貴方色に染まる

浅葱

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本編

114.天津 ※注意事項あり

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※今回は精神的にかなりきつい描写が入ります。読まれる方は自己責任でお願いします※


 天津府は都から一番近い海の玄関口である。
 都から南東の方角へ約百五十公里(km)行ったところにある、海沿いの町だ。
 古くは隋の時代に大運河が開通し、南運河と北運河の交差地点の三会海口がその発祥である。唐代に入り、8世紀半ば以降南方からの食糧輸送基地となった。時代の変遷と共にその後、食糧輸送以外にも軍事拠点としての要衝とされた。
 しかし18世紀以降他大陸との貿易が始まると、遠く離れた南の港から段階的に対外に開港し、19世紀後半には天津港も対外貿易用として一部を開放した。
 本来都に一番近い港は対外的に開放しないものだが、唐は四神に守られた国という自負がある。唐の皇家が四神を怒らせない限り、神の加護がこの大陸を覆っているというのは周知の事実だった。
 その為唐は他の大陸からの貿易船を鷹揚に受け入れ、絶妙な舵取りをしている。
 中でもセレスト王国は貿易相手国としては優秀で、半年に一度沢山の貿易船が天津に寄港していた。
 セレスト王国からの主な輸入品は香料や香油で、唐から主に輸出されているのは茶葉や色鮮やかな陶磁器類だった。ほぼ物々交換で済んでいると言ってもいい貿易は、両国間の関係を友好なものとしている。

 王都から一歩出れば人通りは一気に少なくなる。馬車はそれからもしばらく走り続けたが、やがて止まった。そこで降り、紅児ホンアールは御者に礼を言った。御者は口元に笑みを履いてそれに応えた。
 そこから先は紅夏ホンシャーに抱かれて移動する。今回は荷物がそれほどないので紅夏が背負う程度で済んだ。
 紅児はこれからの不安を誤魔化すように、紅夏にぎゅうっと抱きついた。
 腰に下げた守り袋の中には暖石ヌワンシーと花嫁からの手紙が入っている。それだけでも心強く感じるが、やはり人肌に勝るものはない。
 途中天津府に入る際足を止めた他は走り続け、夜の帳が訪れる頃には馬車との待ち合わせの場所に着いた。
 御者はグッテンバーグ商会に雇われた者らしく、まずは今夜泊まる宿に向かいますと教えてくれた。そこで叔父が待っているという。
 紅児は思わず紅夏の衣服の袖を掴んだ。
 いよいよである。
 紅夏曰く天津府の中心を避けて移動したらしい。すでに海の近くまで来ているのだという。馬車の窓からはこの国特有の黒髪だけでなく、時折茶や金髪の人も見られた。だがそれらの人を指さしたり凝視する者はいない。貿易の港としても栄える天津では外国人の往来などもはや珍しいものではなかった。

(……港に、来たんだわ)

 潮の香が風に乗って紅児の鼻をくすぐった。馬車は川沿いの道を東へ東へと進んでいく。その川幅が徐々に広くなっていくのを確認し、海に続いているのだと実感した。
 そうして、馬車が止まる。
 紅児はやっと反対側の窓の外に目を向けた。

(あ……)

 パッと見たところセレスト王国風の建物のようだった。扉の表から着いたことを知らされ、紅夏に促されるまま馬車を降りる。

「わぁ……」

 建物を見上げ、周りを見渡す。明かりは全て光石グワンシーを使っているのだろうか、その橙色の光の中で祖国を思わす建物が並んでいた。
 ここはまだ唐のはずなのに、街灯も道も建物も唐のものとは違う。思わずすでに自分はセレスト王国に帰りついているのかと錯覚するほど、その佇まいはそっくりに見えた。もちろん往来を歩く人の半分以上は唐の服装をしており、漢語がちらほら聞こえてくる。自分もまた漢服を着、隣にいる紅夏も漢服姿だ。もっと心にも時間にも余裕がある時にここを訪れたなら、3年前の自分のように楽しめたのではないかと紅児は思う。
 ゆっくりと歩みを進め、建物の入口から中に入ったところで紅夏が足を止めた。

「ここで待つようにとのことだ」

 祖国でよく見た革張りの椅子に腰かけるよう促され、紅児は吹き抜けの天井を見上げた。シャンデリアがつられているのを見てこんなところまで、と思う。シャンデリアの照明は蝋燭ではない。一つ一つ光石を使っていることに気付いて、ここはどんなに高級なホテルなのだろうと呆れた。飾られている調度品は四神宮でも見られるような大きな壺など、唐の文物ばかりである。その絶妙な組み合わせを紅児は好ましいと感じた。
 召使いと思しき人がお茶とお菓子を置いて去っていく。紅児はそれにありがたく口をつけた。
 そうして周りを観察したりしている間に連絡がいったらしい。二階から叔父が降りてくるのが見えた。紅児は思わず紅夏の腕に触れる。

〈大丈夫だ〉

 心話が届く。紅児は口元に笑みを浮かべ、立ち上がった。

『エリーザ、疲れているところすまないがこれから港に向かう。……それで君もかまわないだろうか』

 ちら、と紅夏にきつい眼差しを向ける叔父を大人げないと思いながら、紅児は夫を見上げた。

『かまいません』
『では行こう』

 叔父に促され建物を出る。先ほどの御者が恭しく馬車の扉を開けてくれた。
 当然のように紅児の隣に腰かける紅夏に、叔父は眉を寄せたものの何も言わなかった。
 胸がどきどきする。
 自分がひどく緊張していることに紅児は気付いた。そんな紅児の手を紅夏が優しく握る。それだけで少しほっとした。

