堕ちる犬

四ノ瀬 了

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続けてろよ、俺がいいというか、もしくは、終わるまで。

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 真っ白い、そして粘茶性の高い、ゼラチンのような塊の混じった精液が、漆黒の警察手帳の上に、飛び散っていた。もつれ合いながら一発射精してしまってからというもの、霧野の中でまた、一つ何か箍のようなものが外れる音がしたのだった。今、何もかもどうでもいいという気にさえ、なってくる。濡れている身体が自らの分泌液で濡れたのか間宮のものなのかそれとも別の誰かのものかもわからない、感じる視線のどこかから飛んできた飛沫、フラッシュ、眼球ではない、機械の視線、どれかもわからない。回される、回される動画、手を付いてるこの床もぬるぬるとしてきて契約書が床に、張り付いている。ゴミの様。そう、ゴミなんだ、あれも、今の自分も、ゴミだな。稀に見ぬほどのゴミ。ゴミだって、はっきり、明言して殴って欲しいよな。すっきりするもんな。想像すると身体が内奥から滾ってくるのも腹立たしいが、それは他者を打擲、成敗する時たまに起こる下腹部の震えるような滾りと似ていた。

 垂れた頭、丸く猫のように曲線を描いた背骨、身体の中、肉に、また背後から貫通されると、頭の中が揺れるのだ。背後から突かれた衝撃で大きく揺れ、揺れる度、また、瞼、閉じたり開いたりしている瞼の中、眼球の焦点が定まらないで、息が漏れる。

 何を見ているのか、見ていないのか、見たくないのか、わからないまま、じくじくと身体が内側から湿って、出る。出される。そうして獣じみた気分で、がぅがぅと、ただ、床の辺りを這いまわっているだけ。誰も見たくない、見る資格が無い。汚れた警察手帳の中の刺々しい視線だけが今、気になった。咎められて、いる、ようで。見るたびに胸の奥に何かつっかえたようになって、呼吸が乱れた。息がつまる、と、頭の中がふわふわして、感じたくない突かれる快感が、肥大する。苦しい呻き声、それが自分以外の人間を悦ばせる。ただ過去の自分だけが精悍な顔つきをしているのが滑稽で恥ずかしく、どうにかしたいのだが、許されず、酷くされ、できない。また目を閉じる。

 細胞の一個一個の連なりが震え、ずれ、乱れた。存在が根底から揺るがされるような、ふわぁぁぁぁ、とした感覚を覚えかける。そうするとあまりにも硬く太すぎる男根が自分の身体を背後から裂いて来、衝撃をものともせず、がっつり受け止めてしまう、自分の身体が、こんなにも柔らかいことに驚かされる。そして、意識が散り散りになって、霞みぼやけ、時間の感覚も、無い。上腕にミツバチにでも刺されたような甘い痛みがあってから、脈拍がより、大きく乱れ始め、時間が引き延ばされたようになって、快感も引き延ばされ、全てが、ぼんやりとしながらも身体の中を突き抜ける暴力的な快感をもう、もう、とどめられない、正しく、自分も上下に身体を動かして貪るのが、止まらない。床が天井がぐるぐると回っている。誰かが何か喋ってる、獣が遠くで啼いている。それは俺だった。時々意識が明晰になったと思うと、自分のあられもない姿を自分の意識が上から見ているのだった。そんな最悪の景色。自分の身体が部屋の中心から浮き上がって、分裂し、俺が、男の群れの中で、信じられないほど、よがっているのが見える、いや、よがり、狂っていて、あんなの、人間じゃない、嫌だ、嫌だ、こんなの、おかしい、なんでこうなった、こんなはずじゃ、どこで間違え、あ、そんな醜態を晒すな、死ね、死んでくれ、頼むから、はやく、と思う程に、意識だけになったはずの俺の内側が、熱く、発汗した。身体の中に放火でもされたかというほど、燃える。上昇する炎の帯。そこに飛び行って死ぬ、蛾の群れ。しかし、蛾になって、今、視界のはるか下の方に見えている炎の中に飛び込んだって、俺は死なない。寧ろ焼かれながら死ねずに生を感じて精液をほとばしらせるだけということ。

