京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

文字の大きさ
95 / 109

第十六話 二条城・奪われた名前(五)

しおりを挟む
    堀端の風は、さらに細くなった。

風そのものが弱まったわけではない。二人の殺気に押しやられ、刀が通る分だけの隙間しか残されていないのだ。名札の者たちはよりきっちりと列を整えた。観客であり、同時に証人でもある。彼らは手を出す必要がない。ただ今夜の記録の上で、「誰の名前を残すか」を決めればいい。

女の攻めは速かった。

剣と正面からぶつかることはしない。正面衝突は、自分のペースを崩すと知っているからだ。彼女のペースは職場のそれに似ている。効率、所属、サイン、ファイリング。近づくたびに一枚の名札を携え、その落ちる場所は印鑑欄のように正確だった。

最初の名札は、澄心剣の峰で撥ね上げられる。

すぐに角度を変えた。名札は肩口から斜めに切り上げ、鎖骨の下を狙う。人の「名」が最も掴まれやすい場所だ。ほめられたり、認められたり、名指しされたりするとき、ほとんどの人間は無意識にこのあたりを前へ差し出す。それを彼女は狙っていた。

劉立澄は足さばきを半歩ずらし、身をひねってかわす。同時に澄心剣を下から押し上げ、筆を返すように刃先を回して、名札の角を石畳の隙間に押し込んだ。名札は「ぱちん」と音を立てて地面に貼りつき、一つの名前が浮かび上がる。

それは彼の名前ではない。

足もとの影が、すっと手を伸ばしてきたように見えた。その名前を、自分の胸に押し当てようとして。

女は口の端をさらに薄く持ち上げる。「ほらね。」と笑う。「影は勝手に归属先を探す。ほんの一瞬でも迷えば、代わりに選んであげる。」

迷わない。

劉立澄の左手が翻る。袖の中で細い光が走り、竜牙が掌に収まる。竜牙は短い。身体に沿って隠すための長さだ。遠くを斬るための刃ではなく、いちばん近い場所でいちばん決定的なことをするための刃。

二度目に女が寄ってきたとき、名札は今度は下から腹の脇を狙って滑り込んだ。さらに陰険な角度だ。下から名前を書き換える。防ぎにくい場所から。足もとから少しずつ「他人」にしていき、顔を上げるころには「もう否と言う資格がない」と思わせるために。

劉立澄は澄心剣を身体の前で横に構え、彼女の手首と真正面から絡むことはしなかった。鞘と刃で細い扉をつくり、その扉をくぐらなければ名札が届かないようにする。彼女の手が扉の内側に半寸だけ入った瞬間、内側から竜牙が閃き、指の節に沿ってごく浅くなぞった。その痛みよりも、名札カードの位置がわずかにずれたことの方が重要だった。

名札が手からこぼれ落ちる。

女の目に、初めてほんのわずかな怒気が宿る。痛みなどどうでもいい。彼女が恐れるのは「コントロールの喪失」だ。コントロールを失えば、归属が乱れる。归属が乱れれば、得られるはずの確信が霧散する。

彼女はもう一方の手で劉立澄の手首を掴んだ。掴むのではない。「押さえる」。刀を振るう権利そのものを押さえつけるように。同時に、もう一枚厚手の名札カードを彼の手の甲へ向けて貼りつけにくる。

そこには名前が書かれていない。ただ二文字──所属。

それが貼りつけば、その手はもう自分のものではなくなる。

「手に貼らせないで。」暗がりから綾女の声が飛ぶ。

分かっている。

後ろへは引かない。引けば、彼女に「所属」をじっくりと貼りつける余裕を与えてしまう。逆に一歩踏み込み、肩と肩をぶつける距離にまで迫る。重心を入れ替えざるをえない間合いに。接近戦でいちばん高価なのは、重心だ。重心を強制的に動かされるのが、いちばん怖い。

女の踵がかすかに滑り、重心が偏る。その瞬間、澄心剣の柄が彼女の手首の外側を正確に打った。強くはない。だが痺れさせるには十分だ。指が一瞬緩む。その一瞬のうちに、竜牙が反転し、名札の留め金を下から軽く撬いだ。

留め金がはじけ飛ぶ。

女の胸元で揺れていた名札が、大きく揺れた。彼女にとってそれは護符のようなものだ。いつもは鉄板のように揺るがなかった。その名札が傾いたことで、気が一筋漏れる。

息をつかせない。

澄心剣は一度だけ引いて、すぐに伸びる。喉も心臓も狙わない。剣先はまっすぐ、名札を吊っている紐を斬りにいった。

一閃で、紐が切れる。

名札が落ちた。

地面に当たる刹那、名札の文字が崩れた。それは彼女の名前ではなかった。無数の他人の名前が幾筋も重ね書きされている。今まで飲み込んできた署名が、この瞬間いっせいに吐き出される。名札の列がざわりと震え、彼らの中の「归属」が引きずられた。

