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   ◇

 その日の放課後、あたしはミホと勾玉神社に立ち寄った。
 鳥居をくぐって狛犬の間に立つ。
 まっすぐ延びた参道はきれいに掃き清められていて、厳かなたたずまいに背筋が伸びる。
 でも、狛犬の周囲だけは切り取った写真を貼り付けたような違和感がある。
 右側の狛犬は台座に苔がついていたり表面が風化してなじんでいるのに、左側はきれいすぎるし顔も洋風で神社の雰囲気に似合わない。
 印旛沼とオランダ風車みたいな組み合わせだ。
「やっぱり、なんだか餃子の神様の守り神らしくないよね」とミホがまたバチ当たりなことを言い出した。
 みんな口には出さないけど、勾玉の形とは誰も思っていないゆるキャラのことだ。
「またおでこぶつけるよ」
「はいはい、すみませんでした」と、言ってるそばから頭を下げてまたぶつけそうになっている。
 かろうじて当たらずに済んで、苦笑いしながらミホがうんちくを語り出した。
「狛犬ってさ、右側が口を開いていて、左は口を閉じてるんだよね」
「へえ、そうだったんだ」
 言われてみると、たしかに右側の狛犬は口を開けていて、あくびをしたときの康輔みたいだ。
「新しい洋風の顔の方が口を閉じるとイケメンで丁度いいね」
 ミホの言うように、この長い顔で口を開けてるとちょっとワニみたいになってしまうだろう。
 右も左も康輔みたいだったら、お前たちふざけてるのかと神様に怒られちゃいそうだ。
 境内の周囲の木々から、ケークェーという甲高い鳥の鳴き声が響く。
 呼応して鳥の輪唱が始まる。
 上から押さえつけられるような音が雷みたいで恐怖を感じてしまう。
 本当に神様に怒られてるみたいだ。
 あたしふざけてないですよ。
「あれはなんていう鳥?」とミホがあたしに聞く。
 いかにもあたしが知っているかのような口ぶりで聞かれたからびっくりした。
 そんなの分かるわけがない。
「さあ、鳥はカラスくらいしか知らないよ」
「でも、前に鳥のこと教えてくれたのかさねじゃん」
 鳥のこと?
 あたしが?
「覚えてないよ。何の話だっけ?」
「ほら、メジロとウグイスの違い。メジロは緑色の小鳥で、ウグイスはホーホケキョと鳴く小鳥だけど、灰色っぽくて地味な色だって」
 そんな小鳥の話をしたこと自体、まったく覚えていない。
 あたしが首をかしげていると、ミホがあたしの腕をつついた。
「入学したときにさ、教えてくれたんじゃん。忘れちゃったの?」
「うん、全然分からないや」
「桜の花が満開の時にさ、枝から枝に飛び移ってチュルピチュルピって鳴いてる緑色の小鳥がいたんだよ。で、私がウグイスかなって言ったら、あれはメジロだよって教えてくれたんじゃん」
 あたしが?
 なんでそんなことを知っているんだろう。
 おばあちゃんに聞いたんだっけ?
 花の名前はたくさん教えてもらったけど、小鳥の話は聞いたことがない。
 それなのにどうしてあたしが人に小鳥の名前を教えてあげられるんだろうか。
 ケークェーと境内にまた鳥の鳴き声が響く。
 それはまるで神様のお告げのように、あたしの記憶をかき乱した。
 めまいのような感覚をこらえていると、心の奥底から光が浮かんできた。
 そうだ、康輔だ。
 あたしも康輔から教わったんだった。
 中学に入学したときのことだ。
 入学式の翌日、クラスの親睦を目的とした球技大会がおこなわれたんだった。
 あたしたちの中学校は薄井地区の三つの小学校から生徒が集まってきていた。
 お互いに知らない人ばかりで初めはぎこちない雰囲気だったけど、出身小学校を混ぜたチームでドッジボールを始めたらすぐに団結して盛り上がったんだっけ。
 そんな試合の合間にグラウンドの隅で休憩していたら、頭の上で小鳥の鳴き声が聞こえてきたのだ。
 見上げると、桜の花の間をチュルピツツピとかわいらしい声で泣きながら若葉色の小鳥が飛び交っていた。
『ねえ、あれ、ウグイスかな』と、あたしは横にいる小学校からの友達のジャージを引っ張ったんだった。
『メジロだな』
 あたしは驚いた。
 答えが違っていたことではなく、答えてくれた相手が違っていたことに。
 あたしがジャージを引っ張っていたのは全然知らない男子生徒だったのだ。
『あ、そうなの。へえ、メジロっていうんだ』
 しどろもどろになりながらとりあえず話をしたけど、正直、恥ずかしさで逃げ出したい気持ちだった。
 でも、その男子は間違って突然話しかけたあたしに鳥のことを親切に教えてくれたのだ。
『あの緑色の鳥は、目のまわりが白いからメジロっていうんだ。ウグイスは鳴き声はホーホケキョって派手だけど、色は灰色っぽくて地味で姿を見つけるのは難しいんだ』
『へえ、そうなんだ。でも、緑色のあんこのことをうぐいす餡っていうよね』
『さあ、あんこのことは分からねえな』
 食いしん坊と思われたかと思ってちょっと恥ずかしかったけど、初対面の男子なのに自然と会話が続くのが意外だった。