 一年ほど前、深夜に、近畿地方で、大火災が起きた。原因は、事故でなく、放火らしかった。田舎の為消防車が来るのが遅れたこと、風が強い日であったことが、その村を全焼、完全消失させることになった。その時、俺は家に居て、仕事をしていたが、気が付くと仕事をしていた手を止めて、眠らないためだけに付けていたテレビに見入っていた。マグカップを片手に身体ごとテレビの方に椅子を向け足を組み、リアルタイムで流れる中継のニュース映像を見ていた。村一帯が、燃えていた。僻地の村、誰も目にとめないような過疎な村だというのに、燃えるとそれが一変し、夜の魔性の、クラブの様である。夜闇の中、このつまらない世界に、地獄が顕現したかのようだった。業火に飲まれる町を見て、ほくそ笑んでいたのを、無意識にテレビを切っていた後の、黒い画面に映った自分の顔を見て気が付いた。深夜だったこともあり連日、馬鹿ヤクザ仕事と阿保警察仕事を続けて三日ほどほぼ寝ていなかったためストレスが極致まで滾っていた、そのせいさ、それで、疲れていたからか、無性に、勃起、していた。笑えた。疲れていても、俺の俺は、元気だな。マグカップを置き、さっきまで仕事をしていたパソコンに向き直り、ブラウザからサイト巡りをしながら、抜きたかった。立って秘蔵の、もう発売禁止になったAVをとりに行くのも億劫で今すぐ出したい。とにかく、てっとりばやく、抜きたい、なるべく、酷い、奴が、イイ。女が無性に、女に近い男でも別にどっちでもいいが、とにかく不条理に嬲られている動画を、リンクをリンクを、いくら飛んでも、飛んでも、より酷いものを見れば見る程、滾る、が、射精に至らず、喘ぎ喘ぎ、ギリギリ歯噛みしながら、必死こいて自分のはちきれそうな陰茎をしごき続ける馬鹿らしさ、ビョーキだよ、ビョーキ。笑えた。動物の方が、マシじゃない?獣。

 視界の端に、沈黙して暗くなったテレビが魅惑的にちらついていた。でも、今テレビをもう一度つけるのは、非常にまずい……。インターネット、ダークウェブ。人死の多い災害の映像を探した。射精。邪悪な映像が蘇る。そして脳内で、自分が火災現場に赴き、人救いをする。救わなければ、いけない、人を。自分のこの邪悪さに見合うだけ、人を、救わなければ、いけない、救うべきを救い、懲らしめるべきを懲らしめなければいけない、徹底的に、この世の犯罪者を、だって、その権利が、俺の手の中にはあるのだから。正義。駄目だ。気が付くと再び女の集団リンチ暴行される映像を見ていた、勃つ。出す。そして頭の中に出てくる、本物の……。本物。それを見る権利が、俺にはあった。それは最悪な権利だ。しかし、職業特権の1つだ。別に、レイプ事件の捜査なんか毛頭したくはないし、吐気がし、露ほどの興味も無いし、捜査権を与えられてもいないから、見る必要なんか無いし、多分、駄目、駄目なんだが別に、怒られもしない、そういうグレーなこと、そういうことを、つい、やって、見てしまった。本物を。別に自分で婦女暴行をしたいと思ったことはもちろん無い。無いと思う。

 そして今、明らかに”理不尽に暴行されている自分”の体内にある全てが、居並ぶ犯罪者達に体内に散々放火され、大炎上、燃えていた。火災はまだまだ鎮火しそうにないのだった。いくら精を吐き出して、もう出ない、苦しい、わずかな理性の残る頭で思っても、次第に精が、白から透明な汁に成り代わり勃起していようがいまいが垂れ流しでほとばしり、身体の中を後ろから男根の太い部分で勢い圧し潰されると、もう熱いってのに冷凍室にぶちこまれているかのようにガクガク震えがとまらない、漏らした?わからない、何が出てるのかさえ、もう。身体がイキッぱなしのようになってしまう。しまいます。と、川名に目で探りを入れてやりたかったが、今やどこに誰が居るのかもう把握できない。どこ?視界が滲んでいる。泣いてるのか?ただただ、最悪だ。ただ、間宮の身体が、同じように獣のようにいなないて、負けず劣らずしている。たくさんの人間の靴がいつの間にか囲んでいたような気がした。息を吸っても吸っても酸素が足りないんだ、呼吸1つするのだけで、全身が痺れて声が漏れるんだから。それが嫌で仕方ないのに、意識が身体が、また、とろけはじめていく。己の精液で穢れされた警察官の姿をした第三者的に見れば美しいと評価されそうな顔をした生意気そうな数年前の自分と目があうと、また首を絞められたようになって、理性を飛ばし、どこまでも沈んでいけた。懲らしめられている、自分自身の底へと。



