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ビューティフル・チャイルド

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 何のために戦ったの?

 誰のための戦いだったの?

 それすらわからぬままに、

 あなたは拳を握る。

 勇者、聞いてちょうだい。

 きっとあなたの目には映らない、

 あなたの背後に近づく闇は、

 絶望と悪夢の連続。

 だから気づいて。

 自分が勇敢だと示す必要はないの。

 早く気づいて。

 身に余るような幸運をあなたに授けたのは、

 一体誰だったのか。

 あなたは誰なのか。

 何のために戦うのか。

 誰のために戦うのか……。




 ハシバミの枝にとまる、白い小鳥が歌う。

 窓を大きく開いて、魔王はどす黒く言う。

「殺されたいのか。不愉快な歌を歌うやつだ」

 小鳥が、ピタッと歌うのをやめた。

『ここのところ、毎日きてますねー、あの小鳥』

「ラッド、仕事は慣れたか?」

『ああ、いえ。全然……』

「パーチにかまってばかりだからだ。あいつにも言っとけ。あんまりもたもたしてると、おまえの死体を煮て焼いて食うぞと」

 ラッドがとたんに肩をすくめ、そそっと遠のいた。

「ふん」

 まるで目醒めることのない悪夢だな。

 今日も疲れた。

 四角く区切られた視界に映る世界は――景色は、季節の歌を歌っている。

 すぎゆく時は、今は、思い出にすらならないほどに圧倒的、情報過多で、嫌気がさす。

 飽和状態なんだ。

 もう、起きてほしくないことばかり繰り返され、喉から黒い毒霧が噴出しそうだ。

 そう、小鳥の言う通りだ。

 愛だの恋だの、おとといきやがれ。

 この世はのるかそるかのデスマッチ。

 一発勝負で倒れたら負け。

 痛々しい。

 そんな歌を誰のために歌うんだおまえは。

 もっと甘やかな歌を歌わないか――。

 

 ――は、そんなことを望むとはどうかしている。

 私も毒されているらしい。

 この、春という季節に――酔わされているのだろうか。

「マオ――マオ! おちゃがほしい」

「坊ちゃま――気が付きませんで、申し訳ございません。今すぐに、ご用意いたします」

「あ、リリスちゃんもきてるから、さんにんぶんね」

「三人――分? 失礼ですがリリスさまのお友達かどなたか、いらしているのでしょうか?」

「んあ? ボクとー、リリスちゃんとー、マオ。さんにんぶん!」

「は、いえ。私は坊ちゃまと同席するわけには――」

「しゅじんめいれい!」

 いつになく、はきはきとした言い方に、魔王はぽかん。

『いいですね。愛されてますね。魔王――マオさま』

「いかん、このままでは流されてしまう!」

『鼻血、出てますよ』

「ラッド、パーチ、イヴァンにどういうしつけをしている!?」

『坊ちゃまには、使用人に対する威厳を、学んでいただかないと……』

『そうそう。古い頭では思いつかない――突飛な――いや、ここのところ珍しくも斬新なアイデアの宝庫ですよ、坊ちゃまは』

「普通でいいと言ったろう!」

『ですから、普通の貴族の子息らしく』

『そうそう。使用人にはビシッと!』

 ラッドが言うと、パーチが人差し指をあげる。

「何を考えておるんだ。なんで私と一緒にお茶なんだ!?」

『成長してないんですねえ。頭の中が』

『あれかな。坊ちゃまが無意識のうちに、マオさまご自身が実の名付け親で、祝福くれたのを憶えてて、どこかでお世話になったのを恩に感じていらっしゃるとか』

「待て、人間の記憶は二歳児からだと言っていたではないか」

『確かに……』

 じとーっと二人がこちらを見ている。

 悪いのは私か?

「ラッドとパーチ、減給……」

 言いかけると、二人はすぐさま背を向け、持ち場へ帰った。もうすっかり館の一員だ。

「おっと、これは残念……」

 溜息をついて、ふと、

「お茶を三人分、だったな……」

 ここへきて六回目の、春だった。




「なにこのペン、先がつぶれてる! 他のはないの? ちょうだい!」

「気づきませんで……」

 おまえが、力入れて書くからペン先がつぶれたのだよ。

 口に出さずともわかってほしい、この気持ち。

 魔王は、新しいペンをワゴンから取り寄せると、リリスのふんぞり返っている席に、スッと置いた。

「どうぞ。リリスさま」

「あら、ありがとー」

 スマイルだけは、馬鹿に気前がいい。

 青ずんだインクに、ペン先をどぶっとつけると、吸いとり紙にインクを吸わせてから、さらさらっと紙になにごとか書きつけた。

「書けた!」

 リリスは鼻高々。

 その紙を見ると……。

 55×2=144

(?)

 なんだこの頭わるい計算式。暗号か?

「次はこれで行くよ!」

 ――意味は不明だが、やらない方がいいぞ、絶対。

「リリスさま――?」

 ビッ! と掌底の圧で口を封じられてしまう。

「あ! あの……?」

「何事も――やってみなければ、わからない!」

 わからないんだな? やってみろ、おもしろそうだ。

 魔王はぐっと、言葉を飲みこむ。

「リリスちゃん、これ、ばくやくのぶんりょう、あってる?」

 爆薬!?

