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書籍未収録エピソード
オーブンと少年 1
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※連載版で登場したドルフィ少年のエピソードが、書籍版には含まれないため、その部分を抽出し改稿しました。本編の後の出来事という形になっています、連載時と違う部分もありますのでどうぞお楽しみください。全4話です。
◇ ◇ ◇
ずっしり重くなった買い物かごを持って、私は坂道を上っていた。
「買いすぎた……注文して持ってきてもらえばよかったなぁ」
市場であれこれと食材を見ているうちに、「そうだ、あれ作ってみよう!」と思いつきで決めてしまうことがよくある。で、今日作ろう、これから作ろう! となって、材料を一通り買ってしまうのだ。
「懲りないよねぇ私も……あー重い、手が痛い……このときばかりは坂の町アルンセバールが恨めしい」
ぜぇはぁ言いながら、ようやくガヤガヤ亭が見えるところまできたとき、私は「ん?」と足を止めた。
店の前に、子どもがいる。
髪がボサボサの、七、八歳くらいの子ども――たぶん男の子――は、店の外扉のすぐ脇にある窓から、中をのぞき込んでいた。彼からはちょうど厨房が見えていると思う。
荷物を持ち直し、近づいていくと、彼はハッとして振り向いた。猫みたいなツリ目の子だ。
彼は声をかける間もなく走り出し、奥の角を曲がって姿が見えなくなった。
「何か用だったのかな」
首を傾げていると、後ろから声がかかった。
「コノミ」
「ソル!」
わき道から、ソルとチュロが並んで顔を出しているので、私は笑ってしまった。店の扉が閉まっていたから、裏口を見に行っていたのだろう。
「こんにちは、コノミ! ショウガとニンニク、持ってきましたよ!」
「ありがとう、チュロ!」
「今、ドルフィがいたよな。何か用だったのか?」
こちらにやってきたソルが、買い物かごを持ってくれる。
「ありがとう。知ってる子なんだ? 声をかけようと思ったら逃げちゃった」
「かなりの人見知りらしいぞ。時々、港で顔を見る」
男の子が去った方を見たまま、ソルは言う。
「何でも、母親と二人暮らしだったのが、急に母親が姿を消したんで一人で暮らしてるとか」
私は思わず、店の鍵を開ける手を止めた。
「あんな小さいのに、一人で?」
「近所の大人たちが世話してやろうとしても、受け入れないんだと。仕事の報酬なら受け取るらしいから、大人たちが簡単な仕事をやらせてるとか」
「自分の力で生きようとしてるんだね……」
でも、お母さん、どうしちゃったんだろう。
気になりながらも、私は今の件で思い出したことがあって、店に入りながらソルに言った。
「実はね、ソル。最近、お店の中にいると視線を感じることがあって。誰かが、窓から覗いてるような」
チュロが心配そうに私を見上げた。
「危ないじゃないですか」
ソルもかごをカウンターに置いて眉をひそめる。
「そういうことは、すぐに使いを出して俺に知らせろ。何かあってからじゃ遅いんだぞ」
「ああ、ええと、そうなんだけど、もしかしてそのドルフィって子だったのかなと思って。さっきも、厨房の窓から中を見てたの」
「ドルフィが?」
ソルはいぶかしげな顔をすると、カウンターを回り込んで厨房に入った。
「……何かここに、子どもの興味を引くようなもん、あるか?」
「一般の家庭よりは、色々あると思うけど……お店自体に興味があるのかもね」
私はかごを倉庫に運んで、あれこれ片づけて戻ってきた。
「エイラとオスカーは?」
「エイラは砦、オスカーは港の倉庫。以前の職場に挨拶に行ってる。もしかしたらここに知り合いを連れてくるかもしれないな」
「了解。私も港に行かなくちゃ。魚を注文してあるから」
「届けてもらわないんですか?」
チュロに聞かれて、私は答える。
「他の魚も見たいしね。運ぶのは、お客さんが手伝ってくれることもあるよ。そのままうちで食事していったりとか」
「なるほど」
「よし、じゃあ皆で行くか」
ソルがニッと笑った。
私とソル、そしてチュロで坂道を下り、港に出る。そろそろ漁船が戻ってくる時刻で、別の船に積み替えてラトラルビーの他の港に出航する船あり、一般客向けに売るために木箱に広げられる魚あり、港はにぎやかだ。
「コノミー!」
倉庫の近くで、こちらに気づいたオスカーが手を振っている。
「オスカー、元気?」
「うん、もちろん。ガヤガヤ亭用の魚、運ぶの手伝うよ。今日は何?」
「ラワーサっていう魚を頼んであるんだ」
「それ食べたことないと思う! 楽しみだー」
ひとまず先に、広げられた魚を皆で見に行く。まだぴちぴちと跳ねている魚があったり、大きな魚がその場で捌かれていたりと、見ているだけで楽しい。エビが大漁で、安く買うことができた。
ふと、見覚えのある姿が目に入る。
さっきの少年、ドルフィだ。彼は足下をちらちらと見ながら、船が泊まっている桟橋の上を歩いている。端まで行くと戻ってきて、また別の桟橋を歩く。
何をしてるんだろう?
