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丙は、乙の統括者及びその命を受けた者に絶対服従、及び、身体の自由、その全てを預けること。
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もしも 万が一にでも
こんなところで 負けるようでは
俺の側に置いておく 価値が無い
……、位のこと、どうせ川名が思っているだろうことを、霧野は感じていた。何も言わず顔も見せずに目の前から消えるくらいは十分にあり得ることである。具体的に言えば、今この瞬間にも、背後から頭に袋でも被せられ、さっき昇ってきた階段の上から、ダストシュートにでもぶち込むように地下へ突き飛ばされれば、全て終わりである。終わりと言っても、川名にとって、この話は永久に終わるが、霧野にとっては、終わらない。終わらない地獄の後に、ようやく死の終わりがあるわけである。
いや待て、と思った。終わりじゃない、その前にやつらが持っている恥辱の記録を消さなければ、ある意味永遠に最悪の形で生き続けることになり得る。そういう意味でも、川名の期待に応えることに失敗し、二度と会えなくなるのは、あり得ないこと。霧野の口元に、嘲笑じみた笑みが浮かんだ。
でも、そうなったらそうなったで、また、どうせ、奴らは一体誰が自分を殺すのかで滅茶苦茶もめるのだろう、そう思うと、どいつもこいつも、ほんと、馬鹿なんじゃないかと思うのである。
しかし、この状況において、霧野は、浮足立つような面白さを覚えていた。川名の今実行している(させている)こと、考えていることの裏を返してみれば、これだけこっちがめちゃくちゃしてやったのに、まだ、失望せず、本気で寝返らせる気があるだから、やはり、馬鹿なんじゃないか、と、霧野は意識の上ではそう思い、ほくそ笑んだのだった。
「誰からでもいい。やろうぜ。早く。」
霧野から声をかけても、なかなか始まらなかった。誰から行くか躊躇している。霧野は背後にいる川名と殆ど同じ失望の瞳の色をして、その景色を眺めていた。
そんなことをしていても、ボスの評価がみるみる下がるだけだとわからないのだろうか。自分だったら一番最初に行く。それが一番面倒で無く、その上愉しいからだ。他の奴がしゃしゃり出てくる前に行かなくて、どうする。どうしてそのくらいのことがわからない。霧野は自分がこういう立場で無ければ、目の前の輩に説教の一つでもかましてやりたいところだと思った。
待っている間、口が寂しくなった。気が付くと舌先で歯の裏を丁寧になぞっている。ちら、と川名に没収された荷物を見て驚いた。黒木の煙草だけ取り出され、ライターと一緒に丁寧にリュックの上へ置かれている。そこへ、影が覆いかぶさり、手に取った。川名が、無言でそれを霧野の方へ投げてよこしたのだった。手が、勝手に受け取った。
「……、……。」
受け取った以上、消費させてもらう。今から闘う時に煙草など吸うものではない。が、全く効果が無いわけでもない。苛立っていた精神が多少は安らいできて、どうでもいいな、と思った。カスに対していちいち苛立っている時間、体力、精神力のすべてが無駄だと思った。そうして、いつのまにか、黒木のことを考えていた。それもそうである、今身に付けている服も、吸っているこれも、元は、彼の物なのだから。
相手方の意見がまとまったらしかった。霧野は吸いかけの二本目の煙草を地面に飛ばし、靴底で丁寧にもみ消し、一呼吸した。突っ込んでくる一人目を無言のまま、そのまま、二人目を、三人目を、やっている内に、血が滾る。休む間を敢えて削り、途中からは相手方の順番など気にしない。霧野の方から好き放題に相手を選び踏み込んでいって散らせていった。霧野を中心に流れを持って争いが進んでいく様子は、乱闘とういうより一つの演武である。彼のさばきは、後続の男達の精神を委縮させる。霧野は蹂躙を愉しむ余裕もでき始め、笑っていた。
休みなく動き続ける霧野の息は上がりっぱなしではあるが、全然、大したことが無いと思えた。何故なら、今、自分が、期待に応えられているから、自分が、こんなこと、外道をしても、期待に応えられ続けているのだから。スタミナが切れない限り、いや、切れたって、今なら、いつまでもやっていられる気がした。
おや、顔に覚えがある、見たことがある奴がいる、なるほど、二条からの贈物である。霧野はサッと二条のいるだろう事務所の方に目をやって、目の前の男を手ひどい方法で散らし下手をすれば骨が折れる程過剰に痛めつけた。どうだよ。次。リズムを崩さないように、十二人では無く、あわせて一人と考えたらよろしい。
12人終わるのに10分強。動き続け汗を流し息を切らした霧野は事務所の壁に手を付いて息を整えた。
「終わりか?」
霧野は頭を上げ、ふらつきながら暗闇の中で川名を探した。
「いや、」
彼が、事務所の入り口に立ったまま、事務所の光の届かない方を眺めているのを見つけた。
光の中で、一瞬、二重三重に見え、彼のしなやかな身体に、焦点を結ぶ。川名の横顔がどこか寂しげに見えた。
「あと1人いる。それで終わりだ。」
霧野は川名の視線の先を見た。ついていた手を払って再び二足で地に立って人影のある方へ身体を向けた。その相手は影の中に居て、今の今までずっと気配を消したまま、霧野を見ていたようだった。がざがさと擦れるような音と共に、大柄な霧野と、さほど身長の変わらないの男が一人現れた。
「お前……、」
生きていたのか、と、言えなかった。それは、黒木の形をしていた。
「やっぱり強いんだねぇ、霧野さんって……。でも今だったら、流石に俺の方に分があるんじゃない?」
「……。」
「何?その顔は。あっ!!!」
光の当たる場所で、霧野に対峙した間宮は、霧野の背後、上の方を見上げ、この場にまったくそぐわない、少なくとも今まで闘ってきた誰一人として浮かべないようなまんべんの笑みを浮かべて唐突に手を大きく振り始めた。
「二条さん、見ててくださいよ、俺は、……。あ!!!何で引っ込むんですか??!なんで!!!」
彼は悲鳴のような怒声を上げたかと思うと、今度はぐっと下を向いて、しばらく押し黙っていた。次に顔が上げられた時には、喜怒哀楽のどの表情も一切無くなった。
霧野は「おい」と声をかけたかったのだが、喉が詰まって、声が出なくなっていた。さっきまでとは違う性質の汗が、背中をダラダラとつたうのだった。それで、ただ漠然と目の前の男の、唇の動きを見ていた。小声で、何か言ってるらしい。霧野は彼の唇の動きを読み始めた。
「わかんないわかんないわかんない全然わかんないななんで二条さんはさっきまでアイツのことはあんなに熱心に見ていたのにどうして俺のことを見ないの全然理解ができないどうしてあんなにしたのに」
霧野の眉間に深いしわが刻まれ、彼はそのまま、読唇術を行うのを止めた。目の前の男はぶつぶつと続けていた。通常なら敵を前にして平常、か、テンションを上げているはずの状況で、霧野は初めての感情、不安に捕らわれはじめていた。そこを、ふいをつかれた。
気がついた時には、すぐ目の前に彼の姿があった。踏み込まれ、目つぶしの突きの手を、鱗のような模様の入ったしなやかな腕が、霧野の頭の真横を通過していった。と同時に、彼は、霧野にかわされた時点で、攻撃手法を目つきから肘打ちに切り替え、よけた先の霧野の頭、こめかみを横から肘で思い切り打撃したのである。
「う゛……!!!!」
さらにバランスを崩した、その霧野の首根を彼は素早くつかまえ、俯かせ、続く蹴りは霧野の股間めがけて真っすぐ飛び込んで来る。その蹴りを身をよじってよける。すると、蹴りは別の急所、霧野の脛に直撃した。最初から避けることを想定しての、蹴り。決して、弱くない、この男。霧野は遮二無二彼を火事場の馬鹿力で突き放し、後退した。脛の痛みで、膝を一度地につきかけたが、ぐぅと歯を食いしばり堪え、立ち上がった。頭と脛が痛み、眩暈するが、致命傷ではない。霧野は改めて呼吸を整えながら間宮との間合いを取りなおした。
「……。……。」
「……。……。」
今度は一切喋らなくなった。不気味だ。間宮の方が暗がりに近く、表情が見えなくなったのも不気味である。霧野は、間宮に警戒の中心を置いたまま、ちら、と事務所の上階を見た。二条の影が無くなって、おそらく美里らしき影だけが、佇んだままでこちらをじっと見降ろしている。
「……、す、」
低い囁き声が聞こえ、霧野は再び全神経を目の前の男に向けた。
「は?」
再び影の中から間合いを詰めてくる。口元には薄ら笑いを浮かべていても、見開かれた目は一切笑っていなかった。
「あはははは……。は?じゃねぇんだよ、霧野さん、殺すんだよ、コ、ロ、ス、わかった?やっぱりどう考えても俺のためにはお前はいらないって結論に至るんダヨ……だから、死ね。」
何を言ってるんだよ、と言うよりも早く、取っ組み合いになる。罵り合っている余裕はない。さっきのように不意は突かれていないものの、動揺するな、動揺するな、と思う程に、霧野は自分の身体の動きがいつもよりワンテンポ遅れることを感じていた。疲労のせいも、もちろんある。ここまで十二人とやったのだから。いつもなら、ラスト1人だと自然と精神的に高めて補えるはずが、できてない。もつれ合って地面に倒れ込み、霧野は仰向けに倒れ込んだ間宮の上に跨った。それの体制は、一つの性行為の体位、つまり、いつかの騎乗位を、霧野の頭と体に彷彿とさせ、霧野は暗闇の中で全身を鳥肌立させ、一人顔を赤くし、身体中に疼きが訪れた。間宮の方は白けたままであったのが幸い、すぐに目が覚めた。騎乗位の状態から、強く、のしかかり、完全に三秒以上間宮の背中を地につけた。
