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第十三話・東山・囲まれた家(一)
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東山の夜、雨がちょうど上がったばかりだった。
山腹あたりの通りはひどく静かで、ときおり一台、車が滑るように通り過ぎるだけ。ヘッドライトが窓枠を一筋なぞり、すぐさま闇に呑み込まれていく。
家の中だけが、あたたかく賑やかだった。
キッチンの換気扇が低く唸り、火口の炎は白く揺れ、中華鍋の油はうっすらと波打ち始めている。
綾女は袖をたくし上げ、戸口に寄りかかって、劉立澄が小皿の花椒を空の鍋にあけるのを眺めていた。
「先に空炒り?」
首をかしげて問う。
「先に痺れを起こさないと、あとで辛いだけになる。」
劉立澄は木べらを握り、ゆっくりと炒める。
花椒が鍋の中を転がり、色が暗い赤から、わずかに深みを帯びた色へと変わっていく。
そこから立ちのぼる香りは、柑橘の皮を思わせる清々しさを含み、油煙の隙間からそっと顔を出した。
熱いうちに花椒をまな板にあけ、包丁の背で軽く押しつぶし、小刀で細かく刻む。香りはいっそうふくらむ。
横の台には、刻み葱が白と緑にきっちり分けて盛られ、
みじん切りのにんにくと生姜が小さな山を作っている。
大きな絹ごし豆腐はきれいな角切りにされ、盆の中で静かに水に浸っていた。
挽き肉はあらかじめ醤油と酒、少しの片栗粉で揉み込まれ、つやを帯びている。
中華鍋がふたたび火に上がる。
菜種油が流し込まれ、鍋底一面にさっと広がる。油面が透きとおって光り始めたところで、彼は大さじ一杯の豆板醤をすくい、鍋縁からそっと滑らせた。
豆板醤が油に触れた瞬間、「ジュッ」と音を立てて弾ける。
赤い油がじわじわとにじみ出し、唐辛子の辛味と豆の香りが、追い立てられるように立ち昇る。
空気に満ちるその匂いは、たちまち京都・東山の一軒家を、四川の厨房へと引きずっていった。
「この匂い、もし隣に京都のおばあちゃんでもいたら、すぐ『中華屋ができた』って言い出すわね。」
綾女は箸を持ち上げ、中を覗き込む。
挽き肉が鍋に落ちる。
肉が赤い油をまとった途端、細かな水蒸気が立ち、油の表面に無数の細かな泡が浮かび上がる。
劉立澄は素早く木べらでほぐし、ひと粒ひと粒に油が行き渡るよう炒める。
縁がわずかに縮み、こんがりとした香ばしさが立つまで。
「ここで、ようやく豆腐。」
彼は水から豆腐をすくい上げ、鍋縁に沿ってそっと滑り込ませる。
白く柔らかな豆腐の角が、赤い油をひと浴びした途端、薄い衣をまとったように淡い紅を差す。
鍋を持ち上げ軽く揺すると、豆腐たちはころんと身を返し、しかし崩れはしない。
清湯と出汁を合わせたスープを一杯、豆腐が隠れるほど注ぐ。
紅と白が渦を巻き、煮立つうちに、落ち着いた赤褐色へと煮染まっていく。
そして肝心のひと掴み――。
先ほど刻んだ花椒と、挽きたての花椒粉をひとつまみ、まとめて振り入れた。
痺れる香りが、そっとした電流のように、スープの面から鼻先へ駆け上がり、嗅覚を伝って舌の奥へと滑り落ちていく。
最後に、薄い水溶き片栗粉で軽くとろみをつけ、
とろりとした汁が一つ一つの豆腐に艶やかな膜を引くようにしてから、葱を散らして火を止める。
こうして、熱気に満ちた麻婆豆腐が、京都・東山のこのキッチンで静かに完成した。
もう一つの鍋も、手持ちぶたさではいられない。
鶏もも肉は小さな角切りにされ、醤油と酒、少量の塩と片栗粉で揉み込まれ、しばし寝かせておく。