やがて、ぼさぼさ頭の彼はしゃがみ込み、桟橋の縁で何か拾おうとする仕草を見せた。
ところが、その何かがぽろりと海に落ちる。手を伸ばしたドルフィの身体が、かくん、と揺れた。
小さな身体が、桟橋から、落ちた。
「あっ」
思わず声を上げると、ソルが「ん?」と私の視線を追った。
水がはねる。手が伸ばされて……水面が乱れる。
泳げないんだ! 溺れてる!
「ドルフィが!」
私が声を上げるのとほぼ同時に、ソルも気づいた。低い声で言う。
「オスカー」
「はい」
近くにいたオスカーが短く応えたと思うと、駆け出した。ぐんっ、と加速する。
は、速い! さすが……!
私が呆然としている間に、ソルは周りの漁師に声をかけて何か手配した。そしてすぐに、「行こう」と私を促して走り出した。私もあたふたと、ソルの後を追う。
上着と靴を脱ぎ捨てたオスカーが、桟橋から海に飛び込んだ。緊張のあまり胸が苦しくて、私は自分の胸元を押さえながら桟橋へと走った。
ずいぶん時間が経ったような気がしたけれど、実際には一分も経っていなかったのかもしれない。オスカーが水面に顔を出して、ドルフィを後ろから抱っこするような感じで持ち上げ、桟橋の上でかがみ込んだソルが手を伸ばして小さな身体を引っ張り上げた。
「大丈夫か、ドルフィ」
ソルが話しかけると、彼はゴホゴホとむせる。無事だったんだ、よかった!
このあたりの海は暖流とはいえ、今は冬。運ばれてきたドルフィはカタカタと震えていた。港の一角に、漁師さんたちがくつろぐためのたき火がおこしてあったので、火にあたらせる。さっきソルが声をかけた漁師さんが、毛布と、ひとまず大人用の乾いたシャツを持ってきてくれた。
「ドルフィ、大丈夫?」
オスカーが、布で髪をゴシゴシやりながらやってきた。彼も服を借りたらしく、乾いたものに着替えている。
「大丈夫そう。この子、いつもここにいるの?」
私は、ソルがドルフィを港で見たことがあるって言ってたな、と思い出して聞いてみた。オスカーは小声で答える。
「腹が空くと港に来て、落ちてる魚を拾って焼いて食べてるらしい。近所の人が食事に誘っても、来ないんだって。たぶん、積み下ろしの時に落ちた魚を捕ろうとして、桟橋から落ちたんじゃないかな」
人は溺れるとき、声が出せないから静かだっていうけど、本当だった。助かって良かった!
