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懇願
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無事に江戸へと帰ってきた重三郎が真っ先に行なったことはシャーロックを匿うための住居の用意だった。異国人である彼をいかにして人目に触れないようにするべきか。旅の最中も考えていたことなので、後は実行に移すだけだった。
重三郎は別宅を数軒持っている。そのうちの一つをとりあえず使うことにした。必要とあれば私財を投じてシャーロックのための家を作ってもいいが、別宅で用足りるのであればそれでいい。
旅から帰ってすぐにシャーロックを別宅に住まわせると、今度は世話をする者が必要であると重三郎は考えた。自分は版元を営む商家の主だから四六時中面倒を見るわけにはいかない。それにシャーロックが一人で暮らせるとは思えなかった。
口が固く決して重三郎を裏切らず異国人を見ても恐れたりしない――そんな世話人が要る。幸いにも重三郎に心当たりがあった。というよりもこの者でなければ務まらないだろう。
「誰か、お雪を呼んでくれ――」
使用人を通じてお雪を呼んだ重三郎。
しばらくして「失礼します」と涼やかな声がした。
そこには若い女性、お雪がいた。若いと言っても二十二歳で世間的にはいい歳になっている。細やかな眼はどこか狐を思わせるが、面長の美人であることに変わりはない。口元のほくろが艷やかな印象を与える。かなり大事にされているのだろう、纏う着物は上質なものだった。
「何の御用でしょうか?」
「ああ、来てくれたか。とりあえず座ってくれ」
店の一室で重三郎がすまなそうに「頼みたいことがある」と言ってきたときに、お雪は何かおかしいなと感づいていた。しかし養女である自分は断れないとも考えていた。
「義父上、そのようにかしこまらないでください。私にできることならなんでもしますよ」
「そう言ってくれるのはありがたい。とても重大な頼みで、お雪しか頼れないのだ」
「嬉しいですけど……何をすればいいのですか?」
御恩を返す気持ちが少なからずあるお雪は快く引き受ける――それにつけ込む形になってしまった重三郎はますます申し訳ない顔になった。
「まだ言えぬ。しかしこの場で受けてくれると言ってもらいたい」
「はあ……」
「全くもって筋の通らない話だが頼む」
すっと頭を下げる重三郎にお雪はどんな頼みなのだろうと不安が深まっていく。
それでもお雪は「いいですよ」と答えた。
「義父上の頼みを私が断るわけがありません」
「そう言ってくれるか……ありがとう」
お雪はなんだってやるつもりだった。
自分を救ってくれた恩人の頼みならば、自身を犠牲してもいいとさえ覚悟している。
それに余程の頼みでもないだろうとタカをくくっていた。優しくて面倒見の良い義父上が私に危険な頼みをするわけがない。そのことは数年一緒に暮らしていて分かっていた。
しかし、お雪は考えもしなかった。
よもやそれが余程の頼みでしかも危険な頼みだということに。
◆◇◆◇
お雪が連れてこられたのは、普段は使われていない別宅だった。それも重三郎自ら案内してのことである。店主で忙しいはずなのにと彼女は訝しがったが、詳しい事情は聞けなかった。
それは重三郎の挙動のせいだった。誰かにつけられていないかと何度も後ろを振り返る。それでいて一言も喋らない。いったいどうしてだろうとお雪は不思議に感じた。
別宅に入り奥の間の襖を開ける前に「一つ言っておく」と念を押す重三郎。
「何があろうとも決して大声をあげてはならぬ」
「……まさか、幽霊などいるのですか?」
冗談を言ったわけではない。そのくらい真剣な表情を重三郎はしていたので、お雪はそれしか思いつかないからそう言った。
「幽霊ではない。しかし……」
「……義父上?」
「まあ実際見れば分かるであろう。くどいが決して大声をあげるなよ」
お雪の緊張感が高まった――重三郎が襖を開ける。
そこには一心不乱に絵を描いているシャーロックがいた。
頭巾も布も纏っていない状態のままで――
「……義父上。あれは、なんでしょうか?」
初めて見る異国人に驚き過ぎてそれしか言えないお雪。
重三郎はそんな彼女に「異国人のシャーロック・カ―ライルだ」と告げる。
「エゲレスという国から来た。言葉は通じないがこちらの言うことは聞く」
「そ、それで私に何をさせようというのですか……?」
お雪が核心となる問いを発すると重三郎はその場にひれ伏し「頼む! お雪!」と懇願した。明らかな土下座である。
「この者の世話をしてくれ!」
とんでもない頼みをしてきた。
お雪は土下座のままの重三郎と描くことに夢中なシャーロックを見比べて――
「……い」
「い?」
お雪は頬を両の手で押さえて、引きつった表情で、口を大きく開いた――
「いやああああああああああああああああ!」
◆◇◆◇
「落ち着いてくれたか、お雪」
「……ええ、なんとか」
取り乱したお雪を宥めるのには相当の時間が必要だった。そのせいで先ほどまで楽しそうに絵を描いていたシャーロックが怯えてしまっている。今は部屋の隅で震えながら二人の様子を窺っていた。