「坊ちゃま! それはなんの実験です!?」

「ん――まほーかくだいの、そうちじっけん?」

 うんうんと頷く、諸悪の根源――リリス、貴様!

「駄目です、やめてください。絶対に!」

「え――!?」

「だって。リリスちゃん」

 声をあげるリリスを、なんとかイヴァンが押しとどめてくれた。

「いいですか、爆薬を使うような危険極まる実験は金輪際、計画中止! わかりましたね?」

「はーい……」

 まったく……! 危ないところだった。ん? そもそも、爆薬なんてどこから――?

「じゃあ、次は水素実験にしよっか?」

「……! 何の実験ですか?」

「水から採った水素を――爆発させる!」

「駄目です! 絶対、全面的に、実験は禁止です!」

「え――!?」

「だってさ。リリスちゃん」

 このアホどもは――!!! 命知らずな。

 全く、何を考えているんだ!

「勇者の電撃系魔法は、爆発力が加わると、圧倒的有利なんだけどな――」

 ――!? なるほど、そういうわけ、か。

「リリスさま、今後一切、館および周辺域での魔法実験はご遠慮ください」

「ん? なんでよー?」

「な・ん・で・で・も・です! これはなんですか!?」

「あ! 秘密の魔法式だよー。返して」

「へええ、魔法の、ねえ……、なにをするつもりだ!?」

「べつに、古い魔法式を自分流に書いたつもりなんだけど……」

「55の二倍は144にはならないぞ」

「あん、じゃあどう描けばいいわけ?」

「しかたありませんね。算数の問題です……貧しい一家がありました。今日の飢えをしのぐには、七つのリンゴがありますが、食い扶持は九人。どうしますか?」

「んー、微妙にせつない問題ね。えっと、リンゴ一つ一つを全部九個に切り分けて、七キレずつ食べる?」

「甘いですね。一家はとても貧しい。であればこそ、親子は互いのためを思い、自分は少なく食し、相手に多く与えるでしょう。リンゴはどうなりますか?」

「ちょっと待った。リンゴ以外に食べるものはないの?」

「このリンゴは、とある一家から必ず返すからといって借りてきたものなのです。来年には利子をつけて返さねばなりません。さあ、どうしますか?」

「リンゴを種から育てて、収穫できるようになるまで待ってもらえないの?」

「そのリンゴは種無し、もしくは一家のいるその土地では育ちません」

「えー、そんなー。じゃ、じゃあ、リンゴは苗木ごと借りる。そして来年には利子をつけて、どっさり返す! もしくはその土地に育たない、珍しいリンゴなのなら、その果実を売って、小麦を買う!」

「ご名答。しかしこの問題はこの棒を使うための予備練習なのです」

「なにこの、メモリのついてる棒は」

「数直線、と申します」

 頭、悪くなれ、と魔王は祈った。




「7+(-9)は結局、7に-9を足すの? それとも9を7から引くの? a+(-b)=cはa-b=cと同等なの、そうなの?」

『数式はくわしくないですけれども……あー、多分、おそらくですねえ……aとbが任意であるのなら、それは同じ意味なのでは?』

 ラッドが困惑したように言った。

「全然ちがうよ。七個あるリンゴはマイナス九個できない。ないそでは振れないの。マオ、ちょっと頭悪いんじゃない」

 うわー、マイナスの概念、ぶち壊し。

『それは、リリスさまにはともかくとして、イヴァンさまには少々早い問題なのではと……』

 それがね、とリリスがメモリのついた棒をとり出す。

「正の数と負の数は、これで計算できるんだって。でも使い方がよくわからないの。ラッドはわかる?」

『え、まあ。二ケタまではまあ……お恥ずかしながらも、なんとか』

「すごーい! じゃあ、正の数七の数から、マイナス九は、この“すうちょくせん”上のどちらの方へ動くの?」

 あ、よかった。普通の計算だ。

 ラッドは思った。

『左へ、九つ、動きます』

「そうするとー、解はゼロより大きいの小さいの?」

 ラッドは、数直線を指で確かめて、緊張しつつ答えた。

『ゼロより二個足りないので、小さいです』

「全部わかったよ!」

 リリスは得意になって、紙に数式を書きつける。

『わたくしに計算させないでください……』

「すうちょくせんの使い方、わかった」

『はい、それはようございました……』

「手持ちがゼロなのは変わらないけど、マイナスってようするに、借金のことだね」

 ラッドは心の中で思った。

 魔王さま! あーた、子供に何を教えてるんですか!

「知らん。借金云々は、リリスが勝手に憶えてきた概念だ。悪魔の言葉だな」

 簡易キッチンにて、茶をすすりながら、魔王はラッドにテレパシーで応えた。

『リリスさま、苦労なすってるんだ……』

 彼女と、イヴァンの後ろ姿を見送って、ラッドはつい、魔王軍と勇者との垣根を越えて、ほろりときてしまった。
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