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俺を、知らないだって?そんなはずはないね。知っているはずだ、俺が何者で、何をして、今に至ったか。
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一人の人間の性欲の程度と性質とは、その精神の最高の頂にまで及ぶ。
◆
学名”Harpagophytum procumbens”
この植物の果実は、鉤爪、棘が、動物の毛や蹄に絡み付き、それによって広く散布され、自生範囲を広げる。ライオンの口にこの果実が絡み付くと、痛さのあまり餌をとれず餓死したことから「ライオンゴロシ」という名がつけられたと言われる。
◆
大量の人外の精子が複数回に渡って肉体の中に解き放たれた。霧野の頸部に馴染んだ首輪から、チェーンがたわみながら、辿っていくとノアの首元のリングと繋がって、ペアになっている。川名が言った。
「貴様は孕めもしないからな、ノアの練習相手にちょうどいいんだ。ああ!畳がお前ら二頭の染みだらけじゃないか。あらかじめペットシーツを敷いておくのだったな。」
川名は足元に向かって語り掛けた後、今度はゆっくりと背後に立つ、二人の方へ視線を向け、軽く腕を拡げた。
「というわけで、この通り。」
そこには徹と忍が立っているのだった。忍は不愉快げに眉を顰め、徹は一拍子置いてからほんのささやか、笑うのだった。
「なるほど、犬同士番わせたわけか。面白い。国家凌辱罪だ。はは。」
取り急ぎ、隠居の方の気分はとれたわけだ。
「話しが早いですね。多少は面白い余興でしょう。ただ、あまりに獣臭いから、今こうして私の家、何もない場所でお見せしてさしあげているだけ。必要ならどこへでも連れて行きますし、別に、何でも、どんなことでも、させますよ。」
川名は忍を見た。やや、及び腰。一方の徹はといえば、家に来る前と目の色が少しも変わっていないかった。
「どんなことでも?」
徹のしわがれ声に対して川名は即答する「ええ、その通り。」と。「飽き飽きでしょう。特に、老人ほど普通の娯楽では満足しない。もう、通常のセックスではたいして満足できない。私は今までそういう大人を腐る程、観てきました。そして時々、有りものを使って、彼ら彼女らを、満足させることもある。接待です。……しかし、阿保らしい、揃いも揃って愚かだと思いました。醜く腐った人間がこんなにも沢山いるのだとね。良い金づるです。持てば持つほど腐るのか、生まれながらに腐っているのか、考えたくもありませんがね。近々また、パーティーでも開こうかと思いますよ。いかれてるほどに、多く、金が集まるから。」
川名はそもそも老齢の徹の男性的機能が正常に稼働するかどうか疑問だと思った。しかし、男にとって、若牝との肉体的なとの結合、それだけが下腹部をそして脳幹を興奮させるわけでは全然ない。特に元の身体能力が終わった人間で、あらゆるのもを持っている人間、それらは暇つぶしに異常な性癖を発露させていく、その過程もよく見て来た。川名が徹の嗜好について考えている横から、忍が顔を出した。彼はまだ現役、性欲旺盛だ。しかし、もう、美食は喰いつくした頃合いかもしれない。忍は川名に対する嫌悪の感情を隠しもせず言った。
「そういうお前はどうなんだ。大体この露悪趣味の発案者だってお前じゃないか。」
忍の軽蔑の眼差しから目を背け、自分の足元を這いづりまわっている大きな獣を見た。心が一瞬違う空間に飛んだかのような清々した、目の前の些末事など全部どうでもいいような気分になるのだった。
それは、その実、安心に近い感情であるのだが、川名自身が明言化できない。知らない感情。安心程つまらないものは、ないはずだから。しかし、それはほんの一瞬で、今は再び現実の問題、川名は忍の方へ目を向けた。
「はぁ。一体何をおっしゃっるのかと思えば」と彼の威圧的な瞳を、川名は別の軽蔑の色を持って仰ぎ見た。その時頭の端を、屋敷での血の事件が擽った。
「一体、貴方に、俺に対して、そんな眼を向ける資格があるんですかね。まさか忘れたわけでもないでしょう。若気の至りだなんてこと今更言いませんよね。ヤクザ稼業に二言無し、でしょ。ヤクザ式の折檻を、いの一番に俺に教えてくれたのは、汐様というより、アンタなんだからサ。ね。そうでしょ。忍さん。自分だけ特別って訳にはいかないでしょうよ。ねぇ。」
忍に微笑みかけた途端、向こうから先に一瞬居心地悪そうに目を逸らすのだった。しかし、また視線が戻ってくる。軽蔑と嫌悪、それから、若干の動揺を伺い知れる。
「……、……。」
漠然と、殺意とは違う、それほど前向きでは無いが、この男を追い詰めていく楽しさをまだ感じたいと思った。しかし、こんな二流、小物は、今は別に、どうでもいい。今すぐどうこうしたいと思えない。今こうして彼らをこの場に導いてきたのも、どちらかと言えば、彼らの為ではなく……。川名は自分の思考の流れを食い止めるように、忍を注視、終始挑発の笑みを浮かべるのだった。
「ところで、どうしてさっきから俺を、化物でも見るような目で見るんです、忍さん。屋敷でのことだって、仕方がないということになった、こちらとて、未来ある若者に手などかけたくなかった。あれは、正当防衛ですよね。」
そうすると、思った通り、逆上して手が伸びてくる。胸倉をつかまれると頭一つ分向こうの方が大きいのだった。
「お前に心なんか……、始めから無いだろう……。」
思わず声を出して笑っていた。失礼しましたと取り繕うが、手を離した忍の口の端が苛立ちで震えている。
殴ったらいいのに、それさえもできないで。
徹の前でそれじゃあ、見限られてもしかたないな。
川名は襟元を整えながら、忍の方を見ていた。
「心があるから、こうしてお二人に、こうしてこの男の現況をお見せして、喜ばせ差し上げようとしているのです。」
