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第十二話・哲学の道・引用される人生の声(六)
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雨は、少しずつ弱まっていった。
哲学の道の灯りは変わらない。
水路は相変わらず、静かに流れている。
通り過ぎていく人々のほとんどは、先ほどの出来事を覚えてはいないだろう。
ただ今夜のどこかで、ふと「本当は」を伴った一文が、胸の中に浮かび上がる。
それだけの違いだ。
画板の青年は、家路の途中、自販機の前で足を止める。
長く迷った末、一番安い缶コーヒーを一本買う。
プルタブを開けるとき、彼は自分に向かって小さく呟いた。
「もう、このままは嫌だな」
その「嫌だな」という言葉は、今度はちゃんと空気の中に数秒間留まり、「でも現実が」と慌ててかぶせられる前に、一度、世界に届いた。
カップルは、交差点のところで互いに別の方向へ歩きだす。
女の子は男の横顔をちらりと見て、とうとうこう言った。
「なんか、私たち、ずっと疲れてるよね」
別れ話でも、引き留める言葉でもない。
ただの事実。
だがその事実は、どんな引用よりも重い。
白川沙耶香は、橋の端に立ったまま、長い間動かなかった。
腕に抱えた本は、雨気を吸って、少し波打っている。
彼女は背表紙を見下ろし、そこに並んだ馴染みの名前が、自分から少し遠ざかったように感じる。
「もし、これから私が口を開くとしたら……」
心の中で、言いかける。
その先がどう続くのか、彼女自身にもわからない。
――それでいい。
今夜は、そこまでで十分だ。
劉立澄は剣を鞘に収め、軽く一礼すると、それ以上、何も言わなかった。
橋を離れ、哲学の道をゆっくりと戻っていく。
水路の下を流れる龍脈は、「引用の喉」の泥をある程度振るい落とし終え、元の性質を取り戻しつつあった。
人の小さな独り言を、そっと運ぶ役目に戻っていく。
相変わらず、口にされることのない言葉も多いだろう。
けれど、少なくとも全てが「誰かの言葉」の影に消えてしまうことはなくなった。
…………
目立たない路地を回り込んで戻ってくると、綾女料理の灯籠はまだ灯っていた。
店内は先ほどよりもさらに暖かい。
小さな鍋の中で、おでんがぐつぐつと静かに泡を立てている。
大根、鶏団子、厚揚げ、昆布巻きが、行儀よく湯の中に並び、出汁の色はさっきより深くなり、時間の分だけ旨味を重ねていた。
カウンターには長皿が増えている。
そこには、生八ツ橋がいくつか整然と並んでいた。
薄い皮の中に、肉桂の香りを含んだ餡。表面にはきめ細かなきな粉がふわりとのっている。
傍らの小さなガラスの器には、抹茶アイスが盛られていた。色は鮮やかな緑。縁にはうっすら霜がついている。
「まあ、ぎりぎセーフね」
綾女は、戸を押し開けた彼を見て言った。
「アイス、まだ溶けてない」
彼は腰を下ろし、傘をわきに立てかける。
袖についた水滴が灯りを受けて一瞬光り、布の繊維に沿って落ちていく。
「哲学の道のほうは?」
彼女は大根をひとつ、彼の椀に足した。
「他人の言葉は、少し減った」
彼は答える。
「その代わり、自分の言葉が少し増えた」
口に運んだ大根は、さっきより厚みのある味がした。
よく煮込まれた昆布の香りが舌にじんわりと広がり、雨の冷たさも、さっきまで耳の奥に残っていた言葉の残響も、一緒に沈めてくれる。
鯖寿司は、もう残り一切れ。
彼はそれを軽くつまみ、生姜を少し添えて口に入れる。
