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第十七話・東寺・押しつけられた債(一)
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東寺の夜は、まず音をしまい込む。
五重塔は闇の中に立ち、一本の釘のように、天から地面へ打ち込まれている。風は塔の胴を一周してから石段へ落ちてきて、ただ薄い冷たさだけを残す。それは、誰かがそっと後ろ首に指を当て、力は入れていないのに――もう身動きが取れないと身体が悟ってしまう、あの感じに似ていた。
コンビニの深夜バイトは、本当は交代時間までただ耐え切るつもりだった。
ホットコーヒーのマシンをぴかぴかに拭き上げ、ガラス戸には値下げのポップが貼られている。レジ横のおでん鍋の火はとっくに落としてあり(冬だけの出番だ)、蛍光灯だけがずっとブンブンとうなっていた。ふと顔を上げると、自動ドアの外、駐車スペースのあたりに人影が一列、立っているのが見えた。
一列、また一列。
身なりはきちんとしている。スーツ、ウールコート、スーツスカート。靴先は揃い、何か記念撮影でもするのかと言いたくなる整列ぶり。その手首には、全員同じ細い紐が巻きついていた。麻ではなく、古い朱印袋を裂いて撚り直したような布紐で、きつく食い込んで薄い跡を残している。胸元には小さな冊子――名札ではない、小さな帳面がひとつずつぶら下がっていた。表紙は同じ黒なのに、開いても紙は見えず、ただ重さだけが沈んでいる影の塊のように見える。
店員は反射的に、深夜の撮影隊か、妙な宗教イベントかと思った。ドアを押しあけ、「何かお困りですか」と声をかけようとした、そのとき。ドアチャイムが鳴った瞬間、彼らの「顔」が見えた。
顔のあるべきところには輪郭だけがあり、目鼻がない。
まるで誰かが「人間」の部分をすべて消しゴムで消してしまい、「ハンコを押すための平面」だけを残していったみたいだ。じっと見つめていると、本能的に目や鼻や表情を書き足したくなってくる。だが、うまく足せない。足そうとするほど冷えていく。脳みそだけが何かのために残業させられている感じになる。
列の先頭の一体が、手を上げた。
そいつはコンビニには向かわない。路肩にちょうど止まったばかりの一台の車へ向かって歩いていく。車から降りた男は、電話を取りながら悪態をついていた。声には押し殺した苛立ちがにじむ。
「オレは保証会社じゃないんだぞ。もう一回助けてやっただろうが」
男が「一回助けてやった」と言い終えるより早く、あの無顔の人影は静かにしゃがみこんだ。
男の足元に落ちた影を、そっと押さえつける。
皺の寄った紙を伸ばすような、穏やかな動き。影がぺたりと平らになった瞬間、男のスマホが震えた。
着信ではない。
メッセージだ。
続けざまに二通、三通――督促通知、返済のリマインド、保証契約のスクリーンショット、そして見覚えのない「同意済み電子署名」の画像。まるで、自分の知らないところで、名前だけがどこかの契約書に勝手に押しつけられていたかのように。
男の顔から血の気がさっと引いた。電話の向こうはまだ何か喋っているが、もう耳に入らない。スマホの画面を確かめようと腰をかがめようとするが、膝が曲がらない。影のあたりから、何かに足首をつかまれているようで、どうしても折れないのだ。あの無顔の人影が、手首の布紐をひと振りする。
「パチン。」
ハンコを打つ音に似た小さな音。
男の影の上に、薄い暗紅色の印が、かすかに浮かび上がった。
コンビニ店員は入口に突っ立ったまま、持っていたコーヒーカップを指から落とした。紙コップが床に当たってはじけ、苦い香りが一気に広がる。逃げようとするのに、足は五重塔の影に釘付けにされたみたいに動かない――東寺の影は広すぎて、臆病さですらその中に回収されてしまう。
あの一列の無顔たちは、そのまま前へと進んでいった。
急ぎもせず、慌てもせず。
一歩ごとに、地面へハンコを押していくように。
