傷が「跡」に変わる頃には

寺音

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「――止めなさい」
 冷静な声と同時に手首を掴まれる。弾かれたように振り返ると、見覚えのある女性が背後に立っていた。
 赤く細いフレームの眼鏡に項の辺りで一つにまとめた髪の毛。現代文担当の教師、小林だった。

「先生……」
 枝のように細い腕をしているのに、唯香の腕はピクリとも動かなかった。
 あくまで冷静な眼差しで唯香を見下ろし、小林は機械音声のように告げる。
「あなたの力では、鏡は割れません。万が一割れたとしても、あなたの見たくないものは消えませんよ」

 唯香は目を丸くして彼女の顔を見つめた。小林は力の抜けた唯香の腕を、そっと下ろす。唯香の全身を流れる血液が、凍りついていくようだった。
 小林は視線を少し下げる。
「安心しなさい。あなたのの原因がなんであるかなんて、私は知りません」

 間違いない。先生には私の傷が見えている。鏡のことも知っているのだ。
 疑問と、勝手に自身の傷を見られた恐怖が、じわりと唯香に迫る。
 唯香の様子に気づいているのか、小林は一瞬口ごもった後、それでも冷静に声を発した。

「自分で気づいてきちんと認めてあげないと、その傷はいつまで経っても治らないままです。今まで以上に苦しい想いをしたくないなら、観念してその傷に向き合ってあげなさい」
「せ、先生に、何が分かるんですかっ⁉」

 これ以上苦しくて滲めな想いはしたくない。自覚したところでこんな、叶わない恋心なんて要らない。
 それなのに、どうしてわざわざ自分から傷口を抉るようなことをしなければならないのか。
 唯香の眼差しを受け止めて、ゆっくりと小林は唇を開く。

「馬鹿な経験者からの、ただのお節介ですよ」
「え……」
 その時、唯香は気がついた。まさかという思いに、後ろを振り返る。
 鏡の中の、小林の左胸に赤黒い何かが見える。恐る恐る足を動かして、見えやすいように体の位置をずらす。小林は止めなかった。
 唯香は思わず口元に手を当てた。
 小林の左胸には、唯香と同じようながあったのである。

 その傷は、ジュクジュクと赤黒い血が少しずつ染み出ていて、それが固まることなく小林の洋服を染め上げていた。見ていた唯香の肌がぞわぞわと泡立つ。
 鏡の中の小林は苦笑している。仕方がないと、どこか諦めたような表情だった。

「先生。『経験者』って、まさか」
 唯香が振り返ると同時に、小林は踵を返す。顔を見られたくないとでも、言っているようだった。
「――あなたは、私のようにはならないでくださいね」
 背中越しに告げられた彼女の声は、珍しく優しい響きをしていた。

 ローヒールを響かせて立ち去っていく小林を、唯香は茫然と見送る。
 足に力が入らなくなって、やがて鏡を背にずるずるとその場に座り込んでしまう。

 この傷を認める。そして、向き合ってあげる。
 唇を噛みしめて、唯香は俯いた。
 小林に言われたからではない。彼女の傷が恐ろしかったわけでもない。
 もう、気づかないフリをするなんてできない。既に唯香の傷は、ここまで現れてしまっているのだから。

 ずっと、茉莉のことを想っていた。
 癖のついた淡い色の髪の毛も、感情に合わせて色を変える大きな瞳も、ずっとずっと前から見つめていた。
 無邪気で柔らかくて、傍にいる人を癒してくれる彼女は、誰よりも愛おしくて大切な人。

 私の方がずっと長く茉莉と一緒にいたはずなのに。どうして私は、彼女の「隣」にいられないのだろう。あの太陽みたいな笑顔は、どうして私が引き出したものじゃないんだろう。

 茉莉のお相手は、彼女にお似合いな一学年上の先輩。彼の顔を、頭の中でぐちゃぐちゃに塗りつぶしながらも、茉莉を困らせたくなくて、親友でなくなることが怖くて。
 だから、この恋心ごとなかったことにして、誰も、自分自身も傷つかないようにしたつもりだった。
 けれど、そうか。それが余計に私を――。

「茉莉」
 好き。誰よりも大好き。本当に、心の底から。
 今更認めたって、失恋は確定だ。茉莉は唯香に友情以上の感情を向けることはないだろう。
 けれど。
 きつく閉じた目蓋から、抑えきれない涙が溢れ出し頬や顎を伝う。

「痛いなぁ……、痛いよねぇ、私。ずっと、辛かったよね」
 胸がとても痛かった。今鏡の中を覗いたら、きっと一番酷く傷口から血が流れているだろう。

 しかし、何故だろうか。
 ようやく、あの紅い傷に優しく触れてあげられたような、自分を労われたような。
 そんな気もしたのだった。








 薄桃色の花びらが青空を背景バックに揺れている。もう桜の季節なのかと、唯香は驚きと共に薄く微笑んだ。

「おはよう、唯香! へへ、今日は一緒に教室に入れそうだね」
 駆け寄ってきた茉莉に、唯香は呆れたように声をかける。
「茉莉はいっつも遅いのよ。四月からは三年だし、早起きの習慣をつけなさい」
 そう言うと、何故か照れたように笑って、愛しい人が両手をこちらに突き出してくる。

「見て! ふふ、ホワイトデーのお返しに買ってもらったんだ」
 勢いよく突き出された両手は、温かいものに包まれてふわふわしている。ピンクと白のチェック柄の手袋は、茉莉の雰囲気にぴったりだ。
 もう三月も中頃だし、今日はそれほど気温が低くない。手袋はもういらないんじゃない、なんて言葉は野暮だろう。
 軽くため息を吐いて、今の自分に言える精一杯の祝福の言葉を述べる。

「……そっか。うん、とってもよく似合ってる」
「ありがとう、唯香!」
 ふわりと浮かんだ茉莉の笑顔が、花びらのように広がった。甘さと苦さと痛みを感じながら、唯香は僅かに目を伏せる。

『好きよ、茉莉』
 心からあなたと誰かの幸せを願えるまで、もう少しだけ待って。
 唯香は右手のひらを、心臓の上に当てる。
 少しだけ痛む左胸を、優しくそっと撫でてやった。
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