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第7話 浮生若夢-4

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「へ、へえ。そうなんだ。どんな人?」

できるだけ冷静を装っているつもりだけど、たぶん声は上ずっているだろう。喉の水分が急激に失われていく。


「……職場の、上司の人」

上司、という言葉で、俺は月曜日に見た光景を思い出した。美幸と仲良く話していた、ダークグレーのスーツを着ていた男性。もしかして、あの人が。

歳はおそらく、30代後半ぐらい。身だしなみはキチッとしていたが、体型はだらしなく髪の毛も薄かった。経済力はあるかもしれないが、それだけだ。自分より10歳年下の美幸に手を出すとは何という……。

「……大丈夫? 顔怖いよ?」
「えっ」

美幸に言われて気づく。自分の腹の奥に、黒い感情が芽生えていたことを。

「俺、そんな怖い顔してた?」
「うん。般若面みたいだったよ」
「それはよっぽどだ。ごめん」

素直に謝ると、美幸は楽しそうに微笑んだ。うん、そうだ。これは別に悪いニュースじゃない。美幸が楽しくやってるなら、それでいいじゃないか。俺は、美幸と昔みたいに話せたらいいんだから。

美幸に彼氏がいたって、別に困りはしないんだ。


「…………嫌だな」

そうだそうだ。何も落ち込むことはない。俺は美幸からのプロポーズを断った身だ。そもそも、そんな感情を抱くこと自体が由々しき事態なのであって。

「嫌だって……なにが?」
「え?」
「いや、高坂くんがいま言ったこと」

どうやら俺はまた、無意識の内に心の声を声にしていたらしい。嫌だなってことは、美幸に彼氏にいるのがって嫌ってことか。なんで俺は、そんなことを……。


……答えは、ひとつだろ。

「言葉通りの意味だよ」

俺は、美幸を傷つけないようにしてたんじゃない。自分が傷つきたくなかっただけだったんだ。美幸に彼氏がいることに落ち込んでいることが、その証拠だ。

「俺さ……」

美幸と目が合う。美幸は、黙って俺の言葉の続きを待っている。


思えば、こうやって向き合うことを恐れていた。俺たちの間にあった空白は、俺が作り出してしまったものだった。もっと早く、俺から歩み寄るべきだったんだ。

25歳にもなって、ようやくそんな簡単なことに気づくなんて。俺もまだまだ子どもだな。



「俺がこんなこと言うの、お門違いだと思うんだけど…………」


ずっと前から俺は




「美幸のこと、好きなんだ」

目が、離せない。むしろ離したくない。向き合いたいって思うから。自分の正直な気持ちと。


「…………私の話、聞いてた? 私には、お付き合いしてる人がいるってば」
「うん。聞いてた。でも、自分の気持ち伝えたいと思ったから」

普通に考えれば、恋人がいるやつに告白するなんて、頭がおかしいとしか思えない。自分から告白するなんて人生で初めてだし。なんやこれ、めっちゃ緊張するやんけ。

「一応、答え聞かせてもらえないかな」

自分でも、なんて情けないやつなんだと思う。玉砕前提で告白なんて、無駄なことなのに。言わなければ、普通に仲良く話ができただろうに。

それでも不思議と、後悔はしていない。
俺は自分に嘘はついてないから。今になってようやく気づいた、というか認めてあげられた気持ちを伝えたから。


「……ダメだよ」

目を伏せながら、美幸は言った。
そりゃそうだよな。これでもしOKをもらえたら、驚きのあまり心臓麻痺で死ぬだろう。

「…………ダメだよ高坂くん、そんなこと言ったら」

美幸は、泣いていた。流れ出る涙を拭おうともしない。傷つけてしまったのか。もう好きでもない男に告白されるというのは、女性にとっては気持ち悪いのかもしれない。泣くぐらい嫌だってことだもんな。

悪いことをしたと思いながら、自分のポケットからハンカチを取り出す。とりあえず、涙を吹いてもらないと。それから謝ろう。

そう思っていたが、美幸が考えていたのはそんなことではなかった。

「ダメだよ、私は……高坂くんに忘れてもらわないといけないのに」
「……え?」
「あっ……」

しまった、という表情を浮かべる美幸。俺に忘れてもらう? なんだろう、今の言葉には違和感を感じる。美幸が俺のことを忘れたいっていうなら分かるけど……。


「……今のは忘れて。何でもないから。私、帰るね。さよなら」
「ま、待って!」

席を立とうとした美幸の腕を掴む。このままだと、一生の別れになる気がしたから。告白は失敗したが、まだそっちは諦めてない。

「まだ、聞きたいことがあるんだ」
「……私は、ない」
「俺はあるよ。さっき美幸が言ったことも気になる」

本当に俺のことを嫌いになったのなら諦める。それが、自分の選択に責任を持つということだろう。でも、俺にはまだ気がかりなことがあった。それを聞くまでは、この手を離したくない。


「……なんで」

俯いているその顔を見ることはできない。美幸が何を思っているのか、どんな顔をしているのか分からない。肩を震わせ、必死に何かに耐えているように見える。

「なんで、今になってそんなこと言うの……!なんで今になって、告白なんてするの? なんであの時…………」

それ以上は、声になっていなかった。
俺は、掴んでいた手を離す。なんで今になって、か。俺もそう思うよ。馬鹿な奴だよな。


「…………さようなら」

美幸は鞄を持って、店を出て行った。

「美幸!」

すぐに追いかけようと思ったが、踏みとどまる。無銭飲食をするわけにはいかないからだ。俺は急いで財布からお金を出し、マスターに渡す。

「お釣りは要りませんから!」

「……ありがとうございました。ご健闘を」

すぐに美幸の後を追った。だが、既にエレベーターは下の階に向かって降りていた。

「くそっ!」

そうだ、非常階段を使おう。エレベーターの横にある扉を開け、階段を駆け降りる。普段の運動不足のせいで、早くも体力を使いきってしまった。呼吸が苦しいけど、今はそれどころじゃない。


「どこだ……!?」

外に出て辺りを見回す。すぐに美幸の背中を見つけた。まだそんなに距離はない。追い付けるはずだ。

そう思って駆け出した瞬間、見知らぬ人とぶつかってしまった。ぶつかった俺の方が吹き飛ばされてしまうほど、体格のいい強面の男性。その男性の周りには、同じく強面のお兄さん方が5.6名ほどいる。

「……おうコラ。どこ見とんねんや兄ちゃん」

ドスのきいた低い声。取り巻きたちも、何事かと俺の方に近づいてくる。これは、面倒な人にぶつかってしまった……。
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