京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

文字の大きさ
72 / 109

第十二話・哲学の道・引用される人生の声(六)

しおりを挟む
   雨は、少しずつ弱まっていった。

哲学の道の灯りは変わらない。

水路は相変わらず、静かに流れている。

通り過ぎていく人々のほとんどは、先ほどの出来事を覚えてはいないだろう。

ただ今夜のどこかで、ふと「本当は」を伴った一文が、胸の中に浮かび上がる。

それだけの違いだ。

画板の青年は、家路の途中、自販機の前で足を止める。

長く迷った末、一番安い缶コーヒーを一本買う。

プルタブを開けるとき、彼は自分に向かって小さく呟いた。

「もう、このままは嫌だな」

その「嫌だな」という言葉は、今度はちゃんと空気の中に数秒間留まり、「でも現実が」と慌ててかぶせられる前に、一度、世界に届いた。

カップルは、交差点のところで互いに別の方向へ歩きだす。

女の子は男の横顔をちらりと見て、とうとうこう言った。

「なんか、私たち、ずっと疲れてるよね」

別れ話でも、引き留める言葉でもない。

ただの事実。

だがその事実は、どんな引用よりも重い。

白川沙耶香は、橋の端に立ったまま、長い間動かなかった。

腕に抱えた本は、雨気を吸って、少し波打っている。

彼女は背表紙を見下ろし、そこに並んだ馴染みの名前が、自分から少し遠ざかったように感じる。

「もし、これから私が口を開くとしたら……」

心の中で、言いかける。

その先がどう続くのか、彼女自身にもわからない。

――それでいい。

今夜は、そこまでで十分だ。

劉立澄は剣を鞘に収め、軽く一礼すると、それ以上、何も言わなかった。

橋を離れ、哲学の道をゆっくりと戻っていく。

水路の下を流れる龍脈は、「引用の喉」の泥をある程度振るい落とし終え、元の性質を取り戻しつつあった。

人の小さな独り言を、そっと運ぶ役目に戻っていく。

相変わらず、口にされることのない言葉も多いだろう。

けれど、少なくとも全てが「誰かの言葉」の影に消えてしまうことはなくなった。

…………

目立たない路地を回り込んで戻ってくると、綾女料理の灯籠はまだ灯っていた。

店内は先ほどよりもさらに暖かい。

小さな鍋の中で、おでんがぐつぐつと静かに泡を立てている。

大根、鶏団子、厚揚げ、昆布巻きが、行儀よく湯の中に並び、出汁の色はさっきより深くなり、時間の分だけ旨味を重ねていた。

カウンターには長皿が増えている。

そこには、生八ツ橋がいくつか整然と並んでいた。

薄い皮の中に、肉桂の香りを含んだ餡。表面にはきめ細かなきな粉がふわりとのっている。

傍らの小さなガラスの器には、抹茶アイスが盛られていた。色は鮮やかな緑。縁にはうっすら霜がついている。

「まあ、ぎりぎセーフね」

綾女は、戸を押し開けた彼を見て言った。

「アイス、まだ溶けてない」

彼は腰を下ろし、傘をわきに立てかける。

袖についた水滴が灯りを受けて一瞬光り、布の繊維に沿って落ちていく。

「哲学の道のほうは?」

彼女は大根をひとつ、彼の椀に足した。

「他人の言葉は、少し減った」

彼は答える。

「その代わり、自分の言葉が少し増えた」

口に運んだ大根は、さっきより厚みのある味がした。

よく煮込まれた昆布の香りが舌にじんわりと広がり、雨の冷たさも、さっきまで耳の奥に残っていた言葉の残響も、一緒に沈めてくれる。

鯖寿司は、もう残り一切れ。

彼はそれを軽くつまみ、生姜を少し添えて口に入れる。

鯖の脂と酢飯の酸味が歯の下で触れ合った瞬間、細く刻んだ生姜の辛さが口内の疲れを一気に洗い流した。

「新しい本の匂いがする」

綾女はじっと彼を眺める。

「紙とインクじゃないよ。読み終えたばかりのページを閉じて、中に付箋が一枚挟んである感じ」

「付箋には、『私、怖い』って書いてある」

彼は言う。

綾女は一瞬きょとんとし、それから吹き出した。

「ずいぶん、人間くさい付箋だこと」

彼女は生八ツ橋の皿を彼のほうへ押し出す。

「甘いものでも食べな。さっきまでの『もっともらしい正論』の後味を、ちょっと上書きしないと」

生八ツ橋の皮は柔らかく、歯を立てると、まず餡の甘さと肉桂の香りが広がる。

きな粉の舌触りがそれに重なり、抹茶アイスを一口含めば、ほろ苦さが舌先を叩き、その苦味を乳脂の柔らかさがそっと溶かしていく。

それは、どの本にも載っていない味の描写だった。

いまこの瞬間、舌が出した感想にすぎない。

食後、彼は内ポケットから、一冊のノートを取り出した。

すでに数ページ、びっしりと書き込まれている帳面だ。

新しいページを開き、ペン先を落とす。

「第十二件:哲学の道・引用される人生の声。」

その行の下に、少し迷ってから、短い注釈を添えた。

「他言を一線断ち、一人に一声返す」

インクが灯りの下でゆっくりと乾いていく。

彼はペンをしまい、蕨餅をひとつ口に運んだ。

柔らかな蕨餅と黒蜜の甘さが歯の間で溶け、きな粉の香ばしさがそれを包む。最後に、抹茶のほろ苦さが舌の奥に少しだけ残った。

外では、とうとう雨が上がった。

哲学の道から、夜は少しずつ灯りを集めては消していく。

残るのは水の音と、ときどき通り過ぎる足音だけ。

いくつかの言葉は帳面に記され、いくつかの言葉は当人にようやく聞き取られた。

そしてもっと多くの言葉は、これからも見えない場所で黙り続けるだろう――

だが、その沈黙のすべてが、もはや「他人の声」だけではなくなっていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あやかし家族 〜五人の兄と愛され末妹〜

