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第8章 城東会戦と人吉攻防戦
第6話
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4月20日の夜半から翌日の黎明にかけて、西郷軍は夜陰に乗じて、速やかに政府軍に対峙していた前線の部隊も含めて逐次退却し、矢部郷内の浜町に順次、集結していった。
その頃、河野主一郎は、坂元隊の敗残兵も収容しつつ、自らの指揮下の部隊を、健軍から木山へと退却させることに何とか成功していた。
だが、河野隊が木山に到着した時には、既に西郷軍の軍議は終了して、浜町への退却が決まった後だった。
河野は木山で一息つく間もなく、部下と共に浜町へと向かうことになった。
「全く負け戦はするものではないな。
一休みすることすら贅沢になる」
これを知らされた河野は、思わず自軍の惨状に、自嘲して独語した。
ともかく、河野、というより河野隊は、木山から浜町へ移動するしかなかった。
御船や健軍を制圧した政府軍が、木山を目指して急進してくれば、それを阻止する能力は今の河野隊、というか西郷軍にはない。
そして、木山を制圧されれば、この辺りの西郷軍は、浜町への退路も断たれ、包囲殲滅の憂き目を見るだろう。
だから、河野は、部下と共に浜町へと向かうしかなかった。
4月22日の早朝、残存している西郷軍のほぼ全軍が、浜町への集結に成功していた。
ここでの軍議の結果、まず、西郷隆盛を逃がすために、一部が浜町で殿軍の役目を果たし、主力は西郷と共に人吉へと向かうことになった。
主力は浜町から胡麻越、椎葉、不土野峠を経由して、江代へ更に人吉へと向かう。
殿軍は浜町から五家荘、那須越、不土野峠を経由して江代、人吉へと向かう。
共に九州山地の山並みを抜ける難行軍になるのが、西郷軍の幹部には目に見えていたが、熊本平野を政府軍がほぼ制圧した以上、人吉へ向かうには、これらの路を使うしか西郷軍には手段が残されていなかった。
殿軍の指揮は、桐野利秋が自ら志願して執ることになった。
かくして、西郷軍は人吉へと全軍が向かっていった。
浜町から人吉へ向かう西郷軍の主力は、必ずしも兵のみからなるわけではなかった。
西郷軍に呼応して決起した熊本士族の多くは、家族を共に従軍させていた。
政府軍による後難を怖れて、兵から家族を連れだした例もあれば、家族の方から兵と共に行動することを申し出た例もあった。
殿軍の方が厳しい行軍になる以上、熊本士族の家族は、ほぼ全員が西郷軍主力と共に行動していた。
西郷軍の兵は、西郷軍の司令部から人吉までの糧食として、米3升等が配給されていたが、兵糧不足から、熊本士族の家族にまでは、西郷軍の配給の手が回らなかった。
熊本士族の家族の多くが、文字通り着の身着のままで空腹に耐えながら、西郷軍の兵と行動を共にした。
山間部の険しい山道は、彼らの体力を容赦なく削っていった。
4月下旬とはいえ、標高1000メートルを超える山間部では、まだまだ冷え込みがきつい。
更に追い打ちをかけるように、風雨が彼らを襲った。
一部の兵が、彼ら、熊本士族の家族を助けようと、自らの糧食を割いて分け与える等もしたが、焼け石に水としか言いようがない惨状が起きた。
夜が来たので宿を求めようにも、山間部にある小村である。
西郷軍の大幹部以外は、全員が野宿するしかない。
濡れた体を家族同士が寄せ合って、辛うじて暖を取る光景が各所で見られ、それを見た者は涙を流した。
4月29日、7日余りの難行軍の末、西郷軍は人吉への集結に、殿軍も含めて何とかほぼ成功した。
ボロボロになりながら、人吉にたどり着いた熊本士族の家族も、ようやく蘇生の思いがした。
