京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

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第十六話 二条城・奪われた名前(一)

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 二条城の夜は、祇園のように人の気を緩ませてくれることが決してない。

堀の水面は冷え込みの中でぴたりと張りつき、何度も拭き上げられた黒漆の卓のようだった。外の石垣は高く重く、石が幾層にも積まれていて、見上げるたびに首筋が自然とこわばる。灯りは角ごとに据えられた警告灯からこぼれるばかりで、明るくはないのに冷たさだけは足りていて、堀端の苔を照らしながら、この城の呼吸をぎりぎりまで絞り込んでいるかのようだった。

夜回りの警備員が外側の遊歩道を歩いていく。足音は半分ほど水に呑まれ、残りの半分が石畳に貼りつき、「自分はここにいる」と認めるのをどこかためらっているように響く。

彼が目にするべきなのは、本来なら観光客の去ったあとの空っぽの城と、閉門の看板と、ときおり通り過ぎる自転車のライトぐらいのはずだった。ところが今夜、外壁の角を曲がったところで足を止めることになる。手にした懐中電灯の光の円が、かすかに震えた。

堀端に、人影が立っている。

一列。

一列だけではない。

彼らはきちんとした服装をしていた。スーツ、コート、スーツスカート。さっきまでどこかの発表会にでも出ていたような格好だ。胸元にはそれぞれ名札がかかっている。細い紐で吊られて、心臓のあたりで呼吸に合わせてかすかに揺れていた。懐中電灯の光を受けて、名札の文字が冷たく光る。だが奇妙なことに、その文字は安定していなかった。まるでその場しのぎのラベルを上から貼りつけたかのように、いつでも剥がして別のものに貼り替えられそうだった。

もっと奇妙なのは、顔だった。

顔の位置には輪郭だけがあり、五官がない。誰かが人間にあるはずの目も、鼻梁も、唇の端もすべて拭い去ってしまい、「公の場に出して差し支えない平面」だけを残したような顔。じっと見ていると、本能的に自分の記憶を流し込んでしまいそうになる。「表情」を補ってやりたくなる。だが補えない。埋めようとすればするほど、底冷えが増していく。

警備員は息を呑み、後ずさろうとした。だがその前に、「名札の者たち」が揃って一歩前に出た。

足音はなかった。

彼らの足もとの影だけが先に動いた。誰かに首根っこを押さえつけられて地面に貼りついた影が、ひとつ、ふたつと滑る。次の瞬間、列のいちばん前に立つ「名札の男」が身をかがめた。何かに判を押すような仕草だった。手には印章など持っていない。あるのは胸から提げたあの名札だけだ。その名札が地面に近づいたとき、堀端を渡る風がふいに重く沈み、夜そのものが見えない掌で石畳の方へ押しつけられたようになった。

石畳の上で、ひとかたまりの影がもがくように身じろぎした。

それは通りすがりの誰かの影に見えた。細くて、せわしなくて、まだ先へと逃げたがっている影。だが押さえつけられ、むりやり広げられる。名札がその上に押しつけられたとき、影の奥で、ごく小さな「ぱちん」という音がした。紙を圧し固めるときのような音。

警備員は見た。影の胸にあたる位置に、同じような名札がふっと浮かび上がるのを。

名札に刻まれているのは、その人の名前ではなかった。

別の名前が、きちんとした字で書かれている。「正しい名前」として。警備員は、ほんの一瞬、ばかばかしい錯覚を抱いた。──名札さえそれらしく、十分にもっともらしく書かれていれば、その影は本当に名札の名前の人間になってしまうのではないか、と。

叫ぼうとした。だが喉には湿った紙を押し込まれたような感覚が広がり、息だけがから回りする。スマートフォンを取り出すと、画面は一度だけ点き、すぐに暗くなった。遠くから誰かが「キャンセル」のボタンに指を置いたみたいに。

名札の者たちは彼を見ない。

彼らがすることはひとつだけだ。影を地面に押さえつけ、名札をその上におろす。それは功績に判を押すみたいであり、一つの人生に判を押すようでもあり、「おまえは誰か」という項目に判を押すことでもあった。

城壁の上を風が渡る。鉄柵にぶら下がった小さな札が、かすかに鳴った。ここはもともと「個人」の場所などではなく、「名を残す」欄のためにあるのだ、とでも告げるような音だった。

警備員の持つ懐中電灯の光が、もう一度震えた。その円の端に、遠くの遊歩道からゆっくりと近づいてくる灯りが映る。懐中電灯のような冷白ではなく、少し温かみのある黄。どこかの小さな店の提灯が城の外まで歩いてきたような光だ。

灯の後ろの人間は、足取りが軽く、それでいて揺れない。

名札たちの列の正面には向かわない。すでに書き上げられた名簿をあえて避けるように、堀の暗がりに沿って近づいてくる。その歩みのあとに、夜が一本、細い裂け目をつくった。

警備員の喉がようやく動き、かすかな音節が漏れた。

男が顔を上げた。視線が名札の群れの上をひとめぐりする。盗んだ署名の載った原稿を見つけた編集者みたいな目だった。

そして、手に持った灯りを少し掲げ、光を名札たちの上に落とした。

名札の文字が、刺されたようにびくりと震えた。
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