98 / 109
第十七話・東寺・押しつけられた債(二)
しおりを挟む
綾女は、人を案内するとき、決していちばん明るい道は選ばない。
東寺の南門の外、人が途切れた参道を外れて、細い路地へと入り込む。格子戸の古い町家が並び、軒先には小さな灯が一つ、二つ。光は強くないが、澄んでいる。灯の下の風には、うっすらと炭の匂いと、京都にしかないあの気配――「規矩」「含み」、そして袖口に切っ先を隠したような鋭さ――が混じっていた。
戸を押し開けると、店内には他の客はいなかった。
いつもの「二人だけ」の常連の席。カウンターは大きくはないが、木目が磨かれて艶があり、壁には一枚の古い絵、淡い墨で描かれた五重塔の輪郭が掛かっている。墨は今にも滲みそうな、かすかな濃さだ。
「まずは食べて」綾女は手際よくエプロンを結びながら言った。言葉も一緒にきゅっと結び直すような手つきで。
「お腹を満たしてから、人がどうやって押しつけられるかを見に行こう」
最初に出てきたのは、蒸し寿司だった。
木の箱の蓋を開けると、まず湯気がふわりと立ちのぼる。霧みたいに目の前にかかる。酢飯は一度蒸され、粒はふんわりしながらも崩れず、熱で酸味が少し丸くなっているのに、その酸は底でちゃんと立っている。上にはうなぎ、海老、椎茸、錦糸玉子が重なっていて、見た目は柔らかい「ちゃんと暮らしています」という顔をしている。だが一口頬張れば、その柔らかさの中に重さが潜んでいるのがわかる――湯気が喉元に味を押し上げてきて、帳簿をめくったときの紙の重みみたいな圧がかかる。
二皿目は、鰻肝の吸い物。
汁は文字通り白紙のように澄み切っているのに、その中に沈んでいる鰻の肝が、舌の根を最初にかすかに叩く。軽い苦味がそっと触れて、次の瞬間の余韻の甘みがゆっくりと這い上がってくる。その苦さは不快ではない。「ずっと我慢してきた」種類の苦さだ――口に出さなければ、周りは「平気なんだ」と決めつける類の。
綾女は、炙った聖護院かぶらも出した。
丸く厚く切った聖護院かぶらは、表面に焦げ目が浮かび、縁がぷつぷつと泡立っている。火にあぶられた正直さがにじみ出ているようだ。塩だけをぱらりと振り、柑橘を少し絞る。酸と塩が一緒になって、かぶら本来の甘さを最高に引き立てる。その甘さは、「本当は断るべきだと思いながら、頷いてしまった」瞬間の味に似ている。
最後に出てきたのは、酒盗クリームチーズ。
クリームチーズのまろやかさを、酒盗のしょっぱく濃い旨味が一口で噛み破る。それは、借金が喉元に噛みついてくる一瞬にそっくりだ――気づいたときには、もう印を押されている。
劉立澄は、外で何が起きているのかを急いで尋ねはしなかった。
食べている間じゅう、彼の視線は綾女の手から離れない。包丁を入れるとき、汁をよそうとき、焼き面を返すとき――ひとつひとつが過不足なく収まっている。京都の料理人に沁みついた「段取りの感覚」は、彼女の身体の上で薄い甲冑のように光っている。柔らかく見えるのに、一手ごとに計算がある。
「さっきの一列の連中」劉立澄は鰻肝の吸い物をひと口飲み、苦味と甘みが口の中で落ち着くのを待ってから言った。
「あれは、この前の『名前を奪われる』やつじゃない」
「違うわ」綾女は蒸し寿司の蓋を半分閉じ、言葉も一緒にしまい込むようにした。
「名前は奪われても、まだ取り返しようがある。債務を押しつけられたら――『私は同意してない』って言う暇すらない」
彼女はふっと顔を上げ、刃先の光のような声で続けた。
「ある人たちはね、功績を奪うんじゃないの」
「あなたが“尻拭いできる人”である資格を奪いに来る」
劉立澄は箸を置き、指先で卓を軽く一度叩いた。
龍脈が聞こえた。
東寺周辺の龍脈は、平安神宮みたいに一直線に押さえつけられてもいないし、二条城みたいに名前を貨幣に変えてもいない。それは鎖に近い――寺社、庶民、取引、誓い、言い訳。一つひとつが輪になり、最後には「誰かに押しつけられた責任」を締め上げる鎖になる。
