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第2話 バクとして
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闇の中、夜霧は両手をパンと打ち鳴らす。天井の星形の照明が灯り、夕焼けのような橙色の光で室内が照らされた。四畳半ほどの狭い部屋には、人が一人やっと歩けるくらいの幅を残し、両側に木製の棚が押し込まれている。
彼は小部屋の中を歩きながら、棚に並ぶものをゆっくりと吟味していく。棚の上には、ドーム状のガラスに覆い隠された花がいくつも保存されていた。花の色や形は様々で、自然界に存在するどの花とも微妙な差異がある。
「今日は、どれにしましょうかね」
彼は唇に笑みを浮かべながら、一つの植物に目をつける。ガラスの蓋をそっと開けると、夜霧は白い指先で花の葉先を何枚か摘み取って銀のボウルの中へと入れた。
ここは、夢の花の保存場所。彼はここに喫茶店の客からもらった夢の花を保存し、お客が少ない時にお茶を入れて飲んでいるのである。
花を見ると、その時交わした客とのやり取りもよみがえってくる。
あのお客様はよく眠れているだろうかと、夜霧は瞳を柔らかく細めた。
「夜霧さん、ここにいたんですね。そろそろ開店時間ですよ!」
背後から声がかかり、夜霧は振り返る。
小部屋の入り口に立っていたのは店の手伝いをしてくれている少年、玲だった。栗色の髪の毛がふわりと揺れ、顔には弾けるような笑みが浮かぶ。
「ああ、もうそんな時間ですか。準備をしなければいけませんね」
「はい、お願いします!」
玲は今日も笑顔だ。彼の表情からは、心の底から「楽しい、嬉しい」気持ちであることが伝わってくる。
しかし、夜霧の胸には灰色のもやがかかっていた。
「玲くん。その、この店に来る前のことを何か思い出したりしていませんか? どんな些細なことでもいいんですけど」
「え? なんですか?」
夜霧の問いに、玲は笑顔で答えた。黒いビー玉のような瞳が、夜霧を無邪気に見上げる。
夜霧は目を伏せ、首を横に振った。
「すみません、余計なことを言いました。――さて、開店準備を始めましょうか」
「はい!」
跳ねるように駆けていく背を見つめ、夜霧は銀のボウルを棚の上に置くと手を打ち鳴らす。
灯りが消えて、再び周囲は闇に包まれた。
鉛色の取っ手を両手で掴み、玲は店の扉を開く。午前零時、今夜も喫茶「夢香の微睡み」の開店だ。
扉の外側に道はない。闇の中にポツポツと白い光が見える様は、まるで星空のようでもある。ここは、バクの魔法に導かれた客が迷い込む、現実と夢との狭間だ。
しばらくして、店の床をトンと鳴らす足音が聞こえる。そして店の中に、パーカーにジーンズ姿の青年が現れた。
彼はボンヤリと周囲を見回していたが、やがて戸惑いの声を上げる。
「――な、え? は?」
「いらっしゃいませ、今夜のお客様! 『夢香の微睡み』へようこそ!」
玲の明るい声に、青年は驚き怪訝そうに眉を顰める。短く切りそろえた髪の毛、パーカーの袖から見える腕は太く、しっかりと筋肉がついていた。身長は高いが表情にはまだ僅かにあどけなさが見える。高校生くらいだろうか、背筋をスッと伸ばして立つ姿は美しいが、顔には疲労の影が見える。
「ここ、どこなんだ? 俺はただ、眠れないから何か飲もうかとキッチンに……」
「それはちょうど良いですね! うちの店主が美味しいお茶をご用意しておりますよっ!」
「お、お茶⁉ お茶って一体……って、おい背中を押すなよ!」
半ば強引に、玲は青年を店の奥へと導いた。
物怖じしない玲の態度に苦笑を浮かべた夜霧は、バーカウンター越しに青年へと一礼する。
「うちの店のスタッフが申し訳ございません。突然のことで驚かれたでしょう? 私はこの喫茶店の店主夜霧と申します。差支えなければ、お客様のお名前をお聞かせ願えますでしょうか?」
「は? 喫茶店? 名前? え、なんで初対面の人に教えなきゃいけないんだよ」
青年はひとまずカウンター席に腰を下ろすが、眉を顰めて不機嫌そうな顔をしている。
仕方がないと夜霧は内心肩をすくめ、姿勢を正した。
「失礼いたしました。それでは、『お客様』とお呼びしますね。改めてご説明をさせていただきますと、ここは悪夢に悩む方が導かれる喫茶店です。そして、来店されたお客様に快適な眠りをお届けする場所なのです」
「悪、夢……⁉」
途端、ぎくりと青年が肩を震わせ、気まずそうに目を伏せる。まるで何か後ろめたいことがあるような態度だ。
夜霧は青年の心を解せるように笑みを柔らかくする。
「失礼ながら、睡眠不足なのは確かなのでしょう? いかがですか。騙されたと思って私の店で休んでいかれませんか? きっと、よく眠れるようになりますよ」
「それは……確かに眠れてなかったと言えばそうだけど。けど、別に少しは眠れてるし、怪しげな店に頼らなくなって」
「お客様」
夜霧は短く声を上げると、目の前のお客に真っ直ぐ目を合わせた。大袈裟に青年の肩が跳ねる。
「眠らなければと思うと、余計に眠れなくなるでしょう? それに『眠れないから何か飲もうと思った』と仰っていたではないですか。それなら、うちの店のお茶でも良いのではありませんか? ふふ、大丈夫です。ここは現実ではありません。何が起こっても『変な夢を見ただけ』ですよ」
夜霧はそう言って、笑みを浮かべた。
彼の紫色の瞳が深さを増し、青年の黒い瞳を真っ直ぐ見つめる。
ふわりと紅茶の甘い香りが漂い、青年はそこで初めてバツが悪そうに視線を逸らした。
「そ――そこまで言うなら、まぁ……」
「ふふ、ありがとうございます」
夜霧は嬉しそうに笑い、青年の片手を取った。
ここはバクである夜霧の領域。
夢見心地になるような店の雰囲気もあって、夜霧の「説得」は成功することが多かった。
この青年の夢はどんな味がするだろうか。
彼を悪夢から救いたいと思う一方で、夜霧はこれから飲めるお茶の味に期待を寄せるのであった。
彼は小部屋の中を歩きながら、棚に並ぶものをゆっくりと吟味していく。棚の上には、ドーム状のガラスに覆い隠された花がいくつも保存されていた。花の色や形は様々で、自然界に存在するどの花とも微妙な差異がある。
「今日は、どれにしましょうかね」
彼は唇に笑みを浮かべながら、一つの植物に目をつける。ガラスの蓋をそっと開けると、夜霧は白い指先で花の葉先を何枚か摘み取って銀のボウルの中へと入れた。
ここは、夢の花の保存場所。彼はここに喫茶店の客からもらった夢の花を保存し、お客が少ない時にお茶を入れて飲んでいるのである。
花を見ると、その時交わした客とのやり取りもよみがえってくる。
あのお客様はよく眠れているだろうかと、夜霧は瞳を柔らかく細めた。
「夜霧さん、ここにいたんですね。そろそろ開店時間ですよ!」
背後から声がかかり、夜霧は振り返る。
小部屋の入り口に立っていたのは店の手伝いをしてくれている少年、玲だった。栗色の髪の毛がふわりと揺れ、顔には弾けるような笑みが浮かぶ。
「ああ、もうそんな時間ですか。準備をしなければいけませんね」
「はい、お願いします!」
玲は今日も笑顔だ。彼の表情からは、心の底から「楽しい、嬉しい」気持ちであることが伝わってくる。
しかし、夜霧の胸には灰色のもやがかかっていた。
「玲くん。その、この店に来る前のことを何か思い出したりしていませんか? どんな些細なことでもいいんですけど」
「え? なんですか?」
夜霧の問いに、玲は笑顔で答えた。黒いビー玉のような瞳が、夜霧を無邪気に見上げる。
夜霧は目を伏せ、首を横に振った。
「すみません、余計なことを言いました。――さて、開店準備を始めましょうか」
「はい!」
跳ねるように駆けていく背を見つめ、夜霧は銀のボウルを棚の上に置くと手を打ち鳴らす。
灯りが消えて、再び周囲は闇に包まれた。
鉛色の取っ手を両手で掴み、玲は店の扉を開く。午前零時、今夜も喫茶「夢香の微睡み」の開店だ。
扉の外側に道はない。闇の中にポツポツと白い光が見える様は、まるで星空のようでもある。ここは、バクの魔法に導かれた客が迷い込む、現実と夢との狭間だ。
しばらくして、店の床をトンと鳴らす足音が聞こえる。そして店の中に、パーカーにジーンズ姿の青年が現れた。
彼はボンヤリと周囲を見回していたが、やがて戸惑いの声を上げる。
「――な、え? は?」
「いらっしゃいませ、今夜のお客様! 『夢香の微睡み』へようこそ!」
玲の明るい声に、青年は驚き怪訝そうに眉を顰める。短く切りそろえた髪の毛、パーカーの袖から見える腕は太く、しっかりと筋肉がついていた。身長は高いが表情にはまだ僅かにあどけなさが見える。高校生くらいだろうか、背筋をスッと伸ばして立つ姿は美しいが、顔には疲労の影が見える。
「ここ、どこなんだ? 俺はただ、眠れないから何か飲もうかとキッチンに……」
「それはちょうど良いですね! うちの店主が美味しいお茶をご用意しておりますよっ!」
「お、お茶⁉ お茶って一体……って、おい背中を押すなよ!」
半ば強引に、玲は青年を店の奥へと導いた。
物怖じしない玲の態度に苦笑を浮かべた夜霧は、バーカウンター越しに青年へと一礼する。
「うちの店のスタッフが申し訳ございません。突然のことで驚かれたでしょう? 私はこの喫茶店の店主夜霧と申します。差支えなければ、お客様のお名前をお聞かせ願えますでしょうか?」
「は? 喫茶店? 名前? え、なんで初対面の人に教えなきゃいけないんだよ」
青年はひとまずカウンター席に腰を下ろすが、眉を顰めて不機嫌そうな顔をしている。
仕方がないと夜霧は内心肩をすくめ、姿勢を正した。
「失礼いたしました。それでは、『お客様』とお呼びしますね。改めてご説明をさせていただきますと、ここは悪夢に悩む方が導かれる喫茶店です。そして、来店されたお客様に快適な眠りをお届けする場所なのです」
「悪、夢……⁉」
途端、ぎくりと青年が肩を震わせ、気まずそうに目を伏せる。まるで何か後ろめたいことがあるような態度だ。
夜霧は青年の心を解せるように笑みを柔らかくする。
「失礼ながら、睡眠不足なのは確かなのでしょう? いかがですか。騙されたと思って私の店で休んでいかれませんか? きっと、よく眠れるようになりますよ」
「それは……確かに眠れてなかったと言えばそうだけど。けど、別に少しは眠れてるし、怪しげな店に頼らなくなって」
「お客様」
夜霧は短く声を上げると、目の前のお客に真っ直ぐ目を合わせた。大袈裟に青年の肩が跳ねる。
「眠らなければと思うと、余計に眠れなくなるでしょう? それに『眠れないから何か飲もうと思った』と仰っていたではないですか。それなら、うちの店のお茶でも良いのではありませんか? ふふ、大丈夫です。ここは現実ではありません。何が起こっても『変な夢を見ただけ』ですよ」
夜霧はそう言って、笑みを浮かべた。
彼の紫色の瞳が深さを増し、青年の黒い瞳を真っ直ぐ見つめる。
ふわりと紅茶の甘い香りが漂い、青年はそこで初めてバツが悪そうに視線を逸らした。
「そ――そこまで言うなら、まぁ……」
「ふふ、ありがとうございます」
夜霧は嬉しそうに笑い、青年の片手を取った。
ここはバクである夜霧の領域。
夢見心地になるような店の雰囲気もあって、夜霧の「説得」は成功することが多かった。
この青年の夢はどんな味がするだろうか。
彼を悪夢から救いたいと思う一方で、夜霧はこれから飲めるお茶の味に期待を寄せるのであった。
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