南 鈴紀
キャラ文芸
 妖狩りにより両親を奪われ、囚われの身となった半妖の少女・鈴音は浄化の狐火を利用するだけの道具のように扱われていた。呪いにより成長は止まり、容姿も思考も幼いまま、感情が消え失せてもなおただ生かされるままに生きていた。  しかし妖保護部隊本部第一部隊との出会いにより、鈴音の止まっていた時間が動き出す。  掴みどころはないが頼れる氏神・雅仁、兄には厳しいが弟妹には優しい狼の妖・千里、人間嫌いだが人当たりの良い振りが得意な人間・遥杜、可愛いもの好きで元気いっぱいの猫又・鴇羽、大人しいが思いやりに溢れる猫又・瑠璃。  五人の兄と過ごす時間の中で、無いものだらけだった鈴音にもやがて大切なものが増えていく。  妖×家族の心温まる和風ファンタジー。

後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました

由香
キャラ文芸
後宮で怪異を祓う下級巫女・紗月は、ある日突然、「鬼」と噂される将軍・玄耀の妻になれと命じられる。 それは愛のない政略結婚―― 人ならざる力を持つ将軍を、巫女の力で制御するための契約だった。 後宮の思惑に翻弄されながらも、二人は「契約」ではなく「選んだ縁」として、共に生きる道を選ぶ――。

【完結】非モテアラサーですが、あやかしには溺愛されるようです

  *  ゆるゆ
キャラ文芸
疲れ果てた非モテアラサーが、あやかしたちに癒されて、甘やかされて、溺愛されるお話です。 名前が  *   ゆるゆ  になりましたー! 中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!

灯台の猫と、嘘をつく少女(キャラ文芸短編集)

倉木元貴
キャラ文芸
灯台の猫と、嘘をつく少女  海沿いの町に住む高校生・澪は、灯台に住みつく白猫の声が聞こえる。  猫は澪の“嘘”を見抜き、彼女の心の奥にある後悔を揺さぶる存在だった。  転校生の遥斗が澪の秘密に気づき、二人は白猫の正体を探り始める。 しかし灯台の取り壊しが迫る中、白猫は突然姿を消す。  取り壊し前夜、白猫は澪に「最後の嘘をついてほしい」と告げる。  澪がその嘘を口にした瞬間、白猫は静かに消え、澪は初めて“本音”で未来と向き合う。 紅葉に消える恋  秋の山里で沙耶は、不思議な青年と出会う。彼は人懐っこく優しいが、どこか秘密を抱えている。交流を重ねるうちに心を通わせる二人。しかし秋祭りの夜、月明かりの下で青年の正体が露わになる。

火輪の花嫁 ~男装姫は孤高の王の夢をみる~

秦朱音|はたあかね
キャラ文芸
王を中心に五家が支配する、綺羅ノ国。 五家に覡(かんなぎ)として仕える十六夜家の娘、久遠(くおん)は、幼い頃から男として育てられてきた。 都では陽を司る日紫喜家の王が崩御し、素行の悪さで有名な新王・燦(さん)が即位する。燦の后選びに戦々恐々とする五家だったが、燦は十六夜家の才である「夢見」を聞いて后を選ぶと言い始めた。そして、その夢見を行う覡に、燦は男装した久遠を指名する。 見習いの僕がこの国の后を選ぶなんて、荷が重すぎる――! 久遠の苦悩を知ってか知らずか、燦は強引に久遠を寝室に呼んで夢見を命じる。しかし、初めて出会ったはずの久遠と燦の夢には、とある共通点があって――? 謎に包まれた過去を持ち身分を隠す男装姫と、孤独な王の恋と因縁を描く、和風王宮ファンタジー。 ※カクヨムにも先行で投稿しています

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

遺産は一円も渡さない 〜強欲な夫と義実家に捨てられた私、真の相続人と手を組み全てを奪い返す~ (全10話)

スカッと文庫
恋愛
「お前の価値なんて、その遺産くらいしかないんだよ」 唯一の肉親だった祖父を亡くした夜、夫の健一と義母から放たれたのは、あまりにも無慈悲な言葉だった。 四十九日も待たず、祖父が遺した1億2000万円の遺産をアテに贅沢三昧を目論む夫。だが、彼には隠し通している「裏切り」があった――。 絶望の淵に立たされた由美の前に現れたのは、亡き祖父が差し向けた若き凄腕弁護士・蓮。 「おじい様は、すべてお見通しでしたよ」 明かされる衝撃の遺言内容。そして、強欲な夫たちを地獄へ叩き落とすための「相続条件」とは? 虐げられてきた妻による、一発逆転の遺産争奪&復讐劇がいま幕を開ける!

烏の王と宵の花嫁

水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。 唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。 その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。 ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。 死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。 ※初出2024年7月

処理中です...