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桶狭間の戦い
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清洲の町には大勢の人が溢れていた。
商人や住人も居るけど、ほとんどが流れ者だった。堺と同じくらい、もしかするとそれ以上かもしれない人数だった。
「……藤吉郎。どうしてこんなに人が居るんだ?」
戦を終えて無事に戻ってきた藤吉郎と、何十人かの足軽組頭と一緒に来て、目の前の光景にとても驚いてしまった。
一年前よりもこんなに栄えたんだろうか。
「ああ。今川との戦で一稼ぎしようと思った輩共よ。平常はこんなには集まらん」
「な、なんでだ? 織田家は不利なはずだろう? 好んで負けるほうにつくなんて――」
「不利? ああ、それは間違いだ。太原雪斎様も亡くなってしまった今、不利ではない」
藤吉郎は軽く笑った。
「駿河と遠江、そして三河。三国を治める今川家は確かに強大だが、意外と石高は少ない。尾張一国と同じくらいだ」
「どうしてそれを――ああ、藤吉郎は元陪々臣だったっけ」
「それもあるがな。今川家は海運や鉱山の収入があるから、それほど開墾に力を入れていない。加えて開墾できる土地が海沿いゆえに少ない。これらは民の間でも噂になるくらいだ」
「関所を廃止しているから、そういう情報が手に入るのか」
さらに藤吉郎は説明を続けた。
「それに織田家は伊勢湾海運で莫大な収益を得ている。はっきり言えば他家よりも銭は多く持っている。だからあぶれ者や流れ者をたくさん雇えるのだ」
「これを見れば分からなくもないけど」
「そういえば、大殿と将軍義輝公が謁見したことは知っているか?」
僕は頷いた。確か少ない軍勢で上洛したと風の噂で聞いたことがある。
「その誼で南近江の六角氏に援軍を派遣してもらえた。およそ七千の軍勢だ」
「七千!? かなり多いな……」
「尾張の兵と流れ者を合わせて一万。援軍を加えたら一万七千。今川の二万五千と対抗できる」
藤吉郎は僕の肩に手を置いた。
「だから心配するな。織田家は滅びぬ。逆に今川義元公を討ち取ってしまうかもしれんぞ」
「それは楽観的すぎると思う。藤吉郎らしいけど」
「らしい、か……この戦に勝ったら、わしはねね殿と婚約いたす」
突然の言葉に驚いて、思わず顔を見てしまう。
藤吉郎はいつになく真剣な表情をしていた。
「そろそろ所帯を持ってもいいだろう。それにこの戦に勝てば出世も夢ではない」
「…………」
「これまで以上に、おぬしには働いてもらう。期待しておるぞ」
肩の手を下ろして、藤吉郎は僕に笑みを見せる。
あのときと同じ、日輪のような笑みだった。
「流れ者を清洲城に案内するぞ」
「分かった、藤吉郎!」
そして、五月。
今川義元率いる軍勢が、尾張に侵攻してきた――
「今川軍、丸根砦と鷲津砦に着手!」
「鳴海城、敵方岡部元信に攻められています!」
清洲城内、評定の間。
伝令が飛び交う中、僕は大殿に茶を点てていた。
大殿は僕の茶を飲みながら「で、あるか」と泰然としていた。
「大殿! いかがなさいますか!?」
「このまま攻められても良いのですか!?」
柴田さまを始めとして、重臣たちが口々に問い質す。
大殿は答えずにお茶を啜る。
「大殿!」
「勝家――出陣の準備をしろ」
大殿は茶碗を置いて、静かに言う。
「ただし出陣はまだ早い。いつでも出られるようにだけせよ」
「そ、そのような悠長な――」
「下がれ! 二度とは言わぬ!」
叱り付けられた柴田さまたちは、焦りを隠さず、それでも命令であるので、渋々従った。
そして僕と大殿だけになった。
「雲之介。何か訊きたいことがあるか?」
いきなりの問いに僕は戸惑ったけど「大殿は何かを隠しているのですか?」と逆に問う。
大殿はぴくりと眉を動かした。
「何故そう思う?」
「あの、たくさんの砦や城が攻められているのに、とても余裕なのは、秘策があるからだと」