『……お前たちの荷物はすでに船に積み込んである。先に船長のグスタフに引き合わせる。粗相のないようにな』
『はい』

 叔父は言いたいだけ言うと目を閉じた。姪とその夫の仲の良さを見たくなかったのかもしれない。
 馬車は川沿いの道をそれほど長く走ることなく目的地に着いた。
 紅児は無意識の内に紅夏の手をきつく握る。胸が早鐘を打ち、今にも口から心臓が出てしまうのではないかと思うほど緊張していた。
 そんな紅児を半ば抱きかかえるようにして紅夏が降りる。
 暗い中、大きな船が何隻も目に飛び込んできた。
 ここは、港。

(港、なんだわ……)

 なんともいえない感情が沸き上がってくる。緊張だけではない、嫌な汗が背筋を伝った。
 街灯と、船からの灯りで周りはそれなりに明るい。ほどなくして立派な帽子を被った男性が近づいてくるのが見えた。
 叔父がその人に近づく。きっと船長なのだろうと思ったが、足が言うことを聞かなかった。

(やっぱり……乗れないの……?)

 顔から血の気が引いていく。

『エリーザ、こちらが王国のアリーナ号の船長であるグスタフだ。グスタフ、こちらが……四神の眷属である紅夏殿と姪のエリーザだ』

 叔父は紅児の様子に気付かず、船長を2人に紹介した。

『ほぅ……こちらが四神の眷属様ですか。四神が船に加護を与えていただいたこと、大変感謝しております』

 船長という男性はそう律儀にも頭を下げた後、紅児の様子に気付いたらしかった。

『おや? こちらのお嬢さんは顔色が悪いようですが……』
『王都から移動してきたばかりだから疲れているのだろう』

 船長が紅児を窺おうとするのを、叔父が遮る。紅夏は眉を寄せた。

『さぁエリーザ、船の中を案内しよう』

 そう言って叔父は紅児の腕を取り、引っ張った。

『あ……』

 首の後ろが痺れ、冷汗がだらだらと背中を伝う。
 体が小刻みに震え始め、紅児は(無理だ)と直感した。

(ごめんなさい)

 謝ろうと思うのに、声が出ない。
 叔父はそんな状態の紅児を知ってか知らずか半ば引きずるようにして船に向かおうとしている。

 乗れない、乗れない、乗れない。

 冷汗がひどくなる。体の震えが止まらない。
 呼吸が荒くなる。
 息が、息が……。

『グッテンバーグ殿、なんの真似か!?』

 反対の手をつないでいた紅夏の手が紅児を引き寄せる。そうして紅児は紅夏の腕の中に戻ることができた。ハッハッと短くなっていた呼吸が途端気にならなくなる。まだしばらく自分の力では動けそうになかったが、紅児はひどく安堵した。

『……なんの真似も何も、エリーザは連れ帰ると言ったはずだ。船に乗れるかどうかの試しをするのだろう? そのままでもいいから着いてきてくれ』

 平然とした叔父の言葉に紅児はぞっとした。こんな状態で船に乗ったらどうなるかわからない。ただでさえ震えは止まらないし、冷汗もかいているというのに。
 紅夏は鋭い眼差しを叔父に向けた。

『貴方はエリーザがこれだけ震えているというのにわからないのか。今回は無理です。申し訳ないがご母堂にはいずれ帰国すると伝えてほしい』

 だが叔父は引き下がらなかった。

『そんなもの! 船に乗せてしまえばどうとでもなる! ひどい船酔いをする者もいるが乗っているうちにいずれ慣れるはずだ!』

 紅児は愕然とした。
 叔父はいったい何を言っているのだろう。

『……失礼ですが姪御さんは体調がすぐれない様子。今夜はひとまず宿で体を休めた方がいいのでは……』

 さすがにおかしいと思ったのか、船長が声をかけてきた。けれど叔父は強硬に紅児を船に乗せることにこだわった。

『乗れば、乗ってしまえばたいしたことはないと気付くはずだ! 来い!』

 叔父の剣幕に、紅児は弱弱しく首を振った。
 絶対に無理だと思った。
 そう思った時、それまで忘れていたことが脳裏に一気に浮かび上がってきた。


 3年前のあの日の朝、ここから船に乗った。
 大陸間はそれほど遠くはないが、国と国との関係の為、北周りに戻るらしいのだと聞いた。
 穏やかな波、どこまでも続く静かな水平線。水面に当たる太陽の光がきらきらと光ってとても綺麗だった。
 紅児はそれがずっと続くのだと信じて疑わなかった。
 けれどその夜激しい嵐が船を襲い、様子を見に行った父の後を追って階段を上った時、そのまま一気に甲板へ投げ出された。衝撃が全身を襲い、その後に激しい痛みを覚えた。けれどそれだけでは終わらなかった。再び激しい揺れが船を襲い、とうとう紅児は海へ投げ出されてしまったのだった。

 冷たい……!!

 まもなく春になろうという頃の水温は身体が凍りそうなほど冷たかった。

 冷たい……苦しい……痛い……苦しい……つらい……

 誰か、誰か……ママ……パパ……

 ママ……ママ……

 水面に顔を出すこともできず、荒ぶる波に翻弄され、呼吸もできず、身体の感覚もなくなり―紅児は意識を失った。


『……ぃいやあああああああああああああっっっ!!! パパッ! パパッ! ママッ! ママァッ! あああああああああっっ!! ああああああああ……』

 あの死にゆく感覚を思い出した紅児は紅夏の腕の中で声も限りに泣き叫んだ。紅夏がその体をきつく抱きしめる。
 その尋常でないさまを目の当たりにして、さすがの叔父もはっとしたようだった。

『どうして……何故なんだ……』

 叔父は呆然としたように、その場で顔を覆った。
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