霧野が「終わりだ」と、力を抜いたと同時に彼は微笑みを浮かべた。霧野が、ハッとしたその瞬間、彼はするりと蛇のように霧野の下から抜け出、背後に回って、そのまま襲いかかってきたのである。他の人間が、霧野に負かされ悔しがりながらもどこかほっとして脱落していく中での、完全ルール無視。霧野の身体は受身をとり、戦いは続行された。無法地帯と化した空間で素手での殺し合いが始まった。霧野は川名の方に視線を送るが、何もない。川名が止めないなら、終わらない。こっちも殺す気でいかなければ、ただ死ぬ。
霧野は間宮の胸倉を掴み引き寄せ、頭突きした。間宮の頭が反り返り、目だけがくるりと霧野の方を向いた。
霧野その顔に向かって「さっきので負けだろ!お前の!終わりだよっ、終わりっ!わかったか!」と、思い切り叫んだ。間宮は、うーん、いい、とのけ反らせていた頭を戻し、笑顔を見せた。
「その顔をよせ……!」
霧野は間宮を突き飛ばし、後退した。間宮がその距離をじりじりとまたすぐ詰めてくる。
「なんで?……ねぇ、さっきからなんかおかしいよ、霧野さん。どうしちゃったの?動きのキレも悪いしぃ。疲れちゃったの?そんなわけないよね。俺なんかに容赦しなくていいんだよ。本気でやろう。うん、そう、その通り、試合は終わりだ。でも、わかってないね、霧野さん、今ヤッてんのは、試合じゃなくて、私怨の喧嘩なの。わかる?だからぁ、ルール無用、禁じ手無しなの。」
わかんねぇよ!と霧野が、叫び出す前に、間宮が屈んだ、その手の中に光るものが見えた。刃物が空を閃いて、掠った霧野の上腕の肉を服ごと裂き、血がしぶいた。かすりはしたが、刃物を吹っ飛ばすことに成功。しかし、反対の手にいつのまにか第二の刃物があり、それが霧野の身体に向かってくる、ああ、さすがにこれ無理、かわせない、かわせないと思うが、異様なほどに切っ先の流れが緩やかに見える。身体が動いた、ぎりぎりよける、しかしすぐに三突き目が、今度は下から脇腹の方へ、もう、脇腹からほんの少しのところに刃がある、流石に無理、刺さる、死ぬか、さすがに、しかし、これで死ぬのなら、嬲られ死ぬより、ずっと……。ずぅっと……、いいのかも……、
バチン!!肉の鳴る音がして、霧野の意識は現在に引き戻された。刃物が回転しながら飛んでいき、事務所の壁に突き刺さった。刃物の方から、向き直るとさっきまで居たはずの男がおらず、代わりに視界の端に二条が飛び蹴りして視界から消えていくのが見えた。
数メートル先の茂みの中、吹っ飛ばされて頭を抱えながら、起き上がろうとする彼を、二条が上から蹴り踏み押さえつけ、無限に地に沈め続けていた。霧野は呆然と、闘いとも呼べない、一方的な蹂躙を眺めていた。おそらく、時間にすればおそらく1分も経っていないであろうが、一方的で展開の乏しい戦いは、長く感じる。人間を襲いなれた熊が蹂躙しているような暴力だ。霧野はだんだん冷静さを取り戻し始めた。自分の心臓の高く速い音が、聞こえる。それから、はぁはぁと自分の口から漏れる、血交じりの息の音も戻ってきた。身体が急に重くなって痛身を感じ始めた。川名の元へ吸い寄せられるように戻る。
「止めないんですか」と第一声、霧野が喘ぐように言ったのを、川名が意外そうな目で見返したのだった。
「なんだよ。止めた方が良いのか。お前を殺そうとしてた奴だぞ。別に、死んだって構わないじゃないか。」
「……。」
霧野が黙ったままでいると、川名の表情の端に一瞬嗜虐のような笑みが立ち昇り「ああ、なるほど、わかったわかった、いいよ、止めて来てやるから、待っていろ。」とつぶやいて、二条の方へゆっくり歩いていった。霧野は身体から力が抜け始めた。眩暈に頭を押さえ、事務所の入り口に手を付いて、彼らの動向を伺っていた。まだ息が、整わない。川名が二条に向かって一言二言何か言って、彼が止まるのが見えた。そして、川名が二条を伴って、そして、間宮が、二条に伴われて、戻ってきた。外傷よりも随分元気そうな様子で。戻ってきた二条に、霧野は徐に顔を下から掴まれ、上から覗きこまれるのだが、抗う力も気力も、無かった。されるがまま、黙って見上げていると、ふふふ、と愉快な笑い声と共に手を離された。
「なんです。」
「別に。ピンピンで、元気そうで、安心した。だって、夜はまだ始まったばかりだから。お前にとっても、あんな戯れは、ただの前哨戦、前戯にもならんだろ。もっと、戻ってきて良かった、と、心の底から、思いたいだろう。」
「……、……。」
笑顔が広がる二条と対称的に霧野の表情は曇っていった。二条は手が血まみれであり、顔まで血しぶきが飛び散っているのを拭わずにいたが、霧野の視線に気を使ってか、手を振って霧野には降りかからないように血を飛ばし丁寧にぬぐい始めるのだった。その間もじっと見られ続けており、霧野も啖呵を切るように見るのだけはやめなかった。
「まさか本当に組長の言う通り自分から戻ってくるとはな。俺は、お前ならとっとと海外に飛ぶくらいするかもと思った、まあ、飛んだら飛んだ先の空港で盛大に出迎えてやるつもりだったから、別に、全然同じことなんだが。」
霧野は降りた先の空港で、二条一同が待っている絵面を想像し、猛烈な吐気を覚えるのだった。
「ああ……、ああ、そう……、そうかよ……っ、そんなことに金使うのかよ、アンタは……。もったいない、馬鹿なんじゃない!あはは!」
霧野は軽く頭をかきむしって二条を睨み上げた。
「うん、使うね。だって、そうしたらお前は驚き、今以上に、絶望してくれるだろうから……。その為の金を惜しんで、何のための金だ。今お前はようやく戦いの熱が冷めてきて、この状況を正確に理解して、俺とこうして話している内に、恐怖で顔色が悪くなってきている。でも、もちろん、まだ、大丈夫なんだよな?」
大きな口を開き、妙に優しげな声で言う。口の奥も目の奥も、黒くて何もない。で、一体何が大丈夫だって言えばいい?霧野は、二条の後ろに付き添っている男の様子を盗み見ようとしたのを、すぐに二条の身体が遮った。
「こそこそと仲良く暮らしていたらしいな。ままごと遊びは愉しかったか?」
ままごと!霧野は急に頭に血が上ったのを抑えきれなくなって叫んだ。
「ままごとだって?貴様!」
「ああ、びっくりした、何キレてんだ???お前……、あ……ふ~ん、ナァンダ、そんなに相性よかったのかお前らは。まぁ意外とそうかもしれねぇな。これには一考の価値がある。面白い、そうだよ、そうさ、ままごと、何回でも言ってやるよ、ままごと、ままごと、ままごと以外の何物でもないだろ。あんなの。だっる~い、つっまんねぇ~、暮らしは。俺は思ったよ、ああ、なるほどとね、幼稚園のガキ同士遊んでるのを見守る父親ってのはこんな気持ちなんだろうな、と、ね。考えてみろ、仲睦まじくいつまでも仲良く森の奥で暮らしました……なんてことは、幼児向けのおとぎ話でも存在しねぇんだから。そうだな、赤ずきんちゃんだって猟師に救われるし、白雪姫だって王子様に救われるだろ。な。考えなくたってわかる。今、わかりやすいように、幼児向けに例えを出して話してやってんだ。間宮に話しかける時はいつもそうしてる。だいぶ退行しちまって理解が遅くてしょうがねぇからな。」
「……。」
「お前のことだから、もしかすると、自分が王子様のつもりで行動してきたのかもしれないが、まったく、全然、そうじゃなかったってこと。お前がやってたのは、せいぜい赤ずきんちゃんのおつかいに過ぎないんだよ。俺が、あの家を燃やし、話を展開させてやらなかったら、お前はいつまでも狼の腹の中に居る胎児の赤ずきんちゃんのままだった。それを、堕ろしてやって、こうして、お家に戻す手伝いをしてやったのだ。……。そう、お前は、何一つ救えない。あ、いや、言い過ぎたな、一つだけ、救ったかもしれねぇ、お前の”本当の部分”が、何癖付けてでも、ここへ帰ってきたくて、仕方が無くなっていたんだろうから。お前だけは、救われた。ただひとり、お前のエゴだけが、救われ、満たされようとしている、良かったな。」
「……てめぇ……、テキトーなこと、……俺が、帰ってきたがった!?は、そんなわけっ、………、ぬかすなよ、さっきから、何がわかる、お前にっ、何がっ」
「……。遥、そんなに熱くなって興奮すると、余計本当らしく見えてくるぞ、お前、今、動揺して居るな。ふふ、らしくないな、でも、別に、無理も無いことだ。俺にはお前の気持ちが、わかるから。人は見たい物を見たいようにしか見ないんだから。俺がいくら懇切丁寧にお前に今のお前の本当の卑しい姿を言い聞かせてやったところで、今のお前では、否定するんだから。そこがまた」
「黙れよ゛!」
二条は霧野の切れ長な眼がいつも以上に吊りあがり、瞳孔が開き切って血走って吠えているのを、ほぅ、と思って眺め、彼の血のにじんだ口元を見ていると、今すぐにでも、どうにかしてやりたいと思って出かけた手を後ろに回し、左手で自分の右手首を壊れそうなほど強く掴んだ。
「ふふふ、はいはい、そうだね、また俺に威勢のいい口をきいて。調子出て来たじゃないか。あ?奇麗な顔して。相変わらず可愛い奴だ。ま、いつまでもこんなところで建前ばかりのどうでもいい立ち話などせず、”本当の会話”をしようじゃないか、”本当の会話”を!上で!お前にはその権利が与えられたのだから。」
