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壁一面に写真が貼られた部屋
しおりを挟む部屋の玄関に置いてあるパンプスは見るからに小さかったが、今の響平の足はそこにすっぽり収まった。
そして、そのまま外へ飛び出し、翡翠美の部屋から自分が住んでいたハズの学生アパートへと向かった。
「おい、お前っ……!」
響平は、ちょうど自室の玄関のカギを閉め終わったところの『響平』の前に、立ち塞がった。目を合わせて会話をするためには、少し見上げなければならない身長差だ。
「お前、俺に何をしたんだっ!」
『翡翠美』として相手を睨みつけながら、『翡翠美』の幼気な声で、響平は怒鳴った。迫力は、全くと言っていいほどない。
目の前の『響平』はひるむことなく、怪訝そうな顔をして言った。
「もう二度と、俺の前に現れるなって言っただろ。ストーカー女」
「えっ……!?」
一瞬、地に着いていた気持ちが、フワリと宙に浮いた。
確かに昨日、響平はストーカー女に対して、二度と現れるなと言っている。
(でもそれは、翡翠美に俺が言った言葉だ……! お、俺が言われた言葉じゃないハズだ……! 俺は、あのストーカー女じゃない……)
意識が、揺らぐ。
「お前、気持ち悪いんだよ。俺の話、ちゃんと聞いてなかったのか?」
「えっ、いや、俺……」
「芽衣子に何かする気じゃないだろうな。俺の彼女に手を出したら、許さないからな」
「何を……言って……? ちがっ、俺が、翡翠美で……私はっ……。私……?」
頭の中の混乱がより複雑になり、自分自身が解らなくなっていく。そして、耳に入る『響平』の言葉一つ一つが、『翡翠美』の胸の奥をチクチクと突き刺した。
……痛い。
「はぁ、はぁ……! い、痛いっ……! やめてっ……!」
『翡翠美』の口からは、荒い呼吸と抵抗する言葉が飛び出した。右手は無意識に、胸の痛む部分をギュッと掴んでいた。
「ふふふっ。これで、私の気持ちが少しは分かった? 本物さん」
目の前の『響平』は豹変し、怪しくクスクスと笑いだした。姿は男性だが、仕草や言葉遣いは、まるで女性のようだ。
「お前、やっぱり……!」
「うん。私は翡翠美。今はキョウくんだけど」
悪びれもせず、偽物の『響平』はあっさりと正体を明かした。響平は、翡翠美と体が入れ替わっているという事実を、ここでやっと飲みこむことができた。
「今すぐ、体を元に戻せっ! ストーカー女!」
「イヤ。あなたのせいなんだから」
「は? 俺のせい?」
「私は遠くから見ているだけで良かったのに、あんなに酷いことを言うなんて」
「そ、そんなの、逆恨みじゃないか!」
「別に、あなたを恨んではいないよ。ただ、使うきっかけになっただけ」
「使うきっかけ……?」
「私もあんまり信じてなかったけどね。二人の人間の体を入れ替える黒魔術なんて」
「く、黒魔術っ!? 黒魔術なんかで、俺とお前が入れ替わったって言うのか!?」
「そうみたいだよ。まぁ、信じてくれなくてもいいけど。もう一度、その黒魔術を使って私と入れ替われば、元の姿に戻れるんじゃない?」
「そ、それはどうすればいいんだ!? 教えろっ!」
「残念。そろそろ学校に行かなきゃ。遅刻しちゃう」
翡翠美は、立ち塞がる響平の横を通ろうとした。
当然、響平が道を譲るハズはない。小さな女の体を使って、大きな青年の通り道を塞いだ。
「通して。キョウくん」
「黙れっ! その呼び方で、俺を呼ぶなっ!」
「キョウくん」は、彼女である芽衣子しか使わない特別な呼び方だった。もちろん、友人に茶化されて「キョウくん」と呼ばれることはあるし、それに腹を立てたりはしないが、こんな気持ち悪いストーカー女には冗談でも使ってほしくない。
