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   ◇

 事故から二ヶ月。
 退院して一ヶ月後の検査でも異常はなくて、あたしはすっかり普通の生活を送っていた。
 体育の授業も参加しているし、先週おこなわれたマラソン記録会でも完走することができた。
 順位は最初から狙ってなんかいなかったから、あまり無理はしなかったけど、最後まで歩かないで走りきった。
 結果を出せただけでも体調に自信がついた。
 ただ、やっぱり、康輔のことは何の進展もなかった。
 それどころか、康輔に関わるものはすべて消えてしまっていた。
 中学の卒業アルバムからは写真が消えていたし、何度もお邪魔したことのある康輔の家もなくなっていた。
 空き地になっているとかじゃなくて、住宅街の様子が変わっていて、最初からそんな家なんかなかったようになっていたのだ。
 運命に逆らおうとするあたしを誰かが見て笑っている。
 永遠に続くババ抜き?
 ジョーカー?
 そんなもの最初から入ってなかっただろ。
 じゃあ、あたしたちがやっていたことはいったい何だったのよ。
 いつのまに変わっていたんだろう。
 永遠にペアのそろわない神経衰弱に。
 たどりつこうとすればするほど、そこにあったはずの世界がずれてぼやけていく。
 中学の時の先生に会って聞いてみたこともある。
 肉まんの買い食いで追いかけられた生徒指導の内藤先生だ。
 あたしの事故のことをニュースで知って心配してくれていたみたいけど、やっぱり八重樫康輔という卒業生のことは覚えていないようだった。
 あたしの中には、あのあと、康輔に肉まんをおごったとき、二つに割って半分こにした思い出だけは残っているのに、人の記憶からはどんどん消えてなくなっていくのだ。
 コンビニで偶然会った地元の友達に聞いても、やっぱり誰も知らなかった。
 いろんな人に質問しすぎると、事故であたしがどうかしたんじゃないかと疑われそうだったし、かえって康輔の痕跡が消えていくのがこわかったから、今はもう聞くのはやめていた。
 それに、あたしの中でも少しずつ変化が起きていた。
 時の流れとともに、ちょっとずつ記憶が薄れていくような気がしていた。
 もちろん、どうでも良くなったとか、そういうことではない。
 街ですれ違う誰かを康輔と見間違えてしまったり、康輔の夢を見て夜中に飛び起きたりすることもある。
 海だかなんだか分からないけど溺れている夢だ。
 あたしは何かをつかもうとしている。
 でも、その手には何もつかむことはできずに、どんどん深みにはまっていく。
 息苦しくて、もがきながら、助けを呼ぼうとすればするほど水が口をふさいでいく。
 康輔の名を叫んで目覚めたときには汗だくだ。
 冬の朝、シャワーを浴びてから学校へいく。
 冷たい体に熱いお湯を浴びながら、あたしは運命とにらみ合う。
 あたしのことを笑ってるの?
