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戦わない戦
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石川殿は当然、なかなか納得しなかった。世良田さんへの情があるとはいえ、家康殿への恩義もあるからだ。聞くところによると家康殿が今川家の人質だった頃から近習として仕えていたらしい。主従としてかなりの絆で結ばれているのだろう。
そんな石川殿を秀吉は懇々と説得し始めた。京や堺を始めとする畿内を手中に収めている羽柴家には敵わないと軽く脅したり、徳川家を滅ぼすことはしたくないと情に訴えてみたり、世良田さんのために協力してくれないかと哀願したりといろいろと手法を変える。そんな秀吉を見て、よくもまあそこまで舌が回るなと感心してしまう。
人たらしであり弁舌の達人である、今や最も天下人に近い秀吉にそこまで口説かれては、頑固で律義な三河者の石川殿も心を動かされないわけがなかった。一つだけ条件を出して、それを達成できれば家中を説得してみせると約束してくれた。
その条件とは――徳川家に決定的で徹底的な敗北を与えることだった。
「羽柴家に従わぬのは、戦をすれば勝てると思っているからです」
石川殿はすっかり酔いを醒まして秀吉に告げる。
「それに羽柴殿の出自や今までの対応で、なかなか素直になれぬのです」
「どういうことだ?」
秀吉は首を傾げるけど、僕はなんとなく分かってしまった。
「秀吉は百姓の出だし、徳川家の面々とは下手に付き合っていたから、そんな人間には従えないと思っているんだろう」
つまり、素直に従うことは世間体が悪いということである。
それを聞いた秀吉は深い溜息を吐いた。
「はあ。まったく、武士の意地というのは面倒だな」
「同感だね。でも、戦では負けないというのは少し分かる気がする」
僕は秀吉に向かって言う。
「僕は古今東西の名将の中で、羽柴秀吉という男は城攻めの天才で随一の実力者だと思う」
「なんだ急に褒め出して。何も出ないぞ?」
「でも野戦に関しては、徳川家康殿には劣ると考える」
その言葉に秀吉は顔をしかめた。
「今川義元公の軍師、太源雪斎の弟子にして、武田信玄と戦い続けた稀代の名将。石川殿、そう考えてもよろしいか?」
「ああ。殿を評するのであれば、それが正しい」
石川殿の答えを聞いて、僕は秀吉に「野戦になれば負けるだろう」と言った。
「逆に言えば城攻めなら確実に勝てると思うけど、相手もそこは読んでいるだろうね」
「なるほどな。では雲之介、おぬしはどうやって家康殿と戦う?」
僕は「徳川家は信濃国と甲斐国を手に入れたと言っても、まだまだ完全な支配下においているとは言えない」と言う。
「掌握していない今、それらの領土に攻め入る機会でもあるけど、こっちは四方に敵が居るし、大義名分がない」
「そうだな。柴田殿との戦が終わったばかりでもあるしな」
「時間をかけると信雄さまと結託して攻めてくるかもしれない。主家を裏切った羽柴家を同盟国である徳川家が織田家とともに討つ。立派な大義名分だ」
信雄さまが分を弁えないで羽柴家と敵対する可能性は高かった。そうでなくても徳川家に唆されて、その気になることもあった。
「じゃあどうする? まさか戦わないとでも言うのか?」
秀吉が冗談のような口ぶりで言ったので「それもありかもしれないな」と真剣に言う。
すると今まで黙って話を聞いていた世良田さんが「どういうことだい?」と驚いた。
「戦もせずに勝つなんてできるのか?」
「戦なんて相手を降らせる方法の一つでしかない。外交や調略も立派な戦法ですよ」
僕は以前、秀吉に語ったことを思い出した。
「徳川家とは当面戦わない。力を蓄えて確実に勝てるときに戦う」
世良田さんと石川殿は僕の言っていることを理解できないようだった。