霧野は朗らかな顔つきの二条の背後から殺意の視線を感じた。ところで、辺り一帯獣臭い。四人、事務所の入り口にたむろしていると、獣臭く、血生臭く、そこ一帯だけ人外の空間、別の生物達が集っているかの様である。川名を先頭に、次に霧野、間宮、最後を二条が塞いで上へ続く階段を上がっていった。いや、上がらされていったのである。退路無し。進むしかない。
川名の部屋に通された時、窓際に立って風に当たっていた男が入口を振り見た。その瞬間、鼻先を良い匂いがかすめたような気がした。霧野はこの時、やはり、黒木の形をした者を見た時と同じように、生きていたのかという安堵を覚えた。男は開口一番、二条を見て、こう言った。
「はい、100%俺の勝ちすね、キャッシュで二千万。よろしくお願いしまーす。」
美里は、手を伸ばし、軽々しい口調でそう言い放って霧野の方など眼中にないように視界から外している。霧野は、呆然としていたが、少し間をおいて、また、自分が何か賭けの対象にされて遊ばれていたことを悟って激しく苛立ち、同時に、自分がこの軽薄な男のためにここに来たことを呪い、美里の方を睨みさえしたのだが、美里は一切霧野には向き合おうとはせず、二条を見、川名を見、また二条を見た。
「まさか、反故にしませんよね。」
「はいはい、明日にでも降ろしてきてお前にやるよ。」
(お前が、明日も、そこへ、そうやって、二足で立っていられるのならな。)
美里は、ふん、と鼻を鳴らし、川名の机の方へ向かって椅子の背にピアノでも弾くように指を乗せた。
「お座りになられますか。」
「いや、」
川名は机に軽く身をあずけ振り返り部屋の中心にいる霧野と対峙した。霧野は、川名の向こう側に居る美里の方を見たが、やはり美里は霧野の方を見てはいない。霧野がその視線の先を振り返ると、全く何も無いわけではなかった。部屋のドアのすぐ横に見張りのように陣取って立っている間宮の方を見ているようにも見えた。
霧野の斜め後ろ、間宮と霧野の間、手の届く位置には、二条が立っていた。間宮は霧野が振り返ったのに気が付くと、完全になる無視を決め込んでいる美里と全く正反対に、泥土と血で汚れた顔で笑み、霧野をじっとりとした瞳で見始めた。霧野は前に向き直り、軽く俯いて、目を半分閉じて、何か考えようとするのだが、うまくまとまらない。川名の膝から下だけが見える。軽く、痙攣する感じがする。
また裁判が始まるのだ。霧野はそう思った。首筋に、汗がつたった。
実際の裁判を見に行ったことが、何度かある。被告人のすぐ後ろに刑務官が控え、目の前に裁判長が座っている。
被告から離れた左右には、弁護士と、裁判官。それから証人と、見物人が、被告人を前後に挟むのである。
自分で弁護する罪人。以前、贖罪のために自分で剥がしてみせた爪の生えかけた部分が痛み始めた。執行猶予中に過ちを繰り返した、弁解の余地なし、死刑。そう言われても、おかしくはない。ただ、こいつらは、俺がどのように、無様にのたうちまわるのかを、見たい、それだけなのだ。何故?ではなく、それ自体が理由、愉しみが理由、もういい加減わかってきた。
「引き出しの、一番上にある書類を出してくれ。」
川名の声が頭に響いた、心の奥で膿む憎しみ、同時に磨かれていく畏敬。弱気を見せても、つけいられるだけだ。霧野の視線は川名の太ももの辺りを見ていた。その内に、そこへ自分が乗せられて、折檻に尻を叩いて”いただいたた”記憶、その肉の間に頭を挟まれて尺八させて”いただいたり”した記憶が蘇り始めた。痛む頭と反対に、下腹部を中心に、全身が湿り気を帯びてきた。何、考えてる。溢れ出た唾を飲みこんでいる内、周囲の空気がしめっぽく、しんとし、四つの視線全てが自分を貫いているのを、頭と、そして体で、感じた。今頭を上げたら、あの軽薄な、白々しい顔も、こちらを向いている、と、思う。そう思うと。そう思うと。霧野は下唇をきゅとかみ、何か紛らわすように虹彩の鮮やかな瞳を揺らし続けていた。白い皮膚の内側から、官能の熱が、首筋から脇腹から、始まってきていた。霧野は二条のさっきの言葉を思い出しかけ、打ち消した。
美里は、川名のデスクから書類を出し、それを軽く眺めるつもりが、二三度と眺めている内、川名の命令を忘れかけたが、はっとして、川名の方へそれを渡し、それでようやく初めて俯いている霧野を見たのだった。
本当に来たよ、この馬鹿犬は。何で、逃げなかった。何故だ。他の手段だってお前なら考えられたろうし、とれただろ、何故一つのことに固執する、やれると思う、そういうところだ、彼らと真っ向勝負して、勝てるわけなんか絶対ないのに。何故……。
霧野は、息を弾ませ、戦いの後で全体的に薄汚れていたが、彼自身の内側から発せられる熱や、本来の気品ある雰囲気が、全てを帳消しにするどころか、余計に官能的に魅せるのである。霧野は、所在なさげに俯いて、薄っすら開いた唇から、はぁはぁと、息を漏らし、視線が定まらず、川名の下半身の辺りをとにかくうろうろしていた。
「……。」
ああ、驚いた。ああ、あはは、こいつは驚いたな。この状況で気持ちがいいんだ、こいつは。何から何まで最悪すぎるな。何に対して?もちろん、この俺に対してか?イヤ……マテ……。美里は、間宮の方をちらと見た。それから、霧野が、間宮と逃走した後しばらく間宮の隠れ家で蜜月を過ごしていたらしいことを二条から聞いたのを思い出す。口の中に、血の味が拡がり始めた。口の内側の肉を嚙み切ったのである。血がのどを潤し始める。零れないように口を固く結んだ。間宮は美里と目が合うと、含みのある意味深な笑い方をしたように美里には見えた。
途端、美里の中は冷たい外面と反対に内面はもう急に火のついたようになって、唸り声まで上げかけたのを、喉の奥で血に絡めさせるようにして、止め、霧野を見ながら、後ずさった。今、すぐ、衝動的に、射殺してやりたいとまで思った。大体、何故さっき、二条の間宮への蹂躙を途中で川名が止めるなんてことがあったのか、あのまま気絶するまでヤられてておかしくなかったのに。止めたのか?霧野が。何故だ、どうしてそんなことをするんだ……。
川名が、霧野の方へ書類を差し出した。霧野は反射的にそれを受け取って、ぼーっとした頭で、眺め始めた。
川名の声だけが、頭の中に入ってくる。
「下の方に、署名と捺印欄があるだろ。今からそこにお前の自身の印を刻むか、もしくは今からお前自身かお前の身内が直接刻まれるか、どっちがいい?特別に選ばせてやる。そういう機械をな、裏に、用意させてあるから……。好きな方を選んでいいぞ。俺の折檻中に逃げた奴に選択権を与えるなんて、こんなことってあんまり無いんだ。お前だから、特別に、お前の意思を尊重させてやろうと思うんだ。俺は、お前の気持ちを、まず、知りたいから。ただし、お前が選んでいいのは、俺と契約を結びたいかどうか、その一点だけだ、異論は認めない。何か一つでもお前のお得意の演説で異論を提案して来たら、その時点で刻むのではなく、刻まれる方を望んでいると判断するから。わかったな。」
川名はそう言ってテーブルに直接腰かけ、霧野の視界の端で、脚をぶらぶらと揺らし始めるのだった。
確かに、一番下の方に何か欄のような囲いがある。上に書かれた条項に合意した場合に、刻むのだ。署名を。
契約書の条項は以下のとおりである。
(一)霧野遥(以下、丙)は、時期を見て正規の手順で警官であることを辞、正式に川名組(以下、乙)に加入すること。
(二)丙は、乙の統括者及びその命を受けた者(以下、甲)に絶対服従、及び、身体の自由、その全てを預けること。
(三)契約の期限は無期とする。ただし、甲による契約内容の改定は、随時認めるものとする。
霧野は、急に笑いを抑えきれなくなって、部屋の中心で哄笑した。
「……。ふふ、なるほど、なんだよ、散々ビビらしといて、今と、さして変わらないじゃないですか。俺は死なない、まだ死にたくない。その謎の機械とやらを見たい気もするが、俺がそこに入るのはごめんだな。他の奴が入る時にでも見せてもらいたいね。」
霧野は、そう言って書面から顔を上げ、川名の方を見た。川名は霧野の挑発的な視線を受けても、軽く微笑んだくらいである。
「ああ、そう、そう思うか。じゃあ、つまり、お前は、俺と、その通り、契約を結ぶのだな。」
霧野は、ああ、と口を開き掛け、躊躇った。
もう一度書面を見る。正気じゃない、今おめおめサインしようとしていたが、こんな契約書は。
「……どうした?」
「あ、いや……」
「別にどうぞ、じっくり条項を読んで決めろよな。とても、大事なことだから。」
大事なこと、いや、いい、大丈夫だ。こんな契約書には法的拘束力も糞も無い。
ただ、……、鼓動が速くなってくる。やはり、お遊びだと思いたくても、抵抗があるのは確かなのだ。闇金の契約書にサインするより、もっとっずっと、タチの悪い。……。しかし、意思、つまり、進んで契約を結ぼうという意思をしっかり見せないと、殺す、もしくは第三者を殺す、と、言われているのだ。いい、ここは飲むしかないんだ、この遊びに乗るだけなんだから。
「……する、」
「その条件を飲んで、俺と契約するんだな。ハッキリ言って、さっきお前が笑い飛ばした通り、それは笑えるくらいに俺との奴隷契約なんだぜ。その覚悟が、お前の中に、ある、ということで良いんだな。」
川名は低い声で淡々と、しかし、極道の気迫をもって霧野にそう迫った。こう迫られると、黒でも白と、言ってしまいたくなる気持ちもわからないでもない。霧野はためらいがちに「そうだ。」と答えた。
「お前の意志はわかった、じゃあここで、その契約書へ署名と捺印をしてもらおうか。俺が良いというまで、その口を開くなよ。それは俺に対する異論になるからな。」
