紳士は若女将がお好き

LUKA

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 香は事務所にある神棚へ手を合わせて祈っていた。

結局、幸いなことに、先日のふしだらな秘め事は、女将である母親に知られずに済み、彼女はそれに対する感謝と、また自身の奔放な行いの反省を兼ねて、思いを神へ無言で告げた。

(お母さんにばらさないでおいてくれて、ありがとうございます・・・!それと、あんなことしてしまってごめんなさい・・・!)

とはいえ、香はあの情熱的な一夜と朝を思い起こす度、頭の芯が熱を帯び、甘い気分に浸らないではいられなかった。

自分がいかに乱れたかを考えるには、恥のあまり耐えられなかったが、名前も知らない男性が、彼女をあれほどまで激しく求めた様は、それはまるで彼女自身が愛されていると錯覚するに等しく、香は意識の届かない心の深層で彼に惹かれていた。

もう二度と相まみえることもないのだろうが、自分を抱いた男性は誰で、何故この旅館を訪れたのか知りたかったので、彼女は傍らで茶を啜る母親にさり気なく訊いた。

「あの、お母さん。この前マサさんと一緒にいたお客さんって誰だったの?」

「ああ、香がビールこぼしてズボンを濡らしちゃった人ね・・・。実は、あの後マサさんが教えてくれたんだけど、あの人、隣町で準備中のリゾートホテルを任されてる偉い人なんだって。マサさん、温泉郷の観光協会長やってるでしょ?で、何だか知らないけど、温泉郷ここを案内しがてら、志筑旅館うちでもてなして、そのまま泊まらせたんだって・・・。全く、マサさんも何でそんな人をもてなすかねぇ・・・」

女主人は娘の探りを勘ぐったり疑ったりすることもなく、煎餅を割って呑気に口へ運びながら、教えた。

早い話が、彼という人間は、彼女たちにとっては商売敵でもあり、女将はやだやだといった面持ちで毒づいた。

と言うのも、この温泉街の宿泊施設ならまだしも、知名度がある高級リゾートホテルともなれば、客足がそちらへ流れていってしまうのは至極当然に思えたからだった。

同じくして、男性にまつわる事実を学んだ香は、少なからずショックを覚えた。

それは、自分では気づいていないが、密かに想いを寄せ始めている相手が商売上のライバルというのは、そこまで喜ばしい事実ではなかったからだった。

その時タイミング良く電話が鳴り、香が受話器を上げて耳へ当てると、ちょうど話に出ていたマサという男の声が聴き口を通して聴こえた。

「はい、『志筑』でございます」

「あ、もしもし香ちゃん?ミっちゃんいる?」

「今換わります」

香は受話器を母へ差し出した。

「だあれ?」

「マサさん」

女主人はボリボリと噛み砕いていた煎餅を茶で飲み下すと、話し口に向かって、もしもしと口を開いた。

それから、香は傍らで話をする女将の声に耳を傾けながら、男性をぼんやりと想った。

しかし、母親の慌てたような、または焦ったような、とにかく困惑した口ぶりから、彼女はすぐに現実へ引き戻された。

「え?インターン?」

よっぽど想像だにしない奇抜なことを言われたのだろうか、娘の目に、稀に見る母の慌てっぷりが映った。

「あ、ちょっと!」

だがしかし、話は一方的についたのだろうか、言い終えないうちに電話は切れ、女主人は受話器を置くと、呆然と驚いた表情で娘を見据えたのだった。


 その日が来て、香と彼女の母は暖簾が垂れた門構えに立ち、停めた高級車から降りる男性を迎えた。

彼は黒い車から颯爽と降りると、にこやかに微笑み、自己紹介をしがてら握手を交わし、二人を一寸ちょっとびっくりさせた。

「明日葉夕貴と申します。今日はどうぞ宜しくお願いします」

そういえば、彼は外国生活が長かったと言っていた点を、香は頭の片隅で思い出した。

「若女将の志筑香です。こちらは母で、女将の実です」

「香――さん」

夕貴は香の名前を意味深に繰り返し、知らずしか彼女をドキッとさせた。

先日の宿泊と寸分変わらない、仕立ての良い上品なスーツに身を包んだ夕貴は、こぼれる光で眩しいくらい魅力的で、インターンとして香たちの旅館へ研修に来たのだった。

香たちはまず、仲居の女性陣へ夕貴を紹介すると、彼女達は皆、幻でも見ているかのように、俳優と見紛うほど容姿端麗の彼を、とろけた眼差しで見つめた。

(ああん、いい男・・・♡♡)

(どうしてこんな素敵な人がこんなところにいるのかしら?)

それから紹介が終わると、夕貴は真っ先に、仲居頭と言っていい一番ベテランで積極的な中年の女性に腕を引っ手繰られ(「明日葉ちゃんて言うの?こっち来て、いろいろ教えてア・ゲ・ル♡♡」)、廊下の奥へ姿を消した。

その後、しばらく経ち、門構えに置かれた灯籠の明かりが灯るほど表が暗くなると、旅館はたちまち賑わいを見せ始め、会合のあった団体客を始めとして、得意客たちが続々と入り口の敷居を跨いだ。

肝心のインターンはというと、先ほどの仲居に着せられたのか、羽織を羽織り、段差の高い玄関を難儀そうに上がる高齢の女性客に紳士らしく手を貸して、彼女を年甲斐もなく舞い上がらせたり(「マダム、お手をどうぞ」「あら、あら!」)、または荷物を持って、宿泊客らを部屋まで案内したりと、インターンらしく甲斐甲斐しく動いていた。

他方、香は香で忙しく、彼女は夕貴の手際の良さに舌を巻いて感嘆しながらも、宴会場で料理に舌鼓を打つ団体客へ挨拶したり、酌をして回ったりと、若女将業に精を出していた。


 夜はあっという間に更け、女将の命を受けた香は、インターンを泊まる部屋まで、間接照明が点いた薄暗い廊下を案内してやった。

建物は年季が入り、磨き込まれてすべすべした床板を踏み歩くだけで、キシキシと軋んだ音が軽く立った。

「ここです」

目当ての客室まで辿り着くと、香は歩みを止めた。

「ありがとうございます」

夕貴が微笑みかけると、香は気恥ずかしそうに問うた。

「あの、明日葉さん・・・。どうして明日葉さんのような方が、その、うちみたいな旅館へインターンでいらしたんですか・・・?」

するとインターンは告白して、若女将を意識させるには飽き足らず、彼女の心臓をも密かに高鳴らせた。

「俺は海外での暮らしが長いために、温泉旅館というものに疎く、勉強のためにここへ来た理由ももちろんありますが、ですが何より、香さんとお近づきになりたかったんです」

彼は意味深な笑みを口と目元に浮かべると、大胆な質問を訊ね、香の顔を赤くさせた。

「・・・今夜は誘ってくださらないんですか?」

「!」

「・・・冗談です」

インターンは緩く微笑むと、彼女の額へ唇を静かに押し当て、おやすみなさいと言ってから、ふすまを開けて部屋の中へ消えたのだった。
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