ここ人吉を主な拠点として、今後、西郷軍は、政府軍への徹底抗戦を試みることになった。
しかし、これ以上の西郷軍の抗戦は、様々な面から徐々に困難になりつつあったのだ。
その頃、河野主一郎は、坂元隊の敗残兵も収容しつつ、自らの指揮下の部隊を、健軍から木山へと退却させることに何とか成功していた。
だが、河野隊が木山に到着した時には、既に西郷軍の軍議は終了して、浜町への退却が決まった後だった。
河野は木山で一息つく間もなく、部下と共に浜町へと向かうことになった。
「全く負け戦はするものではないな。
一休みすることすら贅沢になる」
これを知らされた河野は、思わず自軍の惨状に、自嘲して独語した。
ともかく、河野、というより河野隊は、木山から浜町へ移動するしかなかった。
御船や健軍を制圧した政府軍が、木山を目指して急進してくれば、それを阻止する能力は今の河野隊、というか西郷軍にはない。
そして、木山を制圧されれば、この辺りの西郷軍は、浜町への退路も断たれ、包囲殲滅の憂き目を見るだろう。
だから、河野は、部下と共に浜町へと向かうしかなかった。
4月22日の早朝、残存している西郷軍のほぼ全軍が、浜町への集結に成功していた。
ここでの軍議の結果、まず、西郷隆盛を逃がすために、一部が浜町で殿軍の役目を果たし、主力は西郷と共に人吉へと向かうことになった。
主力は浜町から胡麻越、椎葉、不土野峠を経由して、江代へ更に人吉へと向かう。
殿軍は浜町から五家荘、那須越、不土野峠を経由して江代、人吉へと向かう。
共に九州山地の山並みを抜ける難行軍になるのが、西郷軍の幹部には目に見えていたが、熊本平野を政府軍がほぼ制圧した以上、人吉へ向かうには、これらの路を使うしか西郷軍には手段が残されていなかった。
殿軍の指揮は、桐野利秋が自ら志願して執ることになった。
かくして、西郷軍は人吉へと全軍が向かっていった。
浜町から人吉へ向かう西郷軍の主力は、必ずしも兵のみからなるわけではなかった。
西郷軍に呼応して決起した熊本士族の多くは、家族を共に従軍させていた。
政府軍による後難を怖れて、兵から家族を連れだした例もあれば、家族の方から兵と共に行動することを申し出た例もあった。
殿軍の方が厳しい行軍になる以上、熊本士族の家族は、ほぼ全員が西郷軍主力と共に行動していた。
西郷軍の兵は、西郷軍の司令部から人吉までの糧食として、米3升等が配給されていたが、兵糧不足から、熊本士族の家族にまでは、西郷軍の配給の手が回らなかった。
熊本士族の家族の多くが、文字通り着の身着のままで空腹に耐えながら、西郷軍の兵と行動を共にした。
山間部の険しい山道は、彼らの体力を容赦なく削っていった。
4月下旬とはいえ、標高1000メートルを超える山間部では、まだまだ冷え込みがきつい。
更に追い打ちをかけるように、風雨が彼らを襲った。
一部の兵が、彼ら、熊本士族の家族を助けようと、自らの糧食を割いて分け与える等もしたが、焼け石に水としか言いようがない惨状が起きた。
夜が来たので宿を求めようにも、山間部にある小村である。
西郷軍の大幹部以外は、全員が野宿するしかない。
濡れた体を家族同士が寄せ合って、辛うじて暖を取る光景が各所で見られ、それを見た者は涙を流した。
4月29日、7日余りの難行軍の末、西郷軍は人吉への集結に、殿軍も含めて何とかほぼ成功した。
ボロボロになりながら、人吉にたどり着いた熊本士族の家族も、ようやく蘇生の思いがした。
ここ人吉を主な拠点として、今後、西郷軍は、政府軍への徹底抗戦を試みることになった。
しかし、これ以上の西郷軍の抗戦は、様々な面から徐々に困難になりつつあったのだ。
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