川名は懐から万年筆を取り出し、霧野の方へ、差し向けた。霧野が受取ろうと手を伸ばすと、ペンは真っ逆さまに床の絨毯の上へ落ち転がった。霧野は、転がっていくペンを目で追って、それから、川名の方を探り見た。
「ああ、ごめんごめん、俺としたことが、手が滑ったな。」と、言ったかと思うと今度は素早く霧野の手から契約書をひったくり、床の上に落としたのだった。契約書は川名のすぐ足もとに奇麗に、文字のある方を上に、落ちた。
「……。」
「……。そこで書け。貴様には机など不要だな。」
霧野は、つい開きかけた口を閉じた。しかし、結局、川名の言う通りに、床に膝をついて、万年筆をとってその紙の前に屈んだところで、「誠意が無い。お前には衣服など不要だろ。」と川名の檄が飛んできた。
「脱ぐんだよ……。わかるか。ほら、いつもみたくしてみろ。」
上から、ふってくる。これほどまでに優しい川名の声色を聞いたことが無かった。背中に悪寒と甘いものの両方が走って、脳が、ぐらぐらし、熱い。逆らおうという気、恐怖で多少、そがれるのだが、霧野の中には、書面がどうであれ、まだ屈したくない心もあり、しかし、下半身が、委縮しない、萎えてこないで、優しい声色のせいで、余計に頭と身体が、おかしくなってくるのだった。いつもみたくしろ、それは川名と一対一の時の御作法を、今、ここでやれということである。
「……。」
こいつ、と歯噛みしたが、打つ手が何もない。もたもたしていると、おそらくこれも異論ととられるか、契約書にサインを刻まない方を選択したとみなされて死ぬ。
霧野はなるべく無心無心と言い聞かせ、今目の前に居るのは川名一人だけ、一人だけ、と言い聞かせながら、川名の足もとに正座した体のまま衣服を脱ぎ払っていき、畳み、ついに再び何も身にまとっていない状態で彼の前に屈服するに至ったのだった。部屋の中の熱気が一段と濃くなり、自然と声が漏れていた。ぁ、と思って川名を見るが、これくらいの啼きは許されるらしい。人間の言葉では、無いから。自分のハァハァする息の音だけが、聞こえ、あとはずっと、この恥ずかしい姿を、視姦されている、と思う。
あ、熱い。
だらだらと汗が身体をつたった。そうだ、なにしてる、ペンはどこだ、と、動揺していてすぐ見つかるものも見つからない。ようやく、川名のすぐ足元に落ちている物を拾おうとするとそれが靴先で軽く蹴り飛ばされ、飛んでいった。振り返ってみれば、あらぬ方向に、部屋の入口横に立っていた間宮のブーツに当たって止まった。
「!!!……」
霧野は、真っ赤になって川名を仰ぎ見たが、川名は霧野の方など、ちっとも見ていなかった。言われなくても、そこまで這ってとってこい、というのが、わかる。霧野は視線をやはり絨毯の上に合わせたまま、火照る身体を引きずるようにして這って行った。誰も何も言わないが、皆が見ている中で、手を、のばしけ、指先が当たる寸前でその行為をやめた。
唐突に、影が覆いかぶさってくる。霧野が四つん這いのまま顔を上げると、間宮がヤンキー座りにしゃがみこんで、まるで捨てられた犬でも見つけたかのように、にこにこしながら、見降ろしてきていたのだ。そして横からゆっくり手が伸びてき、霧野が思わず警戒するのとは反対に、ゆっくりと指で髪をすくようにして霧野の頭を撫で始めたのだった。
「うんうん、えらいえらい、えらいわんちゃんだねぇ~、かわいいかわいい、」
「!!!?……」
霧野の内側からかぁっと身体が熱を帯び、マトモに間宮の方を見られなくなった。
川名の声が背後から飛んできた。
「悪いな、間宮、こっちに戻してくれよ。蹴っていいから。」
「ああ、は~い、わかりました。」
間宮は霧野を頭から手を離し「よいしょ」とゆっくり立ち上がったかと思うと、霧野のすぐ横に落ちていたペンを器用に蹴とばした。ペンは再び回転しながらふっ飛んでいき、今度はちょうどそれは偶然、美里の革靴にあたって止まった。霧野は首を垂れ視界を狭くして、羞恥を紛らわしながら、しかし、そう思う程、心がしめつけられた。霧野の肉体、のびのびして筋骨隆々とふっくらとした身体の上、全身奥から濡れ始めねっとりした皮膚、そこに躍る被虐の証跡、その動物の身体が、今度は美里の方へ向かっていく。
手でとっては駄目なんだ、そう思って美里の足もとに到着すると、美里は完全に自分の靴の下に川名の高級万年筆を踏んでいた。ゴリゴリと音がするのが霧野の頭の位置にだけは聞こえてくる。
借りにも組長の私物だぞ、そう思うのだが、今、この場で求められていることは、そういうことでは無い。今求められていること、それは、いかにこの霧野遥という人間以下の卑しい生物を追い詰めるのか。そういうこと、それが、全ての人間に、求められていることだ。
霧野は美里を上目遣い、ようやく、瞳と瞳が交差した。美里の猫目の中には同情の欠片は一切無く、眉を顰め、口の端が微かに震えながら吊りあがっていた。霧野にだけは、それが彼の笑顔であることが、わかった。霧野は見る程に、少しずつ心臓に直接触れられているような面妖な気分になり、しばらく動けなくなってしまったのだが、時間が経つと今度は、理性が立ち戻ってきた。謎の、理性にとっては不愉快なマゾ雄の気分より、真っ当な苛立ちがの感情が勝ち、どこかとろんとしていた霧野の瞳の中に、むっとした調子が出た。そして、再び首を垂れる。ゴリゴリ。ペンは足の下で弄ばれ続けている。ゴリゴリ。……。霧野の理性は、また、上昇する体温と反対に、下降していった。一瞬誤魔化した、マゾの気持ちが直ぐ顔を出す。
だんだんと、頭低く、地面に、無理やり屈服させられている、この身体の内側、欲望、あそこが、反応し始めていた。陰茎が、だんだんむずむずとして、目の前で靴の下で、まるで自分の股間がぐりぐりと踏みつけられているような妄想がフラッシュバックのように脳裏に瞬き、霧野は唸り声とも喘ぎ声ともとれない声を漏らしていた。そして、今、この男の前で芯から屈服してみたい、とコンマ一秒程、頭をよぎって、消えた。すっかり息が上がってきていた。外で上がってたより濡れた息が、せりあがってきて、さっきみたいには、全然とまらないで、喉が、震えた。自分の肉体なのに、いや、契約書にサインしたら、規律はもっと、きつくなる、この身体の全権利は、これから、人の物になるのだぞ、わかっているのか、そう考えると、また、恐怖、苛立つと同時に、身体が奥からどす黒い欲望で、疼き始め、霧野は、駄目だ駄目だと背中を丸めて、震え、耐えた。
美里は自分の足もとで喘ぎ喘ぎ大きな肉体を微かにくゆらし媚び求めている犬を、ひたすら見つめていた。頭を垂れて髪の隙間に見える首筋の皮膚の上に自分のつけた首輪の痕がまだうっすらとあるのを見ると、心臓が高鳴った。そして、さっき自分が射殺したいと思った気持ちも、忘れた。それから、ここがどこなのか、自分達がどこにいるのかということも、忘れ、一度この事務所に連れ戻されて、すっかり殺して諦めたはずの気持ち。また、どこでもいいから、どこまでも行けるとこまで行ってみたい、という気持ちが、ふつふつ、蘇り始めた。
霧野は、美里の足もとに蹲って、考える。美里からペンを返してもらうが、今自分が求められていること。返してもらうこと。霧野は、美里の足もとにさらに一歩、歩をすすめ、ぽふ、と、頭が、美里の足もとにあたり、そのまま、頭を下げて、視界一杯が茶色の皮革になって、暗くなる。
「………。」
霧野は、数度頭を近づけ上げを繰り返した後、観念したように、彼の靴の先に舌をつけた。その時、霧野の膨らみかけてきた雄は、完全に勃起、そりかえり、霧野の羞恥して怒っていた理性を、上から瞬時極彩に塗りつぶす、そんな官能。同時にそれから、ゆっくりと、じわじわと、毒のまわるような官能もある、舐めていると、水の中に一滴の朱をおとし、みるみる広がっていくように、精神の官能の渦が拡がって、脳の奥から、溢れた汁が涙になり、こぼれはしないが、赤らんだ瞳の淵に溜まった。情欲が、下腹部をぐるぐるうずまき、尻尾代わりに、濡れた淫塔が、そそり勃ち、熱く硬く、腹につかんばかりになる。頭から理性が消えた時、淫棒の奥にとどまった子種をとにかくまき散らしたく、一瞬このまま、立ち上がり、目の前のこの人間を、押し倒してぶち込んで出す、という考えが浮かび、すぐに立ち消えた。ふんわりと盛り上がった双肉の隙間で、欲望の裂目が小さく開き、きゅぅと締まって、入口をぶるぶると震えさせていた。頭を垂れている体勢によって、自然と尻が上がって、川名、二条、間宮のいる位置、からは、その者の股間の欲望の、変化を遂げていく様、そして、濡孔の変化の様相が良く見えるのだった。
美里は、自分のペニスを直接誰かに触られている時、触らせている時、舐められている時よりも、ずっと、今のように、神経の通っていないはずの場所を、この生物に、舐められている方が、気持ちが、良いことを、それから、とても、安心することを、わかった。
それで、何故かそのまま自然と川名の方を見てしまう、川名は、嬉しそうにしていた。その時美里は、先ほど、行けるところまで行こう、と思ったのと同じ位、このままここでこうしているのが自分達にとって一番幸福なことなんじゃないだろうか、とも、思ったのだった。
どのくらいの時間がたっただろう。今の霧野にはもう時間と言う概念が無かった。足がどけられ、川名に投げられ追っかけてきた棒を、返された。……、逡巡の後、霧野はそれを器用に口に咥えて、川名の足もとに戻った。移動の間も、ぶらんぶらんと、皆の監視の中、霧野の、期待を膨らましたような、腫れあがった雄が紅くなって揺れ、歩く度皮膚が色づき、皮膚の上に白彫りの刺青の花が浮き上がり、刺青の花束の中で、際立って紅紅と咲き始めるのだった。