女の顔色がさすがに変わる。

後ろへ半歩退き、指先から次々と名札カードを放った。紙の刃だ。肉は切らない。影だけを切る。一枚ごとに影に貼りつき、影を別の名前へと引きずっていく。

劉立澄は足裏を石畳に沈め、澄心剣を横に払う。剣の面は鏡のように紙刃の軌道を映し返す。遠隔の術で紙刃を焼き払うのではない。足運びで、自分と自分の影の角度を刻一刻とずらし、いちばん貼りつきにくい位置を保ち続ける。一歩ごとに、「自分は誰か」という字画を上書きするように。

だが紙刃の数が多すぎる。彼女の効率はベルトコンベアーだ。すべてを正確に貼る必要などない。「もしかしたら自分は、本当は自分ではないかもしれない」という、一瞬の揺らぎさえ起こればいい。

その揺らぎこそが、鍵穴だった。

目は揺れない。だが胸の奥に、ふっと小さな空白があいた気がした。紙から自分の名前だけ抜き取られ、真っ白な欄が残ったような感覚。

女はそれを逃さない。身体をさらに寄せ、名札カードを喉元へ向けて走らせた。それは「名奪い封喉」──名前を塞ぎ、声を奪う一撃だ。貼られれば、声は先に他人のものになる。自分の口から出た言葉でさえ、最初に署名されるのは別人だ。

劉立澄は腕を上げて受けようとした。だが名札カードは蛇のように軌道を変え、肘の曲がりをすり抜けて頸の横を狙ってくる。

紙が皮膚に触れる寸前、下から竜牙が中線をすくい上げた。カードの中心をなぞり、ほんの少しだけ持ち上げる。力の向きが崩れ、狙いは一寸ずれる。

一寸ずれれば、命門には届かない。

そのわずかな隙に、彼はさらに半歩踏み込んだ。肩から衝くように胸元へ押し入り、澄心剣の柄を彼女の横腹に押し当てて、後ろへ退けないようにする。竜牙は手首の内側に沿って軽く押し当てた。

それは傷つけるためではない。「位置」を封じるためだ。名札を飛ばすための角度を。

耳許で、一言だけ低く囁く。落款を書くような声で。

「名前を吐き出せ。」

女は歯を食いしばり、職業人の冷静さにひびが入りはじめた。そのくせ、顔を上げて笑う。ほとんど残酷と言っていい薄笑いだった。

「名札を壊せば、それで戻るとでも?」と彼女は言う。「みんな、自分で諦めたのよ。」

諦め──それがいちばん強い錠前だ。

劉立澄は言い返さない。ただ袖の中から一枚の符を取り出した。小さな札。紙色は少し黄ばんでいる。何度もめくられた古い頁のように。派手な呪文はない。ただ「名」という一字が、揺らぎのない筆致で書かれている。

それを彼女の胸に貼りつける。さっき名札が落ちた、その位置に。

そこにはもともと、奪った名前を詰め込むための穴のような空白があった。

札が貼りついた瞬間、彼女の身体がぴたりと強張る。背後の影が裂け、その向こうに口が開く。そこから覗くのは怪物でも組織の紋章でもない。破られた紙の山だ。署名欄。タイトルページ。企画書の表紙。すべて別人の名前が刷り込まれている。

紙片は風に揺れ、揺れるたびに羞恥の音を立てた。

彼女の顔に、名札の者たちのような「空白」が一瞬だけ浮かぶ。五官の消えた空洞ではなく、「他人の名前を奪わなければ生きていけない」という荒涼そのものの空。

劉立澄はとどめを刺さない。

澄心剣を下げ、刃を地面に沿って細く引いた。一枚の書類の署名欄をもう一度まっすぐに引き直すような線。竜牙で地面の名札を掬い上げ、刃先を震わせる。

名札は砕けた。

紙片になって舞い散る。

紙片に刻まれた名前は、それぞれの影へと戻っていく。堀端で電話をしていた男が、不意に言葉を詰まらせた。「うちの部署、よくやりましたよ」という台詞が喉で引っ掛かる。眉をひそめ、足もとの影を見下ろす。影の胸に貼られた名札が、自分のものではないと初めて気づいたように。