『鳥に詳しいんだね』
『ああ、じいちゃんに教わった』
『へえ、そうなんだ』
 ホイッスルが鳴って、試合のメンバーが入れ替わる。
 コートの中から呼んでいる。
『おーい、康輔、出番だぜ』
 うっす、とあたしの横にいた男子生徒が歩き出す。
 それが康輔との出会いだった。
 そうだ、そうだったんだ。
 高校に入学したときに、ミホからも偶然同じことを聞かれて、ここぞとばかりに知ったかぶりして教えてあげたんだった。
『へえ、詳しいんだね』と感心されて、実は自分も八重樫康輔という男子に教えてもらったんだと種明かしをしたんだったっけ。
 でも、今、ミホは小鳥に詳しいのがあたしだと思っている。
 いつの間にか康輔の話があたしにすり替わっている。
「ねえ、かさね」
 ミホに呼ばれて我に返る。
「え、なに?」
「で、あの変な鳴き声の鳥はなんて言うの?」
 まだ頭上でケークェーと鳴き声がする。
「ごめん、分からないよ。あたし鳥に詳しくないし」
「なんでメジロだけ詳しかったんだろうね」
 やっぱり、ミホは忘れているんだ。
 メジロのことは覚えていても、康輔のことはもう覚えていないんだ。
 あらためて康輔のことを説明するのはやめておいた。
「あー、まあ、たまたまおばあちゃんに教えてもらってたからだったかな」
 そうやって当たり障りのない嘘を混ぜて余計な心配をさせないのも必要なことなのだ。
 この日常を引っかき回してはいけない。
 そんなことをしても康輔に会えるわけではない。
 むしろ、どんどん記憶や痕跡が消えていってしまう。
 おそらく、このメジロの話も、次はもう思い出せなくなってしまうんだ。
 いつのまにかミホの記憶がすり替わってしまったように。
 鷹宮先輩が定期券をなくしていなかったことになっているように。
 あたしの記憶も消されてしまうのだ。
 でも、せっかく忘れそうな自分を受け入れようとしているのに、どうしてまたこんなふうに手がかりをチラ見せしてくるんだろう。
 本当はあきらめていないあたしの本心を確かめているんだろうか。
 ごまかせはしないぞ。
 おまえの魂胆は分かっているぞ。
 おまえが降参するまで痛めつけてやる。
 どこかで誰かがあたしを見ているんだ。
 これは運命との闘いなんだ。
 だからあたしもそれに対抗して、本当の気持ちを隠し続けなければならないのだ。
 もう全然康輔のことなんか気にしてませんよ。
 なにも覚えてないですよ。
 だから、見逃してくださいよ。
 ねえ、だめですか?
 誰に問いかけているのかは分からない。
 石畳の参道をひゅうと北風が吹き抜ける。
 舞い落ちた枯葉がかさかさと音を立てて転がっていく。
 ミホが顔の前で手を合わせて息を吹きかけている。
「寒いね」
 あたしは両手でミホの手を包んだ。
「人間手袋だぞ」
「うほ、あったけえ……って、かさねの手、冷たいじゃん」
「ほんとだ、ミホの方があたたかいや」
「耳にしてみてよ」
 ミホの耳は真っ赤だ。
 触れたら痛そうだった。
 ヒヨコを包むようにミホの頭を両手ではさむ。
 耳に当てた手から冷たさがじんじんと伝わってくる。
「こっちはあったかくていいね。人間耳当て、なかなかいいよ。あたしもやるね」
 ミホもあたしの頭を両手ではさむ。
 たしかにあたたかい。
 しばらくの間、二人向かい合ってお互いを温め合う。
 でも、じっとしているから、足下が冷えてくる。
 震えているミホの顔がだんだんニヤけはじめる。
「これって、キスの距離だよね」
 コレッテキスノキョリダヨネ。
 両耳を手で塞がれているせいか、宇宙人の声みたいだ。
 ミホがミホでないみたいだ。
「する?」
 はあ?
「うん」なんて返事をしてみる。
「いやいや、悪ノリしすぎじゃん。意外と大胆だよね、かさねって」
 ミホから誘ったくせに。
「その日まで、大事にとっておこうか」
 顔を赤くしながら言われると、あたしまで照れくさくなる。
 視線をそらすようにうなずく。
 あたしにはその日が来るのかは分からないのだ。
 ミホが手を離して一歩下がる。
「なんかヤバイ気持ちになりそうだから、帰ろうよ」
「そうだね」
 二人並んで鳥居を出る。
 ケークェーとまた鳥が鳴いた。
 ……かさね……。
 なんだか呼ばれたような気がして振り向く。
 境内には誰もいない。
 狛犬様が並んでこっちを見ているだけだ。
 空耳かな。
 でも、なんだか気になる。
 とても懐かしい声だったような気がする。
「じゃあ、またね」
 ミホが手を振っていた。
 あたしもあわてて手を振り返す。
「あ、うん」
「どうかした?」
「ううん、なんでもない。また明日ね」
 ミホと別れて竹藪の坂道を下る。
 静かな坂道にあたしの足音だけが響く。
 一人で歩くことにはもう慣れた。
 ただね。
 さびしさだけはまだなんだ。
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