呻き声。その凹凸美しい肉の滑らかな皮膚から噴き続ける、汗。眼光。川名が見ると、下を向いていた視線が、昇って来る。いい、もっと、昇ってこい。もっと。上がってこい。ここまで。来い。頭がもたげると同時にノアが激しく自分が組み敷いた練習台を責め、丁度瞳同士が一瞬交錯したと同時にまた、余程顔を見せたくなかったか、隠すように首を垂れ、くぐもった声を出した。
どうやら、濡れた肉の奥深くを、正真正銘獣の棘が、心地よく、えぐったらしかた。甘やかな声が音楽のように聞こえる。犯されている、それも人間ではない、正真正銘、獣に犯されているというのに。川名はしばらく、自分の肉体を使用して霧野を犯すことをしていなかった。霧野の節ばった、爪の剥げて血のにじんでも、不思議と余計に彩られたかのように美しく見える指は、どんなネイルよりもずっといいと思った。指が、残った爪が、畳をささくれ立たせて、もう何本もできた傷が更に深く抉れていた。突き上げられるたび、悶え堪えて、じゃらじゃらと、鉄のこすれる音がする。時々チェーン同士のたわみが無くなってピンとはりながら、ノアが下の獣の上を大きく覆いかぶさって責めはじめると、その勢いは、ほとばしり、止まらない。堪えきれない悲鳴、喜悦の声を、川名と徹は聞いていた。いつまでも、そうして居てもいいと思った。また、指が地面を掻く。もしそこが皮膚だったなら、抱く者の背中に、強烈な爪痕を、つけたであろう。幾筋も、幾筋も。情事の後に身につけたシャツに、血もにじむ程。だから、配下の組員の、その背中を見れば、わかるかもしれなかった。どれほどその人間が、どれほど霧野と正面で交接し、感じさせたかのか、耐えたのか、その度合いが。あからさまに喘がなくとも、証拠が、こんなにありありと。ガリ、ガリ、とまた、引っ掻く音がする。井草の下の茶色の下地まで見えそうなほどだ。畳に爪痕をつけたその分、後でまた、清算させなければ、躾けてやらないといけない。
川名は、他の二人の視界の外で、自分の足先を霧野の指先に軽くあてがった。そして、畳についた引っ掻き傷、抉り傷を、なぞり、自らの足の指でそこを削るように目の前で軽く動かして、見せた。その時、霧野の身体が一瞬ビクンと跳ねたのが、ノアの太い獣棘による反応では無いことが、川名だけが分かった。さっきまで無遠慮の動物さながら突き立てられていた爪が、指先がゆっくり、その武骨な手と対称的に、柔らかく、開いていった。爪でなく、指の腹で、いじらしく、畳の上を優しくふんばるようになった。
珍しく気持ちが和いでいた。言葉などいらない。これは、動物なのだから、使ってやる必要も無い。すぐにこちらの意図を理解でき行動できたことは素晴らしい。川名は足先でその指を軽く踏んで、撫でてやった。横に立っている二人には決して聞こえない声が、川名と霧野の間にだけは、よく聞こえていた。悦んでいる。そして、その悦びを未だ半分、肯定しきれてない。でも、別にいいんだ。まだまだ、時間はたくさんあるから。これだけ苛んでも失神もしない、壊れない、時間を飛ばすこともできない。だから、こいつとの時間はまだ、沢山、ある。作れる。二条も言っていたっけ、結局、丈夫なのがいいという至極、シンプルな結論を。そう、最低限を耐え切れなければ、意味がない、我々はいつも、やりすぎてしまうから。指と指の秘密の触れ合いを愉しんでいる間中、獣同士の秘所同士が粘着質にこすれ合う音とノアの涎交じりの興奮の吐息が激しく部屋に鳴り響いていた。関係のない、ギャラリー二人は今、そちらに気をとられ、下の階層で行われている、一人と一匹の、指の情事を知らない。
「もう数時間は続く。飽きるまで見て言ってやってくださいよ。その為に、頑張ってるんですからね。」
川名は笑いを添えながら言ったが、徹が一喝するように言った。
「それは嘘だな。」
川名は一瞬、徹が何か勘付いたかと思ったが、彼は川名の首から上しか見ていない。いつもの調子で彼は言う。
「俺はもう満足したよ、少し、外で話すか。忍、お前はもう少しそこに居ろ。出る。」
徹が先に部屋を出ていく形になり、川名が徹の背を見ながら脚を引きかけたその時、その下に敷いていた爪が、ほんの一瞬の隙をついて、川名の足裏を茨の棘のように、ちくりと刺したのだった。川名は反射的に下げかけた頭を止め、何食わぬ顔をつくろったまま、徹の後を追った。
「……。……。」
後ろ手に扉を閉める。闇の匂いが横溢している。……あの、ビッチが。歩く度、刺さったままの、透明な棘が、チクチクと足裏を苛むような気がするのだった。それは川名を、さっきまでと対称にやや不愉快な気分にさせた。そして、不愉快な気分になっている自分さえ不愉快。という無限が発生する。……という不愉快を感じている自分が不愉快、……不愉快、……不愉快、歩く程、暗い程、感覚が、研ぎ澄まされてくる。増幅される気持ち。棘の存在がまるでこの誰にも征服されないはずの肉体に根を張ったようになって、熱を持って脈動している。
この家は、なるべく自然と調和、電気に頼りすぎず自然光だけでも生活できるように、設計されている。今日は特に、月明かりも乏しいようで闇が濃い。闇が濃いと、自分の姿形が、そこに溶けて、うまくたもっていられないような気持ちなる。
川名は徹を伴って自分の家を歩きながら、別の事に意識を向けることにした。時々、癖で、そうするうように、なぜ自分が今ここに居るのか考えていた。徹の後ろ盾が無ければ、この家は無かった。だからと言って特段彼に感謝もしていない。何故なら、根っこは利害関係で結ばれているだけ。気を測っていたかのように徹は唐突に、言った。
「俺達ではなく、あの男を悦ばせようとしているだけだろ。そしてお前自身を。」
「…………。」
「べつにそれがお前にとってうまく転べばいいんだが、本当に順調か?」
静寂。川名は、答えなかった。