「うふふっ。じゃあ、『翡翠美』って呼んでほしいの?」
「そういうことじゃないっ! 芽衣子だけの特別な呼び方を、お前なんかが使うなっ!!」
「チッ……! また、あの女の名前を……!」
「おい、俺の彼女への暴言は……」
「キョウくん、よく聞いて。あなたは騙されてるの。あの女のことはもう忘れてっ!」
「うるさいっ! 芽衣子は、俺の大切な彼女だ!」
「……あの女のことを忘れて、ずっと私と一緒にいてくれるなら、今すぐ体を元に戻すよ」
「な、何だとっ……!?」
響平は葛藤した。
何においても、体を元に戻すことが今は最優先事項だ。いっそ、適当に話を合わせて、この場を凌いでもいいかもしれない。
しかし、響平の心には、芽衣子との様々な想い出や幸せだった日々の記憶が、常にある。それはいついかなる時も絶対に忘れない、何よりも大切なものだ。
「……いやだ」
「えっ?」
響平は、どこまでも真面目な男だった。
今まで自分のために尽くしてくれた芽衣子のことを忘れて、他の女に靡くなんて、例えウソでも承知できない。
「そんなこと、できるわけないだろっ! 俺はお前じゃなくて、芽衣子が好きなんだ!」
「……っ!!」
言ってしまった。
響平はその言葉に悔いはなかったが、翡翠美の表情は冷たく暗いものに変わった。
「そう、なんだ……。まだ自分の立場が分かってないんだね。キョウくんは」
「もう俺はどうなってもいい! でも、芽衣子には手を出すなよ……! 絶対に!」
「あんまり、『俺はどうなってもいい』なんて、言わない方がいいよ」
そう言うと、響平の目の前にいる男は、自分の右手の指を口へと運ぼうとした。
「えへへ。キョウくんの大きな指、もう私の物なんだぁ……」
「お、おい! 何を考えてるんだ! やめろよっ!」
響平の制止も虚しく、翡翠美は人差し指を、自らの唇の間へと入れた。
「はんっ……。ちゅぱっ……あっ……! んむっ……」
「やめろって言ってるだろ!? こんなところ、誰かに見られたらどうするんだっ!」
響平の前には、卑しく自分の指を舐める『響平』がいる。こんなみっともない姿を、黙って見てはいられない。
「こ、このっ……!」
「あぁっ……」
響平は『翡翠美』の肉体で出せる力を振り絞り、そいつの右手を口から引き抜いた。無理やり引き抜かれた『響平』の手には、『響平』の唾液がべっとりと付着しており、指先をコーティングしている。
「ふふっ。やっぱり、昨日ほどの快感は得られないね。この体は、もう私の体になっちゃったし」
「は……? 何を言って……」
「『やめろ』は、そろそろ私のセリフになるんじゃないかな?」
入れ替わっているのは、外見だけではない。内に秘めた性癖も、肉体に準ずるかのように反応する。
響平は無意識のうちに、引き抜いたその翡翠美の手を、自分の口元に運んでいた。
「うわあぁっ!? どうして俺が、お前の手をっ……!?」
「いいよ、我慢しなくて。私の指、舐めたいなら舐めれば?」
「あ……あぁ……」
だんだんと、身体は内側からポカポカ暖かくなって、のぼせ上がっていく。元々は自分の指だったのに、今はそれがどうしようもなく愛おしくてたまらない。
『翡翠美』は震える手で、目の前の『響平』の指を掴み、口の中へ入れた。
「あむっ……」
「どう? 気分は」
「んっ……むっ……」
『翡翠美』は自分の口の中で、「俺」の唾液と「私」の唾液が混ざり合う感覚を感じていた。舌で指先に触れると、心が落ち着く。柔らかくて、とても気持ちいい……。
赤ん坊が自分の指を咥えるそれと、同じような安心感だった。全身の力が抜け、諸々の不安や恐怖が消えていく。いつまでもこうしていたいとさえ思った。
しかし無情にも、その時間はすぐに終わってしまった。
