、歩く人の考えることが、同じ本から書き抜いたみたいに似てきた」

そこで一度、言葉の表面をさらうように、鍋の灰汁を掬う仕草でふっと話を切り替える。

「今夜は龍脈のほうの声が、いつもよりうるさい。あんた、ちょっと見てきなさい。私はこっちで火を見てるから」

彼は箸を置き、立ち上がって衣の襟を整えた。

「戻ったら、生八ツ橋を残しておく」

綾女は、戸口へ向かう彼の背を目で追いながら言う。

「抹茶アイスももう凍ってる。帰りが遅くて溶けても、責任は取らないからね」

紙灯籠が頭上でわずかに揺れた。

戸の閉まる音が、店の中の暖かさと出汁の香りを、彼の背中のこちら側に留める。

外では、雨が石畳の上で極薄い光の膜になって広がっていた。
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