落花生は弱火で乾煎りし、皮がわずかにしわが寄ったところで取り出しておく。
乾燥唐辛子は小口切りにされ、種を抜かれ、にんにくスライスと葱のぶつ切り、花椒とともに皿の上で待機している。
鍋に再び油を注ぐ。
油が七分どおり熱を帯びたところで、鶏肉を落とす。
表面がほどよく固まり、縁にほのかな金色がにじんだところで、一度引き上げて油を切る。
別の鍋に少量の油を熱し、乾燥唐辛子と花椒を先に入れる。
辛い香りがじんわりと立ち上る――鼻を刺すような暴力的な辛さではなく、炒りつけた香りの甘みを帯びた辛さ。
鶏肉を鍋に戻し、あらかじめ合わせておいた調味ダレ――醤油、酢、砂糖、少量の老抽、それに片栗粉を溶いたもの――を注ぐ。
タレが鍋に入った途端、鶏肉の表面をつややかな糖の膜が覆う。
酢の酸味と砂糖の甘さが湯気の中でぶつかり合い、人間の喉の奥に無意識に唾を呼ぶ香りを立ち上がらせる。
最後に、炒り落花生を戻し入れる。
糖酢あんが薄くまとわりつき、そこに葱を散らしてさっと炒め合わせれば、鍋から上がるときには、すべてが薄い光をまとっていた。
宮保鶏丁と麻婆豆腐が並んで卓に上り、
脇には小さな京都漬物の皿と、温めた清酒の徳利が置かれる。
外の東山の夜は障子紙に一枚隔てられ、家の中だけがほの明るく、あたたかい。
「真の竜の気配が、京都の山腹で四川料理を炒めてるってわけね。」
綾女は箸を持ち上げ、少し意地の悪い笑みを浮かべる。「どこかの神社が聞きつけたら、きっと文句を言いに来る。」
卓の脚がかすかに震えた。
地震ではない。むしろ床下から漏れてきた、押し殺した息のような衝動に近い。
劉立澄の指が、握った箸の上で一瞬止まる。
これまでずっと自分が押さえ込み、従順にさせていた家の下の竜脈が、その刹那、遠くの誰かに指で軽く弾かれたように揺れたのだ。
山腹あたりの通りはひどく静かで、ときおり一台、車が滑るように通り過ぎるだけ。ヘッドライトが窓枠を一筋なぞり、すぐさま闇に呑み込まれていく。
家の中だけが、あたたかく賑やかだった。
キッチンの換気扇が低く唸り、火口の炎は白く揺れ、中華鍋の油はうっすらと波打ち始めている。
綾女は袖をたくし上げ、戸口に寄りかかって、劉立澄が小皿の花椒を空の鍋にあけるのを眺めていた。
「先に空炒り?」
首をかしげて問う。
「先に痺れを起こさないと、あとで辛いだけになる。」
劉立澄は木べらを握り、ゆっくりと炒める。
花椒が鍋の中を転がり、色が暗い赤から、わずかに深みを帯びた色へと変わっていく。
そこから立ちのぼる香りは、柑橘の皮を思わせる清々しさを含み、油煙の隙間からそっと顔を出した。
熱いうちに花椒をまな板にあけ、包丁の背で軽く押しつぶし、小刀で細かく刻む。香りはいっそうふくらむ。
横の台には、刻み葱が白と緑にきっちり分けて盛られ、
みじん切りのにんにくと生姜が小さな山を作っている。
大きな絹ごし豆腐はきれいな角切りにされ、盆の中で静かに水に浸っていた。
挽き肉はあらかじめ醤油と酒、少しの片栗粉で揉み込まれ、つやを帯びている。
中華鍋がふたたび火に上がる。
菜種油が流し込まれ、鍋底一面にさっと広がる。油面が透きとおって光り始めたところで、彼は大さじ一杯の豆板醤をすくい、鍋縁からそっと滑らせた。
豆板醤が油に触れた瞬間、「ジュッ」と音を立てて弾ける。
赤い油がじわじわとにじみ出し、唐辛子の辛味と豆の香りが、追い立てられるように立ち昇る。
空気に満ちるその匂いは、たちまち京都・東山の一軒家を、四川の厨房へと引きずっていった。