魚ばっかりの食生活してたんじゃ、身体に良くないと思うけど、この子は本当に周りに頼ろうとしないんだ……
きゅうーっ。ぐーっ。
……不思議な音がしてそちらを見ると、まだ白っぽい顔をしているドルフィがおなかを押さえていた。
そうだった、おなかが空いてたから魚を拾おうとしたんだよね。
私は彼の前にしゃがみこんだ。彼は目をすがめて、怪しむように私を見ている。一度会ってるんだけど、一瞬だったし覚えてないかな。
「ドルフィ、温かいものを食べないと風邪を引いちゃう。今日は私のところにご飯を食べにきて」
「……」
ぷいっ、と横を向くドルフィ。そうだった、この子は施しは受けないんだった。
「うち、お店をやってるの。明日、ちょっとした仕事を頼みたいから、今日の食事と寝床は前払いってことにする。いいよね?」
やや強引に言うと、ドルフィはちらりと私を見た。
「……お店って」
かすれた声で聞かれて、私は答える。
「ガヤガヤ亭っていうんだけど」
「あ」
ようやく思い出したのか、彼は軽く目を見開いた。
「よし、行くか」
ソルは組んでいた腕を解くなり、ドルフィを抱え上げた。
「わっ、お、おろせ」
ドルフィは足を少し動かしはしたものの、毛布でぐるぐる巻きなので足先がピコピコしているだけだ。
「声に元気がないぞ、ドルフィ。今日のところは我慢しろ」
スタスタと歩き始めるソル。私はオスカーに声をかけた。
「オスカーも寒いでしょ、もう行こう」
「オレは鍛えてるから大丈夫! ラワーサを受け取って、後から行くよ」
彼はケロリと言って笑った。
ガヤガヤ亭に帰り着くと、私は厨房の中にスツールを一つ持ち込んだ。ソルがそこにドルフィを座らせる。ガヤガヤ亭で一番温かい場所だからだ。
何か文句を言うかなと思ったら、ドルフィは黙って厨房の中を見回している。外から覗いていたことといい、やはり厨房に興味があるらしい。
大きな鍋には、料理に使う鳥ガラスープが作ってある。私はそこから小鍋にスープを少し移し、エビの頭と千切りのショウガを入れた。コトコト煮ると、すぐにエビのいい匂いがしてくる。
ちらり、と見ると、ドルフィは私の手元を凝視していた。少し顎が上がったところをみると、匂いをかいでいるみたい。
アクを取って、やや赤みを帯びた出汁ができてきたら、溶き卵をつつーっと垂らす。ふわあっ、と柔らかな黄色と白が浮かび上がった。塩で味を調えて、はい出来上がり。エビの頭にはうまみがぎっしりだし、すぐに出汁が出るし、便利で美味しいよね。
「エビと卵のスープ、どうぞ。明日は働いてもらうから、しっかり食べておいてね」
あくまでも仕事のための食事ってことにしてみたら、ドルフィは黙って器を受け取った。
ふーふーと冷まし、スプーンですくって、一口。
急に、その瞳に生気が戻る。
一口、もう一口と飲むうちに、白かった顔に血の気が上ってきた。ショウガは加熱すると、ショウガオールという成分が出て身体を温める。
私はオドット(ホットドッグ)用のパンをフライパンで軽く温め、
「ごめん、これ忘れてた。スープに浸して食べるんだけど、スープ足りないよね? 足すね」
とさっさとお代わりを追加。
ドルフィは全部ペロッと平らげ、小さくため息をついた。
よっしゃ!
思わず、ドルフィの死角で拳を握る。
突然、彼は我に返ったように私の顔を見ると、スツールからサッと降りて器を調理台の上に置いた。
「明日、仕事ちゃんと来るから」
ドルフィはそう言うなり、ぱっと厨房から走り出る。
「あっ、ドルフィ」
呼び止めようとしたけれど、彼は店のスイングドアをくぐるようにして外に飛び出していった。
入れ違いに、ドアを外から押したのはエイラだ。彼女はそのポーズで一度動きを止め、ドルフィの去っていった方を見ていたけれど、やがて店に入ってきた。
「ただいま。……今、子どもが出ていったけれど」
「お帰り、エイラ。あのね」
私がいきさつを説明していると、二階に行っていたソルが戻ってきた。
「あれ、ドルフィ、逃げた?」
「明日来るって言って、飛び出しちゃった……。泊まってもらおうと思ったのに」
「俺もそのつもりで上に準備してたんだが、まあ、いきなり家に泊まるのはあいつみたいな子には難しいか。無理に言うのもな」
ソルは肩をすくめる。
「食事は?」
「うん、しっかりしてった。ごめんね、勝手に仕事させるとか決めちゃって」
私が言うと、ソルは笑う。
「今はコノミが店長だ、この店のことはコノミが決めていいんだぞ」
「いやいや、ソルとエイラとオスカーは名誉店長と名誉店員だから。何かあったら意見してね」
彼らに頼むと、夜の営業準備をしてくれていたオスカーが「かっこいい! 名誉店員か!」と口笛を吹いた。
あのねぇ、あなた騎士見習いでしょ、もうすでに十分かっこいいからね!
