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覚醒
青年、目覚める
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同時期、グリアモス公国軍は帝国との国境沿いの広い荒野に拠点を設けていた。
そこは濃い霧に包まれており、数メートル先もまともに見えない。
「――ま、こんなものかな」
一人の眼鏡をかけた青年が黒く巨大な物体に触れながら短く言った。
「失礼する」
そこに一人の鎧を纏った黒髭の男が青年に声をかけた。
「ああ、将軍。お疲れ様です」
「ご苦労。様子はどうだ」
二人は短く挨拶を交わすと、首を上に傾けていくつもの物体を見つめた。
「調子は良好ですよ。暴れることも動かないこともなし。こちらの思い通りに動いてくれると思います」
「そ、そうか……」
男は恐る恐る黒い物体に手を触れた。
それはまるで血が通っているかのように温かく、そして剣すら通さないのではないかというほど硬い。
「しかし、此度の戦は貴殿らがいなければ決して決行されることはなかっただろう。陛下は自信に満ち溢れていらっしゃる。これならば帝国の神具とやらにも対抗できると」
「どうですかね。そこは見たことがないのでちょっとわからないですけど、少なくともどんなに屈強な人間でも生身で敵うことはまずないですね」
「だろうな……」
男はもしこれがこちら側ではなく敵側にあったらと思うだけで、自身が長く死線を潜ってきた実績があるとはいえ、寒気を覚えずにはいられなかった。
「味方の損害は最小限に、かつ敵側の損害を最大限にできるならば、それは戦争の理想形だ」
「ですね。僕たちにとっても絶好のテストになりそうです」
二人は振り返り、十万もいない兵士たちを静かに見ていた。
◇
帝国軍においては、少しでも新兵に力を付けさせるべく、非常に過酷な訓練が日々行われていた。
剣や槍、徒手空拳の技術から、戦術を理解するための座学まで設けられるという徹底ぶりである。
そこでは毎日泣き出す者、嘔吐する者、深夜に逃げ出す者、その他、多くの若者が音を上げていた。
それはもちろん、シグルも例外ではない。
「――もうやだ! 俺帰る! 寝る!」
「気持ちはわかるがシグルよ、今じゃここが俺らの家になっちまってるんだぜ?」
シグルは癇癪を起こし、剣を地面に叩きつけて声を荒げた。
一方のロキは楽観的なのかそれとも基本的な体力が元々あったからか、落ち着いた口調でシグルを宥めている。
「お前はいいよな。なんでもそつなく熟せて。座学に至っちゃまさかのトップかよ。そりゃあ余裕でいられるよな」
「俺はまだマシだぜ。あいつを見てみろ」
ロキは呆れた顔で肩をすくめながらある方向に顎を向けた。
「次! アンタら本当に男なの? 全く話にならないじゃない!」
そう言いながら自分より体格で勝る男たちをちぎっては投げを繰り返しているのは、唯一の女性志願兵のジャンヌであった。
「あいつに至っちゃ水を得た魚だぜ。プロの兵相手に取っ組み合いで勝ってやがる」
圧倒的な格闘センスを持っているジャンヌは、聞くところ父親が元兵士で小さい頃から諸々仕込まれていたのだという。
ちなみにシグルとロキも投げられ済みである。
「あれはもう異次元だからむしろどうでもいい。とにかく俺は早く家に帰りたいんだよ。ああミィハはどうしてるかな。あいつの飯が食いてえ……」
シグルは花のように穏やかな笑顔が印象的な幼馴染の少女を頭の中に思い浮かべていた。
「あいつは異常なほど心配性だからな。今頃家の仕事が手についてねえんじゃねえか?」
「あり得る。いや絶対にそうなってる」
ミィハは二人にとっては家族も同然の存在であり、いつも一緒に遊び、互いの家を行き来している仲である。
そして彼女は過保護といっていいほど世話焼きであり、二人に何かあると自分は関係ないのに真っ先にすっ飛んでくる。
「まあどうやら比較的安全なところに置いてくれるみてえだから、気楽にいこうや。今死ぬわけじゃねえんだしよ」
「それができてたら苦労しねえよ……」
「あら、アンタたち暇そうね。もう一回どう?」
「「お断りします」」
良い汗をタオルで拭きながらジャンヌは戻ってきてそう言ったが、シグルとロキは音の速さで首を横に振った。