鯖の脂と酢飯の酸味が歯の下で触れ合った瞬間、細く刻んだ生姜の辛さが口内の疲れを一気に洗い流した。
「新しい本の匂いがする」
綾女はじっと彼を眺める。
「紙とインクじゃないよ。読み終えたばかりのページを閉じて、中に付箋が一枚挟んである感じ」
「付箋には、『私、怖い』って書いてある」
彼は言う。
綾女は一瞬きょとんとし、それから吹き出した。
「ずいぶん、人間くさい付箋だこと」
彼女は生八ツ橋の皿を彼のほうへ押し出す。
「甘いものでも食べな。さっきまでの『もっともらしい正論』の後味を、ちょっと上書きしないと」
生八ツ橋の皮は柔らかく、歯を立てると、まず餡の甘さと肉桂の香りが広がる。
きな粉の舌触りがそれに重なり、抹茶アイスを一口含めば、ほろ苦さが舌先を叩き、その苦味を乳脂の柔らかさがそっと溶かしていく。
それは、どの本にも載っていない味の描写だった。
いまこの瞬間、舌が出した感想にすぎない。
食後、彼は内ポケットから、一冊のノートを取り出した。
すでに数ページ、びっしりと書き込まれている帳面だ。
新しいページを開き、ペン先を落とす。
「第十二件:哲学の道・引用される人生の声。」
その行の下に、少し迷ってから、短い注釈を添えた。
「他言を一線断ち、一人に一声返す」
インクが灯りの下でゆっくりと乾いていく。
彼はペンをしまい、蕨餅をひとつ口に運んだ。
柔らかな蕨餅と黒蜜の甘さが歯の間で溶け、きな粉の香ばしさがそれを包む。最後に、抹茶のほろ苦さが舌の奥に少しだけ残った。
外では、とうとう雨が上がった。
哲学の道から、夜は少しずつ灯りを集めては消していく。
残るのは水の音と、ときどき通り過ぎる足音だけ。
いくつかの言葉は帳面に記され、いくつかの言葉は当人にようやく聞き取られた。
そしてもっと多くの言葉は、これからも見えない場所で黙り続けるだろう――
だが、その沈黙のすべてが、もはや「他人の声」だけではなくなっていた。
哲学の道の灯りは変わらない。
水路は相変わらず、静かに流れている。
通り過ぎていく人々のほとんどは、先ほどの出来事を覚えてはいないだろう。
ただ今夜のどこかで、ふと「本当は」を伴った一文が、胸の中に浮かび上がる。
それだけの違いだ。
画板の青年は、家路の途中、自販機の前で足を止める。
長く迷った末、一番安い缶コーヒーを一本買う。
プルタブを開けるとき、彼は自分に向かって小さく呟いた。
「もう、このままは嫌だな」
その「嫌だな」という言葉は、今度はちゃんと空気の中に数秒間留まり、「でも現実が」と慌ててかぶせられる前に、一度、世界に届いた。
カップルは、交差点のところで互いに別の方向へ歩きだす。
女の子は男の横顔をちらりと見て、とうとうこう言った。
「なんか、私たち、ずっと疲れてるよね」
別れ話でも、引き留める言葉でもない。
ただの事実。
だがその事実は、どんな引用よりも重い。
白川沙耶香は、橋の端に立ったまま、長い間動かなかった。
腕に抱えた本は、雨気を吸って、少し波打っている。
彼女は背表紙を見下ろし、そこに並んだ馴染みの名前が、自分から少し遠ざかったように感じる。
「もし、これから私が口を開くとしたら……」
心の中で、言いかける。
その先がどう続くのか、彼女自身にもわからない。
――それでいい。
今夜は、そこまでで十分だ。
劉立澄は剣を鞘に収め、軽く一礼すると、それ以上、何も言わなかった。
橋を離れ、哲学の道をゆっくりと戻っていく。
水路の下を流れる龍脈は、「引用の喉」の泥をある程度振るい落とし終え、元の性質を取り戻しつつあった。
人の小さな独り言を、そっと運ぶ役目に戻っていく。
