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本編
33 深潭
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前世で、私達双子が五歳くらいの時──あれは確か、幼稚園の年長組に上がったばかりの頃だっただろうか。
それまで私のことを『ちゃん付け』で呼んでいた望が、ある日を堺に『千鶴』と呼び捨てで呼んでくるようになった。
来年はもう小学生だから、いつまでも私のことをちゃん付けで呼んでいるのは恥ずかしいと思い始めたのかもしれない。
そして、ちょうどその頃から、彼は私のことを異常なほど過保護に扱うようになった。
当時の彼は、例えば私が高いところにある本を取ろうとすればすぐに駆け寄ってきて「危ないから僕が取るよ」と言って代わりに踏み台に乗って本を取ったり、転んで怪我をした時なんかは「大丈夫!?」と血相を変えて飛んできたりしていた。
とにかく、望はそれまでとは人が変わったように私の世話を焼くようになったのだ。
そんなことが続いたある日のこと。
私が帰り支度を終えていつものように教室を出ると、廊下で望と彼のクラスの担任の先生が何やら揉めていた。一体何事だろうと思った私は、慌てて二人のそばに駆け寄る。
「いい? 望くん。千鶴ちゃんは望くんのお姉ちゃんなんだから、ちゃんと『お姉ちゃん』って呼びなさい? 呼び捨てなんてしたら駄目よ?」
「嫌だ! 絶対『お姉ちゃん』なんて呼ばない!」
人差し指を立てながら、諭すように注意をした先生に向かって、望は反抗的な態度でそう言い放った。
私と望は双子だし、年齢も同じだから、呼び捨てにしたとしても特に違和感はない。けれども、先生は望が自分の姉のことを呼び捨てで呼んでいることを良く思わなかったらしく、厳しい表情で彼を叱りつけていた。
先生としては、きっと「小さい頃から年上の人を呼び捨てにする癖がついてしまうと後々苦労するから」という思いがあって望を叱ったのだろう。
今になって思えば、先生の言うことも理解できるけれど……当時の私はまだ子供だったため、こっ酷く叱られている望をあたふたしながら見守っていた。
「あのね、望くん……年上の人を呼び捨てで呼ぶのは良くないことなのよ。望くんと千鶴ちゃんは双子だから、あまりどちらが上とかは関係ないかもしれないけれど……来年はもう、小学生でしょう? 小学生になったら、上級生の人を呼び捨てにしたら駄目なのよ」
「そんなこと、ちゃんとわかってるよ……」
「じゃあ、どうして千鶴ちゃんのことを『お姉ちゃん』って呼ぶのが嫌なのかな?」
「……っ」
先生が怪訝そうな表情をして望の顔を覗き込むと、彼は悲しそうに目を伏せ、無言になった。
暫く沈黙が続いた後、望は悔しそうな表情で唇をきゅっと結び、その場から走り去った。残された私と先生はどうしたらいいかわからず困惑し、思わず顔を見合わせた。
とりあえず、このまま望を放っておくわけにはいかないだろう。幼いながらも瞬時にそう判断した私は、すぐに彼の後を追うことにした。
全速力で園舎を出ていった望を追いかけ園庭を探し回っていると、正門のそばにある桜の木の下に膝を抱えながら座り込んでいる子供の後ろ姿が見えた。
日本人しては色素の薄い栗色の髪を持つその子は、華奢な肩を小刻みに震わせ、声を押し殺しながら泣いている様子だった。
あの後ろ姿は、間違いなく望だ。そう確信した私は、静かに彼のそばまで歩み寄る。
「望くん……こんなところにいたんだ。もしかして、泣いているの……?」
「ち、千鶴……!? 泣いてなんかいないよ! 目にゴミが入っただけ!」
望は近寄ってきた私の顔を見るなり、慌てて制服の袖で涙を拭い、強がってみせた。「目にゴミが入った」だなんて、随分わかりやすい嘘をつくものだから、彼が泣いているところを見られたくなかったのは察しが悪い私でもなんとなく察することができた。
だから、私はもうそのことには触れず黙って望の隣に座ることにした。
「ねえ、さっきはどうして先生に逆らったの? 望くん、いつもはあんなことしないのに……」
純粋に疑問だった。普段の望は幼稚園児とは思えないほど利発で、先生達からよく褒められていた。そんな彼があんな反抗的な態度をとるなんて、何か理由があるに違いない。
「……僕、千鶴の弟になんて生まれたくなかった」
望は私の質問に答えず、抑揚のない声でそう言い放つ。