◇ ◇ ◇
ずっしり重くなった買い物かごを持って、私は坂道を上っていた。
「買いすぎた……注文して持ってきてもらえばよかったなぁ」
市場であれこれと食材を見ているうちに、「そうだ、あれ作ってみよう!」と思いつきで決めてしまうことがよくある。で、今日作ろう、これから作ろう! となって、材料を一通り買ってしまうのだ。
「懲りないよねぇ私も……あー重い、手が痛い……このときばかりは坂の町アルンセバールが恨めしい」
ぜぇはぁ言いながら、ようやくガヤガヤ亭が見えるところまできたとき、私は「ん?」と足を止めた。
店の前に、子どもがいる。
髪がボサボサの、七、八歳くらいの子ども――たぶん男の子――は、店の外扉のすぐ脇にある窓から、中をのぞき込んでいた。彼からはちょうど厨房が見えていると思う。
荷物を持ち直し、近づいていくと、彼はハッとして振り向いた。猫みたいなツリ目の子だ。
彼は声をかける間もなく走り出し、奥の角を曲がって姿が見えなくなった。
「何か用だったのかな」
首を傾げていると、後ろから声がかかった。
「コノミ」
「ソル!」
わき道から、ソルとチュロが並んで顔を出しているので、私は笑ってしまった。店の扉が閉まっていたから、裏口を見に行っていたのだろう。
「こんにちは、コノミ! ショウガとニンニク、持ってきましたよ!」
「ありがとう、チュロ!」
「今、ドルフィがいたよな。何か用だったのか?」
こちらにやってきたソルが、買い物かごを持ってくれる。
「ありがとう。知ってる子なんだ? 声をかけようと思ったら逃げちゃった」
「かなりの人見知りらしいぞ。時々、港で顔を見る」
男の子が去った方を見たまま、ソルは言う。
「何でも、母親と二人暮らしだったのが、急に母親が姿を消したんで一人で暮らしてるとか」
私は思わず、店の鍵を開ける手を止めた。
「あんな小さいのに、一人で?」
「近所の大人たちが世話してやろうとしても、受け入れないんだと。仕事の報酬なら受け取るらしいから、大人たちが簡単な仕事をやらせてるとか」
「自分の力で生きようとしてるんだね……」
でも、お母さん、どうしちゃったんだろう。
気になりながらも、私は今の件で思い出したことがあって、店に入りながらソルに言った。
「実はね、ソル。最近、お店の中にいると視線を感じることがあって。誰かが、窓から覗いてるような」
チュロが心配そうに私を見上げた。
「危ないじゃないですか」
ソルもかごをカウンターに置いて眉をひそめる。
「そういうことは、すぐに使いを出して俺に知らせろ。何かあってからじゃ遅いんだぞ」
「ああ、ええと、そうなんだけど、もしかしてそのドルフィって子だったのかなと思って。さっきも、厨房の窓から中を見てたの」
「ドルフィが?」
ソルはいぶかしげな顔をすると、カウンターを回り込んで厨房に入った。
「……何かここに、子どもの興味を引くようなもん、あるか?」
「一般の家庭よりは、色々あると思うけど……お店自体に興味があるのかもね」
私はかごを倉庫に運んで、あれこれ片づけて戻ってきた。
「エイラとオスカーは?」
「エイラは砦、オスカーは港の倉庫。以前の職場に挨拶に行ってる。もしかしたらここに知り合いを連れてくるかもしれないな」
「了解。私も港に行かなくちゃ。魚を注文してあるから」
「届けてもらわないんですか?」
チュロに聞かれて、私は答える。
「他の魚も見たいしね。運ぶのは、お客さんが手伝ってくれることもあるよ。そのままうちで食事していったりとか」
「なるほど」
「よし、じゃあ皆で行くか」
ソルがニッと笑った。
私とソル、そしてチュロで坂道を下り、港に出る。そろそろ漁船が戻ってくる時刻で、別の船に積み替えてラトラルビーの他の港に出航する船あり、一般客向けに売るために木箱に広げられる魚あり、港はにぎやかだ。
「コノミー!」
倉庫の近くで、こちらに気づいたオスカーが手を振っている。
「オスカー、元気?」
「うん、もちろん。ガヤガヤ亭用の魚、運ぶの手伝うよ。今日は何?」
「ラワーサっていう魚を頼んであるんだ」
「それ食べたことないと思う! 楽しみだー」
ひとまず先に、広げられた魚を皆で見に行く。まだぴちぴちと跳ねている魚があったり、大きな魚がその場で捌かれていたりと、見ているだけで楽しい。エビが大漁で、安く買うことができた。
ふと、見覚えのある姿が目に入る。
さっきの少年、ドルフィだ。彼は足下をちらちらと見ながら、船が泊まっている桟橋の上を歩いている。端まで行くと戻ってきて、また別の桟橋を歩く。
何をしてるんだろう?
やがて、ぼさぼさ頭の彼はしゃがみ込み、桟橋の縁で何か拾おうとする仕草を見せた。
ところが、その何かがぽろりと海に落ちる。手を伸ばしたドルフィの身体が、かくん、と揺れた。
小さな身体が、桟橋から、落ちた。
「あっ」
思わず声を上げると、ソルが「ん?」と私の視線を追った。
水がはねる。手が伸ばされて……水面が乱れる。
泳げないんだ! 溺れてる!
「ドルフィが!」
私が声を上げるのとほぼ同時に、ソルも気づいた。低い声で言う。
「オスカー」
「はい」
近くにいたオスカーが短く応えたと思うと、駆け出した。ぐんっ、と加速する。
は、速い! さすが……!
私が呆然としている間に、ソルは周りの漁師に声をかけて何か手配した。そしてすぐに、「行こう」と私を促して走り出した。私もあたふたと、ソルの後を追う。
上着と靴を脱ぎ捨てたオスカーが、桟橋から海に飛び込んだ。緊張のあまり胸が苦しくて、私は自分の胸元を押さえながら桟橋へと走った。
ずいぶん時間が経ったような気がしたけれど、実際には一分も経っていなかったのかもしれない。オスカーが水面に顔を出して、ドルフィを後ろから抱っこするような感じで持ち上げ、桟橋の上でかがみ込んだソルが手を伸ばして小さな身体を引っ張り上げた。
「大丈夫か、ドルフィ」
ソルが話しかけると、彼はゴホゴホとむせる。無事だったんだ、よかった!
このあたりの海は暖流とはいえ、今は冬。運ばれてきたドルフィはカタカタと震えていた。港の一角に、漁師さんたちがくつろぐためのたき火がおこしてあったので、火にあたらせる。さっきソルが声をかけた漁師さんが、毛布と、ひとまず大人用の乾いたシャツを持ってきてくれた。
「ドルフィ、大丈夫?」
オスカーが、布で髪をゴシゴシやりながらやってきた。彼も服を借りたらしく、乾いたものに着替えている。
「大丈夫そう。この子、いつもここにいるの?」
私は、ソルがドルフィを港で見たことがあるって言ってたな、と思い出して聞いてみた。オスカーは小声で答える。
「腹が空くと港に来て、落ちてる魚を拾って焼いて食べてるらしい。近所の人が食事に誘っても、来ないんだって。たぶん、積み下ろしの時に落ちた魚を捕ろうとして、桟橋から落ちたんじゃないかな」
人は溺れるとき、声が出せないから静かだっていうけど、本当だった。助かって良かった!