徹がその沈黙をどうとったかは知らない。しばらくの沈黙の後、「お前を若頭補佐にすることで話は決着がつきそうだ。また一悶着ありそうだがな。」と徹はすっかり話をかえたのだった。川名は気分を変えるように顔を上げ、さっきまでの調子を取り戻すように、言った。
「一悶着と言わず、二悶着三悶着、難癖つけてくれたってかまいませんよ、全然。慣れてますからね、仲間外れは。心配していただけるのはありがたいですが、ご隠居、貴方もそう長くないのだから。もう、大丈夫ですよ、俺は。貴方が居なくなったとてね。」
徹は特に気分を害す様子もなく「そうかよ。」と笑った。それは忍には見せない笑顔である。
最近では忍のよりもこちらの方を息子のように思っている。忍には理解できない父親の行動が川名には理解できることが時々、あったから。逆もしかりだ。しかしだからと言ってこちらから彼に親近感を覚えているわけでもない。この家の中では、まだ話ができる方というだけだ。
徹の遺伝子。双子、渚の遺伝子の優秀さは、徹にとって意外な副産物だっただろう。加賀家には、既に跡継ぎとしての子息は忍と樹で足りていた。どちらかが大成すればよい。その後、腹違いで汐と渚の生まれたのは、汐いわく「親父の趣味、玩具みたいなもの」で、渚いわく「お父様の悪意の集大成」である。渚一人、父親の息のかかっていない人間と、川名を使い、実母について詳しく調査をした。調べる程に闇が深い話で、当時の川名もそれなりに危ない橋をわたることになった。
何かを成すためには、何か犠牲を差し出す必要がある。
いつから在るか知らないが、資産家の中に伝えられる、忌払いの行為がある。
忌払いとはすなわち、家が発展するために、忌を祓うことである。そのために、予定調和的に生み出されたのが、この姉弟ということ。この家、つまり徹の血筋が発展するために、徹の血を使用して行われた儀式。必要なのはその血族の血であって、相手の女は適合するなら、誰でも構わない。高額でただ産ませるためだけの、素養のある女を雇い、性的にまぐわい、まぐわいの前後で、忌の儀式や、とりきめを行い、自分の血を継いで子を、産ませる。そして、自分の血を継いだその子に、自分に降りかかるはずだった禍のその全てを、背負わせ回避できるようにするのだ。本来なら、この家に、徹に、降りかかろうとする全ての忌、禍ごとが、そのために生まれた子の生を、命の灯を、削るのである。その為に生を受けた。天命。これが彼らの出生の真相なのだった。徹も半信半疑のまじない、余興のつもりで実施したのかもしれない。その位の資金と倫理観の欠如は持ち合わせている男だから。
この時代に、あまりにスピリチュアルが過ぎる話だ。が、結果として家は滅びず、栄え、資産は増え続け、双子が衰弱しつつある現実があるから、あながち全くのまやかしとは言えない。
だから、徹が、この家や血族全ての負の部分を背負うことで、死期が早いことが運命づけられている彼らを始めから甘やかすのも当然と言えば、当然なのかもしれなかった。甘やかすか無視するか、そのどちらかしかない。汐はこの真相を知らないが、勘はいい、何かある程度察して自分のことを「玩具」と称したのかもしれない。
『めちゃくちゃになればいいんだ、全部』
珍しく渚が感情的になってベッドの中に蹲っているのを、横で、見ていた。
普段とは全く逆の、あまりに子供じみた、強い欲求。どちらかといえば汐が言いそうな言葉だと思った。それが、貴方の本意ですか、と聞くのは野暮だ。世界は限りなく不平等だ。特にこの女はそれを今、人一倍、強く、感じているはず。そして、同時に、生を、感じているはず。生きてきてただの一度も全てがめちゃくちゃになればいい、と思ったことがない人間がいるとすれば、そんな奴は、人間じゃない。
当の汐は、ベッドの”下”で眠っているはずだった。念のためベッドの上から覗き込んでみる。やはりもう、寝ているようだった。さっきまで散々泣いていたのを二人、ここで楽しんで聞いていた。川名は再び頭をもたげ、身体を起こしながら、渚を見た。
「それは、何?俺に対する命令ですか?滅茶苦茶にしろ、って、こと?」
そう問うと、渚はいつもの冷静さを取り戻した瞳で、川名を真っすぐに見た。それは、美しい瞳だった。
人は死に近づく度、瞳の色を鮮やかに変えていくことを知っていた。だから、人間は美しい。怯え、怒り、諦念、やすらぎ。今の渚にはその全てがあった。飽きない。
『ああ……、そうかも、しれませんね。ところで義孝さん、あの話、考えてくれました?』
「一度、お断りしましたよね。」
『そう。無理強いはしません。嫌じゃなければ、ですが、理由を聞いてみたいですね。どうして義孝さんには、子孫を残す気が無いのか。』
「聞いて面白い話じゃないですよ。」
『別に、義孝さんが心配しなくても、私はハナから面白さなんか求めていないです。』
「……。本当に?まぁ、いいです。どうせ、”渚会長”の方が俺より先に、死んでいくのだから。俺の血筋を調べる程、ろくな生き様をしないし、ろくな末路を辿らない。だからもう、絶えた方がいいんだよ。」
『実の父親のように?』
「……ああ、なんだ、やっぱり知ってた。」
『事故じゃないんだろ。』
「………。ああ、そうだよ。真相を知っているのは俺と兄貴だけだ。それからだよ、兄貴が俺を見る目つきが変わったのはね。本当は兄貴がヤろうとしてたのを、俺が先にヤッたんだからな。あまりにも正攻法でやろうとするからさ、あれじゃあね。目も当てられないから。」
『その結果に、お前は満足した?』
「死んで当然の男だったから。満足も不満足も、感慨も何も、ありませんよ。」
『私が子を孕んで生む場合、私の肉体はほぼ確実に、死ぬ。そうすると、彼も死ぬんだよ。そういう風に躾けた。』
「…………。それは、どうかな。」
『なんだ?お前にしては珍しく鈍いな。どうした?これはもう、寸分も、疑問を挟む余地も無いことだ。もしかして、怖いのか?自分が、選ばれないことが。』
