京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

文字の大きさ
96 / 109

第十六話 二条城・奪われた名前(六)

しおりを挟む
     東山への帰り道は、来たときより静かだった。

京都の夜には、奇妙な「整理の規律」がある。昼間の人の熱は引き出しにしまわれ、街灯の明かりも抑えめになる。どこかの路地を通りかかると、遠くで寺の鐘が一つ鳴る。それは「そろそろ書類を閉じる時間だ」と告げる音に似ている。

劉立澄の家は東山の斜面に建つ。中規模よりやや大きめの一戸建てで、庭があり、石灯籠があり、一年中あまり派手に葉を広げない木が一本立っている。木戸は厚く、閉めると重い音がする。その音は、外の世界の「誰が署名するか」をひとまず門の外に押しとどめる音でもあった。

彼は貧しい留学生ではない。生活費を最後の逃げ道として数えなくてはならない状況に追い込まれてはいない。家から与えられた金は、京都で研究をし、自分のやるべきことをするあいだ、顔を上げたままでいられるだけの厚い絨毯のようなものだ。その絨毯は彼を傲慢にするためではなく、逆に冷静にさせるためにある。名前すら守れないなら、どれほどの資源も、他人が利用するための材料にしかならない──そのことを、はっきりと教えてくれる。

庭にはわずかに夜露が降りていた。石畳がしっとりと濡れ、足裏に地面の冷たさがじかに伝わる。軒先の灯りが、苔むした一角を照らしていた。苔の緑は夜の中でいっそう濃く、墨の底に沈んだ生気のようだった。

綾女は玄関の中までは入らない。門口で足を止め、「外の気」をそこで切るように立ち位置を決める。

「今夜の分は、今夜のうちに帳面につけておいて。」と彼女は言う。「名前のことはね、一晩置くと味が変わる。」

劉立澄はうなずく。「そっちも、あまり遅くならないように。」と返した。

綾女はふっと笑い、踵を返す。マントの裾が軽く揺れ、二条城の冷たい鋭さを自分の衣の中に畳み直す。坂を下る背中は揺れず、灯りがしかるべき位置まで下がっていくようだった。

家の中は静かだった。

衣服を着替え、手を洗う。水が指のあいだを流れていく。手の甲を見下ろす。そこに名札が貼られた痕などないのに、皮膚の下にまだ、ごく薄い空欄がある気がした。奪われる名前とは、瞬間の出来事ではなく、世界全体の「習慣」によって空けられた欄なのだと、その空白が告げている。

台所では、手の込んだ支度はしない。豪華な料理で「生きた証」を証明する必要はない。小さな鍋に火をかけ、茶を湧かす。茶の香りが立ち上ると、この家の中に流れる「自分に属していい空気」がすぐに定まった。

夜食は小さな菓子皿だけ。けばけばしさも、くどい甘さもない。本当の京都の夜のように、端正で、慎み深く、底の方だけが温かい。

盆に載せて書斎へ運ぶ。障子はうっすらと月明かりを透かし、机の上は片づいている。ノートが開かれている。澄心剣は壁にもたせかけてあり、その鞘の影が畳の上に落ちて、一本のまっすぐな行のように伸びていた。

机に向かい、黒い小さな帳面を取り出す。

表紙は使い込まれて、角が少し擦れている。一頁一頁の文字が杭のように打ち込まれ、京都で遭遇した怪異を現実へと打ち留めている。怪異は人を驚かすためにあるのではない。京都が人の心の中でいちばん直視したくないものを、否応なく見せるためにある。

筆を取る。

書き出す。

「第十六件 二条城・奪われた名前。」

筆先が一瞬止まる。すぐに注記を書き連ねることはしない。まず茶碗を手に取り、一口啜る。温度が喉を通って落ちていく。そのあいだに、胸の奥にあった空欄は少しだけ埋まる。誰かに埋めてもらうのではなく、自分自身で。