こうして東寺の夜は、「債」を人の影から押し出し、「ノー」と言う暇も与えないまま、地面へ押しつけていくのだった。
五重塔は闇の中に立ち、一本の釘のように、天から地面へ打ち込まれている。風は塔の胴を一周してから石段へ落ちてきて、ただ薄い冷たさだけを残す。それは、誰かがそっと後ろ首に指を当て、力は入れていないのに――もう身動きが取れないと身体が悟ってしまう、あの感じに似ていた。
コンビニの深夜バイトは、本当は交代時間までただ耐え切るつもりだった。
ホットコーヒーのマシンをぴかぴかに拭き上げ、ガラス戸には値下げのポップが貼られている。レジ横のおでん鍋の火はとっくに落としてあり(冬だけの出番だ)、蛍光灯だけがずっとブンブンとうなっていた。ふと顔を上げると、自動ドアの外、駐車スペースのあたりに人影が一列、立っているのが見えた。
一列、また一列。
身なりはきちんとしている。スーツ、ウールコート、スーツスカート。靴先は揃い、何か記念撮影でもするのかと言いたくなる整列ぶり。その手首には、全員同じ細い紐が巻きついていた。麻ではなく、古い朱印袋を裂いて撚り直したような布紐で、きつく食い込んで薄い跡を残している。胸元には小さな冊子――名札ではない、小さな帳面がひとつずつぶら下がっていた。表紙は同じ黒なのに、開いても紙は見えず、ただ重さだけが沈んでいる影の塊のように見える。
店員は反射的に、深夜の撮影隊か、妙な宗教イベントかと思った。ドアを押しあけ、「何かお困りですか」と声をかけようとした、そのとき。ドアチャイムが鳴った瞬間、彼らの「顔」が見えた。
顔のあるべきところには輪郭だけがあり、目鼻がない。
まるで誰かが「人間」の部分をすべて消しゴムで消してしまい、「ハンコを押すための平面」だけを残していったみたいだ。じっと見つめていると、本能的に目や鼻や表情を書き足したくなってくる。だが、うまく足せない。足そうとするほど冷えていく。脳みそだけが何かのために残業させられている感じになる。
列の先頭の一体が、手を上げた。
そいつはコンビニには向かわない。路肩にちょうど止まったばかりの一台の車へ向かって歩いていく。車から降りた男は、電話を取りながら悪態をついていた。声には押し殺した苛立ちがにじむ。
「オレは保証会社じゃないんだぞ。もう一回助けてやっただろうが」
男が「一回助けてやった」と言い終えるより早く、あの無顔の人影は静かにしゃがみこんだ。
男の足元に落ちた影を、そっと押さえつける。
皺の寄った紙を伸ばすような、穏やかな動き。影がぺたりと平らになった瞬間、男のスマホが震えた。
着信ではない。
メッセージだ。
続けざまに二通、三通――督促通知、返済のリマインド、保証契約のスクリーンショット、そして見覚えのない「同意済み電子署名」の画像。まるで、自分の知らないところで、名前だけがどこかの契約書に勝手に押しつけられていたかのように。
男の顔から血の気がさっと引いた。電話の向こうはまだ何か喋っているが、もう耳に入らない。スマホの画面を確かめようと腰をかがめようとするが、膝が曲がらない。影のあたりから、何かに足首をつかまれているようで、どうしても折れないのだ。あの無顔の人影が、手首の布紐をひと振りする。
「パチン。」
ハンコを打つ音に似た小さな音。
男の影の上に、薄い暗紅色の印が、かすかに浮かび上がった。
コンビニ店員は入口に突っ立ったまま、持っていたコーヒーカップを指から落とした。紙コップが床に当たってはじけ、苦い香りが一気に広がる。逃げようとするのに、足は五重塔の影に釘付けにされたみたいに動かない――東寺の影は広すぎて、臆病さですらその中に回収されてしまう。
あの一列の無顔たちは、そのまま前へと進んでいった。
急ぎもせず、慌てもせず。
一歩ごとに、地面へハンコを押していくように。
こうして東寺の夜は、「債」を人の影から押し出し、「ノー」と言う暇も与えないまま、地面へ押しつけていくのだった。
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