「……。別に。ただ、こちらとしても、あなた方が、あまりにもご慢心だと思いましたから……。」
『……。慢心?』
「ああ……、いい、忘れて下さい。今の言葉は。」
奴を、殺そう。この手で。その時は、そう思った。目の前の女に、殺されるくらいなら。
◆
忍はふいに笑い声を聞いた気がした。最初は気のせい、疲れている、と思っていたが、明らかに、この部屋の中からその笑い声は聞こえるのだった。下を向いた。笑い声は、下から昇ってきていた。なるほど、目の前のこの、もうどうにもならないことが運命づけられている、詰んだ男が、ついに狂ったのだろうか。それもそうだろう、あのキチガイの手にかかって正気ではいられまい。そういえば、この男の加賀の家でも見た覚えがあった。川名が連れてきていた輩の一人である。つまり、珍しく気に入っていたわけだ。奴なりに、この男を。
「……さん、」
笑いの中に、言葉を聞いた気がしたが、こちらに話しかけているのだろうか。忍の脚は地に縫い留められたようになって動けなくなった。恐怖?いや、おかしい。そんなはずはない。黒き獣に覆われたその下、影の奥から、生身の人間が、這い出るようにして顔を出し、こちらを充血した瞳で見上げていた。初めて、こうして、まじまじと見て、さっきまでは嫌悪感しかなかったはずの目の前の現象に、嫌悪感とは違った、少し愉快といったらいいか、そのような感情が忍の中に、初めて起きたのである。
印象に残っていた。美しいと形容するには男性的な直線的な輪郭や目鼻立ちが目立ち、男性的と形容するには全体が奇麗に整いすぎている。一度見たら、いや、向こうから見られた、とそれが例え誤認だとしても、そう、認識してしまうと、二度と忘れられない瞳が印象深いのだった。鮮烈に記憶が色づいて蘇り、今までこの男がされていたことを考えると、嫌悪と同時にやはり知らない、考えたくも無い、否定したい情欲が、湧かないでもない。男が、忍を真っすぐ見たまま、口を開いた。
「ああ゛……どうやら、随分と、仲が、よろしく、ないのですね……思っていた以上に……」
今日初めてこの男が喋ったのを聞いた。というか、あのキチガイがいる手前、口をきけなかったのだろう。いや、だとしても、だ。どうしてこの状況で、正気を保てるのだろうか。あり得ない。その声は、地獄の底の方からこちらに向かって悪魔が声を出しているのではと思うほどだた。ザッピングのように酷くざらつき聞き取りづらい声だが、こちらに向かって、はっきりと、耳に入ってくる。しかも、どうやら、笑っているのだ。苦痛の中に、笑みを浮かべて、こちらを睨むように見ている。気迫でこんな小僧に圧されるわけがないはずだが、今目の前に居るのが、おmはや、人かどうかもわからないのだった。一体なんだ?この男は。
「組長さんは、どうにか、したいんじゃないです……?あの人の事……、」
吐息交じりの声が、まるですぐ側で立って話しかけられているかのように、耳を擽るのだった。
「………」
「その沈黙は、YES……、そう、取引しませんか、私と……」
忍は最初こそ呆気にとられていたが、目の前の状況を改めて見、鼻で笑って一蹴した。
「取引?何を言っている。取引とは、持っている者同士が行うものだ。今のお前に一体何がある。自分の命さえ風前の灯火だっていうのに。最後の悪あがき、命乞いでもしようっていうのか?生憎だが、それは無駄というものだ。今日、お前の様子を見て、状況によっては殺せと俺の口から言おうと思っていたくらいだからな。」
また、何か鳴いている。はじめ、獣同士の結合の音に隠れ、聞き取れなかったのだが、男は頭を伏せ、肩を震わせて、声を出して笑っていた。再びまた目の前に見たことのない得体のしれない不気味なものが現われる。男の頭が再び勢いよく上げられた。
「命乞い?あは!そんなことしなくても、今、現に、こうして!生きてるじゃないですか……!俺が、あんなことしておいてね、そこですよ問題は、そこなんだ……」
「……。」
「最初は、処刑する、次はお前を苦しませるために、敢えて殺さないでおいてやる、だったのが、今は、ぁ、ふふ、どうでしょうね、ぇ……。どう思います……?」
「何が言いたい。」
「簡単なことだ、……俺を救え、それしかもう貴方には、無い。これが案外、起死回生の手かもしれないんだぜ。……そう、貴方の権限で、俺をあの人から取り上れば、返して欲しさに狂い、あのキチガイが、貴方の言うことの1つや2つくらい、聞くようになるかもしれない、そうでしょう。いいですか、あの人は今、俺と貴方の、共通の敵なのです。わかりますか。」
「何を言い出すかと思えば、はは、受けるわけないだろ、そんな馬鹿げた交渉。自分が助かりたくて必死にひねり出した考えがそれかよ。随分と自分に自信があるらしいな。第一、俺はお前のことを知らない。そもそもが信用ならない野郎じゃないか。どうして俺がお前のそんな突拍子もない提案を飲む。馬鹿げてる。」
「知らない……?俺を、知らないだって?そんなはずはないね。知っているはずだ、俺が何者で、何をして、今に至ったか。知らないなら、長なんてのは嘘だね、ただのお飾りだな。」
「貴様!」
「ああ~??なんだぁ……???核心を突かれてカリカリしたのか?ははははははは!!!こんな状態の俺なんかに挑発されて、キレるのかよ、ジジイ!!!大組織の長ともあろうものがよ……もっと、どっしり構えてたら、どうだよ……、ええ?……まぁ、いいです、いますぐ決めろという話でもない、計画性が必要です、ただ、そういう選択肢も、貴方にはあるということをご提示したまでですから。……最近のご隠居は貴方より、あのキチガイに期待を寄せてますからね。貴方が一番わかって」
「それ以上何か言ってみろ、俺の権限で貴様を殺すぞ」
「………。」
