東洲斎写楽の懊悩

橋本洋一

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大雨

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 異国の宗派の争いは寡聞にして詳しくはない重三郎。お雪も同じだった。日の本で作られた旗が反乱分子を一掃できるとは思えないが、少なくともシャーロックは信じているようだった。

「……おそらくは関係しているであろう。昨日、守屋という男がわしを訪ねにきた」

 迷った挙げ句、言うことにした重三郎。シャーロックが腹を割って話してくれたのだ。ならば一緒の船に乗ろうと覚悟を決めた。

「モリヤ……! アノヒト、ヒノモトニイル?」
「やはり、知り合いであったか」
「ワタシニメイレイ、スルヒト」

 上司と部下――ではなく、シャーロックの監督役及び見張り役なのだろうと重三郎は当たりをつけた。

「守屋が言っていた。『近々会いに行く』そして『江戸に来た目的を果たせ』と」
「ソウ……デハ、ヤラナイトイケナイ」
「シャーロック、あなた……大丈夫なの?」

 心配のあまり顔が蒼白となっているお雪。
 シャーロックは笑おうとして上手くできなかった。

「ワタシ、ソノタメニ、エドニキタ」
「その務めを、やめることはできないの?」
「ダメ。ワタシ、クニノタメ、ダカラ」

 強い想いがあることを、短い言葉で表すシャーロック。お雪は「でも――」と続けようとして、重三郎に手で止められた。

「どうして国のために、異国まで来たのだ? 見つかればどうなるのか、分かっていたのか?」
「ワカッテイタ。ゼンブ、カクゴシテタ。クニガスキダカラ。ダケド、ヒトツダケ……カナシイコト、アッタ」

 なんだ、と重三郎が言う前に――シャーロックは「ジューザブロー、オユキサン、シリアッタコト」とわざと笑った。

「ヤサシイフタリ。ワカレルノ、カナシイ。ソレニ、カクシテイタ。ゴメンナサイ」
「謝ることはない……こうして話してくれたのだ。遅すぎるということはない」

 明らかに気遣って言った重三郎の言葉。
 シャーロックは気づいていながら「アリガトウ」と笑顔のままだった。

「スクワレタ、キブン」
「……それでこれからお前はどうするつもりなのだ?」

 改まって今後のことを訊ねると「モリヤノシジ、シタガウ」とシャーロックは答えた。

「ハタ、テニイレレバ、クニニカエレル」
「しかしどのように手に入れるというのだ? 三井殿から盗み出すのか? それとも交渉するのか? どちらにせよ、無謀なことには変わりないぞ」
「ワタシ、シラナイケド、モリヤ、カンガエアル」

 はたして、それはどんな考えなのか。
 三人の胸中に不安が漂う。
 何も見えない霧の中にいる不快な感覚だった。


◆◇◆◇


「へえ。あなたがシャーロックの世話をしているお雪さん、ですか……」
「――っ!? だ、誰よ、あなた!」

 それはお雪が買い物のため、外出していたときのことである。
 梅雨の日の昼時だった。
 唐突に守屋は彼女に話しかけた――心の臓が飛び出そうなくらい驚愕する。重三郎からもらった唐傘を落とすところだった。

「驚かせてすみませんね」

 気がつくと辺りには人がいなかった。裏路地とはいえ、遊んでいる子供や近所の奥方が行き交ってもおかしくないのに――

「人払いしています。だからシャーロックのことを話しても大丈夫ですよ」
「……何のことか、さっぱり分からないわ」

 気丈に返すが、内心は動揺している。
 どうしてこの人はシャーロックのことを知っているのだろう?
 そんな疑問が頭を駆け巡る。

「ああ。誤魔化さなくてけっこう。私は守屋と言います。蔦屋さんから聞いていませんか?」

 シャーロックも言っていた名だわ――思い出したお雪は沈黙して守屋を見回した。
 目に面妖なものを付けている。背はシャーロックと同じくらい。黒い唐傘を差していて、口調は丁寧を装っているけど、こちらを小馬鹿にした感じがする。慇懃無礼って四文字が浮かんできた。