「でも本当に不安よ。皆あらゆる面で素人じゃない。あの小さい皇帝さんはああは言ったけど、このままじゃ生きて還るどころか犬死にがいいところよ」
「犬死にって……。まだ訓練始めて日も浅いし、やりたくてやってるヤツなんてほとんどいないだろ。しょうがねえよ」
ジャンヌは眉を顰めながら不安を口にし、それに対してシグルが短く返した。
すると、ジャンヌは目つきを鋭くしてシグルに詰め寄った。
「じゃあこのままでいいって言うの? 敵は圧倒的な数なのよ? どれほどの犠牲が出るか分からない。絶対に誰も自分の事を守ってなんかくれないわ。自分の命は自分で守るのが当り前よ」
「違うとは言ってないだろ。でも俺たちは一般市民なんだぜ? そんな言うんだったらお前みたいに力を振るいたいヤツだけが行って国を守ってくればいいだろ。何で関係ない俺たちが命を懸けなきゃいけないんだよ」
「なっ! アンタどこまで責任感に欠けてるのよ! 自分たちの生活が脅かされてるのよ⁉」
「どうどうそこまで! 止そうぜこんなところでケンカなんてよ。どっちの気持ちもわかるけど俺ら仲間じゃねえか。ここでいがみ合ったってそれこそ意味ねぇよ、だろ?」
「「チ……ッ」」
ロキが慌てて二人の間に割って入り口論を鎮めると、二人は同時に舌打ちをして距離をとった。
「私はもう少し体を動かしてくるわ。気分悪いままで終わりたくない」
「くそっ。マジだりいわ。やってらんねえ」
ジャンヌは再び兵士たちに混ざって訓練を始め、シグルは壁に背中を預け座り込んだ。
「はあ……」
やむなく仲裁役を買って出たロキは頭を小さく掻き、深いため息を吐いた。
こうして、各々にとってストレスの溜まる日は一か月ほど続いた。
そして、戦が二日後に迫った日、新兵たちは一度家に帰ることが許可された。ほとんどの者にとっては最後の別れになるかもしれない、不安と恐怖に駆られる一時である。
シグルとロキは、ミィハと共にロキの居酒屋で卓を囲んでいた。
『……』
しかし、重苦しい雰囲気に誰も口火を切ることができず、食事にも手をつけることができていない。
「まあ、食えよ! タダだぜ? 明日に備えて体力を付けねえと!」
ロキは努めて場の雰囲気を和ませようとするが、シグルとミィハは暗い表情で俯いたままだ。
「私、もう気が変になりそうだよ……」
「ミィハ……」
服の裾をぎゅっと掴んで悲痛な声を上げたミィハにシグルは目線を移した。
「二人が兵隊になってからずっと苦しいの。本当に生きて還って来てくれるのか、もし、二人が帰ってこなかったらって思うと……っ」
ミィハはそう言うと目から涙をぽろぽろと零し始めた。
「二人が側にいるのが当り前だと思ってたから、こんなことになるなんて思ってなかった! ずっと一緒だった二人がいなくなった後なんて私、どうしても考えられない。考えたくない……」
「俺だって、こんなことになるなんて思ってなかったし、行きたくて行くんじゃねえよ。もし俺に何かあったら、お前も親父も、リリィもどうなっちまうかなんて、考えたくもねえ……」
シグルはそう言って、万が一の事を想像すると、全身に氷を詰められたかのように寒気と震えが襲ってきた。
「そんなこと言ってもキリねえだろ。俺だって怖いけどよ、生きて還ることを前提に考えるしかないじゃねえか。皇帝さんだってそう言ってたんだしよ。ちょっとくらい逃げ回ったって誰も文句なんか言わねえって」
ロキは前向きな言葉をシグルとミィハにかけると、手元にあった果実酒の入ったグラスを取って飲み干した。
ちなみに酒は帝国では十七歳から飲んでよいことになっている。
「ぷはぁっ。だから今から暗い話は無しだ。とにかく食って飲んで戦の後の事を話す。いいな?」
「全く、お前のそういうところホントに羨ましいな」
シグルはそう言うと、ロキと同様に一気に酒を喉に流し込んだ。
「ミィハ、一つ言っておくけど、俺は死ぬつもりなんて全くないからな。とにかく逃げて逃げまくってでも生き残る。兵士の責務なんてクソくらえだ」
ジャンヌがいたらまたもケンカになっていそうな台詞をミィハに向けて言った。
「……わかった。二人とも必ず帰って来てね。私、ありったけのご飯作って待ってるから」
「「もちろん」」
シグルとロキは大きく頷くと、二杯目の果実酒に手を付けた。
