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第十三話・東山・囲まれた家(六)
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御子柴は顔を伏せ、手の中の傷んだ巻尺を見た。
足もとにまとわりついていた、あのぼんやりとした影は、ほとんど見えないほど薄くなっている。
それは彼自身が、長い年月のあいだ何度も刻んできた「僕は家に残る」という投影だった。
さきほどの散席の印で、そのいくらかは古い家へと送り返され、残りは自分で背負うしかなくなった。
「この竜脈は、今日を境に、あなたと名を交わした。」
御子柴は天井を見上げる。「この家を拠点にすることは、もうしない。」
巻尺を少しずつ元の箱へと巻き戻し、アルバムを一枚ずつ閉じる。
蓋をしめ、箱を提げ、くるりと身を返した。
玄関まで来て、ふと足を止める。
「家を守る人間は、自分にも別の道があり得ることを、いちばん忘れやすい。」
振り返らずに言う。「もしいつか、この家で立ち尽くす時間が長すぎると思ったら、帳簿をめくるといい。」
言い終えて、敷居をまたいだ。
戸枠の木目がわずかに光り、彼の影の最後のひとかけらを戸外に引き留める。
戸が閉まった瞬間、家の明かりは、いつもの色に戻った。
掛け時計の秒針は、何事もなかったように、一定のリズムで歩み続ける。
綾女はキッチンから出てくる。手には箸。
彼女は部屋を一巡り見渡し、畳の上に残った数カ所の足跡と、小さな木片に目を止める。
「家は無事。」
小さくうなずく。「料理も、無事。」
「少し冷めただけ。」
劉立澄は刀を壁に戻し、剣を架け台に収めてから、キッチンに戻り、火をもう一度強くする。
鍋の中の麻婆豆腐は、あっという間に再び泡立ち始めた。
赤い油が熱に押し上げられ、花椒の香りがもう一度立ちのぼる。
さっきまで家の中に残っていた木と雨の湿った匂いも、台所の火の勢いに押さえ込まれていく。
宮保鶏丁の糖衣は、冷めるあいだに薄いガラスのような膜を作っていた。
彼は箸でそれをそっと崩し、鍋に少量の水を落として手早く炒める。
固まっていた糖はふたたび柔らかくなり、鶏肉と落花生の表面に、もう一度光が戻った。
二人は、再び低い卓をはさんで向き合って座る。
綾女はまず、麻婆豆腐をひと口。
豆腐の外側はほどよく熱く、中は柔らかく温かい。
花椒の痺れが舌先で小さな脈のように跳ね、そのあとを追うように辛味が広がり、最後に豆板醤と挽き肉の濃い旨みが、胃の奥に沈んでいく。
「さっきより、美味しい。」
彼女は評する。「家が一度揺すられて、その分だけ、この鍋は『魂をなだめる料理』になった。」
宮保鶏丁は、薄い糖衣がほんの少し歯にまとわりつきながら、決してしつこくはない。
噛めば鶏肉から肉汁がじんわりとあふれ、酢の酸味が油を切り、
最後に落花生のカリッとした食感が舌に爽やかな締めくくりをくれる。
障子の向こう、東山の夜は、元の姿を取り戻していた。
遠くの寺の鐘が、かすかに響き、風に運ばれていく。
「今夜、この家に引き寄せられた影たちは。」
綾女は清酒をひと口含み、盃を卓の上で軽く回す。「みんな自分の家に帰れたかしら。」
「大半は戻る。」
劉立澄は言う。「残りのほんの少しは、この街の夜に薄く散っていく。
いつか誰かが、ようやく一歩を踏み出したとき、そのぶんだけ減る。」
食事を終えると、彼はいつものように畳の間へ戻った。
卓の上には帳簿が開きっぱなしになっている。
すでにいくつかの項目が書き込まれていた――「伏見稲荷大社」「清水寺」「錦市場」「河原町」……
今日は新しいページが開かれている。
筆を取る。
筆先が紙を打つ。
「第十三件:東山・囲まれた家。」
少し考えてから、行を改めて、これまでより少し長い注釈を添えた。
「留守の影散じ、家の下の小竜、ひと息吐く。
今宵この家は、ただ仮に身を寄せる者のためだけに灯をともす。」
墨は灯りの下で、ゆっくりと乾いていく。
彼はペンを鞘に戻し、帳簿を閉じた。
部屋の大きな灯りを消し、小さな卓上灯だけを残す。
家のすべてが、少しずつ静まっていった――
麻婆豆腐の匂いはまだ薄く残り、
宮保鶏丁の淡い甘さが空気に指先ほどの名残を留め、
畳に残った足跡は、ゆっくりと薄れていく。
床下の小さな竜脈も、落ち着いて身を丸めた。
大きなあくびをひとつ終え、この東山の夜に、しばしの眠りに入ろうとしている。
綾女はキッチンで食器を片づけながら、誰にも聞こえないほど小さな鼻歌を口ずさんでいた。
そして、この一度「囲まれた」家は、その夜、初めてはっきりと心に刻んだのだ――