「というわけで、わしは押しつけられた形でシャーロックを江戸まで連れてきたのだ」
「それで私に押しつけるのですか? やっていることは御奉行様と変わりないではありませんか」
ぐうの音の出ない正論である。
非難の眼をしているお雪に対し、重三郎はシャーロックを見つめながら「あの者が何者なのか、よう分かっておらぬ」と言った。
「しかしだ。非凡な才を持っていることは分かる。長年培ったわしの審美眼に間違いない」
「そこは疑いを持ちませんが……異国人を江戸に連れてくることは重罪なんですよ。義父上は私よりも分かっておいでですよね?」
お雪が気にしている問題はシャーロックの存在そのものである。はっきり言って絵師の才とか重三郎のお人好しとかどうでもいい。異国人のシャーロックがこの場にいることが由々しき事態なのだ。
「分かっておる。十分に分かっておるとも」
「分かっておりませぬ! ここに連れ込んでいることが――」
最後まで言い終わる前に、シャーロックが突然立ち上がった。お雪は驚いて声を失くす。そしてそのまますたすたと近づいてくる。
「な、なによあんた。悪いけどね、世話なんかできないわよ!」
シャーロックはいつの間にか持っていた紙をお雪に差し出す。なんのつもりだろうと見てみると、そこには一輪の花が描かれていた。
野に咲く花である。墨が使われているが、陰影がきっちりと仕上げられているので、細やかで繊細なものに描かれていた。
大きく花弁が開いていて、茎や葉がみずみずしく生えている。地面もまたしっとりと水分が含まれていると思わせていた。雨上がりの花を描いたと分かる作品である。
「な、なに? その絵をどうしろって言うの?」
「……アー、プレゼント」
エゲレスの言葉が分からないお雪だが、微笑みながら絵を渡そうとしてくるシャーロックに「わ、私にくれるの?」と確認する。
返事がないがお雪は紙を手に取った。シャーロックは嬉しそうに何度も頷いた。
「あ、ありがとう……で、でも! それとこれとは別の話だからね!」
久しぶりに男から物を貰ったとお雪は思いつつ、重三郎に「絶対に無理です」と冷たい眼を見せる。
「義父上には大恩ありますが、異国人の世話をするのは無理です!」
「無理ではあるが嫌ではないのであろう?」
「言葉尻を捕らえないでください!」
重三郎は顎に手を置いて「それではこうしよう」と提案する。
「信頼できる者を探す故、それまで世話をしてもらいたい。なに、ひと月だけだ。それが過ぎたらもうやめていい」
「……本当ですか? なあなあで続けたくないですよ?」
お雪の疑いの目に対してしっかりと頷く重三郎。
それが落としどころかとお雪はため息をついた。
「分かりました。ではひと月だけですよ」
「おお! やってくれるか!」
もしシャーロックのことが誰かに判明したら重三郎は破滅するしかない。
そうなれば養女である自分も路頭に迷うことになる。
打算的な考えが少なからずお雪の中にあったのは事実だ。
しかし御恩を返したいという気持ちに偽りはなかった。
かつて地獄から救ってくれた重三郎のために一肌脱ごうと決意する。
そんなお雪の覚悟を知らずに、シャーロックは再び絵を描き始めた。
実に楽しそうに山の絵を描く――
重三郎は別宅を数軒持っている。そのうちの一つをとりあえず使うことにした。必要とあれば私財を投じてシャーロックのための家を作ってもいいが、別宅で用足りるのであればそれでいい。
旅から帰ってすぐにシャーロックを別宅に住まわせると、今度は世話をする者が必要であると重三郎は考えた。自分は版元を営む商家の主だから四六時中面倒を見るわけにはいかない。それにシャーロックが一人で暮らせるとは思えなかった。
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「誰か、お雪を呼んでくれ――」
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しばらくして「失礼します」と涼やかな声がした。
そこには若い女性、お雪がいた。若いと言っても二十二歳で世間的にはいい歳になっている。細やかな眼はどこか狐を思わせるが、面長の美人であることに変わりはない。口元のほくろが艷やかな印象を与える。かなり大事にされているのだろう、纏う着物は上質なものだった。
「何の御用でしょうか?」
「ああ、来てくれたか。とりあえず座ってくれ」
店の一室で重三郎がすまなそうに「頼みたいことがある」と言ってきたときに、お雪は何かおかしいなと感づいていた。しかし養女である自分は断れないとも考えていた。
「義父上、そのようにかしこまらないでください。私にできることならなんでもしますよ」
「そう言ってくれるのはありがたい。とても重大な頼みで、お雪しか頼れないのだ」
「嬉しいですけど……何をすればいいのですか?」
御恩を返す気持ちが少なからずあるお雪は快く引き受ける――それにつけ込む形になってしまった重三郎はますます申し訳ない顔になった。
「まだ言えぬ。しかしこの場で受けてくれると言ってもらいたい」
「はあ……」
「全くもって筋の通らない話だが頼む」
すっと頭を下げる重三郎にお雪はどんな頼みなのだろうと不安が深まっていく。