「秘策か……まあ、あるにはあるがな」
なんとなくの思いつきで言ったのに、案外的を射たようだった。
「俺は待っているのよ。義元があの場所に行くのをな」
あの場所? それは――
訊ねようとしたとき、評定の間に男が入ってきた。
姿は百姓。みすぼらしい格好をしている。
だけど目が違っていた。
澱んでいて、仄暗い目。
武士でも商人でも百姓でもない、厭な目。
「信長さま……例の場所に誘導しましたよ……」
「で、あるか。流石に義元も武田の忍びは信用するか」
武田の忍び? じゃあこの男は……
「ふふ。罠だと知らずに……」
「信玄公はこれで駿河に侵攻できるというわけだな」
大殿は忍びの言葉を遮って、立ち上がる。
「誰ぞ! 鼓を持て!」
扇子を開き、鼓を持った小姓が叩くのに合わせて、大殿は舞った。
「人間五十年。下天の内を比べれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか!」
そして「具足! 湯漬けを持て!」と命ずる。
何がなんだか分からない。
いつの間にか、男は居なくなっていた。
「雲之介! お前に命ずる! この書状を吉法師からだと言って、松平元康に渡せ!」
湯漬けを立ったまま食べた後、大殿は僕に書状を渡した。
「松平って……敵の将じゃないですか」
「安心しろ。手厚く迎えてくれるだろう」
理由を訊こうとすると柴田さまと佐久間さまが評定の前に入ってきた。
「大殿! 出陣なさるのですか!」
「勝家! 信盛! お前たちにそれぞれ三千の兵を預ける! 今川軍の先鋒隊を叩け! その隙に俺は義元の本隊を強襲する!」
命じられた二人は顔を見合わせた。
「し、しかし、義元がどこに居るのか……」
「義元の居場所は知れている」
大殿は大声を張り上げた。
「敵は……桶狭間にあり!」
大殿が率いる五千の兵は桶狭間に向かった。柴田さまたち六千の兵は今川軍と正面からぶつかる予定だ。
僕は大高城に向かった。既に今川方の攻撃で落城して、松平元康がそこで休息しているらしいと伝令が言っていた。
篠突くような大雨の中、書状を濡らさないように走る僕。
「武田の忍びって言ってたな……」
武田の忍びなんて信用できるのだろうか? だって武田と今川は同盟を結んでいるはずだ。それがどうして敵である大殿に手を貸すことになる?
何か裏で画策していたのだろうか、大殿は。
そんなことを考えていると「止まれ!」と突然言われた。
大高城近くに居た、今川の兵だ。二人が槍先をこっちに向けている。
「貴様、何者だ!」
「松平元康さまに書状がございます」
端的にそう言うと兵は顔を見合わせた。
「誰からの書状だ?」
「えっと、吉法師さまからです」
二人の兵は相談して「少しここで待て」と一人はどこかへ行ってしまった。
もう一人は僕を見張っている。
「確認が取れた。こっちに来い」
戻ってきた兵がそう言ったので、僕は従った。
怪我を負った兵たちの間を通って、幕で覆われた陣に入る。
「おぬし、吉法師殿の使いの者か」
陣の中に居たのは中肉中背の若い男だった。藤吉郎より少し若くて、僕より少し年上だ。賢そうな顔つき。だけどどこか優しそうな感じもする。
多分、松平元康とはこの人だろう。
「はい。そうです」
「さっそく書状を見せてもらおう」
僕は少し濡れてしまった書状を差し出す。松平さまの近くに居た武将が立ち上がり、僕から受け取って手渡した。
中を見た松平さまは徐々に顔を引きつらせていく。
「吉法師……もしもこれが真なれば、たいした男だ……」
「殿、何が書かれておりましたか?」
書状を受け取った武将が松平さまに訊ねる。
「数正。義元さまが討たれたら、どうする?」
「はっ? そのようなこと……」
「わしも想像できぬ。しかし、もしも――」
そう言った後、陣に伝令が転がりこんできた。
「ま、松平さま! 大変でございます!」
「どうした何があった!」
数正さまが吼えるように言った。
伝令は深呼吸してから言う。