「担保の残形だな」彼は胸の内で呟く。
綾女は肯定も否定もしない。ただ最後の小さな皿を出した。
最中。
薄い皮は、噛むとすぐに砕けるのに、中の餡はどっしりと重く、一冊分の帳簿でも詰め込んだようだ。その甘さは、愛想のいい甘さではなく、「十年も背負ってきた」甘さだ――慣れてしまったがゆえに、周囲も「これからも背負い続けて当たり前」と決めつけてくる。
「食べたら行こう」綾女は言った。
「今日は、遠くまで術を伸ばさないこと」
「わかってる」
「東寺の連中はね」彼女は言葉をひとつ足した。
「あなたを地面に押さえつけて、自分の口で『私がやります』って言わせるのが好きなの」
劉立澄は、最中の最後のひとかけらを飲み込んだ。
小豆の重い甘さが胸のあたりで石のように沈む。その石は同時に、文鎮のようでもあった――今夜書くべきなのは、請求書じゃない。「拒絶」という文字を、もう一度書き戻すことだと教えてくれる重さ。
彼は立ち上がる。
「行こう」そう言った。
「印を剥がしに」
東寺の南門の外、人が途切れた参道を外れて、細い路地へと入り込む。格子戸の古い町家が並び、軒先には小さな灯が一つ、二つ。光は強くないが、澄んでいる。灯の下の風には、うっすらと炭の匂いと、京都にしかないあの気配――「規矩」「含み」、そして袖口に切っ先を隠したような鋭さ――が混じっていた。
戸を押し開けると、店内には他の客はいなかった。
いつもの「二人だけ」の常連の席。カウンターは大きくはないが、木目が磨かれて艶があり、壁には一枚の古い絵、淡い墨で描かれた五重塔の輪郭が掛かっている。墨は今にも滲みそうな、かすかな濃さだ。
「まずは食べて」綾女は手際よくエプロンを結びながら言った。言葉も一緒にきゅっと結び直すような手つきで。
「お腹を満たしてから、人がどうやって押しつけられるかを見に行こう」
最初に出てきたのは、蒸し寿司だった。
木の箱の蓋を開けると、まず湯気がふわりと立ちのぼる。霧みたいに目の前にかかる。酢飯は一度蒸され、粒はふんわりしながらも崩れず、熱で酸味が少し丸くなっているのに、その酸は底でちゃんと立っている。上にはうなぎ、海老、椎茸、錦糸玉子が重なっていて、見た目は柔らかい「ちゃんと暮らしています」という顔をしている。だが一口頬張れば、その柔らかさの中に重さが潜んでいるのがわかる――湯気が喉元に味を押し上げてきて、帳簿をめくったときの紙の重みみたいな圧がかかる。
二皿目は、鰻肝の吸い物。
汁は文字通り白紙のように澄み切っているのに、その中に沈んでいる鰻の肝が、舌の根を最初にかすかに叩く。軽い苦味がそっと触れて、次の瞬間の余韻の甘みがゆっくりと這い上がってくる。その苦さは不快ではない。「ずっと我慢してきた」種類の苦さだ――口に出さなければ、周りは「平気なんだ」と決めつける類の。
綾女は、炙った聖護院かぶらも出した。
丸く厚く切った聖護院かぶらは、表面に焦げ目が浮かび、縁がぷつぷつと泡立っている。火にあぶられた正直さがにじみ出ているようだ。塩だけをぱらりと振り、柑橘を少し絞る。酸と塩が一緒になって、かぶら本来の甘さを最高に引き立てる。その甘さは、「本当は断るべきだと思いながら、頷いてしまった」瞬間の味に似ている。
最後に出てきたのは、酒盗クリームチーズ。
クリームチーズのまろやかさを、酒盗のしょっぱく濃い旨味が一口で噛み破る。それは、借金が喉元に噛みついてくる一瞬にそっくりだ――気づいたときには、もう印を押されている。
劉立澄は、外で何が起きているのかを急いで尋ねはしなかった。
食べている間じゅう、彼の視線は綾女の手から離れない。包丁を入れるとき、汁をよそうとき、焼き面を返すとき――ひとつひとつが過不足なく収まっている。京都の料理人に沁みついた「段取りの感覚」は、彼女の身体の上で薄い甲冑のように光っている。柔らかく見えるのに、一手ごとに計算がある。
「さっきの一列の連中」劉立澄は鰻肝の吸い物をひと口飲み、苦味と甘みが口の中で落ち着くのを待ってから言った。