 美里が一人、その部屋を抜け出したのを、誰も咎めなかった。廊下は涼しく、寧ろ寒い程だった。部屋の中が、男達の熱気で暑く、蒸しすぎていた。人気の無い冷えた階段をゆっくり降りていく、身体の力を抜いて、すとんすとんと、堕とす様に。背中に一筋汗が、指で誰かになぞられているように流れた。ふ、と、息をついた。鳥肌だっていた皮膚が、だんだんとクールダウンし、滑らかに戻っていく。下へ、下へ、階段を降りていく、カツンカツンと無駄に音が響く。その先の闇はさらに静かで、さっきまでの喧騒は嘘のよう、裏山から蟲の鳴く声が聞こえた。建物から出ると、そこに知った顔が一つだけある。美里はそれに声をかけた。

「送っていってやる。」

 唯一存在する人影に声をかけ、車を回した。自家用車では無く、組で余分に持っている社用車と似たようなものである。助手席を開けて待っていると、矢吹が乗り込んできたので、美里は黙ったまま車を出した。彼に対して何も言うことは無い、と、思っていたのだが、いざ本人を目の前に、つい「二度と来るな。」と言ってしまってから、どうでもいいことだ、言わなければよかった、死にたければ勝手に死ねばいいんだ、くそ、と後悔した。

「俺は駄目なのに、美里君はいいんだ。案外いい人も多かったけど。」
 美里は、あははは、と笑って見せたが、顔がついてこなかった。
「いい人?珍しいから面白がられてただけだろ。馬鹿。」と、つい返事してから何故無視しないんだ、と思った、が、止まらなかった。他の車の影さえない道を走っていく。
「いい人なんか、一人も、いない。というか、”良い人”って、一体なんだ?人間ごときに、良いとか悪いとか、あるかよ?人間が人間である以上、全部が悪。もちろん、お前のことも含めて言っているんだ。俺が、もし、心を許していいとしたらね、それは人間じゃないものだ。それには人間の善悪を、あてはめなくたって、成り立つから。」
 矢吹は少し間をおいてから、微笑んだ。
「ああ、ふーん、……なるほどね、だからあんなに酷いことが出来る、俺に対して。」
 今度は美里が少し黙る番だった。相手にしてはいけない、そう思いつつ、好奇心が美里を擽るのだった。
「……、何だって?どういう、意味だよ。」
「だって、そういうことだろ。俺を対等な人間と思うと、お前は俺に対して、常にどこか気持ち悪い疑念を抱きながら、距離をとってしかつきあえないわけだ、だって、人間が全て悪という認識ならそう言うことになる。だからお前は、俺を人として扱わないようになってから、急に元気になり始めたな。俺の話を一切聞かなくなった上に、否定しかしなくなり、俺が嫌と言うことを進んで実行しはじめた。お前は明らかに生き生きとし始めた訳で、ああ、こっちがお前の本当なのかなと思うこともあったよ。でも、お前の思想がそういうことなら、仕方がないことで」

 今……すぐ……に、爆速で走らせているこの車をハンドル切って適当な電柱や外壁にでもぶつけて破壊してやりたい衝動に駆られた。それでもし俺が死んだら死んだで何だっていうんだろう。川名が車の修理費を嘆くくらいだろうな。あとは似鳥が多少悲しむくらいか、俺の”肉体”が焼失したせいで。でも、俺の”肉体”がどれだけぐっちゃぐちゃになってようが、引き取りたがるだろうなあの変態ジジイは。俺だった肉塊と俺の映像を見比べながらファックするくらい悦んでやるだろうからな。やっぱりかなりどうでもいいな。できるだけ潰れるように死ぬくらいが関の山。いやハンバーグぐらいになった方があの変態は滾るか?だったら、もうどうやって死のうがとどのつまり関係ないよな。運転が荒くなると、矢吹は「ほら、的を射ている」と小さくせせら笑うのだった。

「……。」

 殺す、殺そう、殺したっていい、と表面的に思ってみる、たぶんできる。簡単だ。しかし、それをやってしまうと矢吹のこの糞説法に真実性をもたせることになるから、できない。黙っていた。オシの様に。そして丁寧に丁寧に運転することを心掛けた。もう、矢吹は話しかけてこない。いや、話しているかもしれないが、聞こえないようになったのだ。脳が防衛する。鼓膜を揺らす音を言語と認識しない、何を言われようが、何されようが、自分に関係ない。