それでもお雪は「いいですよ」と答えた。
「義父上の頼みを私が断るわけがありません」
「そう言ってくれるか……ありがとう」
お雪はなんだってやるつもりだった。
自分を救ってくれた恩人の頼みならば、自身を犠牲してもいいとさえ覚悟している。
それに余程の頼みでもないだろうとタカをくくっていた。優しくて面倒見の良い義父上が私に危険な頼みをするわけがない。そのことは数年一緒に暮らしていて分かっていた。
しかし、お雪は考えもしなかった。
よもやそれが余程の頼みでしかも危険な頼みだということに。
◆◇◆◇
お雪が連れてこられたのは、普段は使われていない別宅だった。それも重三郎自ら案内してのことである。店主で忙しいはずなのにと彼女は訝しがったが、詳しい事情は聞けなかった。
それは重三郎の挙動のせいだった。誰かにつけられていないかと何度も後ろを振り返る。それでいて一言も喋らない。いったいどうしてだろうとお雪は不思議に感じた。
別宅に入り奥の間の襖を開ける前に「一つ言っておく」と念を押す重三郎。
「何があろうとも決して大声をあげてはならぬ」
「……まさか、幽霊などいるのですか?」
冗談を言ったわけではない。そのくらい真剣な表情を重三郎はしていたので、お雪はそれしか思いつかないからそう言った。
「幽霊ではない。しかし……」
「……義父上?」
「まあ実際見れば分かるであろう。くどいが決して大声をあげるなよ」
お雪の緊張感が高まった――重三郎が襖を開ける。
そこには一心不乱に絵を描いているシャーロックがいた。
頭巾も布も纏っていない状態のままで――
「……義父上。あれは、なんでしょうか?」
初めて見る異国人に驚き過ぎてそれしか言えないお雪。
重三郎はそんな彼女に「異国人のシャーロック・カ―ライルだ」と告げる。
「エゲレスという国から来た。言葉は通じないがこちらの言うことは聞く」
「そ、それで私に何をさせようというのですか……?」
お雪が核心となる問いを発すると重三郎はその場にひれ伏し「頼む! お雪!」と懇願した。明らかな土下座である。
「この者の世話をしてくれ!」
とんでもない頼みをしてきた。
お雪は土下座のままの重三郎と描くことに夢中なシャーロックを見比べて――
「……い」
「い?」
お雪は頬を両の手で押さえて、引きつった表情で、口を大きく開いた――
「いやああああああああああああああああ!」
◆◇◆◇
「落ち着いてくれたか、お雪」
「……ええ、なんとか」
取り乱したお雪を宥めるのには相当の時間が必要だった。そのせいで先ほどまで楽しそうに絵を描いていたシャーロックが怯えてしまっている。今は部屋の隅で震えながら二人の様子を窺っていた。
「というわけで、わしは押しつけられた形でシャーロックを江戸まで連れてきたのだ」
「それで私に押しつけるのですか? やっていることは御奉行様と変わりないではありませんか」
ぐうの音の出ない正論である。
非難の眼をしているお雪に対し、重三郎はシャーロックを見つめながら「あの者が何者なのか、よう分かっておらぬ」と言った。
「しかしだ。非凡な才を持っていることは分かる。長年培ったわしの審美眼に間違いない」
「そこは疑いを持ちませんが……異国人を江戸に連れてくることは重罪なんですよ。義父上は私よりも分かっておいでですよね?」
お雪が気にしている問題はシャーロックの存在そのものである。はっきり言って絵師の才とか重三郎のお人好しとかどうでもいい。異国人のシャーロックがこの場にいることが由々しき事態なのだ。
「分かっておる。十分に分かっておるとも」
「分かっておりませぬ! ここに連れ込んでいることが――」
最後まで言い終わる前に、シャーロックが突然立ち上がった。お雪は驚いて声を失くす。そしてそのまますたすたと近づいてくる。
「な、なによあんた。悪いけどね、世話なんかできないわよ!」
シャーロックはいつの間にか持っていた紙をお雪に差し出す。なんのつもりだろうと見てみると、そこには一輪の花が描かれていた。
野に咲く花である。墨が使われているが、陰影がきっちりと仕上げられているので、細やかで繊細なものに描かれていた。
大きく花弁が開いていて、茎や葉がみずみずしく生えている。地面もまたしっとりと水分が含まれていると思わせていた。雨上がりの花を描いたと分かる作品である。
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エゲレスの言葉が分からないお雪だが、微笑みながら絵を渡そうとしてくるシャーロックに「わ、私にくれるの?」と確認する。
返事がないがお雪は紙を手に取った。シャーロックは嬉しそうに何度も頷いた。
「あ、ありがとう……で、でも! それとこれとは別の話だからね!」
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お雪の疑いの目に対してしっかりと頷く重三郎。
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「おお! やってくれるか!」
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