こうして、三人は夜通し残りの時間を惜しむように今までの事、そしてこれからの事の話に花を咲かせた。
そして、帝国史上最悪の凄惨な戦いが始まる。
そこは濃い霧に包まれており、数メートル先もまともに見えない。
「――ま、こんなものかな」
一人の眼鏡をかけた青年が黒く巨大な物体に触れながら短く言った。
「失礼する」
そこに一人の鎧を纏った黒髭の男が青年に声をかけた。
「ああ、将軍。お疲れ様です」
「ご苦労。様子はどうだ」
二人は短く挨拶を交わすと、首を上に傾けていくつもの物体を見つめた。
「調子は良好ですよ。暴れることも動かないこともなし。こちらの思い通りに動いてくれると思います」
「そ、そうか……」
男は恐る恐る黒い物体に手を触れた。
それはまるで血が通っているかのように温かく、そして剣すら通さないのではないかというほど硬い。
「しかし、此度の戦は貴殿らがいなければ決して決行されることはなかっただろう。陛下は自信に満ち溢れていらっしゃる。これならば帝国の神具とやらにも対抗できると」
「どうですかね。そこは見たことがないのでちょっとわからないですけど、少なくともどんなに屈強な人間でも生身で敵うことはまずないですね」
「だろうな……」
男はもしこれがこちら側ではなく敵側にあったらと思うだけで、自身が長く死線を潜ってきた実績があるとはいえ、寒気を覚えずにはいられなかった。
「味方の損害は最小限に、かつ敵側の損害を最大限にできるならば、それは戦争の理想形だ」
「ですね。僕たちにとっても絶好のテストになりそうです」
二人は振り返り、十万もいない兵士たちを静かに見ていた。
◇
帝国軍においては、少しでも新兵に力を付けさせるべく、非常に過酷な訓練が日々行われていた。
剣や槍、徒手空拳の技術から、戦術を理解するための座学まで設けられるという徹底ぶりである。
そこでは毎日泣き出す者、嘔吐する者、深夜に逃げ出す者、その他、多くの若者が音を上げていた。
それはもちろん、シグルも例外ではない。
「――もうやだ! 俺帰る! 寝る!」
「気持ちはわかるがシグルよ、今じゃここが俺らの家になっちまってるんだぜ?」
シグルは癇癪を起こし、剣を地面に叩きつけて声を荒げた。
一方のロキは楽観的なのかそれとも基本的な体力が元々あったからか、落ち着いた口調でシグルを宥めている。
「お前はいいよな。なんでもそつなく熟せて。座学に至っちゃまさかのトップかよ。そりゃあ余裕でいられるよな」
「俺はまだマシだぜ。あいつを見てみろ」
ロキは呆れた顔で肩をすくめながらある方向に顎を向けた。
「次! アンタら本当に男なの? 全く話にならないじゃない!」
そう言いながら自分より体格で勝る男たちをちぎっては投げを繰り返しているのは、唯一の女性志願兵のジャンヌであった。
「あいつに至っちゃ水を得た魚だぜ。プロの兵相手に取っ組み合いで勝ってやがる」
圧倒的な格闘センスを持っているジャンヌは、聞くところ父親が元兵士で小さい頃から諸々仕込まれていたのだという。
ちなみにシグルとロキも投げられ済みである。
「あれはもう異次元だからむしろどうでもいい。とにかく俺は早く家に帰りたいんだよ。ああミィハはどうしてるかな。あいつの飯が食いてえ……」
シグルは花のように穏やかな笑顔が印象的な幼馴染の少女を頭の中に思い浮かべていた。
「あいつは異常なほど心配性だからな。今頃家の仕事が手についてねえんじゃねえか?」
「あり得る。いや絶対にそうなってる」
ミィハは二人にとっては家族も同然の存在であり、いつも一緒に遊び、互いの家を行き来している仲である。
そして彼女は過保護といっていいほど世話焼きであり、二人に何かあると自分は関係ないのに真っ先にすっ飛んでくる。
「まあどうやら比較的安全なところに置いてくれるみてえだから、気楽にいこうや。今死ぬわけじゃねえんだしよ」
「それができてたら苦労しねえよ……」
「あら、アンタたち暇そうね。もう一回どう?」
「「お断りします」」
良い汗をタオルで拭きながらジャンヌは戻ってきてそう言ったが、シグルとロキは音の速さで首を横に振った。
「でも本当に不安よ。皆あらゆる面で素人じゃない。あの小さい皇帝さんはああは言ったけど、このままじゃ生きて還るどころか犬死にがいいところよ」