 あきらめないよ。
 ズタズタになっても立ち向かってやるからね。
 とは言っても、その回数は少しずつ減ってきていたし、人違いだと分かったときのガッカリ具合も、以前よりは軽く受け流せるようになってきていたし、目覚めたときに泣いていることも、だんだん少なくなってきた。
 そして、そうやって自分を奮い立たせようとするのも、逆にそうしないと立ち向かう気力がわいてこないからだということも自覚していた。
 でも、日常のいろんな出来事に流されていれば、チクリとした痛みは自然と頭の片隅に小さく消えていく。
 今、康輔はあたしの日常の中にいないのだから。
 そのことに気づくとまたハッとしてしまう。
 康輔のことを忘れようとすればするほどかえって思い出してしまう。
 そのたびに胸が押しつぶされそうになる。
 だけどまた次の瞬間、岸辺に打ち寄せる波が貝殻をさらっていくように、日常のささいな出来事が康輔のかけらを押し流してあたしは現実に引き戻される。
 少しずつ記憶を薄めていって、慣れていく。
 それはむしろ健全なことなのかもな、なんて思う。
 おそらくそれは人が人として、自分を守るためにある本能みたいなものなんだろう。
 いつまでも悲しんでいたら、心も体も病んでしまう。
 もちろん康輔のことを忘れたわけじゃないし、忘れた方がいいと思っているわけじゃない。
 康輔のことを思い出す回数が減ってきたなと気づくたびに後ろめたさを感じることもある。
 だけど、目の前の現実を受け入れていかないと生きていくことができなくなる。
 だから仕方がないんだよ。
 さびしいけど、それもまた受け入れていかなければならないんだ。
 あたしは康輔のことを忘れないために、生きていく。
 だけど、生きていくためには、康輔のことを少しずつ忘れていかなければならないんだ。
 どこかねじれたような理屈だけど、あたしの中でその間のバランスをうまくとっていかなくちゃいけないんだ。
 そうやって何度自分に言い聞かせたかわからない。
 けど、その自問自答の回数自体少しずつ減ってきているのも確かだった。
『最近、表情が明るくなったよね』
 ミホがたまにそう言ってくれる。
 もうミホはあたしが康輔のことで悩んでいることすら忘れてしまっている。
 事故のショックから立ち直ろうとしていると思っているのだ。
 先月十一月は調理実習の成果発表会なんかもあって、学校もいそがしかった。
 家族を招待しておもてなしをするんだけど、うちの親はとても喜んでくれたし、ミホの両親も茨城から駆けつけていた。
 あたしが前菜を運んだら、胸の名札を見たミホのお母さんに声をかけられた。
『あなたが西谷さん?』
『はい』
『いつもうちの娘がお世話になってます』
『いえ、こちらこそ』
『入学したときは心配だったんだけど、いい友達ができて毎日学校が楽しいってメールで知らせてくれててね。ありがとうね。これからもよろしくね』
 本人以外の人からあらためて言われるとめちゃくちゃ照れくさい。
 だいたい、世話になってるのはあたしの方だし。
 おまけにミホは不機嫌になるし。
 調理室に戻ったら、いきなり問い詰められてしまった。
『うちの親、何か言ってたでしょ』
『よろしくねとか、そんな感じ』
『ほんとに?』
 うん、とうなずくあたしをどうも疑っているらしい。
『絶対、他にも何か言ったでしょ』
『たとえば?』
『……って、言うわけないし。そんな罠に引っかかるわけないじゃん』
『逆に気になるけど』
 ミホににらまれた。
 ちょっとからみすぎたか。
 ミホは中学の時にいろいろあったから、お母さんたちも心配していたんだろうな。
 晴れの姿を見せて安心させてあげられるのがうれしいんだろう。
 メインを運んだミホが戻ってきた。
 その顔はなんだかとてもほころんでいた。
『なんか言ってた?』
 今度はあたしが聞いてみた。
『べつに、何も』と言葉は素っ気なくても、表情は隠せない。
 甘えてもいいんだよ。
 あたしみたいに。
『え、何?』と、ミホが素早く表情を切り替える。
『べつに、こっちもなんでもないよ』
 またにらまれたけど、そういうミホの姿を見ることができたのは収穫だった。
 クールなだけかと思ってたけど、やっぱり人にはそれぞれ見せない部分もあるんだね。
 悩みとか、分からないこととか、みんなそれぞれいろいろあるんだ。
 あたしだけじゃないと分かったところで、あたしの悩みが解決するわけじゃないけど、悩むことは悪いことではないんだ。
 そう思うことができれば、少しは楽になれる。
 日常の流れに身を任せてしまえば、いろんなことが楽になるし、楽しいことがいっぱいある。
 ケラケラ笑って過ごせる日々が過ぎていく。
 べつに笑うのは悪いことではない。
 本当は康輔と一緒に笑いたい。
 それはそうだけど、それが一番だけど、それができないからって笑っちゃいけないわけじゃない。
 だからこれでいいんじゃないかな。
 言い訳ばかりの毎日だけど、それでもあたしは一歩一歩前へ進んでいるつもりだった。
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