男は挑発的な笑みを浮かべたまま、再び獣の下に沈んでいった。廊下に足音、そちらの方へ頭を向ける。二人が戻ってくる気配があった。男にはもう、さっきまでの面影が無かった。最初と同じ姿態に戻り、伏してあの男を待っている。
「どいつもこいつも……。」
◆
学名”Harpagophytum procumbens”
この植物の果実は、鉤爪、棘が、動物の毛や蹄に絡み付き、それによって広く散布され、自生範囲を広げる。ライオンの口にこの果実が絡み付くと、痛さのあまり餌をとれず餓死したことから「ライオンゴロシ」という名がつけられたと言われる。
◆
大量の人外の精子が複数回に渡って肉体の中に解き放たれた。霧野の頸部に馴染んだ首輪から、チェーンがたわみながら、辿っていくとノアの首元のリングと繋がって、ペアになっている。川名が言った。
「貴様は孕めもしないからな、ノアの練習相手にちょうどいいんだ。ああ!畳がお前ら二頭の染みだらけじゃないか。あらかじめペットシーツを敷いておくのだったな。」
川名は足元に向かって語り掛けた後、今度はゆっくりと背後に立つ、二人の方へ視線を向け、軽く腕を拡げた。
「というわけで、この通り。」
そこには徹と忍が立っているのだった。忍は不愉快げに眉を顰め、徹は一拍子置いてからほんのささやか、笑うのだった。
「なるほど、犬同士番わせたわけか。面白い。国家凌辱罪だ。はは。」
取り急ぎ、隠居の方の気分はとれたわけだ。
「話しが早いですね。多少は面白い余興でしょう。ただ、あまりに獣臭いから、今こうして私の家、何もない場所でお見せしてさしあげているだけ。必要ならどこへでも連れて行きますし、別に、何でも、どんなことでも、させますよ。」
川名は忍を見た。やや、及び腰。一方の徹はといえば、家に来る前と目の色が少しも変わっていないかった。
「どんなことでも?」
徹のしわがれ声に対して川名は即答する「ええ、その通り。」と。「飽き飽きでしょう。特に、老人ほど普通の娯楽では満足しない。もう、通常のセックスではたいして満足できない。私は今までそういう大人を腐る程、観てきました。そして時々、有りものを使って、彼ら彼女らを、満足させることもある。接待です。……しかし、阿保らしい、揃いも揃って愚かだと思いました。醜く腐った人間がこんなにも沢山いるのだとね。良い金づるです。持てば持つほど腐るのか、生まれながらに腐っているのか、考えたくもありませんがね。近々また、パーティーでも開こうかと思いますよ。いかれてるほどに、多く、金が集まるから。」
川名はそもそも老齢の徹の男性的機能が正常に稼働するかどうか疑問だと思った。しかし、男にとって、若牝との肉体的なとの結合、それだけが下腹部をそして脳幹を興奮させるわけでは全然ない。特に元の身体能力が終わった人間で、あらゆるのもを持っている人間、それらは暇つぶしに異常な性癖を発露させていく、その過程もよく見て来た。川名が徹の嗜好について考えている横から、忍が顔を出した。彼はまだ現役、性欲旺盛だ。しかし、もう、美食は喰いつくした頃合いかもしれない。忍は川名に対する嫌悪の感情を隠しもせず言った。
「そういうお前はどうなんだ。大体この露悪趣味の発案者だってお前じゃないか。」
忍の軽蔑の眼差しから目を背け、自分の足元を這いづりまわっている大きな獣を見た。心が一瞬違う空間に飛んだかのような清々した、目の前の些末事など全部どうでもいいような気分になるのだった。
それは、その実、安心に近い感情であるのだが、川名自身が明言化できない。知らない感情。安心程つまらないものは、ないはずだから。しかし、それはほんの一瞬で、今は再び現実の問題、川名は忍の方へ目を向けた。
「はぁ。一体何をおっしゃっるのかと思えば」と彼の威圧的な瞳を、川名は別の軽蔑の色を持って仰ぎ見た。その時頭の端を、屋敷での血の事件が擽った。
「一体、貴方に、俺に対して、そんな眼を向ける資格があるんですかね。まさか忘れたわけでもないでしょう。若気の至りだなんてこと今更言いませんよね。ヤクザ稼業に二言無し、でしょ。ヤクザ式の折檻を、いの一番に俺に教えてくれたのは、汐様というより、アンタなんだからサ。ね。そうでしょ。忍さん。自分だけ特別って訳にはいかないでしょうよ。ねぇ。」
忍に微笑みかけた途端、向こうから先に一瞬居心地悪そうに目を逸らすのだった。しかし、また視線が戻ってくる。軽蔑と嫌悪、それから、若干の動揺を伺い知れる。
「……、……。」
漠然と、殺意とは違う、それほど前向きでは無いが、この男を追い詰めていく楽しさをまだ感じたいと思った。しかし、こんな二流、小物は、今は別に、どうでもいい。今すぐどうこうしたいと思えない。今こうして彼らをこの場に導いてきたのも、どちらかと言えば、彼らの為ではなく……。川名は自分の思考の流れを食い止めるように、忍を注視、終始挑発の笑みを浮かべるのだった。
「ところで、どうしてさっきから俺を、化物でも見るような目で見るんです、忍さん。屋敷でのことだって、仕方がないということになった、こちらとて、未来ある若者に手などかけたくなかった。あれは、正当防衛ですよね。」
そうすると、思った通り、逆上して手が伸びてくる。胸倉をつかまれると頭一つ分向こうの方が大きいのだった。
「お前に心なんか……、始めから無いだろう……。」
思わず声を出して笑っていた。失礼しましたと取り繕うが、手を離した忍の口の端が苛立ちで震えている。
殴ったらいいのに、それさえもできないで。
徹の前でそれじゃあ、見限られてもしかたないな。
川名は襟元を整えながら、忍の方を見ていた。
「心があるから、こうしてお二人に、こうしてこの男の現況をお見せして、喜ばせ差し上げようとしているのです。」
呻き声。その凹凸美しい肉の滑らかな皮膚から噴き続ける、汗。眼光。川名が見ると、下を向いていた視線が、昇って来る。いい、もっと、昇ってこい。もっと。上がってこい。ここまで。来い。頭がもたげると同時にノアが激しく自分が組み敷いた練習台を責め、丁度瞳同士が一瞬交錯したと同時にまた、余程顔を見せたくなかったか、隠すように首を垂れ、くぐもった声を出した。