 車はいつの間にか繁華街の路肩に停車していた。美里は降りろとも何とも言わず、うつろに下の方を向いたまま黙っており、汗がだらだらと尋常じゃない量ながれている。矢吹は「大丈夫か?」と声をかけた。反応が無い。聞いてない。さっきから会話の手ごたえがなくなったと思ったが、聞いてないんだ。聞くことを止めている。

 矢吹が美里の手首をとると、とたんに彼はハッとして勢いよく腕を払い、その勢いで矢吹の横っ面を叩いた。
 矢吹は頬を抑えながら、美里を上目づかってじっと見据えていた。美里が先に自分の手をさすりながら口を開いた。

「何だよお前、気持ち、悪ぃんだよ、はやく降りろ……カス……3秒以内だ。二度とお前の顔なんか、見たくないんだよ、こっちは。」
「……お前、大丈夫か?」
「……。は。何。」
「この後、またあそこへ戻るんだろ。中で一体何しているのか知らないが、お前、あそこに居たくないから、嫌いな俺になんか、気を回してくれたわけだろ、それって相当なことだぜ。お前はあそこにいることと、嫌いな俺を天秤にかけて、俺の方をとったわけなんだからな、……、こうやって続けると、またお前はきっと俺の話を聞くのをよすだろうから、もう喋るのはよすよ。はっきり言って、俺だって疲れた。わかる?俺も疲れてんだよ!!!……。でも、送ってくれたことは、ありがとう。助かったよ、立つのもやっとだったからどうしようと思ってたところだ。ただ、今思い出したけど、どうやら俺、お前の事務所に財布やらなにやら入れた鞄を置いたままなんだよ。気が向いたら届けてくれよ、気が向かなかったら、別にいい。クレカと免許の再発行が面倒くさいくらいだ。悪用するのはよしてくれよ。まぁ、お前みたいな人間に言うのもどうかと思うけど。」

 矢吹が美里に背を向け、車から降りようとしたとき、矢吹は耳に微かに何か聞いた。気のせい、微かに開きかけた扉の外から聞こえる雑踏の1つ、そう思って振り返らず外に出ることもできる。

 しかし、矢吹は振り向いた。しかも、微かに顔を美里の顔では無く、首から下に向けることにした。それは、矢吹の無意識、咄嗟の、人間性による判断と配慮だった。今彼を真正面から顔を見たら、同じことを繰り返すだろうとわかるのだ。数秒の間の後、エンジンが止まる音、キーの抜かれる音がして、顔を上げると運転席にいた美里が、外へ、路に降りるところだった。扉の閉じる大きな音。矢吹も、付き合うように車を降りた。

 美里が路地の雑踏、闇に紛れようとするのを人混みをかき分けるようにして追いついた。美里はしばらく黙って歩いていたが「演劇部?」と唐突に、前を向いたまま独り言のように言った。人混みの中でも彼の声ははっきり聴こえる。それでも質問の意図が分からず「は?」と聞き返した。

 矢吹は聞き返してから、睨まれ怒られるかと思ったが、美里は表情を変えることなく前を向いたまま歩き続け、矢吹を咎めることも無く「矢吹君、君は、学生時代の部活も演劇部だった?それは、君にとって面白いことだった?」と棒読みで、興味も無いけど、一応話をしているという感じで聞いてくるのだった。

「いや、バスケをやってた、別に好きじゃないけど、惰性で。何かしら入らないといけない雰囲気ってあるだろ。学校の演劇部はなんだかお遊びみたいでその時はさほど興味が無かったんだよ。俺が興味があるのは、本物だけ。」
「じゃ、運動神経は悪くないんだな。」
「さぁ、どうかな。」
 二人の目の前に繁華街には似つかわしくない緑色の建造物が見えてきていた。矢吹は美里が店へ行くのかと最初は思っていたが、そこへ向かっていることを察した。繁華街の中に唐突に洗われるバッティングセンター。矢吹も知っていたが、利用したことが無かった。
「少し、遊んでから帰るかな。」
 美里は子どものようにそう言って、付き合ってくれとは言わなかった、いや、言えないのだろうとわかったから、そのままついていった。まさか北野武映画のようなことにはならないだろうと思いながら。美里は矢吹を振り見た。煌びやかな毒々しいネオンの中で、彼の仄暗い虚無の瞳が悪目立ちする。何を考えているかわからないが、口元だけが小悪魔的に小さく笑っているのがわかった。それを見ていると、感情がどうしてか乱れた。乱れて、何か言おうとしたのを忘れたところに、美里の声が響くのだった。
「実は、俺も途中まではやってたんだよね、スポーツ。野球とかね。意外?でも、あの時はふつうに好きでさ。でも、結局自分の運動神経が良いか悪いかは、よくわからないままだったけどね。わかる前に、やめたから。」
「……。」
 券売機で券を買って、緑色の開けた空間の中へ入っていく。繁華街はどこも人でごったがえしていたが、バッティングセンターの中は、閑散としていた。かきーんかきーんと音が適度に鳴り響くだけで、遠くに数人の酔客が打って遊んでいる位だった。喧騒が遠い。そうして、矢吹は美里のやるのを真似ながらやっている内、多少は当たるようになる。ふと視線を感じて、バッドを構えたまま横を見ると、美里がバッドの頭を地面につき、そこへ体重を軽く預けるようにしながら矢吹を見ていたのだった。