「あれは、この前の『名前を奪われる』やつじゃない」
「違うわ」綾女は蒸し寿司の蓋を半分閉じ、言葉も一緒にしまい込むようにした。
「名前は奪われても、まだ取り返しようがある。債務を押しつけられたら――『私は同意してない』って言う暇すらない」
彼女はふっと顔を上げ、刃先の光のような声で続けた。
「ある人たちはね、功績を奪うんじゃないの」
「あなたが“尻拭いできる人”である資格を奪いに来る」
劉立澄は箸を置き、指先で卓を軽く一度叩いた。
龍脈が聞こえた。
東寺周辺の龍脈は、平安神宮みたいに一直線に押さえつけられてもいないし、二条城みたいに名前を貨幣に変えてもいない。それは鎖に近い――寺社、庶民、取引、誓い、言い訳。一つひとつが輪になり、最後には「誰かに押しつけられた責任」を締め上げる鎖になる。
「担保の残形だな」彼は胸の内で呟く。
綾女は肯定も否定もしない。ただ最後の小さな皿を出した。
最中。
薄い皮は、噛むとすぐに砕けるのに、中の餡はどっしりと重く、一冊分の帳簿でも詰め込んだようだ。その甘さは、愛想のいい甘さではなく、「十年も背負ってきた」甘さだ――慣れてしまったがゆえに、周囲も「これからも背負い続けて当たり前」と決めつけてくる。
「食べたら行こう」綾女は言った。
「今日は、遠くまで術を伸ばさないこと」
「わかってる」
「東寺の連中はね」彼女は言葉をひとつ足した。
「あなたを地面に押さえつけて、自分の口で『私がやります』って言わせるのが好きなの」
劉立澄は、最中の最後のひとかけらを飲み込んだ。
小豆の重い甘さが胸のあたりで石のように沈む。その石は同時に、文鎮のようでもあった――今夜書くべきなのは、請求書じゃない。「拒絶」という文字を、もう一度書き戻すことだと教えてくれる重さ。
彼は立ち上がる。
「行こう」そう言った。
「印を剥がしに」
0
あなたにおすすめの小説
あやかし家族 〜五人の兄と愛され末妹〜
南 鈴紀
キャラ文芸
妖狩りにより両親を奪われ、囚われの身となった半妖の少女・鈴音は浄化の狐火を利用するだけの道具のように扱われていた。呪いにより成長は止まり、容姿も思考も幼いまま、感情が消え失せてもなおただ生かされるままに生きていた。
しかし妖保護部隊本部第一部隊との出会いにより、鈴音の止まっていた時間が動き出す。
掴みどころはないが頼れる氏神・雅仁、兄には厳しいが弟妹には優しい狼の妖・千里、人間嫌いだが人当たりの良い振りが得意な人間・遥杜、可愛いもの好きで元気いっぱいの猫又・鴇羽、大人しいが思いやりに溢れる猫又・瑠璃。
五人の兄と過ごす時間の中で、無いものだらけだった鈴音にもやがて大切なものが増えていく。
妖×家族の心温まる和風ファンタジー。
後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました
由香
キャラ文芸
後宮で怪異を祓う下級巫女・紗月は、ある日突然、「鬼」と噂される将軍・玄耀の妻になれと命じられる。
それは愛のない政略結婚――
人ならざる力を持つ将軍を、巫女の力で制御するための契約だった。
後宮の思惑に翻弄されながらも、二人は「契約」ではなく「選んだ縁」として、共に生きる道を選ぶ――。
【完結】非モテアラサーですが、あやかしには溺愛されるようです
* ゆるゆ
キャラ文芸
疲れ果てた非モテアラサーが、あやかしたちに癒されて、甘やかされて、溺愛されるお話です。
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
灯台の猫と、嘘をつく少女(キャラ文芸短編集)
倉木元貴
キャラ文芸
灯台の猫と、嘘をつく少女
海沿いの町に住む高校生・澪は、灯台に住みつく白猫の声が聞こえる。
猫は澪の“嘘”を見抜き、彼女の心の奥にある後悔を揺さぶる存在だった。
転校生の遥斗が澪の秘密に気づき、二人は白猫の正体を探り始める。
しかし灯台の取り壊しが迫る中、白猫は突然姿を消す。