「犬死にって……。まだ訓練始めて日も浅いし、やりたくてやってるヤツなんてほとんどいないだろ。しょうがねえよ」
ジャンヌは眉を顰めながら不安を口にし、それに対してシグルが短く返した。
すると、ジャンヌは目つきを鋭くしてシグルに詰め寄った。
「じゃあこのままでいいって言うの? 敵は圧倒的な数なのよ? どれほどの犠牲が出るか分からない。絶対に誰も自分の事を守ってなんかくれないわ。自分の命は自分で守るのが当り前よ」
「違うとは言ってないだろ。でも俺たちは一般市民なんだぜ? そんな言うんだったらお前みたいに力を振るいたいヤツだけが行って国を守ってくればいいだろ。何で関係ない俺たちが命を懸けなきゃいけないんだよ」
「なっ! アンタどこまで責任感に欠けてるのよ! 自分たちの生活が脅かされてるのよ⁉」
「どうどうそこまで! 止そうぜこんなところでケンカなんてよ。どっちの気持ちもわかるけど俺ら仲間じゃねえか。ここでいがみ合ったってそれこそ意味ねぇよ、だろ?」
「「チ……ッ」」
ロキが慌てて二人の間に割って入り口論を鎮めると、二人は同時に舌打ちをして距離をとった。
「私はもう少し体を動かしてくるわ。気分悪いままで終わりたくない」
「くそっ。マジだりいわ。やってらんねえ」
ジャンヌは再び兵士たちに混ざって訓練を始め、シグルは壁に背中を預け座り込んだ。
「はあ……」
やむなく仲裁役を買って出たロキは頭を小さく掻き、深いため息を吐いた。
こうして、各々にとってストレスの溜まる日は一か月ほど続いた。
そして、戦が二日後に迫った日、新兵たちは一度家に帰ることが許可された。ほとんどの者にとっては最後の別れになるかもしれない、不安と恐怖に駆られる一時である。
シグルとロキは、ミィハと共にロキの居酒屋で卓を囲んでいた。
『……』
しかし、重苦しい雰囲気に誰も口火を切ることができず、食事にも手をつけることができていない。
「まあ、食えよ! タダだぜ? 明日に備えて体力を付けねえと!」
ロキは努めて場の雰囲気を和ませようとするが、シグルとミィハは暗い表情で俯いたままだ。
「私、もう気が変になりそうだよ……」
「ミィハ……」
服の裾をぎゅっと掴んで悲痛な声を上げたミィハにシグルは目線を移した。
「二人が兵隊になってからずっと苦しいの。本当に生きて還って来てくれるのか、もし、二人が帰ってこなかったらって思うと……っ」
ミィハはそう言うと目から涙をぽろぽろと零し始めた。
「二人が側にいるのが当り前だと思ってたから、こんなことになるなんて思ってなかった! ずっと一緒だった二人がいなくなった後なんて私、どうしても考えられない。考えたくない……」
「俺だって、こんなことになるなんて思ってなかったし、行きたくて行くんじゃねえよ。もし俺に何かあったら、お前も親父も、リリィもどうなっちまうかなんて、考えたくもねえ……」
シグルはそう言って、万が一の事を想像すると、全身に氷を詰められたかのように寒気と震えが襲ってきた。
「そんなこと言ってもキリねえだろ。俺だって怖いけどよ、生きて還ることを前提に考えるしかないじゃねえか。皇帝さんだってそう言ってたんだしよ。ちょっとくらい逃げ回ったって誰も文句なんか言わねえって」
ロキは前向きな言葉をシグルとミィハにかけると、手元にあった果実酒の入ったグラスを取って飲み干した。
ちなみに酒は帝国では十七歳から飲んでよいことになっている。
「ぷはぁっ。だから今から暗い話は無しだ。とにかく食って飲んで戦の後の事を話す。いいな?」
「全く、お前のそういうところホントに羨ましいな」
シグルはそう言うと、ロキと同様に一気に酒を喉に流し込んだ。
「ミィハ、一つ言っておくけど、俺は死ぬつもりなんて全くないからな。とにかく逃げて逃げまくってでも生き残る。兵士の責務なんてクソくらえだ」
ジャンヌがいたらまたもケンカになっていそうな台詞をミィハに向けて言った。
「……わかった。二人とも必ず帰って来てね。私、ありったけのご飯作って待ってるから」
「「もちろん」」
シグルとロキは大きく頷くと、二杯目の果実酒に手を付けた。
こうして、三人は夜通し残りの時間を惜しむように今までの事、そしてこれからの事の話に花を咲かせた。
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