京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

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第十七話・東寺・押しつけられた債(三)

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     東寺の外壁の黒は、街の大抵の夜よりも濃い。

堀は暗渠に変わり、水音は小さいが途切れない。五重塔の方角から風が吹いてくると、空気には古い線香の灰の匂いと、夜の湿った石の匂いが混じる――長く放置された帳簿のカビの匂いに似ている。鼻を刺すわけではないが、ページを開くと胸が重くなる、あの匂いだ。

二人が石段の近くまで来ると、あの無顔の人影の列が見えた。

列はさっきより長くなっている。

もう一人だけを押すのではない。まるで流れ作業のようだ。一人が影を押さえ、一人が手首の紐を跳ね上げ、一人が帳簿をめくる。その一連の動作が終わるごとに、地面には暗紅色の印がひとつ浮かび上がる。印は光らない。だが五重塔の影に押さえ込まれているみたいで、いつまで経っても消えない。

押さえつけられているのは、観光客ではほとんどない。

夜まで働いている人間たちだ。配達員、夜勤のドライバー、コンビニの店員、きちんとした格好なのに目だけ疲れ切った会社員。顔に共通しているのは、恐怖ではなく――「もう慣れました」という表情だ。押しつけられているのは借金そのものではなく、「子どもの頃から叩き込まれた従順さ」そのものだと言いたくなる。

担保の残形の匂いは、ここではあまりに露骨だ。

それは金の匂いではない。

「今回だけ頼む」「ここは助け合いだろ」「一番頼りになるのはお前なんだから」――そういう言葉の匂いだ。

日常なら褒め言葉に聞こえる文句が、今夜は呪いのように響く。

残形の姿も、人影だけでは終わらない。

彼らは帳簿を背負っている。

帳簿の表紙には文字がない。その代わりに、無数の署名を上から押し固めて白線にしたような、凸凹の線が幾本も走っている。ページをめくるたび、空中には契約書の影が一枚、また一枚と浮かび上がる――内容は読めない。ただ、いちばん下の欄だけがはっきり見える。署名欄だ。

その署名欄の文字は、サインした本人の筆跡ではない。

誰かが勝手に名前を持ち出し、「責任」のほうだけをそっと押し戻してきたような痕跡。

劉立澄は暗がりに身を沈め、目を閉じてから、より深い視界を開いた。

ここでの龍脈は一本の線ではなく、細い鎖が幾筋も重なり合っている。

鎖は東寺の影から伸びて、押さえつけられている人々を繋ぎ、その先は街のさらに遠くへ――銀行のネオン、会社の会議室、家庭の食卓の沈黙、「いい人だから、わかってくれるよ」という身内の期待――に結びついている。

「陣の要は?」綾女が小声で問う。

「手首の結び目だ」劉立澄は答えた。

すべての印章紐の結び目は、きっちりと同じ位置――内側の脈を打つあたり――にある。それは見栄えのためではない。「この紐は身体の一部だ」と思い込ませるためだ。一度でも巻いてしまえば、「仕方がない」「自分の役目だ」と錯覚しやすくなる。

さらに陰険なのは、結び目のあたりの光が、不自然なほど暗いことだ。

「拒む」という機能を剥ぎ取られたあとの空洞のように。

「押しつけているのは、借金だけじゃないわね」綾女は無顔たちを見つめながら言った。

「『反抗』そのものを地面に押しつけてる」

劉立澄は何も返さない。

ただ、懐に手を差し入れた。

澄心剣の鞘は肋骨に沿っていて、衣の下で温度を保っている。その反対側には、龍牙――削り出された骨のように短く冷たい刀。

今夜自分がやるべきことは、ただ怪異を斬り散らすことではない。

押しつけられた「同意」を剥がし、「拒絶」という一行を、もう一度書き戻すことだ。

そのとき、列の先頭の無顔たちがふっと動きを止めた。

全員が同じ方向へ、首をほんのわずかに傾ける。

誰かが、無言で「指名」したかのように。

風が運ぶ布擦れの音が、かすかに響いた。

誰かが、やって来た。
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