「今川、義元さま、桶狭間にて、討ち死に! あの信長に、討たれました……!」
松平さまの手から、書状が、落ちた。
商人や住人も居るけど、ほとんどが流れ者だった。堺と同じくらい、もしかするとそれ以上かもしれない人数だった。
「……藤吉郎。どうしてこんなに人が居るんだ?」
戦を終えて無事に戻ってきた藤吉郎と、何十人かの足軽組頭と一緒に来て、目の前の光景にとても驚いてしまった。
一年前よりもこんなに栄えたんだろうか。
「ああ。今川との戦で一稼ぎしようと思った輩共よ。平常はこんなには集まらん」
「な、なんでだ? 織田家は不利なはずだろう? 好んで負けるほうにつくなんて――」
「不利? ああ、それは間違いだ。太原雪斎様も亡くなってしまった今、不利ではない」
藤吉郎は軽く笑った。
「駿河と遠江、そして三河。三国を治める今川家は確かに強大だが、意外と石高は少ない。尾張一国と同じくらいだ」
「どうしてそれを――ああ、藤吉郎は元陪々臣だったっけ」
「それもあるがな。今川家は海運や鉱山の収入があるから、それほど開墾に力を入れていない。加えて開墾できる土地が海沿いゆえに少ない。これらは民の間でも噂になるくらいだ」
「関所を廃止しているから、そういう情報が手に入るのか」
さらに藤吉郎は説明を続けた。
「それに織田家は伊勢湾海運で莫大な収益を得ている。はっきり言えば他家よりも銭は多く持っている。だからあぶれ者や流れ者をたくさん雇えるのだ」
「これを見れば分からなくもないけど」
「そういえば、大殿と将軍義輝公が謁見したことは知っているか?」
僕は頷いた。確か少ない軍勢で上洛したと風の噂で聞いたことがある。
「その誼で南近江の六角氏に援軍を派遣してもらえた。およそ七千の軍勢だ」
「七千!? かなり多いな……」
「尾張の兵と流れ者を合わせて一万。援軍を加えたら一万七千。今川の二万五千と対抗できる」
藤吉郎は僕の肩に手を置いた。
「だから心配するな。織田家は滅びぬ。逆に今川義元公を討ち取ってしまうかもしれんぞ」
「それは楽観的すぎると思う。藤吉郎らしいけど」
「らしい、か……この戦に勝ったら、わしはねね殿と婚約いたす」
突然の言葉に驚いて、思わず顔を見てしまう。
藤吉郎はいつになく真剣な表情をしていた。
「そろそろ所帯を持ってもいいだろう。それにこの戦に勝てば出世も夢ではない」
「…………」
「これまで以上に、おぬしには働いてもらう。期待しておるぞ」
肩の手を下ろして、藤吉郎は僕に笑みを見せる。
あのときと同じ、日輪のような笑みだった。
「流れ者を清洲城に案内するぞ」
「分かった、藤吉郎!」
そして、五月。
今川義元率いる軍勢が、尾張に侵攻してきた――
「今川軍、丸根砦と鷲津砦に着手!」
「鳴海城、敵方岡部元信に攻められています!」
清洲城内、評定の間。
伝令が飛び交う中、僕は大殿に茶を点てていた。
大殿は僕の茶を飲みながら「で、あるか」と泰然としていた。
「大殿! いかがなさいますか!?」
「このまま攻められても良いのですか!?」
柴田さまを始めとして、重臣たちが口々に問い質す。
大殿は答えずにお茶を啜る。
「大殿!」
「勝家――出陣の準備をしろ」
大殿は茶碗を置いて、静かに言う。
「ただし出陣はまだ早い。いつでも出られるようにだけせよ」
「そ、そのような悠長な――」
「下がれ! 二度とは言わぬ!」
叱り付けられた柴田さまたちは、焦りを隠さず、それでも命令であるので、渋々従った。
そして僕と大殿だけになった。
「雲之介。何か訊きたいことがあるか?」
いきなりの問いに僕は戸惑ったけど「大殿は何かを隠しているのですか?」と逆に問う。
大殿はぴくりと眉を動かした。
「何故そう思う?」
「あの、たくさんの砦や城が攻められているのに、とても余裕なのは、秘策があるからだと」
「秘策か……まあ、あるにはあるがな」
なんとなくの思いつきで言ったのに、案外的を射たようだった。
「俺は待っているのよ。義元があの場所に行くのをな」
あの場所? それは――