「ちゅ、ぷっ……!」
「はい、おしまい。気持ちよかったでしょ?」
「ま、待ってっ……! もう少し……!」
「やってあげてもいいけど、あんまり私に染まりすぎると、元の体に戻れなくなっちゃうよ? 一生、『翡翠美』として、その体で生きていく?」
「も、元に……? あっ!」
忘れていた。体を元に戻すという目的を、そこでハッと思い出した。
響平は自分でも気付かないうちに、その場に座り込んでいた。言うまでもなく、内股の、女性らしい座り方で。
「な、なんだったんだ? 今の快感は……」
「そのうち分かってくるよ。気になるなら、私の部屋に戻って、窓の無いカーテンを開けてみてね」
翡翠美はそう言うと、座り込んでいる響平の横を歩いて通り過ぎていった。響平としてはそいつの行く道を遮りたかったが、腰が抜けてしまい、もう脚にも力が入らなかった。
「待てっ、お前……! 行くなっ!」
「ごめんね。キョウくん、あの女と会う約束してるみたいだから、私が代わりに行かなきゃ」
「お、俺が行くよっ……!」
「あははっ。気持ち悪いストーカー女が行って、どうするの? ほら、今の自分の姿をよーく見て?」
「自分の、姿……?」
響平は、改めて自分の体を見降ろした。
着ている服は、胸元や肩を過度に晒した、純白のキャミソールワンピース。素肌を下品なくらいに露出しており、町中を歩くには無防備すぎる。
確かに、この服装のまま外を出歩くことは控えた方が良さそうだが、もっと明確な理由が他にもあった。
豊満に膨らんだ胸の、一番高い部分が……。
「あぁっ!?」
急いで胸を両腕で隠した。
「そういうこと。胸元が緩いんだから、気を付けなきゃダメだよ」
「い、行くなよっ! 戻ってこいっ!」
「安心して。キョウくんは、私の部屋で休んでいてくれるだけでいいから」
「待てっ!」
「学校から帰ったら、また楽しいことしようね。じゃあね」
階段を降りてアパートを出て行くかつての自分の姿を、『翡翠美』になってしまった響平は、ただ見ているしかなかった。
*
体に力が戻ると、響平は自分の胸を隠しながら翡翠美の部屋へと戻った。部屋に着くと、まずは電気を付け、ハートマークが描かれた可愛いベッドに腰掛けた。
「こんな部屋で……どうすればいいんだよ……」
姿見をもう一度見たところで、そこに映るのは女子大生の翡翠美だ。元の自分の姿が映ることは、決してない。
「黒魔術……」
本当にそんなものがあるのかどうかは分からないが、自分の体を取り戻すための手掛かりは、それしかなかった。
「この部屋を探せば、黒魔術について何か分かるのか……?」
きょろきょろと見回しても、ごく普通の、女の独り暮らしの部屋。しいて言うなら、芽衣子の部屋よりもピンクや赤の可愛い物が多いぐらい。いかにもなガイコツや、オカルトグッズの類は見当たらなかった。
しかし、一つだけ不可解な場所があった。
「なんだろう? このカーテン」
それは、壁の一面を覆う、大きな水色のカーテンだった。しかし、カーテンの向こう側に窓があるようには見えない。
「これって、さっきあいつが言ってた……」
恐る恐る、そのカーテンを開ける。「恐る恐る」というのは、響平自身、その奥にあるものがなんとなく分かっていたからだった。
あの女はストーカーだ。「ストーカーの部屋」と聞いて、イメージする物はだいたい決まっていて……。
「わっ!? うわぁっ!!」
響平は驚きのあまり、床に尻もちをついた。当たってほしくなかった予想は、当たってしまった。
壁いっぱいに貼られた、大量の写真。もちろん、その全てに響平が写っている。そして一部の、響平の隣に女性が写っているものには、女性の顔が黒いマジックで塗りつぶされ、その上から画鋲をいくつも刺してあった。
