東洲斎写楽の懊悩

橋本洋一

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発露

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「写楽……珍しい名であるな。まるで取ってつけたような……」

 怪しんでいる番頭の速水主水に対し、やはり普通の名のほうが良かったと後悔する重三郎。隣に控えている、正体を隠したシャーロックが小刻みに震えているのが伝わる。今が窮地だと分かるようだ。

「何故怯えておるのだ?」
「この者は病を持っておりまして……寒気が止まらないのです」

 人間追い詰められると思考が停止する者と目まぐるしく回転する者に分かれる。重三郎は後者だった。平常では思いつかない嘘が頭の中に浮かんでくる。

「病だと? 何の病だ?」
「手前は脚気に近いものと聞き及んでおります。詳しくは知りませぬ」
「……ならば当人に話させよう。その方、如何なる病か」

 視線を向けられたシャーロックはますます怯え始めた。口元の布が取れぬか不安になった重三郎は「この者、耳が聞こえませぬ」と大嘘をつく。

「それ故、話すことは叶いません」
「なに? 貴様は脚気に近い病と言っていたではないか! 脚気で耳がおかしくなるなど聞いたことがない!」
「ですから、この者は脚気に近い病だと……」

 速水はじっとシャーロックを見つめた。その者の耳が聞こえないことをどう証明するか――

「あい分かった。その方の疑いは晴れた故、関を通るがよい」

 重三郎は一瞬喜びかけたが、これが速水の罠だと気づく。
 言葉に何らかの反応を見せれば耳が健常だとバレてしまう――

「…………」

 けれども、シャーロックは何も反応しなかった。ぶるぶる震えているが速水の言葉で変わった様子は見られない。それもそのはず、シャーロックは日の本の言葉が分からないのだ。

「……まことのようだな」

 速水が不承不承に納得のを見て、重三郎はなんという幸運だろうと神仏に感謝した。しかし緊張は解かない。油断してボロが出てしまえば自分たちに明日はなかった。

「では何故、病の者と旅をしている?」
「長崎奉行の中川様より紹介に預かりました。この写楽は素晴らしい絵師だと。それ故、江戸に参らせたのです。手前の商売である版元は絵師がいないと成り立ちませんから」

 中川の紹介――強制と言い換えられる――以外は嘘である。それどころかシャーロックが絵を描く様子を見続けていたから出た思いつきでしかない。
 油断も無ければ弛緩もしていなかった。
 しかしこの発言が重三郎とシャーロックを更なる窮地に追いやることとなる。

「ならばその証を実際に見せてもらおう」
「……なんですと?」
「この場で絵を描くのだ」

 速水は不敵に笑った。
 これで決着がつくと言わんばかりの態度である。

「題材はなんでも良い。道具も用意させよう。さあ描くがいい」


◆◇◆◇


 とんでもないことになった――それが重三郎の率直な感想だった。
 シャーロックの実力は分かっている。しかしそれでも速水を納得させられるものを描き上げられるだろうか。もし勘気を被る出来のものだったら――それこそ首と胴が離れる結果になる。

 すぐさま墨と筆が用意された。速水が見ている中、未だ怯えているシャーロックは何をしたらいいのかと重三郎を不安そうに見つめる。

 もうシャーロックに委ねるしかない。頼むから非凡な才能を見せてくれ――そう願いつつ、重三郎は右手で左の掌をなぞって絵を描く仕草をした。

「どうした? 類まれなる絵師なのであろう? さっさと描くがいい」

 速水の促しに対し、シャーロックは状況がほぼ分かったらしい。
 深く深呼吸をして――筆を取った。
 このとき、速水が用意させた筆は絵筆ではない。重三郎が与えた筆と違って多少の書きづらさはあるだろう。それをどう克服するか――

「…………!」

 沈黙のまま、シャーロックは筆を動かす。
 いわゆる水墨画を描こうとしている――色が黒しかない――ので多彩な表現は不可能だ。
 それでどんな絵を描くのか。重三郎は天に祈る心地で見守っている。

 一方、速水はこれでボロが出ればいいと考えていた。
 耳の聞こえぬのは確かだとしても、絵師というのは眉唾物だった。病人が肥前国からここまで旅をしてきたというのも無理がある。