訊ねようとしたとき、評定の間に男が入ってきた。
姿は百姓。みすぼらしい格好をしている。
だけど目が違っていた。
澱んでいて、仄暗い目。
武士でも商人でも百姓でもない、厭な目。
「信長さま……例の場所に誘導しましたよ……」
「で、あるか。流石に義元も武田の忍びは信用するか」
武田の忍び? じゃあこの男は……
「ふふ。罠だと知らずに……」
「信玄公はこれで駿河に侵攻できるというわけだな」
大殿は忍びの言葉を遮って、立ち上がる。
「誰ぞ! 鼓を持て!」
扇子を開き、鼓を持った小姓が叩くのに合わせて、大殿は舞った。
「人間五十年。下天の内を比べれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか!」
そして「具足! 湯漬けを持て!」と命ずる。
何がなんだか分からない。
いつの間にか、男は居なくなっていた。
「雲之介! お前に命ずる! この書状を吉法師からだと言って、松平元康に渡せ!」
湯漬けを立ったまま食べた後、大殿は僕に書状を渡した。
「松平って……敵の将じゃないですか」
「安心しろ。手厚く迎えてくれるだろう」
理由を訊こうとすると柴田さまと佐久間さまが評定の前に入ってきた。
「大殿! 出陣なさるのですか!」
「勝家! 信盛! お前たちにそれぞれ三千の兵を預ける! 今川軍の先鋒隊を叩け! その隙に俺は義元の本隊を強襲する!」
命じられた二人は顔を見合わせた。
「し、しかし、義元がどこに居るのか……」
「義元の居場所は知れている」
大殿は大声を張り上げた。
「敵は……桶狭間にあり!」
大殿が率いる五千の兵は桶狭間に向かった。柴田さまたち六千の兵は今川軍と正面からぶつかる予定だ。
僕は大高城に向かった。既に今川方の攻撃で落城して、松平元康がそこで休息しているらしいと伝令が言っていた。
篠突くような大雨の中、書状を濡らさないように走る僕。
「武田の忍びって言ってたな……」
武田の忍びなんて信用できるのだろうか? だって武田と今川は同盟を結んでいるはずだ。それがどうして敵である大殿に手を貸すことになる?
何か裏で画策していたのだろうか、大殿は。
そんなことを考えていると「止まれ!」と突然言われた。
大高城近くに居た、今川の兵だ。二人が槍先をこっちに向けている。
「貴様、何者だ!」
「松平元康さまに書状がございます」
端的にそう言うと兵は顔を見合わせた。
「誰からの書状だ?」
「えっと、吉法師さまからです」
二人の兵は相談して「少しここで待て」と一人はどこかへ行ってしまった。
もう一人は僕を見張っている。
「確認が取れた。こっちに来い」
戻ってきた兵がそう言ったので、僕は従った。
怪我を負った兵たちの間を通って、幕で覆われた陣に入る。
「おぬし、吉法師殿の使いの者か」
陣の中に居たのは中肉中背の若い男だった。藤吉郎より少し若くて、僕より少し年上だ。賢そうな顔つき。だけどどこか優しそうな感じもする。
多分、松平元康とはこの人だろう。
「はい。そうです」
「さっそく書状を見せてもらおう」
僕は少し濡れてしまった書状を差し出す。松平さまの近くに居た武将が立ち上がり、僕から受け取って手渡した。
中を見た松平さまは徐々に顔を引きつらせていく。
「吉法師……もしもこれが真なれば、たいした男だ……」
「殿、何が書かれておりましたか?」
書状を受け取った武将が松平さまに訊ねる。
「数正。義元さまが討たれたら、どうする?」
「はっ? そのようなこと……」
「わしも想像できぬ。しかし、もしも――」
そう言った後、陣に伝令が転がりこんできた。
「ま、松平さま! 大変でございます!」
「どうした何があった!」
数正さまが吼えるように言った。
伝令は深呼吸してから言う。
「今川、義元さま、桶狭間にて、討ち死に! あの信長に、討たれました……!」
松平さまの手から、書状が、落ちた。
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