「あいつ、狂ってるっ……!」
響平は立ち上がり、写真に刺さっている画鋲を抜こうとした。しかし、深く刺さっていて、この体の力では到底抜けそうにない。
しばらくの間、深く刺さった画鋲と格闘していたが、ふと意識を写真の方に向けると、自然と手が止まった。
「これ、芽衣子とキスした時の写真だ……」
夕日に照らされた大学。建物の陰で、芽衣子と二人きり。
彼女の肩を両手で掴み、ゆっくりと唇を重ねていったことを今でも覚えている。あまり上手なキスではなかったはずだが、あの時、芽衣子は少し恥ずかしそうに微笑んで、「嬉しい」と言ってくれた……。
「……!」
そこで突然、意識が自分の体へと向いた。
ドクンドクンと、激しく脈を打ち始める心臓。体の中で、何かおかしなことが起こっている。
室内はそれほど暑くないハズなのに、体温がどんどん上がっていく。『翡翠美』は、膨らんだ胸の谷間にじわりと汗をかき、乱れていく呼吸と共に口から大きく息を吐いた。
「はぁっ、はぁっ……! こいつの体、どうなってるんだ……!?」
目の前にあるのは、芽衣子とキスをしている自分の顔の写真だ。分かってはいるのに、体の興奮は止まらない。
「自分のっ……! はぁ……自分の顔を、見てっ……! こんなに……興奮するなんてっ……!」
もう我慢はできない。響平は小さな身体で少し背伸びをして、目を閉じた。
そして、写真の中の自分に、唇を近づけた。
「んっ、ん……」
理性をなくし、快楽に身を委ねる。壁に両手をついて、唇で何度も写真の中の男の頬を撫でた。
「ちゅっ……、んっ……! じゅるっ……」
『翡翠美』の姿になった響平は、口の周りを唾液まみれにしながら、写真に吸い付いていた。頬を赤く染め、とろけそうな瞳で、気持ちよさそうに。
「ぷはっ……! はぁっ……、はぁ……はぁ……」
息を吸う。壁から少し離れ、乱暴に手で唇を拭う。目の前の写真は、自分の唾液でべちょべちょになっている。
呼吸を整えた後、『翡翠美』の可愛い声で響平は呟いた。
「えへへ……。気持ちよかったね、キョウくんっ」
そう言い終わった後、響平は自分の口から出た言葉に、愕然とした。全身の体温が、恐怖で一気に低下する。心まで『翡翠美』に染まりかけている自分への、恐怖で……。
「違うっ! 今のは、えっと……!」
誰かに声を聞かれているわけでもないのに、響平は言い訳をした。何かまともな理由をつけないと、本当に身も心も翡翠美になってしまう気がしたからだ。
自分の存在を確認するかのように、「俺は響平だ!」と叫んだ。叫んだつもりだった。
「私は、キョウくんなのっ!」
女の、悲鳴にも近い声が、その部屋に響いた。
「そんなっ……! ウソ……。ウソだよ……」
どれだけ男らしくしゃべろうとしても、この体にとっての正常な言葉遣いに、脳内で変換されてしまう。
「私……翡翠美じゃないっ! 違うのっ! 違うのに……!」
頭を左右に振っても、言葉遣いは変わらなかった。そして足は勝手に、写真が大量に貼ってある壁へと、また向かっていく。
「嫌っ……! キョウくん……、これが……キョウくんで……、私、だからっ……! 私はっ……!」
彼の……彼女の混乱は、頂点に達した。意味の分からない言葉をブツブツと呟きながら、壁に両手で突っ張って、写真を必死に見ている。
「どうしてっ……!? 私、こんなの、どうすれば……!」
ストーカー女は、壁に両手をつけたまま、床にへたり込んでしまった。うなだれにより、可愛く整えられていた黒髪が、顔をバサッと覆っている。
「うぅっ……」
そして、『翡翠美』の瞳からは、涙が一つこぼれ落ちた。
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