でも秀吉は「なるほどな」となんとなく理解したようだった。
「つまり、国を城と見立てて攻めるということだな」
「流石、秀吉。理解が早くて助かるよ」
石川殿は「どういうことか説明してもらえるか?」と訊ねる。
僕は「その前に一つ約束してもらいたい」と石川殿に言う。
「これは今後の羽柴家の戦略だ。それを話すとなると、石川殿にもそれ相応の覚悟を求めるのは当然だ」
「…………」
「この話を聞くのなら、今ここで徳川家を裏切って羽柴家に忠誠を尽くすと約束してもらいたい」
石川殿の顔が蒼白になった。
「もちろん、石川殿の条件は守る。誓紙を交わさなくてもいいし、何かに誓えとも言わない。でも言葉に出してくれ。秀吉と僕、そして世良田さんの居る前で」
「……もし言わなかったら?」
「何もしない。ただこの話の続きは石川殿が帰った後に続けることにする」
石川殿は「俺が嘘を吐くとは考えないのか?」と慎重な問いを発した。
「誓紙も交わさないのだろう? だったら――」
「誓紙なんて紙切れ、いざとなれば文字通り破れるさ」
僕は「それに嘘を吐いても僕は構わない」と石川殿に言う。
「武士というか、男の矜持を保つなら、誰にも話せないと思う」
「…………」
「さあどうする?」
促すと石川殿は天を仰いで――言った。
「徳川家を裏切ることはできん。だが、若さまを当主にするための協力はする。これではどうだ?」
「……満足いく回答ではないけど、不満はない」
僕は秀吉に目配せした。すると秀吉は「よう言ってくれた!」と大声で喚いた。
「それでこそ、三河の武士だ! 主家を裏切ると言ったら逆に信用できぬところだった!」
「……なんだか試されていた気分です」
これでいいだろう。少なくとも今話す内容を徳川家の誰かに漏らすことはない。人は他人に与えられた条件よりも自分に課した枷を重視し、遵守する傾向にある。
「では話そう。まず、国力を増強させぬように周りの大名に徳川家を攻めさせる。主に信濃国を中心に。上杉家や北信濃国の……真田家かな? そこを煽る。加えて甲斐国で一揆を扇動させて治安を悪化させる。織田家から徳川家に支配が代わって、国人たちの中には従わない者も多く居るらしい」
既になつめたちに探らせていたのでそういった情報は入っていた。
「堺や京の商人に荷止めをしてもらう。ま、そんな感じかな。それと同時に一つ一つ敵対勢力を倒していく。無論、毛利家や長宗我部家を狙う。まずは長宗我部家かな」
「まあ基本だな」
「信雄さまを刺激しないように丁重に扱うのも重要だね」
要は兵糧攻めのようなことを国単位で行なうということだ。
徳川家をじわじわと消耗させていく。戦わないことが戦いとなる戦法だった。
「秀吉。官位を朝廷から賜る交渉もできればしてほしい。徳川家よりも格上になって、他の諸大名も従わせるように」
「うむ。それは既にご隠居さまに動いてもらっている」
ご隠居さまとは義昭さんのことである。
「しかし雲之介よ。上杉家と真田家を動かすには支援が必要だぞ?」
「それは任せるよ。丹波国の治世で僕は忙しいんだから」
「わしも忙しいのだがな……」
僕は石川殿に向かって「一年か二年。そのくらいかかるだろう」と伝えた。
「その間、石川殿は何度か羽柴家に来てもらいたい。もちろん、外交として。不自然にならない頻度で」
「ああ、それから同志を募る必要はないぞ」
秀吉の意外な言葉に石川殿は「それはどういう意図ですか?」と素早く訊いた。
「てっきり同調する者を集めろと命じられると思いましたが」
「それは家康殿に疑われてしまう。そうなれば外交を任せられなくなる」
秀吉は「石川殿が知りえる情報だけ渡してくれればいい」とやけに甘いことを言った。
「決して無理しないように。分かったな?」
石川殿はよく分からないなりに「分かり申した」と答えた。
しばらく話し合って、石川殿と世良田さんが退出した後、僕は「秀吉はなんだかんだ