取り壊し前夜、白猫は澪に「最後の嘘をついてほしい」と告げる。
澪がその嘘を口にした瞬間、白猫は静かに消え、澪は初めて“本音”で未来と向き合う。
紅葉に消える恋
秋の山里で沙耶は、不思議な青年と出会う。彼は人懐っこく優しいが、どこか秘密を抱えている。交流を重ねるうちに心を通わせる二人。しかし秋祭りの夜、月明かりの下で青年の正体が露わになる。
捨てられた王妃は情熱王子に攫われて
きぬがやあきら
恋愛
厳しい外交、敵対勢力の鎮圧――あなたと共に歩む未来の為に手を取り頑張って来て、やっと王位継承をしたと思ったら、祝賀の夜に他の女の元へ通うフィリップを目撃するエミリア。
貴方と共に国の繁栄を願って来たのに。即位が叶ったらポイなのですか?
猛烈な抗議と共に実家へ帰ると啖呵を切った直後、エミリアは隣国ヴァルデリアの王子に攫われてしまう。ヴァルデリア王子の、エドワードは影のある容姿に似合わず、強い情熱を秘めていた。私を愛しているって、本当ですか? でも、もうわたくしは誰の愛も信じたくないのです。
疑心暗鬼のエミリアに、エドワードは誠心誠意向に向き合い、愛を得ようと少しずつ寄り添う。一方でエミリアの失踪により国政が立ち行かなくなるヴォルティア王国。フィリップは自分の功績がエミリアの内助であると思い知り――
ざまあ系の物語です。
火輪の花嫁 ~男装姫は孤高の王の夢をみる~
秦朱音|はたあかね
キャラ文芸
王を中心に五家が支配する、綺羅ノ国。
五家に覡(かんなぎ)として仕える十六夜家の娘、久遠(くおん)は、幼い頃から男として育てられてきた。
都では陽を司る日紫喜家の王が崩御し、素行の悪さで有名な新王・燦(さん)が即位する。燦の后選びに戦々恐々とする五家だったが、燦は十六夜家の才である「夢見」を聞いて后を選ぶと言い始めた。そして、その夢見を行う覡に、燦は男装した久遠を指名する。
見習いの僕がこの国の后を選ぶなんて、荷が重すぎる――!
久遠の苦悩を知ってか知らずか、燦は強引に久遠を寝室に呼んで夢見を命じる。しかし、初めて出会ったはずの久遠と燦の夢には、とある共通点があって――?
謎に包まれた過去を持ち身分を隠す男装姫と、孤独な王の恋と因縁を描く、和風王宮ファンタジー。
※カクヨムにも先行で投稿しています
後宮なりきり夫婦録
石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」
「はあ……?」
雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。
あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。
空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。
かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。
影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。
サイトより転載になります。
烏の王と宵の花嫁
水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。
唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。
その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。
ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。
死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。
※初出2024年7月
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる