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10話 アニエス
しおりを挟むアニエスは、その美しい瞳をうるませて言った。
「ジル。どうして私の所に来てくれなかったの?ルシオを亡くして、あなたがどれほど辛いか、解るのは私だけでしょう?」
ジルヴィスは、目を細めてアニエスを見た。
おそらく、彼女の言う通りだと思う。幼い頃から、彼女を知っているし、彼女も俺を知っている。可憐で美しいアニエスは、ずっと特別な存在だった。けれど、ルシオと婚約したと聞いて、辛い気持ちよりも、安心したのだ。ルシオなら、アニエスを大切にしてくれる。自分よりも幸せにしてくれる。そう思えた。
少年だった自分の恋心など、己の自信の無さの前で消えていった。
愛する夫であるルシオを失った、彼女を見たくなかった。それと同時に、自分が怖かったのだ。悲しむアニエスを目の前にして、自分がどうするのか?支えたいと思う気持ちに、やましさはないのか?
消えた筈の恋心が……
親友への後ろめたさが……
……恐ろしかった。
だから、会いたくなかった。
アニエスから視線を反らしたジルヴィスは、そのまま踵を返して、また廊下を歩き出す。
夫を亡くしたというのに、自分の心配をしてくれるアニエスに、心を揺さぶられる。喪服に身を包んだアニエスは、今にも消えてしまいそうに見えて、支えて守ってやりたいと思ってしまう。
こんな気持ちを、ルシオは、どう思うだろうか?
2人とも沈黙したままで、隊長室にたどり着く。
扉を開けて、自分が先に入り、灯りを点けてから、アニエスを部屋に入れた。
机の前まで行き、そっと手を置く。隊長に就任して、頑張っていたルシオを思い出す。
ルシオの声が、今も、聞こえてくるような気がした。いつか、話してくれた、あいつの夢も。
『ジル!俺、夢があるんだ!いつか、聖騎士のトップに立って、法で市民を守るんだ!』
バカバカしいほどに誠実で、曇のない真っ直ぐな、あの笑顔も。もう、二度と見ることは無いのだと。しみじみ思った。
その瞬間、ジルヴィスの背中に、アニエスがすがりつく。
「‥‥ジル!」
ギュウっと、背中から抱きつかれて、ジルヴィスは戸惑った。けれど、彼女の心痛はいかほどかと、察することは難しく無かった。
「アニエス‥‥」
「ねぇ、ジル。今日、うちに来てくれない?私‥1人でいたくないの!」
「‥‥‥」
「お願いよ!」
泣きつくアニエスを、抱きしめようとして、手を止めた。
ルシオは、アニエスを溺愛していた。
あいつが居なくなって、どんなに辛くても、自分が、彼女に触れることは絶対に許せない。友人のまま、幼馴染のままで、彼女を支えていくしかない。
ジルヴィスは、抱きしめたい感情を押し殺して、拳に力が入りすぎ、手のひらに爪が食い込んだ。
「アニエス。おまえは1人じゃない。家族や友人がいるだろう?」
「そうだけどっ、だけど、私とあなたとルシオの、3人だけの想い出があるじゃない!あなたとしか、分かち合えない悲しみがあるわ。だから…」
「そうだとしても!そうだとしても、アニエス……落ち着け。世間から見れば、俺は男だ。2人きりになってはいけない。どんなに仲の良かった友人でも、気をしっかりもて!」
そう言って、アニエスの手をほどき、距離をとった。
距離をとって、アニエスを見た瞬間に、心が真っ二つになりそうだと思った。
今にも倒れて、泣き崩れてしまいそうな彼女を、今すぐに抱きしめたかった。大切な人を失う、その苦しみは、彼女としか分かち合えないのかもしれない。そうだとしても、そうだとしても……!
泣きそうになりながら、振るえる体を握りしめて、視線を反らしてアニエスは言った。
「3日後に、葬儀をするわ。葬儀には、あなたも立ち会ってくれる?」
ジルヴィスも、彼女から視線をそらして応えた。
「必ず、立ち合おう。」
その約束だけをして、アニエスは部屋を出て行った。
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