こんなところで 負けるようでは
俺の側に置いておく 価値が無い
……、位のこと、どうせ川名が思っているだろうことを、霧野は感じていた。何も言わず顔も見せずに目の前から消えるくらいは十分にあり得ることである。具体的に言えば、今この瞬間にも、背後から頭に袋でも被せられ、さっき昇ってきた階段の上から、ダストシュートにでもぶち込むように地下へ突き飛ばされれば、全て終わりである。終わりと言っても、川名にとって、この話は永久に終わるが、霧野にとっては、終わらない。終わらない地獄の後に、ようやく死の終わりがあるわけである。
いや待て、と思った。終わりじゃない、その前にやつらが持っている恥辱の記録を消さなければ、ある意味永遠に最悪の形で生き続けることになり得る。そういう意味でも、川名の期待に応えることに失敗し、二度と会えなくなるのは、あり得ないこと。霧野の口元に、嘲笑じみた笑みが浮かんだ。
でも、そうなったらそうなったで、また、どうせ、奴らは一体誰が自分を殺すのかで滅茶苦茶もめるのだろう、そう思うと、どいつもこいつも、ほんと、馬鹿なんじゃないかと思うのである。
しかし、この状況において、霧野は、浮足立つような面白さを覚えていた。川名の今実行している(させている)こと、考えていることの裏を返してみれば、これだけこっちがめちゃくちゃしてやったのに、まだ、失望せず、本気で寝返らせる気があるだから、やはり、馬鹿なんじゃないか、と、霧野は意識の上ではそう思い、ほくそ笑んだのだった。
「誰からでもいい。やろうぜ。早く。」
霧野から声をかけても、なかなか始まらなかった。誰から行くか躊躇している。霧野は背後にいる川名と殆ど同じ失望の瞳の色をして、その景色を眺めていた。
そんなことをしていても、ボスの評価がみるみる下がるだけだとわからないのだろうか。自分だったら一番最初に行く。それが一番面倒で無く、その上愉しいからだ。他の奴がしゃしゃり出てくる前に行かなくて、どうする。どうしてそのくらいのことがわからない。霧野は自分がこういう立場で無ければ、目の前の輩に説教の一つでもかましてやりたいところだと思った。
待っている間、口が寂しくなった。気が付くと舌先で歯の裏を丁寧になぞっている。ちら、と川名に没収された荷物を見て驚いた。黒木の煙草だけ取り出され、ライターと一緒に丁寧にリュックの上へ置かれている。そこへ、影が覆いかぶさり、手に取った。川名が、無言でそれを霧野の方へ投げてよこしたのだった。手が、勝手に受け取った。
「……、……。」
受け取った以上、消費させてもらう。今から闘う時に煙草など吸うものではない。が、全く効果が無いわけでもない。苛立っていた精神が多少は安らいできて、どうでもいいな、と思った。カスに対していちいち苛立っている時間、体力、精神力のすべてが無駄だと思った。そうして、いつのまにか、黒木のことを考えていた。それもそうである、今身に付けている服も、吸っているこれも、元は、彼の物なのだから。
相手方の意見がまとまったらしかった。霧野は吸いかけの二本目の煙草を地面に飛ばし、靴底で丁寧にもみ消し、一呼吸した。突っ込んでくる一人目を無言のまま、そのまま、二人目を、三人目を、やっている内に、血が滾る。休む間を敢えて削り、途中からは相手方の順番など気にしない。霧野の方から好き放題に相手を選び踏み込んでいって散らせていった。霧野を中心に流れを持って争いが進んでいく様子は、乱闘とういうより一つの演武である。彼のさばきは、後続の男達の精神を委縮させる。霧野は蹂躙を愉しむ余裕もでき始め、笑っていた。
休みなく動き続ける霧野の息は上がりっぱなしではあるが、全然、大したことが無いと思えた。何故なら、今、自分が、期待に応えられているから、自分が、こんなこと、外道をしても、期待に応えられ続けているのだから。スタミナが切れない限り、いや、切れたって、今なら、いつまでもやっていられる気がした。
おや、顔に覚えがある、見たことがある奴がいる、なるほど、二条からの贈物である。霧野はサッと二条のいるだろう事務所の方に目をやって、目の前の男を手ひどい方法で散らし下手をすれば骨が折れる程過剰に痛めつけた。どうだよ。次。リズムを崩さないように、十二人では無く、あわせて一人と考えたらよろしい。
12人終わるのに10分強。動き続け汗を流し息を切らした霧野は事務所の壁に手を付いて息を整えた。
「終わりか?」
霧野は頭を上げ、ふらつきながら暗闇の中で川名を探した。
「いや、」
彼が、事務所の入り口に立ったまま、事務所の光の届かない方を眺めているのを見つけた。
光の中で、一瞬、二重三重に見え、彼のしなやかな身体に、焦点を結ぶ。川名の横顔がどこか寂しげに見えた。
「あと1人いる。それで終わりだ。」
霧野は川名の視線の先を見た。ついていた手を払って再び二足で地に立って人影のある方へ身体を向けた。その相手は影の中に居て、今の今までずっと気配を消したまま、霧野を見ていたようだった。がざがさと擦れるような音と共に、大柄な霧野と、さほど身長の変わらないの男が一人現れた。
「お前……、」
生きていたのか、と、言えなかった。それは、黒木の形をしていた。
「やっぱり強いんだねぇ、霧野さんって……。でも今だったら、流石に俺の方に分があるんじゃない?」
「……。」
「何?その顔は。あっ!!!」
光の当たる場所で、霧野に対峙した間宮は、霧野の背後、上の方を見上げ、この場にまったくそぐわない、少なくとも今まで闘ってきた誰一人として浮かべないようなまんべんの笑みを浮かべて唐突に手を大きく振り始めた。
「二条さん、見ててくださいよ、俺は、……。あ!!!何で引っ込むんですか??!なんで!!!」
彼は悲鳴のような怒声を上げたかと思うと、今度はぐっと下を向いて、しばらく押し黙っていた。次に顔が上げられた時には、喜怒哀楽のどの表情も一切無くなった。
霧野は「おい」と声をかけたかったのだが、喉が詰まって、声が出なくなっていた。さっきまでとは違う性質の汗が、背中をダラダラとつたうのだった。それで、ただ漠然と目の前の男の、唇の動きを見ていた。小声で、何か言ってるらしい。霧野は彼の唇の動きを読み始めた。
「わかんないわかんないわかんない全然わかんないななんで二条さんはさっきまでアイツのことはあんなに熱心に見ていたのにどうして俺のことを見ないの全然理解ができないどうしてあんなにしたのに」
霧野の眉間に深いしわが刻まれ、彼はそのまま、読唇術を行うのを止めた。目の前の男はぶつぶつと続けていた。通常なら敵を前にして平常、か、テンションを上げているはずの状況で、霧野は初めての感情、不安に捕らわれはじめていた。そこを、ふいをつかれた。
気がついた時には、すぐ目の前に彼の姿があった。踏み込まれ、目つぶしの突きの手を、鱗のような模様の入ったしなやかな腕が、霧野の頭の真横を通過していった。と同時に、彼は、霧野にかわされた時点で、攻撃手法を目つきから肘打ちに切り替え、よけた先の霧野の頭、こめかみを横から肘で思い切り打撃したのである。
「う゛……!!!!」
さらにバランスを崩した、その霧野の首根を彼は素早くつかまえ、俯かせ、続く蹴りは霧野の股間めがけて真っすぐ飛び込んで来る。その蹴りを身をよじってよける。すると、蹴りは別の急所、霧野の脛に直撃した。最初から避けることを想定しての、蹴り。決して、弱くない、この男。霧野は遮二無二彼を火事場の馬鹿力で突き放し、後退した。脛の痛みで、膝を一度地につきかけたが、ぐぅと歯を食いしばり堪え、立ち上がった。頭と脛が痛み、眩暈するが、致命傷ではない。霧野は改めて呼吸を整えながら間宮との間合いを取りなおした。
「……。……。」
「……。……。」
今度は一切喋らなくなった。不気味だ。間宮の方が暗がりに近く、表情が見えなくなったのも不気味である。霧野は、間宮に警戒の中心を置いたまま、ちら、と事務所の上階を見た。二条の影が無くなって、おそらく美里らしき影だけが、佇んだままでこちらをじっと見降ろしている。
「……、す、」
低い囁き声が聞こえ、霧野は再び全神経を目の前の男に向けた。
「は?」
再び影の中から間合いを詰めてくる。口元には薄ら笑いを浮かべていても、見開かれた目は一切笑っていなかった。
「あはははは……。は?じゃねぇんだよ、霧野さん、殺すんだよ、コ、ロ、ス、わかった?やっぱりどう考えても俺のためにはお前はいらないって結論に至るんダヨ……だから、死ね。」
何を言ってるんだよ、と言うよりも早く、取っ組み合いになる。罵り合っている余裕はない。さっきのように不意は突かれていないものの、動揺するな、動揺するな、と思う程に、霧野は自分の身体の動きがいつもよりワンテンポ遅れることを感じていた。疲労のせいも、もちろんある。ここまで十二人とやったのだから。いつもなら、ラスト1人だと自然と精神的に高めて補えるはずが、できてない。もつれ合って地面に倒れ込み、霧野は仰向けに倒れ込んだ間宮の上に跨った。それの体制は、一つの性行為の体位、つまり、いつかの騎乗位を、霧野の頭と体に彷彿とさせ、霧野は暗闇の中で全身を鳥肌立させ、一人顔を赤くし、身体中に疼きが訪れた。間宮の方は白けたままであったのが幸い、すぐに目が覚めた。騎乗位の状態から、強く、のしかかり、完全に三秒以上間宮の背中を地につけた。