どうやら、濡れた肉の奥深くを、正真正銘獣の棘が、心地よく、えぐったらしかた。甘やかな声が音楽のように聞こえる。犯されている、それも人間ではない、正真正銘、獣に犯されているというのに。川名はしばらく、自分の肉体を使用して霧野を犯すことをしていなかった。霧野の節ばった、爪の剥げて血のにじんでも、不思議と余計に彩られたかのように美しく見える指は、どんなネイルよりもずっといいと思った。指が、残った爪が、畳をささくれ立たせて、もう何本もできた傷が更に深く抉れていた。突き上げられるたび、悶え堪えて、じゃらじゃらと、鉄のこすれる音がする。時々チェーン同士のたわみが無くなってピンとはりながら、ノアが下の獣の上を大きく覆いかぶさって責めはじめると、その勢いは、ほとばしり、止まらない。堪えきれない悲鳴、喜悦の声を、川名と徹は聞いていた。いつまでも、そうして居てもいいと思った。また、指が地面を掻く。もしそこが皮膚だったなら、抱く者の背中に、強烈な爪痕を、つけたであろう。幾筋も、幾筋も。情事の後に身につけたシャツに、血もにじむ程。だから、配下の組員の、その背中を見れば、わかるかもしれなかった。どれほどその人間が、どれほど霧野と正面で交接し、感じさせたかのか、耐えたのか、その度合いが。あからさまに喘がなくとも、証拠が、こんなにありありと。ガリ、ガリ、とまた、引っ掻く音がする。井草の下の茶色の下地まで見えそうなほどだ。畳に爪痕をつけたその分、後でまた、清算させなければ、躾けてやらないといけない。
川名は、他の二人の視界の外で、自分の足先を霧野の指先に軽くあてがった。そして、畳についた引っ掻き傷、抉り傷を、なぞり、自らの足の指でそこを削るように目の前で軽く動かして、見せた。その時、霧野の身体が一瞬ビクンと跳ねたのが、ノアの太い獣棘による反応では無いことが、川名だけが分かった。さっきまで無遠慮の動物さながら突き立てられていた爪が、指先がゆっくり、その武骨な手と対称的に、柔らかく、開いていった。爪でなく、指の腹で、いじらしく、畳の上を優しくふんばるようになった。
珍しく気持ちが和いでいた。言葉などいらない。これは、動物なのだから、使ってやる必要も無い。すぐにこちらの意図を理解でき行動できたことは素晴らしい。川名は足先でその指を軽く踏んで、撫でてやった。横に立っている二人には決して聞こえない声が、川名と霧野の間にだけは、よく聞こえていた。悦んでいる。そして、その悦びを未だ半分、肯定しきれてない。でも、別にいいんだ。まだまだ、時間はたくさんあるから。これだけ苛んでも失神もしない、壊れない、時間を飛ばすこともできない。だから、こいつとの時間はまだ、沢山、ある。作れる。二条も言っていたっけ、結局、丈夫なのがいいという至極、シンプルな結論を。そう、最低限を耐え切れなければ、意味がない、我々はいつも、やりすぎてしまうから。指と指の秘密の触れ合いを愉しんでいる間中、獣同士の秘所同士が粘着質にこすれ合う音とノアの涎交じりの興奮の吐息が激しく部屋に鳴り響いていた。関係のない、ギャラリー二人は今、そちらに気をとられ、下の階層で行われている、一人と一匹の、指の情事を知らない。
「もう数時間は続く。飽きるまで見て言ってやってくださいよ。その為に、頑張ってるんですからね。」
川名は笑いを添えながら言ったが、徹が一喝するように言った。
「それは嘘だな。」
川名は一瞬、徹が何か勘付いたかと思ったが、彼は川名の首から上しか見ていない。いつもの調子で彼は言う。
「俺はもう満足したよ、少し、外で話すか。忍、お前はもう少しそこに居ろ。出る。」
徹が先に部屋を出ていく形になり、川名が徹の背を見ながら脚を引きかけたその時、その下に敷いていた爪が、ほんの一瞬の隙をついて、川名の足裏を茨の棘のように、ちくりと刺したのだった。川名は反射的に下げかけた頭を止め、何食わぬ顔をつくろったまま、徹の後を追った。
「……。……。」
後ろ手に扉を閉める。闇の匂いが横溢している。……あの、ビッチが。歩く度、刺さったままの、透明な棘が、チクチクと足裏を苛むような気がするのだった。それは川名を、さっきまでと対称にやや不愉快な気分にさせた。そして、不愉快な気分になっている自分さえ不愉快。という無限が発生する。……という不愉快を感じている自分が不愉快、……不愉快、……不愉快、歩く程、暗い程、感覚が、研ぎ澄まされてくる。増幅される気持ち。棘の存在がまるでこの誰にも征服されないはずの肉体に根を張ったようになって、熱を持って脈動している。
この家は、なるべく自然と調和、電気に頼りすぎず自然光だけでも生活できるように、設計されている。今日は特に、月明かりも乏しいようで闇が濃い。闇が濃いと、自分の姿形が、そこに溶けて、うまくたもっていられないような気持ちなる。
川名は徹を伴って自分の家を歩きながら、別の事に意識を向けることにした。時々、癖で、そうするうように、なぜ自分が今ここに居るのか考えていた。徹の後ろ盾が無ければ、この家は無かった。だからと言って特段彼に感謝もしていない。何故なら、根っこは利害関係で結ばれているだけ。気を測っていたかのように徹は唐突に、言った。
「俺達ではなく、あの男を悦ばせようとしているだけだろ。そしてお前自身を。」
「…………。」
「べつにそれがお前にとってうまく転べばいいんだが、本当に順調か?」
静寂。川名は、答えなかった。
徹がその沈黙をどうとったかは知らない。しばらくの沈黙の後、「お前を若頭補佐にすることで話は決着がつきそうだ。また一悶着ありそうだがな。」と徹はすっかり話をかえたのだった。川名は気分を変えるように顔を上げ、さっきまでの調子を取り戻すように、言った。