優しいね」と言う。
「何のことだ?」
「石川殿の罪悪感や負担を減らすために、積極的な行動を禁じたんだろう?」
対して秀吉は「それもあるがな」と笑った。
「もうとっくに石川殿は家康殿に疑われているだろうよ」
「……はあ?」
「外交に出した時点で、わしに篭絡される覚悟ぐらいあるだろう。家康殿は猜疑心のあるお方だからな」
そこまでは読めなかったな……
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その条件とは――徳川家に決定的で徹底的な敗北を与えることだった。
「羽柴家に従わぬのは、戦をすれば勝てると思っているからです」
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「それに羽柴殿の出自や今までの対応で、なかなか素直になれぬのです」
「どういうことだ?」
秀吉は首を傾げるけど、僕はなんとなく分かってしまった。
「秀吉は百姓の出だし、徳川家の面々とは下手に付き合っていたから、そんな人間には従えないと思っているんだろう」
つまり、素直に従うことは世間体が悪いということである。
それを聞いた秀吉は深い溜息を吐いた。
「はあ。まったく、武士の意地というのは面倒だな」
「同感だね。でも、戦では負けないというのは少し分かる気がする」
僕は秀吉に向かって言う。
「僕は古今東西の名将の中で、羽柴秀吉という男は城攻めの天才で随一の実力者だと思う」
「なんだ急に褒め出して。何も出ないぞ?」
「でも野戦に関しては、徳川家康殿には劣ると考える」
その言葉に秀吉は顔をしかめた。
「今川義元公の軍師、太源雪斎の弟子にして、武田信玄と戦い続けた稀代の名将。石川殿、そう考えてもよろしいか?」
「ああ。殿を評するのであれば、それが正しい」
石川殿の答えを聞いて、僕は秀吉に「野戦になれば負けるだろう」と言った。
「逆に言えば城攻めなら確実に勝てると思うけど、相手もそこは読んでいるだろうね」
「なるほどな。では雲之介、おぬしはどうやって家康殿と戦う?」
僕は「徳川家は信濃国と甲斐国を手に入れたと言っても、まだまだ完全な支配下においているとは言えない」と言う。
「掌握していない今、それらの領土に攻め入る機会でもあるけど、こっちは四方に敵が居るし、大義名分がない」
「そうだな。柴田殿との戦が終わったばかりでもあるしな」
「時間をかけると信雄さまと結託して攻めてくるかもしれない。主家を裏切った羽柴家を同盟国である徳川家が織田家とともに討つ。立派な大義名分だ」
信雄さまが分を弁えないで羽柴家と敵対する可能性は高かった。そうでなくても徳川家に唆されて、その気になることもあった。
「じゃあどうする? まさか戦わないとでも言うのか?」
秀吉が冗談のような口ぶりで言ったので「それもありかもしれないな」と真剣に言う。
すると今まで黙って話を聞いていた世良田さんが「どういうことだい?」と驚いた。
「戦もせずに勝つなんてできるのか?」
「戦なんて相手を降らせる方法の一つでしかない。外交や調略も立派な戦法ですよ」
僕は以前、秀吉に語ったことを思い出した。
「徳川家とは当面戦わない。力を蓄えて確実に勝てるときに戦う」
世良田さんと石川殿は僕の言っていることを理解できないようだった。
でも秀吉は「なるほどな」となんとなく理解したようだった。
「つまり、国を城と見立てて攻めるということだな」
「流石、秀吉。理解が早くて助かるよ」
石川殿は「どういうことか説明してもらえるか?」と訊ねる。
僕は「その前に一つ約束してもらいたい」と石川殿に言う。
「これは今後の羽柴家の戦略だ。それを話すとなると、石川殿にもそれ相応の覚悟を求めるのは当然だ」
「…………」
「この話を聞くのなら、今ここで徳川家を裏切って羽柴家に忠誠を尽くすと約束してもらいたい」