相変わらず、口にされることのない言葉も多いだろう。
けれど、少なくとも全てが「誰かの言葉」の影に消えてしまうことはなくなった。
…………
目立たない路地を回り込んで戻ってくると、綾女料理の灯籠はまだ灯っていた。
店内は先ほどよりもさらに暖かい。
小さな鍋の中で、おでんがぐつぐつと静かに泡を立てている。
大根、鶏団子、厚揚げ、昆布巻きが、行儀よく湯の中に並び、出汁の色はさっきより深くなり、時間の分だけ旨味を重ねていた。
カウンターには長皿が増えている。
そこには、生八ツ橋がいくつか整然と並んでいた。
薄い皮の中に、肉桂の香りを含んだ餡。表面にはきめ細かなきな粉がふわりとのっている。
傍らの小さなガラスの器には、抹茶アイスが盛られていた。色は鮮やかな緑。縁にはうっすら霜がついている。
「まあ、ぎりぎセーフね」
綾女は、戸を押し開けた彼を見て言った。
「アイス、まだ溶けてない」
彼は腰を下ろし、傘をわきに立てかける。
袖についた水滴が灯りを受けて一瞬光り、布の繊維に沿って落ちていく。
「哲学の道のほうは?」
彼女は大根をひとつ、彼の椀に足した。
「他人の言葉は、少し減った」
彼は答える。
「その代わり、自分の言葉が少し増えた」
口に運んだ大根は、さっきより厚みのある味がした。
よく煮込まれた昆布の香りが舌にじんわりと広がり、雨の冷たさも、さっきまで耳の奥に残っていた言葉の残響も、一緒に沈めてくれる。
鯖寿司は、もう残り一切れ。
彼はそれを軽くつまみ、生姜を少し添えて口に入れる。
鯖の脂と酢飯の酸味が歯の下で触れ合った瞬間、細く刻んだ生姜の辛さが口内の疲れを一気に洗い流した。
「新しい本の匂いがする」
綾女はじっと彼を眺める。
「紙とインクじゃないよ。読み終えたばかりのページを閉じて、中に付箋が一枚挟んである感じ」
「付箋には、『私、怖い』って書いてある」
彼は言う。
綾女は一瞬きょとんとし、それから吹き出した。
「ずいぶん、人間くさい付箋だこと」
彼女は生八ツ橋の皿を彼のほうへ押し出す。
「甘いものでも食べな。さっきまでの『もっともらしい正論』の後味を、ちょっと上書きしないと」
生八ツ橋の皮は柔らかく、歯を立てると、まず餡の甘さと肉桂の香りが広がる。
きな粉の舌触りがそれに重なり、抹茶アイスを一口含めば、ほろ苦さが舌先を叩き、その苦味を乳脂の柔らかさがそっと溶かしていく。
それは、どの本にも載っていない味の描写だった。
いまこの瞬間、舌が出した感想にすぎない。
食後、彼は内ポケットから、一冊のノートを取り出した。
すでに数ページ、びっしりと書き込まれている帳面だ。
新しいページを開き、ペン先を落とす。
「第十二件:哲学の道・引用される人生の声。」
その行の下に、少し迷ってから、短い注釈を添えた。
「他言を一線断ち、一人に一声返す」
インクが灯りの下でゆっくりと乾いていく。
彼はペンをしまい、蕨餅をひとつ口に運んだ。
柔らかな蕨餅と黒蜜の甘さが歯の間で溶け、きな粉の香ばしさがそれを包む。最後に、抹茶のほろ苦さが舌の奥に少しだけ残った。
外では、とうとう雨が上がった。
哲学の道から、夜は少しずつ灯りを集めては消していく。
残るのは水の音と、ときどき通り過ぎる足音だけ。
いくつかの言葉は帳面に記され、いくつかの言葉は当人にようやく聞き取られた。
そしてもっと多くの言葉は、これからも見えない場所で黙り続けるだろう――
だが、その沈黙のすべてが、もはや「他人の声」だけではなくなっていた。
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