霧野が「終わりだ」と、力を抜いたと同時に彼は微笑みを浮かべた。霧野が、ハッとしたその瞬間、彼はするりと蛇のように霧野の下から抜け出、背後に回って、そのまま襲いかかってきたのである。他の人間が、霧野に負かされ悔しがりながらもどこかほっとして脱落していく中での、完全ルール無視。霧野の身体は受身をとり、戦いは続行された。無法地帯と化した空間で素手での殺し合いが始まった。霧野は川名の方に視線を送るが、何もない。川名が止めないなら、終わらない。こっちも殺す気でいかなければ、ただ死ぬ。
霧野は間宮の胸倉を掴み引き寄せ、頭突きした。間宮の頭が反り返り、目だけがくるりと霧野の方を向いた。
霧野その顔に向かって「さっきので負けだろ!お前の!終わりだよっ、終わりっ!わかったか!」と、思い切り叫んだ。間宮は、うーん、いい、とのけ反らせていた頭を戻し、笑顔を見せた。
「その顔をよせ……!」
霧野は間宮を突き飛ばし、後退した。間宮がその距離をじりじりとまたすぐ詰めてくる。
「なんで?……ねぇ、さっきからなんかおかしいよ、霧野さん。どうしちゃったの?動きのキレも悪いしぃ。疲れちゃったの?そんなわけないよね。俺なんかに容赦しなくていいんだよ。本気でやろう。うん、そう、その通り、試合は終わりだ。でも、わかってないね、霧野さん、今ヤッてんのは、試合じゃなくて、私怨の喧嘩なの。わかる?だからぁ、ルール無用、禁じ手無しなの。」
わかんねぇよ!と霧野が、叫び出す前に、間宮が屈んだ、その手の中に光るものが見えた。刃物が空を閃いて、掠った霧野の上腕の肉を服ごと裂き、血がしぶいた。かすりはしたが、刃物を吹っ飛ばすことに成功。しかし、反対の手にいつのまにか第二の刃物があり、それが霧野の身体に向かってくる、ああ、さすがにこれ無理、かわせない、かわせないと思うが、異様なほどに切っ先の流れが緩やかに見える。身体が動いた、ぎりぎりよける、しかしすぐに三突き目が、今度は下から脇腹の方へ、もう、脇腹からほんの少しのところに刃がある、流石に無理、刺さる、死ぬか、さすがに、しかし、これで死ぬのなら、嬲られ死ぬより、ずっと……。ずぅっと……、いいのかも……、
バチン!!肉の鳴る音がして、霧野の意識は現在に引き戻された。刃物が回転しながら飛んでいき、事務所の壁に突き刺さった。刃物の方から、向き直るとさっきまで居たはずの男がおらず、代わりに視界の端に二条が飛び蹴りして視界から消えていくのが見えた。
数メートル先の茂みの中、吹っ飛ばされて頭を抱えながら、起き上がろうとする彼を、二条が上から蹴り踏み押さえつけ、無限に地に沈め続けていた。霧野は呆然と、闘いとも呼べない、一方的な蹂躙を眺めていた。おそらく、時間にすればおそらく1分も経っていないであろうが、一方的で展開の乏しい戦いは、長く感じる。人間を襲いなれた熊が蹂躙しているような暴力だ。霧野はだんだん冷静さを取り戻し始めた。自分の心臓の高く速い音が、聞こえる。それから、はぁはぁと自分の口から漏れる、血交じりの息の音も戻ってきた。身体が急に重くなって痛身を感じ始めた。川名の元へ吸い寄せられるように戻る。
「止めないんですか」と第一声、霧野が喘ぐように言ったのを、川名が意外そうな目で見返したのだった。
「なんだよ。止めた方が良いのか。お前を殺そうとしてた奴だぞ。別に、死んだって構わないじゃないか。」
「……。」
霧野が黙ったままでいると、川名の表情の端に一瞬嗜虐のような笑みが立ち昇り「ああ、なるほど、わかったわかった、いいよ、止めて来てやるから、待っていろ。」とつぶやいて、二条の方へゆっくり歩いていった。霧野は身体から力が抜け始めた。眩暈に頭を押さえ、事務所の入り口に手を付いて、彼らの動向を伺っていた。まだ息が、整わない。川名が二条に向かって一言二言何か言って、彼が止まるのが見えた。そして、川名が二条を伴って、そして、間宮が、二条に伴われて、戻ってきた。外傷よりも随分元気そうな様子で。戻ってきた二条に、霧野は徐に顔を下から掴まれ、上から覗きこまれるのだが、抗う力も気力も、無かった。されるがまま、黙って見上げていると、ふふふ、と愉快な笑い声と共に手を離された。
「なんです。」
「別に。ピンピンで、元気そうで、安心した。だって、夜はまだ始まったばかりだから。お前にとっても、あんな戯れは、ただの前哨戦、前戯にもならんだろ。もっと、戻ってきて良かった、と、心の底から、思いたいだろう。」
「……、……。」
笑顔が広がる二条と対称的に霧野の表情は曇っていった。二条は手が血まみれであり、顔まで血しぶきが飛び散っているのを拭わずにいたが、霧野の視線に気を使ってか、手を振って霧野には降りかからないように血を飛ばし丁寧にぬぐい始めるのだった。その間もじっと見られ続けており、霧野も啖呵を切るように見るのだけはやめなかった。
「まさか本当に組長の言う通り自分から戻ってくるとはな。俺は、お前ならとっとと海外に飛ぶくらいするかもと思った、まあ、飛んだら飛んだ先の空港で盛大に出迎えてやるつもりだったから、別に、全然同じことなんだが。」
霧野は降りた先の空港で、二条一同が待っている絵面を想像し、猛烈な吐気を覚えるのだった。
「ああ……、ああ、そう……、そうかよ……っ、そんなことに金使うのかよ、アンタは……。もったいない、馬鹿なんじゃない!あはは!」
霧野は軽く頭をかきむしって二条を睨み上げた。
「うん、使うね。だって、そうしたらお前は驚き、今以上に、絶望してくれるだろうから……。その為の金を惜しんで、何のための金だ。今お前はようやく戦いの熱が冷めてきて、この状況を正確に理解して、俺とこうして話している内に、恐怖で顔色が悪くなってきている。でも、もちろん、まだ、大丈夫なんだよな?」
大きな口を開き、妙に優しげな声で言う。口の奥も目の奥も、黒くて何もない。で、一体何が大丈夫だって言えばいい?霧野は、二条の後ろに付き添っている男の様子を盗み見ようとしたのを、すぐに二条の身体が遮った。
「こそこそと仲良く暮らしていたらしいな。ままごと遊びは愉しかったか?」
ままごと!霧野は急に頭に血が上ったのを抑えきれなくなって叫んだ。
「ままごとだって?貴様!」
「ああ、びっくりした、何キレてんだ???お前……、あ……ふ~ん、ナァンダ、そんなに相性よかったのかお前らは。まぁ意外とそうかもしれねぇな。これには一考の価値がある。面白い、そうだよ、そうさ、ままごと、何回でも言ってやるよ、ままごと、ままごと、ままごと以外の何物でもないだろ。あんなの。だっる~い、つっまんねぇ~、暮らしは。俺は思ったよ、ああ、なるほどとね、幼稚園のガキ同士遊んでるのを見守る父親ってのはこんな気持ちなんだろうな、と、ね。考えてみろ、仲睦まじくいつまでも仲良く森の奥で暮らしました……なんてことは、幼児向けのおとぎ話でも存在しねぇんだから。そうだな、赤ずきんちゃんだって猟師に救われるし、白雪姫だって王子様に救われるだろ。な。考えなくたってわかる。今、わかりやすいように、幼児向けに例えを出して話してやってんだ。間宮に話しかける時はいつもそうしてる。だいぶ退行しちまって理解が遅くてしょうがねぇからな。」
「……。」
「お前のことだから、もしかすると、自分が王子様のつもりで行動してきたのかもしれないが、まったく、全然、そうじゃなかったってこと。お前がやってたのは、せいぜい赤ずきんちゃんのおつかいに過ぎないんだよ。俺が、あの家を燃やし、話を展開させてやらなかったら、お前はいつまでも狼の腹の中に居る胎児の赤ずきんちゃんのままだった。それを、堕ろしてやって、こうして、お家に戻す手伝いをしてやったのだ。……。そう、お前は、何一つ救えない。あ、いや、言い過ぎたな、一つだけ、救ったかもしれねぇ、お前の”本当の部分”が、何癖付けてでも、ここへ帰ってきたくて、仕方が無くなっていたんだろうから。お前だけは、救われた。ただひとり、お前のエゴだけが、救われ、満たされようとしている、良かったな。」
「……てめぇ……、テキトーなこと、……俺が、帰ってきたがった!?は、そんなわけっ、………、ぬかすなよ、さっきから、何がわかる、お前にっ、何がっ」
「……。遥、そんなに熱くなって興奮すると、余計本当らしく見えてくるぞ、お前、今、動揺して居るな。ふふ、らしくないな、でも、別に、無理も無いことだ。俺にはお前の気持ちが、わかるから。人は見たい物を見たいようにしか見ないんだから。俺がいくら懇切丁寧にお前に今のお前の本当の卑しい姿を言い聞かせてやったところで、今のお前では、否定するんだから。そこがまた」
「黙れよ゛!」
二条は霧野の切れ長な眼がいつも以上に吊りあがり、瞳孔が開き切って血走って吠えているのを、ほぅ、と思って眺め、彼の血のにじんだ口元を見ていると、今すぐにでも、どうにかしてやりたいと思って出かけた手を後ろに回し、左手で自分の右手首を壊れそうなほど強く掴んだ。
「ふふふ、はいはい、そうだね、また俺に威勢のいい口をきいて。調子出て来たじゃないか。あ?奇麗な顔して。相変わらず可愛い奴だ。ま、いつまでもこんなところで建前ばかりのどうでもいい立ち話などせず、”本当の会話”をしようじゃないか、”本当の会話”を!上で!お前にはその権利が与えられたのだから。」
霧野は朗らかな顔つきの二条の背後から殺意の視線を感じた。ところで、辺り一帯獣臭い。四人、事務所の入り口にたむろしていると、獣臭く、血生臭く、そこ一帯だけ人外の空間、別の生物達が集っているかの様である。川名を先頭に、次に霧野、間宮、最後を二条が塞いで上へ続く階段を上がっていった。いや、上がらされていったのである。退路無し。進むしかない。