「一悶着と言わず、二悶着三悶着、難癖つけてくれたってかまいませんよ、全然。慣れてますからね、仲間外れは。心配していただけるのはありがたいですが、ご隠居、貴方もそう長くないのだから。もう、大丈夫ですよ、俺は。貴方が居なくなったとてね。」
徹は特に気分を害す様子もなく「そうかよ。」と笑った。それは忍には見せない笑顔である。
最近では忍のよりもこちらの方を息子のように思っている。忍には理解できない父親の行動が川名には理解できることが時々、あったから。逆もしかりだ。しかしだからと言ってこちらから彼に親近感を覚えているわけでもない。この家の中では、まだ話ができる方というだけだ。
徹の遺伝子。双子、渚の遺伝子の優秀さは、徹にとって意外な副産物だっただろう。加賀家には、既に跡継ぎとしての子息は忍と樹で足りていた。どちらかが大成すればよい。その後、腹違いで汐と渚の生まれたのは、汐いわく「親父の趣味、玩具みたいなもの」で、渚いわく「お父様の悪意の集大成」である。渚一人、父親の息のかかっていない人間と、川名を使い、実母について詳しく調査をした。調べる程に闇が深い話で、当時の川名もそれなりに危ない橋をわたることになった。
何かを成すためには、何か犠牲を差し出す必要がある。
いつから在るか知らないが、資産家の中に伝えられる、忌払いの行為がある。
忌払いとはすなわち、家が発展するために、忌を祓うことである。そのために、予定調和的に生み出されたのが、この姉弟ということ。この家、つまり徹の血筋が発展するために、徹の血を使用して行われた儀式。必要なのはその血族の血であって、相手の女は適合するなら、誰でも構わない。高額でただ産ませるためだけの、素養のある女を雇い、性的にまぐわい、まぐわいの前後で、忌の儀式や、とりきめを行い、自分の血を継いで子を、産ませる。そして、自分の血を継いだその子に、自分に降りかかるはずだった禍のその全てを、背負わせ回避できるようにするのだ。本来なら、この家に、徹に、降りかかろうとする全ての忌、禍ごとが、そのために生まれた子の生を、命の灯を、削るのである。その為に生を受けた。天命。これが彼らの出生の真相なのだった。徹も半信半疑のまじない、余興のつもりで実施したのかもしれない。その位の資金と倫理観の欠如は持ち合わせている男だから。
この時代に、あまりにスピリチュアルが過ぎる話だ。が、結果として家は滅びず、栄え、資産は増え続け、双子が衰弱しつつある現実があるから、あながち全くのまやかしとは言えない。
だから、徹が、この家や血族全ての負の部分を背負うことで、死期が早いことが運命づけられている彼らを始めから甘やかすのも当然と言えば、当然なのかもしれなかった。甘やかすか無視するか、そのどちらかしかない。汐はこの真相を知らないが、勘はいい、何かある程度察して自分のことを「玩具」と称したのかもしれない。
『めちゃくちゃになればいいんだ、全部』
珍しく渚が感情的になってベッドの中に蹲っているのを、横で、見ていた。
普段とは全く逆の、あまりに子供じみた、強い欲求。どちらかといえば汐が言いそうな言葉だと思った。それが、貴方の本意ですか、と聞くのは野暮だ。世界は限りなく不平等だ。特にこの女はそれを今、人一倍、強く、感じているはず。そして、同時に、生を、感じているはず。生きてきてただの一度も全てがめちゃくちゃになればいい、と思ったことがない人間がいるとすれば、そんな奴は、人間じゃない。
当の汐は、ベッドの”下”で眠っているはずだった。念のためベッドの上から覗き込んでみる。やはりもう、寝ているようだった。さっきまで散々泣いていたのを二人、ここで楽しんで聞いていた。川名は再び頭をもたげ、身体を起こしながら、渚を見た。
「それは、何?俺に対する命令ですか?滅茶苦茶にしろ、って、こと?」
そう問うと、渚はいつもの冷静さを取り戻した瞳で、川名を真っすぐに見た。それは、美しい瞳だった。
人は死に近づく度、瞳の色を鮮やかに変えていくことを知っていた。だから、人間は美しい。怯え、怒り、諦念、やすらぎ。今の渚にはその全てがあった。飽きない。
『ああ……、そうかも、しれませんね。ところで義孝さん、あの話、考えてくれました?』
「一度、お断りしましたよね。」
『そう。無理強いはしません。嫌じゃなければ、ですが、理由を聞いてみたいですね。どうして義孝さんには、子孫を残す気が無いのか。』
「聞いて面白い話じゃないですよ。」
『別に、義孝さんが心配しなくても、私はハナから面白さなんか求めていないです。』
「……。本当に?まぁ、いいです。どうせ、”渚会長”の方が俺より先に、死んでいくのだから。俺の血筋を調べる程、ろくな生き様をしないし、ろくな末路を辿らない。だからもう、絶えた方がいいんだよ。」
『実の父親のように?』
「……ああ、なんだ、やっぱり知ってた。」
『事故じゃないんだろ。』
「………。ああ、そうだよ。真相を知っているのは俺と兄貴だけだ。それからだよ、兄貴が俺を見る目つきが変わったのはね。本当は兄貴がヤろうとしてたのを、俺が先にヤッたんだからな。あまりにも正攻法でやろうとするからさ、あれじゃあね。目も当てられないから。」
『その結果に、お前は満足した?』
「死んで当然の男だったから。満足も不満足も、感慨も何も、ありませんよ。」
『私が子を孕んで生む場合、私の肉体はほぼ確実に、死ぬ。そうすると、彼も死ぬんだよ。そういう風に躾けた。』
「…………。それは、どうかな。」
『なんだ?お前にしては珍しく鈍いな。どうした?これはもう、寸分も、疑問を挟む余地も無いことだ。もしかして、怖いのか?自分が、選ばれないことが。』
「……。別に。ただ、こちらとしても、あなた方が、あまりにもご慢心だと思いましたから……。」
『……。慢心?』
「ああ……、いい、忘れて下さい。今の言葉は。」
奴を、殺そう。この手で。その時は、そう思った。目の前の女に、殺されるくらいなら。