「え……?」
「僕が弟に生まれちゃったせいで、あの約束も……」
呟くようにそう言った望は、ゆっくりと自分の膝に顔を埋めた。
「ごめんね……ごめんね……」
「の、望くん……?」
理由はよくわからないが、望は突然自分を責め、謝り始めた。
ひたすら謝り続ける望に戸惑いつつも、私はなんとか弟を慰めようと背中をさすった。
その時は彼が泣いていた理由と謝っていた理由がわからなかったが、今考えると、きっと誰かに何かを言われたのだと思う。
望は『あの約束』と言っていたから、恐らく私と望が「大人になったら絶対結婚しようね」と誓い合って交わした約束のことだろう。
幼稚園の先生にも友達にも「姉弟は結婚できないよ」と言われ、一度は現実を突きつけられた私達だったが……それでも、当時の私達は諦めずに将来は結婚をする気でいた。
望もあの時は「大丈夫。僕は絶対に千鶴ちゃんをお嫁さんにするよ」と言って意気込んでいたけれど……普段は我慢強い望が泣くくらいだから、何かそのことで余程酷いことを言われたのだろう。
その後のことは、よく覚えていない。先生のところに戻ったとき何を言われたのかとか、どんな会話をして家に帰ったのかとか、その辺りのことは記憶が曖昧ではっきりとは思い出せないが……とにかく、あの時の望の沈痛な表情は今でも強く印象に残っている。
◆
枕に突っ伏して夜通し泣き続けていたら、いつの間にか朝になっていた。
リヒトが仕事で魔術研究所に泊まり込みをしてから、今日で五日目だ。昨日はあんなことがあったせいか、彼と私の主従関係をまざまざと再認識させられた。
あんな行為を強要されたのは初めてだし、強姦されるよりも余程屈辱を感じたためか、結局私は夜になっても眠ることができなかった。
私達が普通の姉弟に戻れないことなんて、とっくにわかっている。だからこそ、前世のことを色々思い出してしまうのだろうか。
もし私がもっと前に弟が抱えている心の闇に気づけていたら、いずれこうなることは予測できたはずだ。
今となっては、それに気づけなかった自分の無頓着さを悔やむことしかできない。たとえ未来は変えられなかったとしても、彼に寄り添うことはできたはずだから……。
明日の夜には、いつも通りリヒトが屋敷に帰ってくる。
私は一体いつまで正気を保っていられるんだろう……? ぼんやりとそんなことを思いながら、私はベッドの上で仰向けになり、綺羅びやかな天蓋を見上げた。
それまで私のことを『ちゃん付け』で呼んでいた望が、ある日を堺に『千鶴』と呼び捨てで呼んでくるようになった。
来年はもう小学生だから、いつまでも私のことをちゃん付けで呼んでいるのは恥ずかしいと思い始めたのかもしれない。
そして、ちょうどその頃から、彼は私のことを異常なほど過保護に扱うようになった。
当時の彼は、例えば私が高いところにある本を取ろうとすればすぐに駆け寄ってきて「危ないから僕が取るよ」と言って代わりに踏み台に乗って本を取ったり、転んで怪我をした時なんかは「大丈夫!?」と血相を変えて飛んできたりしていた。
とにかく、望はそれまでとは人が変わったように私の世話を焼くようになったのだ。
そんなことが続いたある日のこと。
私が帰り支度を終えていつものように教室を出ると、廊下で望と彼のクラスの担任の先生が何やら揉めていた。一体何事だろうと思った私は、慌てて二人のそばに駆け寄る。
「いい? 望くん。千鶴ちゃんは望くんのお姉ちゃんなんだから、ちゃんと『お姉ちゃん』って呼びなさい? 呼び捨てなんてしたら駄目よ?」
「嫌だ! 絶対『お姉ちゃん』なんて呼ばない!」
人差し指を立てながら、諭すように注意をした先生に向かって、望は反抗的な態度でそう言い放った。
私と望は双子だし、年齢も同じだから、呼び捨てにしたとしても特に違和感はない。けれども、先生は望が自分の姉のことを呼び捨てで呼んでいることを良く思わなかったらしく、厳しい表情で彼を叱りつけていた。
先生としては、きっと「小さい頃から年上の人を呼び捨てにする癖がついてしまうと後々苦労するから」という思いがあって望を叱ったのだろう。
今になって思えば、先生の言うことも理解できるけれど……当時の私はまだ子供だったため、こっ酷く叱られている望をあたふたしながら見守っていた。
「あのね、望くん……年上の人を呼び捨てで呼ぶのは良くないことなのよ。望くんと千鶴ちゃんは双子だから、あまりどちらが上とかは関係ないかもしれないけれど……来年はもう、小学生でしょう? 小学生になったら、上級生の人を呼び捨てにしたら駄目なのよ」