「この匂い、もし隣に京都のおばあちゃんでもいたら、すぐ『中華屋ができた』って言い出すわね。」
綾女は箸を持ち上げ、中を覗き込む。
挽き肉が鍋に落ちる。
肉が赤い油をまとった途端、細かな水蒸気が立ち、油の表面に無数の細かな泡が浮かび上がる。
劉立澄は素早く木べらでほぐし、ひと粒ひと粒に油が行き渡るよう炒める。
縁がわずかに縮み、こんがりとした香ばしさが立つまで。
「ここで、ようやく豆腐。」
彼は水から豆腐をすくい上げ、鍋縁に沿ってそっと滑り込ませる。
白く柔らかな豆腐の角が、赤い油をひと浴びした途端、薄い衣をまとったように淡い紅を差す。
鍋を持ち上げ軽く揺すると、豆腐たちはころんと身を返し、しかし崩れはしない。
清湯と出汁を合わせたスープを一杯、豆腐が隠れるほど注ぐ。
紅と白が渦を巻き、煮立つうちに、落ち着いた赤褐色へと煮染まっていく。
そして肝心のひと掴み――。
先ほど刻んだ花椒と、挽きたての花椒粉をひとつまみ、まとめて振り入れた。
痺れる香りが、そっとした電流のように、スープの面から鼻先へ駆け上がり、嗅覚を伝って舌の奥へと滑り落ちていく。
最後に、薄い水溶き片栗粉で軽くとろみをつけ、
とろりとした汁が一つ一つの豆腐に艶やかな膜を引くようにしてから、葱を散らして火を止める。
こうして、熱気に満ちた麻婆豆腐が、京都・東山のこのキッチンで静かに完成した。
もう一つの鍋も、手持ちぶたさではいられない。
鶏もも肉は小さな角切りにされ、醤油と酒、少量の塩と片栗粉で揉み込まれ、しばし寝かせておく。
落花生は弱火で乾煎りし、皮がわずかにしわが寄ったところで取り出しておく。
乾燥唐辛子は小口切りにされ、種を抜かれ、にんにくスライスと葱のぶつ切り、花椒とともに皿の上で待機している。
鍋に再び油を注ぐ。
油が七分どおり熱を帯びたところで、鶏肉を落とす。
表面がほどよく固まり、縁にほのかな金色がにじんだところで、一度引き上げて油を切る。
別の鍋に少量の油を熱し、乾燥唐辛子と花椒を先に入れる。
辛い香りがじんわりと立ち上る――鼻を刺すような暴力的な辛さではなく、炒りつけた香りの甘みを帯びた辛さ。
鶏肉を鍋に戻し、あらかじめ合わせておいた調味ダレ――醤油、酢、砂糖、少量の老抽、それに片栗粉を溶いたもの――を注ぐ。
タレが鍋に入った途端、鶏肉の表面をつややかな糖の膜が覆う。
酢の酸味と砂糖の甘さが湯気の中でぶつかり合い、人間の喉の奥に無意識に唾を呼ぶ香りを立ち上がらせる。
最後に、炒り落花生を戻し入れる。
糖酢あんが薄くまとわりつき、そこに葱を散らしてさっと炒め合わせれば、鍋から上がるときには、すべてが薄い光をまとっていた。
宮保鶏丁と麻婆豆腐が並んで卓に上り、
脇には小さな京都漬物の皿と、温めた清酒の徳利が置かれる。
外の東山の夜は障子紙に一枚隔てられ、家の中だけがほの明るく、あたたかい。
「真の竜の気配が、京都の山腹で四川料理を炒めてるってわけね。」
綾女は箸を持ち上げ、少し意地の悪い笑みを浮かべる。「どこかの神社が聞きつけたら、きっと文句を言いに来る。」
卓の脚がかすかに震えた。
地震ではない。むしろ床下から漏れてきた、押し殺した息のような衝動に近い。
劉立澄の指が、握った箸の上で一瞬止まる。
これまでずっと自分が押さえ込み、従順にさせていた家の下の竜脈が、その刹那、遠くの誰かに指で軽く弾かれたように揺れたのだ。
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