◆
忍はふいに笑い声を聞いた気がした。最初は気のせい、疲れている、と思っていたが、明らかに、この部屋の中からその笑い声は聞こえるのだった。下を向いた。笑い声は、下から昇ってきていた。なるほど、目の前のこの、もうどうにもならないことが運命づけられている、詰んだ男が、ついに狂ったのだろうか。それもそうだろう、あのキチガイの手にかかって正気ではいられまい。そういえば、この男の加賀の家でも見た覚えがあった。川名が連れてきていた輩の一人である。つまり、珍しく気に入っていたわけだ。奴なりに、この男を。
「……さん、」
笑いの中に、言葉を聞いた気がしたが、こちらに話しかけているのだろうか。忍の脚は地に縫い留められたようになって動けなくなった。恐怖?いや、おかしい。そんなはずはない。黒き獣に覆われたその下、影の奥から、生身の人間が、這い出るようにして顔を出し、こちらを充血した瞳で見上げていた。初めて、こうして、まじまじと見て、さっきまでは嫌悪感しかなかったはずの目の前の現象に、嫌悪感とは違った、少し愉快といったらいいか、そのような感情が忍の中に、初めて起きたのである。
印象に残っていた。美しいと形容するには男性的な直線的な輪郭や目鼻立ちが目立ち、男性的と形容するには全体が奇麗に整いすぎている。一度見たら、いや、向こうから見られた、とそれが例え誤認だとしても、そう、認識してしまうと、二度と忘れられない瞳が印象深いのだった。鮮烈に記憶が色づいて蘇り、今までこの男がされていたことを考えると、嫌悪と同時にやはり知らない、考えたくも無い、否定したい情欲が、湧かないでもない。男が、忍を真っすぐ見たまま、口を開いた。
「ああ゛……どうやら、随分と、仲が、よろしく、ないのですね……思っていた以上に……」
今日初めてこの男が喋ったのを聞いた。というか、あのキチガイがいる手前、口をきけなかったのだろう。いや、だとしても、だ。どうしてこの状況で、正気を保てるのだろうか。あり得ない。その声は、地獄の底の方からこちらに向かって悪魔が声を出しているのではと思うほどだた。ザッピングのように酷くざらつき聞き取りづらい声だが、こちらに向かって、はっきりと、耳に入ってくる。しかも、どうやら、笑っているのだ。苦痛の中に、笑みを浮かべて、こちらを睨むように見ている。気迫でこんな小僧に圧されるわけがないはずだが、今目の前に居るのが、おmはや、人かどうかもわからないのだった。一体なんだ?この男は。
「組長さんは、どうにか、したいんじゃないです……?あの人の事……、」
吐息交じりの声が、まるですぐ側で立って話しかけられているかのように、耳を擽るのだった。
「………」
「その沈黙は、YES……、そう、取引しませんか、私と……」
忍は最初こそ呆気にとられていたが、目の前の状況を改めて見、鼻で笑って一蹴した。
「取引?何を言っている。取引とは、持っている者同士が行うものだ。今のお前に一体何がある。自分の命さえ風前の灯火だっていうのに。最後の悪あがき、命乞いでもしようっていうのか?生憎だが、それは無駄というものだ。今日、お前の様子を見て、状況によっては殺せと俺の口から言おうと思っていたくらいだからな。」
また、何か鳴いている。はじめ、獣同士の結合の音に隠れ、聞き取れなかったのだが、男は頭を伏せ、肩を震わせて、声を出して笑っていた。再びまた目の前に見たことのない得体のしれない不気味なものが現われる。男の頭が再び勢いよく上げられた。
「命乞い?あは!そんなことしなくても、今、現に、こうして!生きてるじゃないですか……!俺が、あんなことしておいてね、そこですよ問題は、そこなんだ……」
「……。」
「最初は、処刑する、次はお前を苦しませるために、敢えて殺さないでおいてやる、だったのが、今は、ぁ、ふふ、どうでしょうね、ぇ……。どう思います……?」
「何が言いたい。」
「簡単なことだ、……俺を救え、それしかもう貴方には、無い。これが案外、起死回生の手かもしれないんだぜ。……そう、貴方の権限で、俺をあの人から取り上れば、返して欲しさに狂い、あのキチガイが、貴方の言うことの1つや2つくらい、聞くようになるかもしれない、そうでしょう。いいですか、あの人は今、俺と貴方の、共通の敵なのです。わかりますか。」
「何を言い出すかと思えば、はは、受けるわけないだろ、そんな馬鹿げた交渉。自分が助かりたくて必死にひねり出した考えがそれかよ。随分と自分に自信があるらしいな。第一、俺はお前のことを知らない。そもそもが信用ならない野郎じゃないか。どうして俺がお前のそんな突拍子もない提案を飲む。馬鹿げてる。」
「知らない……?俺を、知らないだって?そんなはずはないね。知っているはずだ、俺が何者で、何をして、今に至ったか。知らないなら、長なんてのは嘘だね、ただのお飾りだな。」
「貴様!」
「ああ~??なんだぁ……???核心を突かれてカリカリしたのか?ははははははは!!!こんな状態の俺なんかに挑発されて、キレるのかよ、ジジイ!!!大組織の長ともあろうものがよ……もっと、どっしり構えてたら、どうだよ……、ええ?……まぁ、いいです、いますぐ決めろという話でもない、計画性が必要です、ただ、そういう選択肢も、貴方にはあるということをご提示したまでですから。……最近のご隠居は貴方より、あのキチガイに期待を寄せてますからね。貴方が一番わかって」
「それ以上何か言ってみろ、俺の権限で貴様を殺すぞ」
「………。」
男は挑発的な笑みを浮かべたまま、再び獣の下に沈んでいった。廊下に足音、そちらの方へ頭を向ける。二人が戻ってくる気配があった。男にはもう、さっきまでの面影が無かった。最初と同じ姿態に戻り、伏してあの男を待っている。
「どいつもこいつも……。」
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