「そんなこと、ちゃんとわかってるよ……」
「じゃあ、どうして千鶴ちゃんのことを『お姉ちゃん』って呼ぶのが嫌なのかな?」
「……っ」
先生が怪訝そうな表情をして望の顔を覗き込むと、彼は悲しそうに目を伏せ、無言になった。
暫く沈黙が続いた後、望は悔しそうな表情で唇をきゅっと結び、その場から走り去った。残された私と先生はどうしたらいいかわからず困惑し、思わず顔を見合わせた。
とりあえず、このまま望を放っておくわけにはいかないだろう。幼いながらも瞬時にそう判断した私は、すぐに彼の後を追うことにした。
全速力で園舎を出ていった望を追いかけ園庭を探し回っていると、正門のそばにある桜の木の下に膝を抱えながら座り込んでいる子供の後ろ姿が見えた。
日本人しては色素の薄い栗色の髪を持つその子は、華奢な肩を小刻みに震わせ、声を押し殺しながら泣いている様子だった。
あの後ろ姿は、間違いなく望だ。そう確信した私は、静かに彼のそばまで歩み寄る。
「望くん……こんなところにいたんだ。もしかして、泣いているの……?」
「ち、千鶴……!? 泣いてなんかいないよ! 目にゴミが入っただけ!」
望は近寄ってきた私の顔を見るなり、慌てて制服の袖で涙を拭い、強がってみせた。「目にゴミが入った」だなんて、随分わかりやすい嘘をつくものだから、彼が泣いているところを見られたくなかったのは察しが悪い私でもなんとなく察することができた。
だから、私はもうそのことには触れず黙って望の隣に座ることにした。
「ねえ、さっきはどうして先生に逆らったの? 望くん、いつもはあんなことしないのに……」
純粋に疑問だった。普段の望は幼稚園児とは思えないほど利発で、先生達からよく褒められていた。そんな彼があんな反抗的な態度をとるなんて、何か理由があるに違いない。
「……僕、千鶴の弟になんて生まれたくなかった」
望は私の質問に答えず、抑揚のない声でそう言い放つ。
「え……?」
「僕が弟に生まれちゃったせいで、あの約束も……」
呟くようにそう言った望は、ゆっくりと自分の膝に顔を埋めた。
「ごめんね……ごめんね……」
「の、望くん……?」
理由はよくわからないが、望は突然自分を責め、謝り始めた。
ひたすら謝り続ける望に戸惑いつつも、私はなんとか弟を慰めようと背中をさすった。
その時は彼が泣いていた理由と謝っていた理由がわからなかったが、今考えると、きっと誰かに何かを言われたのだと思う。
望は『あの約束』と言っていたから、恐らく私と望が「大人になったら絶対結婚しようね」と誓い合って交わした約束のことだろう。
幼稚園の先生にも友達にも「姉弟は結婚できないよ」と言われ、一度は現実を突きつけられた私達だったが……それでも、当時の私達は諦めずに将来は結婚をする気でいた。
望もあの時は「大丈夫。僕は絶対に千鶴ちゃんをお嫁さんにするよ」と言って意気込んでいたけれど……普段は我慢強い望が泣くくらいだから、何かそのことで余程酷いことを言われたのだろう。
その後のことは、よく覚えていない。先生のところに戻ったとき何を言われたのかとか、どんな会話をして家に帰ったのかとか、その辺りのことは記憶が曖昧ではっきりとは思い出せないが……とにかく、あの時の望の沈痛な表情は今でも強く印象に残っている。
◆
枕に突っ伏して夜通し泣き続けていたら、いつの間にか朝になっていた。
リヒトが仕事で魔術研究所に泊まり込みをしてから、今日で五日目だ。昨日はあんなことがあったせいか、彼と私の主従関係をまざまざと再認識させられた。
あんな行為を強要されたのは初めてだし、強姦されるよりも余程屈辱を感じたためか、結局私は夜になっても眠ることができなかった。
私達が普通の姉弟に戻れないことなんて、とっくにわかっている。だからこそ、前世のことを色々思い出してしまうのだろうか。
もし私がもっと前に弟が抱えている心の闇に気づけていたら、いずれこうなることは予測できたはずだ。
今となっては、それに気づけなかった自分の無頓着さを悔やむことしかできない。たとえ未来は変えられなかったとしても、彼に寄り添うことはできたはずだから……。
明日の夜には、いつも通りリヒトが屋敷に帰ってくる。
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