魚ばっかりの食生活してたんじゃ、身体に良くないと思うけど、この子は本当に周りに頼ろうとしないんだ……
きゅうーっ。ぐーっ。
……不思議な音がしてそちらを見ると、まだ白っぽい顔をしているドルフィがおなかを押さえていた。
そうだった、おなかが空いてたから魚を拾おうとしたんだよね。
私は彼の前にしゃがみこんだ。彼は目をすがめて、怪しむように私を見ている。一度会ってるんだけど、一瞬だったし覚えてないかな。
「ドルフィ、温かいものを食べないと風邪を引いちゃう。今日は私のところにご飯を食べにきて」
「……」
ぷいっ、と横を向くドルフィ。そうだった、この子は施しは受けないんだった。
「うち、お店をやってるの。明日、ちょっとした仕事を頼みたいから、今日の食事と寝床は前払いってことにする。いいよね?」
やや強引に言うと、ドルフィはちらりと私を見た。
「……お店って」
かすれた声で聞かれて、私は答える。
「ガヤガヤ亭っていうんだけど」
「あ」
ようやく思い出したのか、彼は軽く目を見開いた。
「よし、行くか」
ソルは組んでいた腕を解くなり、ドルフィを抱え上げた。
「わっ、お、おろせ」
ドルフィは足を少し動かしはしたものの、毛布でぐるぐる巻きなので足先がピコピコしているだけだ。
「声に元気がないぞ、ドルフィ。今日のところは我慢しろ」
スタスタと歩き始めるソル。私はオスカーに声をかけた。
「オスカーも寒いでしょ、もう行こう」
「オレは鍛えてるから大丈夫! ラワーサを受け取って、後から行くよ」
彼はケロリと言って笑った。
ガヤガヤ亭に帰り着くと、私は厨房の中にスツールを一つ持ち込んだ。ソルがそこにドルフィを座らせる。ガヤガヤ亭で一番温かい場所だからだ。
何か文句を言うかなと思ったら、ドルフィは黙って厨房の中を見回している。外から覗いていたことといい、やはり厨房に興味があるらしい。
大きな鍋には、料理に使う鳥ガラスープが作ってある。私はそこから小鍋にスープを少し移し、エビの頭と千切りのショウガを入れた。コトコト煮ると、すぐにエビのいい匂いがしてくる。
ちらり、と見ると、ドルフィは私の手元を凝視していた。少し顎が上がったところをみると、匂いをかいでいるみたい。
アクを取って、やや赤みを帯びた出汁ができてきたら、溶き卵をつつーっと垂らす。ふわあっ、と柔らかな黄色と白が浮かび上がった。塩で味を調えて、はい出来上がり。エビの頭にはうまみがぎっしりだし、すぐに出汁が出るし、便利で美味しいよね。
「エビと卵のスープ、どうぞ。明日は働いてもらうから、しっかり食べておいてね」
あくまでも仕事のための食事ってことにしてみたら、ドルフィは黙って器を受け取った。
ふーふーと冷まし、スプーンですくって、一口。
急に、その瞳に生気が戻る。
一口、もう一口と飲むうちに、白かった顔に血の気が上ってきた。ショウガは加熱すると、ショウガオールという成分が出て身体を温める。
私はオドット(ホットドッグ)用のパンをフライパンで軽く温め、
「ごめん、これ忘れてた。スープに浸して食べるんだけど、スープ足りないよね? 足すね」
とさっさとお代わりを追加。
ドルフィは全部ペロッと平らげ、小さくため息をついた。
よっしゃ!
思わず、ドルフィの死角で拳を握る。
突然、彼は我に返ったように私の顔を見ると、スツールからサッと降りて器を調理台の上に置いた。
「明日、仕事ちゃんと来るから」
ドルフィはそう言うなり、ぱっと厨房から走り出る。
「あっ、ドルフィ」
呼び止めようとしたけれど、彼は店のスイングドアをくぐるようにして外に飛び出していった。
入れ違いに、ドアを外から押したのはエイラだ。彼女はそのポーズで一度動きを止め、ドルフィの去っていった方を見ていたけれど、やがて店に入ってきた。
「ただいま。……今、子どもが出ていったけれど」
「お帰り、エイラ。あのね」
私がいきさつを説明していると、二階に行っていたソルが戻ってきた。
「あれ、ドルフィ、逃げた?」
「明日来るって言って、飛び出しちゃった……。泊まってもらおうと思ったのに」
「俺もそのつもりで上に準備してたんだが、まあ、いきなり家に泊まるのはあいつみたいな子には難しいか。無理に言うのもな」
ソルは肩をすくめる。
「食事は?」
「うん、しっかりしてった。ごめんね、勝手に仕事させるとか決めちゃって」
私が言うと、ソルは笑う。
「今はコノミが店長だ、この店のことはコノミが決めていいんだぞ」
「いやいや、ソルとエイラとオスカーは名誉店長と名誉店員だから。何かあったら意見してね」
彼らに頼むと、夜の営業準備をしてくれていたオスカーが「かっこいい! 名誉店員か!」と口笛を吹いた。
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