誰が自分の主人であり、
誰が、ただ通り過ぎる影なのかを。
足もとにまとわりついていた、あのぼんやりとした影は、ほとんど見えないほど薄くなっている。
それは彼自身が、長い年月のあいだ何度も刻んできた「僕は家に残る」という投影だった。
さきほどの散席の印で、そのいくらかは古い家へと送り返され、残りは自分で背負うしかなくなった。
「この竜脈は、今日を境に、あなたと名を交わした。」
御子柴は天井を見上げる。「この家を拠点にすることは、もうしない。」
巻尺を少しずつ元の箱へと巻き戻し、アルバムを一枚ずつ閉じる。
蓋をしめ、箱を提げ、くるりと身を返した。
玄関まで来て、ふと足を止める。
「家を守る人間は、自分にも別の道があり得ることを、いちばん忘れやすい。」
振り返らずに言う。「もしいつか、この家で立ち尽くす時間が長すぎると思ったら、帳簿をめくるといい。」
言い終えて、敷居をまたいだ。
戸枠の木目がわずかに光り、彼の影の最後のひとかけらを戸外に引き留める。
戸が閉まった瞬間、家の明かりは、いつもの色に戻った。
掛け時計の秒針は、何事もなかったように、一定のリズムで歩み続ける。
綾女はキッチンから出てくる。手には箸。
彼女は部屋を一巡り見渡し、畳の上に残った数カ所の足跡と、小さな木片に目を止める。
「家は無事。」
小さくうなずく。「料理も、無事。」
「少し冷めただけ。」
劉立澄は刀を壁に戻し、剣を架け台に収めてから、キッチンに戻り、火をもう一度強くする。
鍋の中の麻婆豆腐は、あっという間に再び泡立ち始めた。
赤い油が熱に押し上げられ、花椒の香りがもう一度立ちのぼる。
さっきまで家の中に残っていた木と雨の湿った匂いも、台所の火の勢いに押さえ込まれていく。
宮保鶏丁の糖衣は、冷めるあいだに薄いガラスのような膜を作っていた。
彼は箸でそれをそっと崩し、鍋に少量の水を落として手早く炒める。
固まっていた糖はふたたび柔らかくなり、鶏肉と落花生の表面に、もう一度光が戻った。
二人は、再び低い卓をはさんで向き合って座る。
綾女はまず、麻婆豆腐をひと口。
豆腐の外側はほどよく熱く、中は柔らかく温かい。
花椒の痺れが舌先で小さな脈のように跳ね、そのあとを追うように辛味が広がり、最後に豆板醤と挽き肉の濃い旨みが、胃の奥に沈んでいく。
「さっきより、美味しい。」
彼女は評する。「家が一度揺すられて、その分だけ、この鍋は『魂をなだめる料理』になった。」
宮保鶏丁は、薄い糖衣がほんの少し歯にまとわりつきながら、決してしつこくはない。
噛めば鶏肉から肉汁がじんわりとあふれ、酢の酸味が油を切り、
最後に落花生のカリッとした食感が舌に爽やかな締めくくりをくれる。
障子の向こう、東山の夜は、元の姿を取り戻していた。
遠くの寺の鐘が、かすかに響き、風に運ばれていく。
「今夜、この家に引き寄せられた影たちは。」
綾女は清酒をひと口含み、盃を卓の上で軽く回す。「みんな自分の家に帰れたかしら。」
「大半は戻る。」
劉立澄は言う。「残りのほんの少しは、この街の夜に薄く散っていく。
いつか誰かが、ようやく一歩を踏み出したとき、そのぶんだけ減る。」
食事を終えると、彼はいつものように畳の間へ戻った。
卓の上には帳簿が開きっぱなしになっている。
すでにいくつかの項目が書き込まれていた――「伏見稲荷大社」「清水寺」「錦市場」「河原町」……
今日は新しいページが開かれている。
筆を取る。
筆先が紙を打つ。
「第十三件:東山・囲まれた家。」
少し考えてから、行を改めて、これまでより少し長い注釈を添えた。
「留守の影散じ、家の下の小竜、ひと息吐く。
今宵この家は、ただ仮に身を寄せる者のためだけに灯をともす。」
墨は灯りの下で、ゆっくりと乾いていく。
彼はペンを鞘に戻し、帳簿を閉じた。
部屋の大きな灯りを消し、小さな卓上灯だけを残す。
家のすべてが、少しずつ静まっていった――
麻婆豆腐の匂いはまだ薄く残り、
宮保鶏丁の淡い甘さが空気に指先ほどの名残を留め、
畳に残った足跡は、ゆっくりと薄れていく。
床下の小さな竜脈も、落ち着いて身を丸めた。
大きなあくびをひとつ終え、この東山の夜に、しばしの眠りに入ろうとしている。
綾女はキッチンで食器を片づけながら、誰にも聞こえないほど小さな鼻歌を口ずさんでいた。
そして、この一度「囲まれた」家は、その夜、初めてはっきりと心に刻んだのだ――
誰が自分の主人であり、
誰が、ただ通り過ぎる影なのかを。
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