2 / 63
Vol.1『ファムファタ女と名探偵』
ハードボイルド探偵、登場す
しおりを挟む
土曜、夜。二十二時。神保町。
依頼人が待ち合わせに指定したそのバーは、雨に沈む無人のオフィス街の裏通りにあった。俺にはおよそ無縁なこの街に来るのは、いつ以来だったろうか。知ってはいるが、馴染みは無い。律儀に働く四つ辻の信号を無視し、目的の場所を目指した。
『クアドリフォリオ』……四つ葉のクローバー。
そう書かれた店の看板を見つけるのに、そう苦労はしなかった。いや、した。雨が冷たかった。十一月の雨は、哀れな女の涙だ。過去が空から降ってきて、俺の体温と何かを奪っていく。傘は持たぬ主義だなどと言わずに、素直に持って出れば良かった。
軒下に入り、ようやく人心地ついた。最小限の電灯が、看板と足元を照らしていた。この裏通りでも、営業しているのはこの店だけだった。飲食店、古書店、弁当屋、古本屋……他は全て、昼間の店だ。灯りなど、何も点いてはいない。まばらな街灯が濡れたアスファルトに光っていたが、それ以外は闇だった。人も車も通らない。そこにいるのは俺だけだった。こんな孤独もなかなか無い。悪くない。だがやはり寒い。さっさと中に入ることにした。
出入り口の扉を押し開けると、ドアベルが乾いた音を立てた。ずぶ濡れの俺に、客たちの視線が刺さった。外観のわりに店の中は広く、ボックス席やそれよりも大きなテーブルの席があり、驚いたことには、グランドピアノまで置いてあった。三割程度といった客の入りも、外の無人ぷりからすると、かなり意外だった。そして、そいつらの注目をまとめて浴びせかけられたって訳だ。よしてくれ。家に帰りたいと少し思ってしまった。
それもそのはずとでも言おうか、グランドピアノの前には一人の女が立っていて、そのピアノを伴奏に歌っている最中だった。視界の端に捉えただけでも、美しい女だとわかった。声もまあ悪くはない。客どもはこの女が目当てという事か。なるほど俺が悪かった。邪魔をしたかったって訳じゃあない。それに、俺はこういうのはむしろ苦手なんだ。この、歌ってる間は黙って聴いてろ、みたいな空気が嫌いなんだ。やっぱり家に帰ろうかと思った。
とはいえ、仕事で来たのだから、そういう訳にもいかない。俺はしぶしぶ濡れた鳥打ち帽とコートを適当に掛け、歌う女から一番離れた奥のカウンター席に狙いを定めた。コートの下には黒いジャケットを羽織っていた。ズボンも濃いめのグレーだ。目立ちたくないのだ。客の何人かが俺を目で追うのがわかった。よしてくれ。大抵の事には動じない俺だが、そういうのには動じるんだ。
おおそうだ、依頼人はこの客の中にいるという事になるのか。どいつだ。まあ、こっちからあなたが依頼人ですかとコンタクトして回る必要は無い。いずれ向こうから俺のところへやってくるに違いない。まずは腰を落ち着けようじゃないか。
狙い通りの椅子に座り、煙草を取り出した。即座に、カウンターの中のマスターと思しきチョッキを着た五十絡みの渋め男子が、俺の前に来てコースターと灰皿を出してくる。俺は酒瓶の並んだ壁の棚を、いかにもそのラインナップを値踏みするようなそれっぽい顔を作って眺め、人差し指を手前に曲げて合図した。上体を傾け、耳を寄せてきたマスターに、軽く身を乗り出し、声をひそめてオーダーを告げる。
「う、烏龍茶……を、ロックで……」
俺は篤藩次郎。ハードボイルド私立探偵だ。
依頼人が待ち合わせに指定したそのバーは、雨に沈む無人のオフィス街の裏通りにあった。俺にはおよそ無縁なこの街に来るのは、いつ以来だったろうか。知ってはいるが、馴染みは無い。律儀に働く四つ辻の信号を無視し、目的の場所を目指した。
『クアドリフォリオ』……四つ葉のクローバー。
そう書かれた店の看板を見つけるのに、そう苦労はしなかった。いや、した。雨が冷たかった。十一月の雨は、哀れな女の涙だ。過去が空から降ってきて、俺の体温と何かを奪っていく。傘は持たぬ主義だなどと言わずに、素直に持って出れば良かった。
軒下に入り、ようやく人心地ついた。最小限の電灯が、看板と足元を照らしていた。この裏通りでも、営業しているのはこの店だけだった。飲食店、古書店、弁当屋、古本屋……他は全て、昼間の店だ。灯りなど、何も点いてはいない。まばらな街灯が濡れたアスファルトに光っていたが、それ以外は闇だった。人も車も通らない。そこにいるのは俺だけだった。こんな孤独もなかなか無い。悪くない。だがやはり寒い。さっさと中に入ることにした。
出入り口の扉を押し開けると、ドアベルが乾いた音を立てた。ずぶ濡れの俺に、客たちの視線が刺さった。外観のわりに店の中は広く、ボックス席やそれよりも大きなテーブルの席があり、驚いたことには、グランドピアノまで置いてあった。三割程度といった客の入りも、外の無人ぷりからすると、かなり意外だった。そして、そいつらの注目をまとめて浴びせかけられたって訳だ。よしてくれ。家に帰りたいと少し思ってしまった。
それもそのはずとでも言おうか、グランドピアノの前には一人の女が立っていて、そのピアノを伴奏に歌っている最中だった。視界の端に捉えただけでも、美しい女だとわかった。声もまあ悪くはない。客どもはこの女が目当てという事か。なるほど俺が悪かった。邪魔をしたかったって訳じゃあない。それに、俺はこういうのはむしろ苦手なんだ。この、歌ってる間は黙って聴いてろ、みたいな空気が嫌いなんだ。やっぱり家に帰ろうかと思った。
とはいえ、仕事で来たのだから、そういう訳にもいかない。俺はしぶしぶ濡れた鳥打ち帽とコートを適当に掛け、歌う女から一番離れた奥のカウンター席に狙いを定めた。コートの下には黒いジャケットを羽織っていた。ズボンも濃いめのグレーだ。目立ちたくないのだ。客の何人かが俺を目で追うのがわかった。よしてくれ。大抵の事には動じない俺だが、そういうのには動じるんだ。
おおそうだ、依頼人はこの客の中にいるという事になるのか。どいつだ。まあ、こっちからあなたが依頼人ですかとコンタクトして回る必要は無い。いずれ向こうから俺のところへやってくるに違いない。まずは腰を落ち着けようじゃないか。
狙い通りの椅子に座り、煙草を取り出した。即座に、カウンターの中のマスターと思しきチョッキを着た五十絡みの渋め男子が、俺の前に来てコースターと灰皿を出してくる。俺は酒瓶の並んだ壁の棚を、いかにもそのラインナップを値踏みするようなそれっぽい顔を作って眺め、人差し指を手前に曲げて合図した。上体を傾け、耳を寄せてきたマスターに、軽く身を乗り出し、声をひそめてオーダーを告げる。
「う、烏龍茶……を、ロックで……」
俺は篤藩次郎。ハードボイルド私立探偵だ。
1
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
月弥総合病院
僕君☾☾
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。
また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。
(小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる