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第10章 消えた賢者

廃村に落ちる影

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 夕暮れ間際の廃村で、1台の馬車が長い影を伸ばしていた。

 あと数刻も待たずして、夕日は樹海の彼方に没していく。

 かつてはこの廃村も、そこで暮らす村人たちの生活の営みで活気があったのかもしれないが、村の大半が樹木に呑み込まれた今となっては、ただ朽ち果てるのを待つばかりだ。

 国土の実に3割以上を占めるトランデュートの樹海。
 この樹海は今もなおゆっくりと、しかし着実に広がっていき、人の住む領域を侵しつつある。

 太古には神域と称された森も、魔境と呼ばれるようになって久しい。

 凶悪な魔獣や魔物が跋扈する地だけに、そこは魔の領域。
 樹海には集落もあるが、それは大昔に他種族からの侵害に遭い、棲む場所を追われて落ち延びた獣人たちの名残りとされている。

 そんな場所に好き好んで足を運ぶ者などいない。
 いるとすれば、危険を対価に名を上げようとする冒険者か、同じく危険を対価に財を築こうとする商人くらいだろう。
 あとは、の連中くらいか。

 身分違いの恋で、樹海の向こうに新天地を求めた者たちもあると聞く。
 自殺志願者や、逆に殺害目的で連れ込まれた者もいたそうだ。
 いずれにしろ、辿る結末が同じなら、理由などどれも大差はない。

 北の都カランドーレから遠路はるばる馬車を走らせてきた雇われ御者――都の馬車組合に所属する彼も、今回の客はそういったものだろうと結論づけていた。

 異様に太った男と、奇抜な服装をした若い娘。
 金払いがよく馬車を貸し切るからには、どこかの貴族の子弟子女かもしれない。

 ただ、この数日。彼が御者をしながら様子を窺っていた限り、ふたりは男女の仲どころか、親戚縁者でも親しい間柄ですらないようだった。
 特に男のほうに、娘に対しての遠慮というか、余所余所しさが抜けきらない。

 関係性はともかく、どうやら連中はたったふたりで樹海の奥に進むつもりらしい。
 行動が常軌を逸しているだけに、理由も真っ当ではないのだろう。

 ただそれも、すでに報酬の支払いを終えているからには、彼にとって些細な問題でしかない。

 唯一惜しむべくは、若い娘のほうだ。
 服装は奇抜でも、容姿は整ったかなりの上玉。
 どうせ捨てる命なら――と、邪な感情を抱かないでもない。

 都合よく、というわけではないが、娘だけを馬車に残して、男のほうは先刻から席を外している。
 護衛に雇っていた冒険者ふたり組も、見回りに出ているのか先ほどから姿を見かけない。

「ダメ元で頼んだら、いい目見せてくれる……とか美味しい話はねえよな、やっぱ」

 彼は廃屋の崩れかけた壁に寄りかかり、煙草を燻らせた。
 卑猥な想像はできても、所詮は自覚できるだけの小心者、行動になんて移せるわけがない。

 ひとり虚しく煙草を吹かしていると、不意に誰かの話し声が聞こえた気がした。
 今この場にいるのはふたりだけ。自分でなければ娘しかいない。
 声は、馬車のほうからしている。独り言にしては、やけに会話じみていた。

 彼は興味を誘われ、忍び足で馬車に近づき、そっと耳をそばだてた。
 馬車の幌は分厚いが、布だけに音はそれなりによく通す。話し声はやはり娘のものだった。

「あー、計画は順調だって。予定通り――とまではいえないけど。今? 樹海の南西部にある廃村。はいはい、わかってるって。もうすぐ合流地点だから、おとなしく待っててよ。え? もっと急げって……無理無理。だって、ここから先は馬車も入れないから、徒歩になるんだよ? 樹海をあの巨体とふたりでお散歩、わかる?」

 幌越しに聞こえてくるのは、たしかに聞き覚えのある娘の声。
 しかし、これまでに耳にしたことのない、まるで陽気な少年のような喋り方をしていた。

「あいつ、いくらなんでも太りすぎだっての。こちとら、移動中に木の隙間に引っかからないか心配してるくらいなんだから。うん、そうそう、そうなんだって」

 相手の声は聞こえないが、会話しているのは間違いない。
 世の中には遠距離会話を可能とするスキルもあれば、希少だがそれに類する魔道具も存在する。
 そういった類だろうと、彼は当たりを付けた。

「ただでさえ、次の予定も押してるんだから、こっちの都合も――って、ええ? 魔物の準備はもうできてるっていわれても。そりゃあ、そっちは魔窟さえあれば事足りるだろーし、魔将だったらどうとでも……は? はぁ、いえ、わかりましたって。ええ、もちろん従いますよ。じゃあ、これで切りますねー」

 幌からの会話はそれっきり途切れた。

 ”魔物”に”魔窟”――そして、”魔将”。
 どれも普通の会話に出ていい単語ではない。

 魔将とは、あの王都侵攻で魔王軍の指揮をしていた脅威度Sランク、魔王の側近だと今や誰もが知っている。
 その命令に従うという台詞が、なにを意味しているのか……

 聞いてはいけないものを聞いてしまい、彼は震える足で後退りしていた。

「なんだ、聞いちゃったかー。まあ、わざと聞こえるようにしたんだけどさ」

 再び幌から声がしたが、彼にはそれが自分に投げかけられたものだと、一瞬気づかなかった。

「う、うわぁ!?」

 もつれそうになる足を必死に前に動かし、駆け出そうとした先には、どういうわけか馬車の中にいたはずの娘が立っていた。

 娘は、いつもの端正な顔に笑みを浮かべている。
 しかし今はその顔が、無感情な作り物のお面に見えて、恐ろしくてならなかった。

「だ、誰か! ごご、護衛は――」

 叫び切る前に、首筋にちくりと痛みが走る。
 途端に全身が痺れて、上体から崩れるように地面に突っ伏した。

「これ、遅効性の神経毒ね。ちなみに致死性。安心して、あと10分くらいは生きていられるよ? 内臓が溶けてどろどろになるから、生き地獄かもしれないけど。ちなみにあんたが最後で、護衛はもういないから。今の話を聞いていなかったら、もう少しは長生きできたのに残念だったね。まあ、結局、全員の口を封じる予定だったから、あんま変わんないかな」

 信じがたいことを口にしながら、娘が無邪気に笑う。
 ただ、彼にはそれが嘘だとは微塵も思えなかった。

「あう゛ー、う゛ー!」

 助けを呼ぼうとしたが、すでに口も痺れて無意味な唸り声しか出なかった。

 足を持って引き摺られても、身体が動かずに抵抗すらままならない。
 女の細腕とは思えない力で廃村脇まで運ばれ、彼は無造作に茂みの奥に放り込まれた。

 投げ出された地面には、壮絶な表情で絶命している護衛のふたりの骸が転がっている。

「――――!? あ゛う゛ー!! う゛う゛ー!!」

「雑で悪いね。もうそろそろ『賢者』が戻ってくる頃合いで、あんまりゆっくりできなくてさー。先に樹海の露払いをしとくって張り切ってたから、せいぜい盛大に出迎えてもうしばらくは夢見せてあげないとね。それが済んだら、今度はまた来た道を取って返さないと。新しいクライアントは、なにかとわがままでこき使ってくれるよ。ああ、馬車はこっちで有効活用するから、安心してね。あ~、忙しい忙しい」

「う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛――――!!!!!!」

 ミニスカートを翻し、ぱたぱたと小走りで走り去る娘のあどけない姿が、彼が最期に目にした光景となった。  

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