「やっぱり悪くないよ、運動神経、だって打てない奴は一発も打てなかったりするんだから。」

 急に、気恥ずかしくなって、美里の方を見ているのが、無理になった。球が飛んできてくれて、助かる。打てた。

「矢吹君、どうして俺が野球を止めたのか、わかる?」

 矢吹は打ちながら考えた。純粋な答えでは無く、今の彼に必要な最適解を考えた。そして結局、沈黙してしまった。矢吹は、思い出したくなくても思い出してしまう美里の若い映像を見ている。あの時点の年齢から逆算したとして、それが原因で止めざる得なかったのではないかという結論も出せるが、口に出したくないのだ。美里が再び、話し始めた。

「気遣ってくれるんだ。でも別に今お前が考えているような理由が全てではないんだ。少しはある。でもそのせいでやめたなんて絶対考えたくないから、考えたよ、考えた、考えた、金銭的な理由、時間的な理由、俺の社会性の欠如とかとか、いろいろ後付けで理由をつけてみた。それで野球なんて言う男臭くてむさくるしい気持ち悪い競技なんか嫌い、という結論をひねり出すと、腑に落ちて、途端、そういう気分になってくる、それで諦めた。諦めがついたよ。その程度の物なんだな。」
「……。」
「でもさ、その時の俺が思っていたより、人間って最悪なんだ。俺が居なくなった理由を探ろうとする物好きが出てくるだろ、そうすると、どういうことになると思う。おいおい……そんな顔、するな。別にお前は何も悪くないだろ。ふふふ……。今、俺とお前と、どちらが悪いのかと言えば俺が悪いよね。俺は自分がお前を不愉快するとわかっていて、こんなどうでもいいお話をしてるんだからね。社会性が無いだろ俺。ほら、また球が来る。打てよ。俺は独り言を言ってるだけなんだから。打てってば。そう、それでいいよ。続けてろよ、俺がいいというか、もしくは、終わるまで。ああ、なんか今の台詞はお前とヤッた時にも言ったような気がするよな、まぁいいよ、……で、それでもっと本当に今度は心底、野球が嫌いになったね。CMでちょっと野球選手が出てくるだけでも無理なんだもん。テレビさえ見なくなった。でも今になってはもうどうでもいいし、こうやって遊ぶことも全然平気なんだ。…………。全員探し出したから。だからいい人なんだ。”俺にとってだけは”いい人なんだよ。川名さんは俺の会った人間の中では一番最悪だから、自分以下の最悪に対して最悪に振舞えるんだよ。だから俺はあそこにいるんだ。居たいんだ。居たいから、居る、そう、それで心が満ちるから、その感覚が、お前に、わかるかな、わからないだろうな。」

 チケット分打ち終わってから、矢吹は「お前にとっても、全然、いい人なんかじゃないだろ、アイツ。わかってるくせによ、カス。」とだけ、殴られることを覚悟で言った。息を切らしながら。しかし、美里は反撃して来ない。

 美里は何も答えなかった。そして一瞬考えた。このまま二度と帰らない選択を。しかし直ぐに思う。それには、意味が無いと。選択することができない虚無の選択だと。川名の元に残るのも地獄であり、霧野と共に逃げるのも地獄である。どっちの地獄を選ぶのかというだけだ。知ってた。川名も、霧野も、全然いい人じゃないなんてことは。言われなくても。美里は、矢吹の足元を見る。奇麗な革靴。

「お前は多分、”良い奴”なんだよ。だから駄目なんだ。俺と一緒じゃ。」
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