「聞いているわ。シャーロックに命令する嫌な人だってね」
「嫌ですねえ。彼は自ら志願して任務に当たっているのですよ」

 口元を歪める――目が見えないから笑っているのか分からない――守屋は「あなたからシャーロックに頼んでくださいよ」と言う。

「任務に励んでくださいって。あなたの言うことなら聞くでしょう?」
「そんなことしなくても、シャーロックはやるって言っていたわ」
「嘘ですね。彼は今――揺れている。行なうか行なわないかではなく、力を出し切るかどうかです。やる気を出してもらわないと計画が台無しになってしまいます」

 それを聞いたお雪は闘志が湧いた。この人はシャーロックのことを道具としか見ていない。よく分からない目的のために!

「だったらやる気を出させなくするわ。そしたらくだらない計画もおじゃんになって、シャーロックは解放されるんだから」
「解放、ですか。彼の国を思う気持ちを無碍にするんですね」
「そうよ。そうすれば――」
「となると、彼は愛する国に帰れず、一生を江戸で暮らすことになりますね」

 鋭い指摘にお雪は黙ってしまった。
 守屋はお雪に加虐的な口調で続けた。

「一生、頭巾と布で隠しながら生きていくことになります。堂々と日の光に当たれないどころか、日の照らす道を歩くことはないでしょう。まるで罪人ですね。可哀想に」
「…………」
「あなたにとって良い話をしましょう。シャーロックにやる気を出させてくれたら、彼を無事に祖国へ帰らせます」
「それのどこが、良い話なの?」

 守屋と話していると苛々してくる自分がいることに、お雪はまったく気がつかなかった。
 胃の奥が締め付けられて、不快感と吐き気が増してくる。

「私には何の得がないじゃない!」

 ついに怒鳴ってしまったお雪。
 それが守屋の思い通りだと知らずに、怒りに支配される。
 守屋の術中に陥ってしまう。

「得ならあるじゃないですか。もう役人に怯えずに生活ができます」
「そ、それは――」
「今だってシャーロックのことが判明したんじゃないかと、怖かったんじゃないですか?」

 怯えていないと言えば嘘になる。
 悪夢となってうなされたこともある。
 けれども、一年の間にシャーロックのことを愛おしく思えた。
 絵を描くことにひたむきな彼を見るのはとても楽しかったのだ。
 生き生きと描くシャーロックは本当に楽しそうだったから。

「怖かったわ。でもね、それを抜きにしても、私はシャーロックの面倒を見て良かったと思う」
「へえ……」
「だから、良い話ではないわ」

 守屋はそれでも余裕を崩さない。
 それどころか、口元をさらに歪める。

「まだ話半分ですよ。彼を祖国へ帰らせることには、さらに利点があります」
「言ってみなさいよ!」

 怒りのまま、お雪は守屋に詰め寄った。
 それこそが、その問いこそが、狙いだと知らなかった。

「それは、あなたの過去を知られずに、祖国へ帰らせることです」
「…………」

 お雪の顔が青を通り過ぎて、白くなっていく。
 血の気がだんだん引いていくのだろう。
 ざあざあという雨音だけが辺りを響かせる。

「調べはついているんですよ。あなたが――」

 その先は言わないで。
 震える唇から出ようとした声。
 だけどしぼんだ勇気が許さなかった。

「――以前は吉原遊郭で遊女をやっていたことがね」
「…………」
「下賤な女郎だった過去を、あの純粋なシャーロックに知られたくないでしょう?」

 お雪の手から傘が落ちた。
 身体を打つ雨を受けながら、お雪は――過去が追い付いてきた感覚を得た。

「今なら知られることはありません。シャーロックにやる気を出させて任務に取り組ませればね」

 守屋の声が遠くに聞こえる。

「どうですか? あなたにとって良い話でしょう?」

 自分の身体が汚れていく感覚。

「返事はけっこう。きっとあなたはシャーロックのやる気を出してくれる」

 守屋が去った後もお雪は呆然と立っていたが、徐々にうずくまり――泣き崩れた。

「ああ、ああああ……ああああああああ!」

 次第に強くなる雨。
 同じように流れる涙は、涸れることはなかった。
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