名札の列が崩れ始めた。空の顔がゆがみ、姿勢がかすかに傾ぐ。彼らの背後に貼りついていた「無署名の原稿の影」が、そこでようやく剥がされ、主のもとへと戻っていく。

女はよろめきながらも、まだ名札カードをつまもうとする。だが指の間のカードは急に軽く、薄くなっていた。「正当性」を失った紙の手触りだ。

彼女は顔を上げ、初めて真正面から劉立澄を見た。

そこにあるのは、留学生の顔でもなければ、「真龍」の顔でもない。書き、切り、名前を守る者の顔だった。

女は息を吸い込み、薄く笑った。「あなた、後悔するわよ。」と吐き出す。「名前を返したって、あの人たち、自分のものとして受け取る勇気があるかどうか。」

勇気があるかどうか──それは彼らの課題だ。

「勇気は彼らの問題だ。」と劉立澄は剣を鞘に収めながら、淡々と言う。「返す返さないは、僕の問題だ。」

背を向けたところで、綾女が暗がりから出てくる。女の横を通りざま、言葉をひとつだけ落とした。

「人の名前を奪っていると、自分の顔までなくすわよ。」と綾女は言う。「拾い直せるかどうかは、あんた次第。」

女は堀端に立ちつくす。風が髪を乱す。初めて、すぐに整え直すことをしなかった。どの名前で立っていればいいのか、自分でも分からなくなったのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あやかし家族 〜五人の兄と愛され末妹〜

南 鈴紀
キャラ文芸
 妖狩りにより両親を奪われ、囚われの身となった半妖の少女・鈴音は浄化の狐火を利用するだけの道具のように扱われていた。呪いにより成長は止まり、容姿も思考も幼いまま、感情が消え失せてもなおただ生かされるままに生きていた。  しかし妖保護部隊本部第一部隊との出会いにより、鈴音の止まっていた時間が動き出す。  掴みどころはないが頼れる氏神・雅仁、兄には厳しいが弟妹には優しい狼の妖・千里、人間嫌いだが人当たりの良い振りが得意な人間・遥杜、可愛いもの好きで元気いっぱいの猫又・鴇羽、大人しいが思いやりに溢れる猫又・瑠璃。  五人の兄と過ごす時間の中で、無いものだらけだった鈴音にもやがて大切なものが増えていく。  妖×家族の心温まる和風ファンタジー。

後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました

由香
キャラ文芸
後宮で怪異を祓う下級巫女・紗月は、ある日突然、「鬼」と噂される将軍・玄耀の妻になれと命じられる。 それは愛のない政略結婚―― 人ならざる力を持つ将軍を、巫女の力で制御するための契約だった。 後宮の思惑に翻弄されながらも、二人は「契約」ではなく「選んだ縁」として、共に生きる道を選ぶ――。

【完結】非モテアラサーですが、あやかしには溺愛されるようです

  *  ゆるゆ
キャラ文芸
疲れ果てた非モテアラサーが、あやかしたちに癒されて、甘やかされて、溺愛されるお話です。 名前が  *   ゆるゆ  になりましたー! 中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

灯台の猫と、嘘をつく少女(キャラ文芸短編集)

倉木元貴
キャラ文芸
灯台の猫と、嘘をつく少女  海沿いの町に住む高校生・澪は、灯台に住みつく白猫の声が聞こえる。  猫は澪の“嘘”を見抜き、彼女の心の奥にある後悔を揺さぶる存在だった。  転校生の遥斗が澪の秘密に気づき、二人は白猫の正体を探り始める。 しかし灯台の取り壊しが迫る中、白猫は突然姿を消す。  取り壊し前夜、白猫は澪に「最後の嘘をついてほしい」と告げる。  澪がその嘘を口にした瞬間、白猫は静かに消え、澪は初めて“本音”で未来と向き合う。 紅葉に消える恋  秋の山里で沙耶は、不思議な青年と出会う。彼は人懐っこく優しいが、どこか秘密を抱えている。交流を重ねるうちに心を通わせる二人。しかし秋祭りの夜、月明かりの下で青年の正体が露わになる。

火輪の花嫁 ~男装姫は孤高の王の夢をみる~

秦朱音|はたあかね
キャラ文芸
王を中心に五家が支配する、綺羅ノ国。 五家に覡(かんなぎ)として仕える十六夜家の娘、久遠(くおん)は、幼い頃から男として育てられてきた。 都では陽を司る日紫喜家の王が崩御し、素行の悪さで有名な新王・燦(さん)が即位する。燦の后選びに戦々恐々とする五家だったが、燦は十六夜家の才である「夢見」を聞いて后を選ぶと言い始めた。そして、その夢見を行う覡に、燦は男装した久遠を指名する。 見習いの僕がこの国の后を選ぶなんて、荷が重すぎる――! 久遠の苦悩を知ってか知らずか、燦は強引に久遠を寝室に呼んで夢見を命じる。しかし、初めて出会ったはずの久遠と燦の夢には、とある共通点があって――? 謎に包まれた過去を持ち身分を隠す男装姫と、孤独な王の恋と因縁を描く、和風王宮ファンタジー。 ※カクヨムにも先行で投稿しています

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

烏の王と宵の花嫁

水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。 唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。 その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。 ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。 死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。 ※初出2024年7月

処理中です...