川名の部屋に通された時、窓際に立って風に当たっていた男が入口を振り見た。その瞬間、鼻先を良い匂いがかすめたような気がした。霧野はこの時、やはり、黒木の形をした者を見た時と同じように、生きていたのかという安堵を覚えた。男は開口一番、二条を見て、こう言った。
「はい、100%俺の勝ちすね、キャッシュで二千万。よろしくお願いしまーす。」
美里は、手を伸ばし、軽々しい口調でそう言い放って霧野の方など眼中にないように視界から外している。霧野は、呆然としていたが、少し間をおいて、また、自分が何か賭けの対象にされて遊ばれていたことを悟って激しく苛立ち、同時に、自分がこの軽薄な男のためにここに来たことを呪い、美里の方を睨みさえしたのだが、美里は一切霧野には向き合おうとはせず、二条を見、川名を見、また二条を見た。
「まさか、反故にしませんよね。」
「はいはい、明日にでも降ろしてきてお前にやるよ。」
(お前が、明日も、そこへ、そうやって、二足で立っていられるのならな。)
美里は、ふん、と鼻を鳴らし、川名の机の方へ向かって椅子の背にピアノでも弾くように指を乗せた。
「お座りになられますか。」
「いや、」
川名は机に軽く身をあずけ振り返り部屋の中心にいる霧野と対峙した。霧野は、川名の向こう側に居る美里の方を見たが、やはり美里は霧野の方を見てはいない。霧野がその視線の先を振り返ると、全く何も無いわけではなかった。部屋のドアのすぐ横に見張りのように陣取って立っている間宮の方を見ているようにも見えた。
霧野の斜め後ろ、間宮と霧野の間、手の届く位置には、二条が立っていた。間宮は霧野が振り返ったのに気が付くと、完全になる無視を決め込んでいる美里と全く正反対に、泥土と血で汚れた顔で笑み、霧野をじっとりとした瞳で見始めた。霧野は前に向き直り、軽く俯いて、目を半分閉じて、何か考えようとするのだが、うまくまとまらない。川名の膝から下だけが見える。軽く、痙攣する感じがする。
また裁判が始まるのだ。霧野はそう思った。首筋に、汗がつたった。
実際の裁判を見に行ったことが、何度かある。被告人のすぐ後ろに刑務官が控え、目の前に裁判長が座っている。
被告から離れた左右には、弁護士と、裁判官。それから証人と、見物人が、被告人を前後に挟むのである。
自分で弁護する罪人。以前、贖罪のために自分で剥がしてみせた爪の生えかけた部分が痛み始めた。執行猶予中に過ちを繰り返した、弁解の余地なし、死刑。そう言われても、おかしくはない。ただ、こいつらは、俺がどのように、無様にのたうちまわるのかを、見たい、それだけなのだ。何故?ではなく、それ自体が理由、愉しみが理由、もういい加減わかってきた。
「引き出しの、一番上にある書類を出してくれ。」
川名の声が頭に響いた、心の奥で膿む憎しみ、同時に磨かれていく畏敬。弱気を見せても、つけいられるだけだ。霧野の視線は川名の太ももの辺りを見ていた。その内に、そこへ自分が乗せられて、折檻に尻を叩いて”いただいたた”記憶、その肉の間に頭を挟まれて尺八させて”いただいたり”した記憶が蘇り始めた。痛む頭と反対に、下腹部を中心に、全身が湿り気を帯びてきた。何、考えてる。溢れ出た唾を飲みこんでいる内、周囲の空気がしめっぽく、しんとし、四つの視線全てが自分を貫いているのを、頭と、そして体で、感じた。今頭を上げたら、あの軽薄な、白々しい顔も、こちらを向いている、と、思う。そう思うと。そう思うと。霧野は下唇をきゅとかみ、何か紛らわすように虹彩の鮮やかな瞳を揺らし続けていた。白い皮膚の内側から、官能の熱が、首筋から脇腹から、始まってきていた。霧野は二条のさっきの言葉を思い出しかけ、打ち消した。
美里は、川名のデスクから書類を出し、それを軽く眺めるつもりが、二三度と眺めている内、川名の命令を忘れかけたが、はっとして、川名の方へそれを渡し、それでようやく初めて俯いている霧野を見たのだった。
本当に来たよ、この馬鹿犬は。何で、逃げなかった。何故だ。他の手段だってお前なら考えられたろうし、とれただろ、何故一つのことに固執する、やれると思う、そういうところだ、彼らと真っ向勝負して、勝てるわけなんか絶対ないのに。何故……。
霧野は、息を弾ませ、戦いの後で全体的に薄汚れていたが、彼自身の内側から発せられる熱や、本来の気品ある雰囲気が、全てを帳消しにするどころか、余計に官能的に魅せるのである。霧野は、所在なさげに俯いて、薄っすら開いた唇から、はぁはぁと、息を漏らし、視線が定まらず、川名の下半身の辺りをとにかくうろうろしていた。
「……。」
ああ、驚いた。ああ、あはは、こいつは驚いたな。この状況で気持ちがいいんだ、こいつは。何から何まで最悪すぎるな。何に対して?もちろん、この俺に対してか?イヤ……マテ……。美里は、間宮の方をちらと見た。それから、霧野が、間宮と逃走した後しばらく間宮の隠れ家で蜜月を過ごしていたらしいことを二条から聞いたのを思い出す。口の中に、血の味が拡がり始めた。口の内側の肉を嚙み切ったのである。血がのどを潤し始める。零れないように口を固く結んだ。間宮は美里と目が合うと、含みのある意味深な笑い方をしたように美里には見えた。
途端、美里の中は冷たい外面と反対に内面はもう急に火のついたようになって、唸り声まで上げかけたのを、喉の奥で血に絡めさせるようにして、止め、霧野を見ながら、後ずさった。今、すぐ、衝動的に、射殺してやりたいとまで思った。大体、何故さっき、二条の間宮への蹂躙を途中で川名が止めるなんてことがあったのか、あのまま気絶するまでヤられてておかしくなかったのに。止めたのか?霧野が。何故だ、どうしてそんなことをするんだ……。
川名が、霧野の方へ書類を差し出した。霧野は反射的にそれを受け取って、ぼーっとした頭で、眺め始めた。
川名の声だけが、頭の中に入ってくる。
「下の方に、署名と捺印欄があるだろ。今からそこにお前の自身の印を刻むか、もしくは今からお前自身かお前の身内が直接刻まれるか、どっちがいい?特別に選ばせてやる。そういう機械をな、裏に、用意させてあるから……。好きな方を選んでいいぞ。俺の折檻中に逃げた奴に選択権を与えるなんて、こんなことってあんまり無いんだ。お前だから、特別に、お前の意思を尊重させてやろうと思うんだ。俺は、お前の気持ちを、まず、知りたいから。ただし、お前が選んでいいのは、俺と契約を結びたいかどうか、その一点だけだ、異論は認めない。何か一つでもお前のお得意の演説で異論を提案して来たら、その時点で刻むのではなく、刻まれる方を望んでいると判断するから。わかったな。」
川名はそう言ってテーブルに直接腰かけ、霧野の視界の端で、脚をぶらぶらと揺らし始めるのだった。
確かに、一番下の方に何か欄のような囲いがある。上に書かれた条項に合意した場合に、刻むのだ。署名を。
契約書の条項は以下のとおりである。
(一)霧野遥(以下、丙)は、時期を見て正規の手順で警官であることを辞、正式に川名組(以下、乙)に加入すること。
(二)丙は、乙の統括者及びその命を受けた者(以下、甲)に絶対服従、及び、身体の自由、その全てを預けること。
(三)契約の期限は無期とする。ただし、甲による契約内容の改定は、随時認めるものとする。
霧野は、急に笑いを抑えきれなくなって、部屋の中心で哄笑した。
「……。ふふ、なるほど、なんだよ、散々ビビらしといて、今と、さして変わらないじゃないですか。俺は死なない、まだ死にたくない。その謎の機械とやらを見たい気もするが、俺がそこに入るのはごめんだな。他の奴が入る時にでも見せてもらいたいね。」
霧野は、そう言って書面から顔を上げ、川名の方を見た。川名は霧野の挑発的な視線を受けても、軽く微笑んだくらいである。
「ああ、そう、そう思うか。じゃあ、つまり、お前は、俺と、その通り、契約を結ぶのだな。」
霧野は、ああ、と口を開き掛け、躊躇った。
もう一度書面を見る。正気じゃない、今おめおめサインしようとしていたが、こんな契約書は。
「……どうした?」
「あ、いや……」
「別にどうぞ、じっくり条項を読んで決めろよな。とても、大事なことだから。」
大事なこと、いや、いい、大丈夫だ。こんな契約書には法的拘束力も糞も無い。
ただ、……、鼓動が速くなってくる。やはり、お遊びだと思いたくても、抵抗があるのは確かなのだ。闇金の契約書にサインするより、もっとっずっと、タチの悪い。……。しかし、意思、つまり、進んで契約を結ぼうという意思をしっかり見せないと、殺す、もしくは第三者を殺す、と、言われているのだ。いい、ここは飲むしかないんだ、この遊びに乗るだけなんだから。
「……する、」
「その条件を飲んで、俺と契約するんだな。ハッキリ言って、さっきお前が笑い飛ばした通り、それは笑えるくらいに俺との奴隷契約なんだぜ。その覚悟が、お前の中に、ある、ということで良いんだな。」
川名は低い声で淡々と、しかし、極道の気迫をもって霧野にそう迫った。こう迫られると、黒でも白と、言ってしまいたくなる気持ちもわからないでもない。霧野はためらいがちに「そうだ。」と答えた。
「お前の意志はわかった、じゃあここで、その契約書へ署名と捺印をしてもらおうか。俺が良いというまで、その口を開くなよ。それは俺に対する異論になるからな。」
川名は懐から万年筆を取り出し、霧野の方へ、差し向けた。霧野が受取ろうと手を伸ばすと、ペンは真っ逆さまに床の絨毯の上へ落ち転がった。霧野は、転がっていくペンを目で追って、それから、川名の方を探り見た。