 まさか異国人がこの場にいるとは思っていない。ただ脛に傷を持つ者だとしたら取り締まらないといけないという使命感を持っていた。
 厳しい政治で有名な松平定信が老中から解任された数年前より番頭を務めている速水。
 頑固で融通の利かないところがあったからこそ、ここまで出世できたのだ。

 ――さあ、見破ってやるぞ。
 そう思いつつ、速水はシャーロックの手元を覗き込んだ――そこで驚愕する。

 素早い筆運びだ。とても丁寧な描き方とは思えない。
 しかし絵はとても常人が描いたとは思えないほど――美しかった。
 シャーロックが描いているのはなんてことのない、山を遠くから見た光景である。
 空があり山があり川が流れていて、題材としては平凡そのものだった。

 そんな単純な構図なのに――生きている。
 空は透き通っていて、山は青々と茂っていて、川はせせらぎが聞こえてくるように流れていた。

 不思議なことに墨の黒一色で描いているはずなのに、色が分かれているように見える。
 それは濃淡を変えているからだ。おそらく水を使っているのだろう。その技法で空の眩しさ、山の重量感、川の透明度を表現していた。

 たった一色で質感を変えるのは相当の技術がないと不可能だ。それを手早く描くのは素晴らしいというよりも凄まじいと言える。いともたやすく行なえるような行為ではない。

 ――なんという見事な絵だ。
 後ろで見守っていた重三郎もシャーロックの絵に驚いていた。
 いや、驚くというよりも――感動に近い。

 版元を営んでいる重三郎は今まで数々の絵師を見続けている。
 数少ない才能のある者の絵も見ていた。
 けれども、シャーロックほどの才能は――今までにない。

 シャーロックは迷いなく描いている。
 いや、全身の震えが止まっていた――この状況で楽しんで描いていた。
 絵を描くことが楽しくて仕方がなくて夢中になっているみたいだ。

 好きこそものの上手になれという言葉があるが、体現している者と出会ったのは、重三郎の長い人生の中で初めてかもしれない。世話してきた絵師たちは産みの苦しみをどこかで抱えていた。だけどシャーロックにはそれがない。まるで子供のように――楽しく活き活きと描いている。

「…………」

 シャーロックが筆を置いた――完成したのである。
 そこには非凡な作品が出来上がっていた。
 空と山と川。たったそれだけなのに、今まで見たことのない美しい絵が存在していた。
 あまりの凄みに重三郎も速水も、控えている手代たちも見張っていた役人も声を出せなかった。

 そのとき、ごーんと夕刻を知らせる鐘の音が聞こえた。
 重三郎と速水がいち早く我に返った――二人が同時に咳払いすると他の者もハッとする。

「……いかがでしょうか」

 重三郎の短い言葉。
 感動のあまりそれしか言えない。
 速水はごくりと唾を飲み込んだ。

「よ、良かろう。通行を許可する」
「ありがとうございます。それでは皆の衆、急ぎ箱根の関を通るぞ。日が暮れる前に通らねばならん」

 手代たちにそう告げると、重三郎は自分の絵を見つめているシャーロックの肩を叩いた。
 頭巾と布で表情は分からない。
 それでも高揚している感情は伝わってきた。

「待て。その絵……どうする気だ?」

 速水が絵を指差す。
 重三郎はしばし考え「引き取らせていただきます」と手に取った。

「写楽の作品ですゆえ、売りに出そうかと」
「ゆ、譲ってくれぬか?」

 速水の眼が欲しいと言っている。
 重三郎はしばし悩むふりをして「譲ることはできませぬ」と断った。

「手前は商人ですから、売ることならできます」
「い、いくらだ?」
「……一両でいかがですか?」

 一両は相当な大金である。ここから値段交渉するために、重三郎は吹っ掛けたのだが、それに気づかない速水は「いいだろう。一両支払う」と即答した。

「よろしいのですか?」
「ああ。むしろそのくらいで買えたことは喜ばしい」
「分かりました。それで売りましょう」

 にこやかに笑っている重三郎だが、もっと値を吊り上げられたなと内心悔しがる。
 自分の絵が高値で売れたことにシャーロックは分からず、二人のやりとりを不思議そうに聞いていた。
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