石川殿の顔が蒼白になった。
「もちろん、石川殿の条件は守る。誓紙を交わさなくてもいいし、何かに誓えとも言わない。でも言葉に出してくれ。秀吉と僕、そして世良田さんの居る前で」
「……もし言わなかったら?」
「何もしない。ただこの話の続きは石川殿が帰った後に続けることにする」
石川殿は「俺が嘘を吐くとは考えないのか?」と慎重な問いを発した。
「誓紙も交わさないのだろう? だったら――」
「誓紙なんて紙切れ、いざとなれば文字通り破れるさ」
僕は「それに嘘を吐いても僕は構わない」と石川殿に言う。
「武士というか、男の矜持を保つなら、誰にも話せないと思う」
「…………」
「さあどうする?」
促すと石川殿は天を仰いで――言った。
「徳川家を裏切ることはできん。だが、若さまを当主にするための協力はする。これではどうだ?」
「……満足いく回答ではないけど、不満はない」
僕は秀吉に目配せした。すると秀吉は「よう言ってくれた!」と大声で喚いた。
「それでこそ、三河の武士だ! 主家を裏切ると言ったら逆に信用できぬところだった!」
「……なんだか試されていた気分です」
これでいいだろう。少なくとも今話す内容を徳川家の誰かに漏らすことはない。人は他人に与えられた条件よりも自分に課した枷を重視し、遵守する傾向にある。
「では話そう。まず、国力を増強させぬように周りの大名に徳川家を攻めさせる。主に信濃国を中心に。上杉家や北信濃国の……真田家かな? そこを煽る。加えて甲斐国で一揆を扇動させて治安を悪化させる。織田家から徳川家に支配が代わって、国人たちの中には従わない者も多く居るらしい」
既になつめたちに探らせていたのでそういった情報は入っていた。
「堺や京の商人に荷止めをしてもらう。ま、そんな感じかな。それと同時に一つ一つ敵対勢力を倒していく。無論、毛利家や長宗我部家を狙う。まずは長宗我部家かな」
「まあ基本だな」
「信雄さまを刺激しないように丁重に扱うのも重要だね」
要は兵糧攻めのようなことを国単位で行なうということだ。
徳川家をじわじわと消耗させていく。戦わないことが戦いとなる戦法だった。
「秀吉。官位を朝廷から賜る交渉もできればしてほしい。徳川家よりも格上になって、他の諸大名も従わせるように」
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ご隠居さまとは義昭さんのことである。
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「それは任せるよ。丹波国の治世で僕は忙しいんだから」
「わしも忙しいのだがな……」
僕は石川殿に向かって「一年か二年。そのくらいかかるだろう」と伝えた。
「その間、石川殿は何度か羽柴家に来てもらいたい。もちろん、外交として。不自然にならない頻度で」
「ああ、それから同志を募る必要はないぞ」
秀吉の意外な言葉に石川殿は「それはどういう意図ですか?」と素早く訊いた。
「てっきり同調する者を集めろと命じられると思いましたが」
「それは家康殿に疑われてしまう。そうなれば外交を任せられなくなる」
秀吉は「石川殿が知りえる情報だけ渡してくれればいい」とやけに甘いことを言った。
「決して無理しないように。分かったな?」
石川殿はよく分からないなりに「分かり申した」と答えた。
しばらく話し合って、石川殿と世良田さんが退出した後、僕は「秀吉はなんだかんだ
優しいね」と言う。
「何のことだ?」
「石川殿の罪悪感や負担を減らすために、積極的な行動を禁じたんだろう?」
対して秀吉は「それもあるがな」と笑った。
「もうとっくに石川殿は家康殿に疑われているだろうよ」
「……はあ?」
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