「ああ、ごめんごめん、俺としたことが、手が滑ったな。」と、言ったかと思うと今度は素早く霧野の手から契約書をひったくり、床の上に落としたのだった。契約書は川名のすぐ足もとに奇麗に、文字のある方を上に、落ちた。
「……。」
「……。そこで書け。貴様には机など不要だな。」
霧野は、つい開きかけた口を閉じた。しかし、結局、川名の言う通りに、床に膝をついて、万年筆をとってその紙の前に屈んだところで、「誠意が無い。お前には衣服など不要だろ。」と川名の檄が飛んできた。
「脱ぐんだよ……。わかるか。ほら、いつもみたくしてみろ。」
上から、ふってくる。これほどまでに優しい川名の声色を聞いたことが無かった。背中に悪寒と甘いものの両方が走って、脳が、ぐらぐらし、熱い。逆らおうという気、恐怖で多少、そがれるのだが、霧野の中には、書面がどうであれ、まだ屈したくない心もあり、しかし、下半身が、委縮しない、萎えてこないで、優しい声色のせいで、余計に頭と身体が、おかしくなってくるのだった。いつもみたくしろ、それは川名と一対一の時の御作法を、今、ここでやれということである。
「……。」
こいつ、と歯噛みしたが、打つ手が何もない。もたもたしていると、おそらくこれも異論ととられるか、契約書にサインを刻まない方を選択したとみなされて死ぬ。
霧野はなるべく無心無心と言い聞かせ、今目の前に居るのは川名一人だけ、一人だけ、と言い聞かせながら、川名の足もとに正座した体のまま衣服を脱ぎ払っていき、畳み、ついに再び何も身にまとっていない状態で彼の前に屈服するに至ったのだった。部屋の中の熱気が一段と濃くなり、自然と声が漏れていた。ぁ、と思って川名を見るが、これくらいの啼きは許されるらしい。人間の言葉では、無いから。自分のハァハァする息の音だけが、聞こえ、あとはずっと、この恥ずかしい姿を、視姦されている、と思う。
あ、熱い。
だらだらと汗が身体をつたった。そうだ、なにしてる、ペンはどこだ、と、動揺していてすぐ見つかるものも見つからない。ようやく、川名のすぐ足元に落ちている物を拾おうとするとそれが靴先で軽く蹴り飛ばされ、飛んでいった。振り返ってみれば、あらぬ方向に、部屋の入口横に立っていた間宮のブーツに当たって止まった。
「!!!……」
霧野は、真っ赤になって川名を仰ぎ見たが、川名は霧野の方など、ちっとも見ていなかった。言われなくても、そこまで這ってとってこい、というのが、わかる。霧野は視線をやはり絨毯の上に合わせたまま、火照る身体を引きずるようにして這って行った。誰も何も言わないが、皆が見ている中で、手を、のばしけ、指先が当たる寸前でその行為をやめた。
唐突に、影が覆いかぶさってくる。霧野が四つん這いのまま顔を上げると、間宮がヤンキー座りにしゃがみこんで、まるで捨てられた犬でも見つけたかのように、にこにこしながら、見降ろしてきていたのだ。そして横からゆっくり手が伸びてき、霧野が思わず警戒するのとは反対に、ゆっくりと指で髪をすくようにして霧野の頭を撫で始めたのだった。
「うんうん、えらいえらい、えらいわんちゃんだねぇ~、かわいいかわいい、」
「!!!?……」
霧野の内側からかぁっと身体が熱を帯び、マトモに間宮の方を見られなくなった。
川名の声が背後から飛んできた。
「悪いな、間宮、こっちに戻してくれよ。蹴っていいから。」
「ああ、は~い、わかりました。」
間宮は霧野を頭から手を離し「よいしょ」とゆっくり立ち上がったかと思うと、霧野のすぐ横に落ちていたペンを器用に蹴とばした。ペンは再び回転しながらふっ飛んでいき、今度はちょうどそれは偶然、美里の革靴にあたって止まった。霧野は首を垂れ視界を狭くして、羞恥を紛らわしながら、しかし、そう思う程、心がしめつけられた。霧野の肉体、のびのびして筋骨隆々とふっくらとした身体の上、全身奥から濡れ始めねっとりした皮膚、そこに躍る被虐の証跡、その動物の身体が、今度は美里の方へ向かっていく。
手でとっては駄目なんだ、そう思って美里の足もとに到着すると、美里は完全に自分の靴の下に川名の高級万年筆を踏んでいた。ゴリゴリと音がするのが霧野の頭の位置にだけは聞こえてくる。
借りにも組長の私物だぞ、そう思うのだが、今、この場で求められていることは、そういうことでは無い。今求められていること、それは、いかにこの霧野遥という人間以下の卑しい生物を追い詰めるのか。そういうこと、それが、全ての人間に、求められていることだ。
霧野は美里を上目遣い、ようやく、瞳と瞳が交差した。美里の猫目の中には同情の欠片は一切無く、眉を顰め、口の端が微かに震えながら吊りあがっていた。霧野にだけは、それが彼の笑顔であることが、わかった。霧野は見る程に、少しずつ心臓に直接触れられているような面妖な気分になり、しばらく動けなくなってしまったのだが、時間が経つと今度は、理性が立ち戻ってきた。謎の、理性にとっては不愉快なマゾ雄の気分より、真っ当な苛立ちがの感情が勝ち、どこかとろんとしていた霧野の瞳の中に、むっとした調子が出た。そして、再び首を垂れる。ゴリゴリ。ペンは足の下で弄ばれ続けている。ゴリゴリ。……。霧野の理性は、また、上昇する体温と反対に、下降していった。一瞬誤魔化した、マゾの気持ちが直ぐ顔を出す。
だんだんと、頭低く、地面に、無理やり屈服させられている、この身体の内側、欲望、あそこが、反応し始めていた。陰茎が、だんだんむずむずとして、目の前で靴の下で、まるで自分の股間がぐりぐりと踏みつけられているような妄想がフラッシュバックのように脳裏に瞬き、霧野は唸り声とも喘ぎ声ともとれない声を漏らしていた。そして、今、この男の前で芯から屈服してみたい、とコンマ一秒程、頭をよぎって、消えた。すっかり息が上がってきていた。外で上がってたより濡れた息が、せりあがってきて、さっきみたいには、全然とまらないで、喉が、震えた。自分の肉体なのに、いや、契約書にサインしたら、規律はもっと、きつくなる、この身体の全権利は、これから、人の物になるのだぞ、わかっているのか、そう考えると、また、恐怖、苛立つと同時に、身体が奥からどす黒い欲望で、疼き始め、霧野は、駄目だ駄目だと背中を丸めて、震え、耐えた。
美里は自分の足もとで喘ぎ喘ぎ大きな肉体を微かにくゆらし媚び求めている犬を、ひたすら見つめていた。頭を垂れて髪の隙間に見える首筋の皮膚の上に自分のつけた首輪の痕がまだうっすらとあるのを見ると、心臓が高鳴った。そして、さっき自分が射殺したいと思った気持ちも、忘れた。それから、ここがどこなのか、自分達がどこにいるのかということも、忘れ、一度この事務所に連れ戻されて、すっかり殺して諦めたはずの気持ち。また、どこでもいいから、どこまでも行けるとこまで行ってみたい、という気持ちが、ふつふつ、蘇り始めた。
霧野は、美里の足もとに蹲って、考える。美里からペンを返してもらうが、今自分が求められていること。返してもらうこと。霧野は、美里の足もとにさらに一歩、歩をすすめ、ぽふ、と、頭が、美里の足もとにあたり、そのまま、頭を下げて、視界一杯が茶色の皮革になって、暗くなる。
「………。」
霧野は、数度頭を近づけ上げを繰り返した後、観念したように、彼の靴の先に舌をつけた。その時、霧野の膨らみかけてきた雄は、完全に勃起、そりかえり、霧野の羞恥して怒っていた理性を、上から瞬時極彩に塗りつぶす、そんな官能。同時にそれから、ゆっくりと、じわじわと、毒のまわるような官能もある、舐めていると、水の中に一滴の朱をおとし、みるみる広がっていくように、精神の官能の渦が拡がって、脳の奥から、溢れた汁が涙になり、こぼれはしないが、赤らんだ瞳の淵に溜まった。情欲が、下腹部をぐるぐるうずまき、尻尾代わりに、濡れた淫塔が、そそり勃ち、熱く硬く、腹につかんばかりになる。頭から理性が消えた時、淫棒の奥にとどまった子種をとにかくまき散らしたく、一瞬このまま、立ち上がり、目の前のこの人間を、押し倒してぶち込んで出す、という考えが浮かび、すぐに立ち消えた。ふんわりと盛り上がった双肉の隙間で、欲望の裂目が小さく開き、きゅぅと締まって、入口をぶるぶると震えさせていた。頭を垂れている体勢によって、自然と尻が上がって、川名、二条、間宮のいる位置、からは、その者の股間の欲望の、変化を遂げていく様、そして、濡孔の変化の様相が良く見えるのだった。
美里は、自分のペニスを直接誰かに触られている時、触らせている時、舐められている時よりも、ずっと、今のように、神経の通っていないはずの場所を、この生物に、舐められている方が、気持ちが、良いことを、それから、とても、安心することを、わかった。
それで、何故かそのまま自然と川名の方を見てしまう、川名は、嬉しそうにしていた。その時美里は、先ほど、行けるところまで行こう、と思ったのと同じ位、このままここでこうしているのが自分達にとって一番幸福なことなんじゃないだろうか、とも、思ったのだった。
どのくらいの時間がたっただろう。今の霧野にはもう時間と言う概念が無かった。足がどけられ、川名に投げられ追っかけてきた棒を、返された。……、逡巡の後、霧野はそれを器用に口に咥えて、川名の足もとに戻った。移動の間も、ぶらんぶらんと、皆の監視の中、霧野の、期待を膨らましたような、腫れあがった雄が紅くなって揺れ、歩く度皮膚が色づき、皮膚の上に白彫りの刺青の花が浮き上がり、刺青の花束の中で、際立って紅紅と咲き始めるのだった。
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