それから、注釈を書く。

「名を他人に書かれれば、その人の生も他人に書かれる。

  名を奪う者は怪物とは限らない。しばしば、自分を『ルール』だと思い込んでいる。

  今夜は署名を元の線に戻したにすぎない。

  それを受け取り直す勇気があるかどうかは、彼ら自身のこと。

  私はただ、名前が『当然のように消える』ことを許さないと決めた。」

書き終え、帳面を閉じる。

庭の木の葉が風に揺れ、かすかな音を立てた。その音は二条城の外の冷えた音とは違う。一軒の家の呼吸に近い音だ。まだ、自分の名前の中に立っているのだと教えてくれる。

茶を飲み干し、菓子を食べきる。皿の縁に少しだけ欠片が残った。紙を切り落としたときの端のような欠片。だが今夜、その切れ端はもう誰かの作品集の中ではない。彼自身の夜の断片だ。

窓の外で、東山の夜は深くなっていく。遠くの灯りが斜面に点々とともり、まだ書き終えていない行のように連なっている。

すぐに次の話数のタイトルを書き出すことはしない。

灯りの明るさを少しだけ落とし、紙の上の文字がぎりぎり読める程度の光に調整する。

そして彼は、心の中で自分の名前をもう一度、静かに唱えた。

誰かに聞かせるためではない。自分に聞かせるために。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました

由香
キャラ文芸
後宮で怪異を祓う下級巫女・紗月は、ある日突然、「鬼」と噂される将軍・玄耀の妻になれと命じられる。 それは愛のない政略結婚―― 人ならざる力を持つ将軍を、巫女の力で制御するための契約だった。 後宮の思惑に翻弄されながらも、二人は「契約」ではなく「選んだ縁」として、共に生きる道を選ぶ――。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

あやかし家族 〜五人の兄と愛され末妹〜

南 鈴紀
キャラ文芸
 妖狩りにより両親を奪われ、囚われの身となった半妖の少女・鈴音は浄化の狐火を利用するだけの道具のように扱われていた。呪いにより成長は止まり、容姿も思考も幼いまま、感情が消え失せてもなおただ生かされるままに生きていた。  しかし妖保護部隊本部第一部隊との出会いにより、鈴音の止まっていた時間が動き出す。  掴みどころはないが頼れる氏神・雅仁、兄には厳しいが弟妹には優しい狼の妖・千里、人間嫌いだが人当たりの良い振りが得意な人間・遥杜、可愛いもの好きで元気いっぱいの猫又・鴇羽、大人しいが思いやりに溢れる猫又・瑠璃。  五人の兄と過ごす時間の中で、無いものだらけだった鈴音にもやがて大切なものが増えていく。  妖×家族の心温まる和風ファンタジー。

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

【完結】非モテアラサーですが、あやかしには溺愛されるようです

  *  ゆるゆ
キャラ文芸
疲れ果てた非モテアラサーが、あやかしたちに癒されて、甘やかされて、溺愛されるお話です。 名前が  *   ゆるゆ  になりましたー! 中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!

灯台の猫と、嘘をつく少女(キャラ文芸短編集)

倉木元貴
キャラ文芸
灯台の猫と、嘘をつく少女  海沿いの町に住む高校生・澪は、灯台に住みつく白猫の声が聞こえる。  猫は澪の“嘘”を見抜き、彼女の心の奥にある後悔を揺さぶる存在だった。  転校生の遥斗が澪の秘密に気づき、二人は白猫の正体を探り始める。 しかし灯台の取り壊しが迫る中、白猫は突然姿を消す。  取り壊し前夜、白猫は澪に「最後の嘘をついてほしい」と告げる。  澪がその嘘を口にした瞬間、白猫は静かに消え、澪は初めて“本音”で未来と向き合う。 紅葉に消える恋  秋の山里で沙耶は、不思議な青年と出会う。彼は人懐っこく優しいが、どこか秘密を抱えている。交流を重ねるうちに心を通わせる二人。しかし秋祭りの夜、月明かりの下で青年の正体が露わになる。

好吃

夜渦
キャラ文芸
租界と旧界が混じり合う街、海望(ハイワン)で骨董商を営む虎生(フーシャン)と居候の悪食(ウーシー)。悪食が食べてしまったのはヤクザ者の落とし物だった。けじめのために饕餮の眼を探せと言われるが…? 「だってお腹空いてたんだもん」 「最悪お前の目くりぬいて渡すからな、この羊野郎」

不思議図書館

良玄(りょーげん)
キャラ文芸
異世界転移もの。 主人公は小学生男子。 逆チートもの。

処理中です...