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7月27日:ユズ
しおりを挟むいつもの窓に腰かけて空を見上げた。
不安に押しつぶされそうだ。
固い決心と覚悟で、クロに憎しみの理由を聞いたはずなのに、事あるごとに昨日のクロの瞳が頭を|
過《よぎ》り、そのたびに、どうしてあんなことを言ってしまったのかと後悔の波が押し寄せた。
クロを悲しませるのは、僕の望みじゃない。
クロを癒してあげるなんて、そんなの簡単なことじゃないのは分かっている。それでも――、
「クロ!」
ふと、いつもの場所に目を向けると、クロがボクに背を向けて座っていた。
いつからそこにいたのだろう。そんなに長い時間、空を見上げていたのだろうか。
「なあ。」
クロは背を向けたまま、ぽつりと言った。
「お前、本当に知りたいんだよな。」
クロの声に、いつものようなキリッとした響きはなかった。力の無い声だった。
その言葉は、昨日のことを表しているのは明らかだった。
「うん、知りたい。どうしても知りたい。」
僕は、クロの背中にありったけの思いを込めた。
「クロ、僕なら大丈夫。この前、君にたずねたときとは違うんだ。全部覚悟の上だよ。」
本当は、不安だ。
でもそれ以上に、クロを知りたい、受け入れたいという思いが強かった。
「お前の気持ち、よく分かった。明日、話そう。」
最後まで僕に背を向けたまま、クロは山へ帰って行った。
僕の家族にはそれぞれ学校や仕事があるので、朝の八時には、僕だけになる。
いつもなら、家の見回りをしたあとは家族のベッドでのんびり過ごすのだけど、この日はクロのこともあって、昼寝をする気になれなかった。
お昼の十二時を過ぎたころだった。
ひげがいつもと違う空気が窓から流れてくるのを察知した。鼻と耳がピクリと動く。僕は集中した。
猫の気配だ。
クロ以外の、猫の気配。
胸騒ぎがする。いつもの窓に上がって、外を見た。目を凝らして辺りを見渡すと、歩道に美しい毛並みの猫が、ひとり、歩いていた。
ロシアンブルーだ。お姉ちゃんが好きな猫の種類で、一度、図鑑で写真を見たことがある。
最近知ったのだけど、僕はアメリカンショートヘアとブラックペルシャのミックスらしい。顔立ちはアメリカンショートヘアである母親によく似ていると聞いた。
「どうしたんだろう?」
歩道のロシアンブルーは、ふらふらとおぼつかない足取りで、いつ倒れてもおかしくない。よく見るとお母さん猫のようだ。お乳が張っている。とても心配だ。
「大丈夫かな。」
交差点を左に曲がり、僕の家のほうに向かって歩いてきた。彼女はどこに行こうとしているのだろう。
ロシアンブルーが視界から消え、僕は居間からお姉ちゃんの部屋へと移動した。どうしても彼女から目が離せなかった。ちゃんと聞き取れないのだけれど、彼女は何か言っている。なんだか助けを求めているような気がして、彼女の心の声を聞こうと耳に神経を集めた。
「あか……、」
その美しい猫は、その言葉を残し倒れた。
僕は慌てて階段を降りて玄関に行き、鍵がかかっているかどうかを確認した。さいわい、鍵はかかっていなかった。おそらく、お姉ちゃんがかけ忘れて行ったのだろう。
戸の隙間に爪を引っかけてガリガリすると、少しずつ戸が動く。僕はそこに、腕を滑りこませて顔や身体を使って、何とか通れるくらいの隙間を作った。
あとでお姉ちゃんがお母さんに怒られるだろうけど、今はしかたない。むしろ、お姉ちゃんに感謝だ。
玄関を出ると、急いでロシアンブルーの元に駆けつけ、道端に倒れている彼女を手でつつくと、小さな反応を見せた。
「大丈夫? ねえ、大丈夫?」
脚と脚の間から、お乳がのぞいていた。よく見ると、ミルクが染み出している。
いったい、何があったのだろう。痛々しい姿に胸が締めつけられる。
ぴくりと身体が震え、聖母のように美しいロシアンブルーが目を覚ました。僕に手をのばしている。
「赤ちゃん……、」
今にも、消えてしまいそうな声だった。
「赤ちゃん……、私の赤ちゃん……、」
うつろな目。
ガラス玉のように澄んだ瞳なのに、よどんで見えた。
「赤ちゃん……、私の赤ちゃん……、」
ただ、その言葉を繰り返していた。その視線の先には保健所がある。
僕の背中を氷が滑った。
「ねえ、どうしたの? 何があったの?」
ようやく、ロシアンブルーは僕に寄りかかるように立ち上がった。見ると、美しいブルーグレーの身体のあちこちに、赤茶色の泥がついていた。
「赤ちゃん。この前、産まれたばかりなの! ミルクを飲ませてあげなくちゃいけないの! きっと、お腹を空かせているわ。昨日、お母様が赤ちゃんを連れて、この辺りまで来たのは覚えているのよ。ねえ、坊や。私の赤ちゃん、見なかったかしら?」
僕は目を閉じて、そっと首を横に振った。
「力になれなくて、ごめんなさい。」
……もどかしい。
こんなに近くにいるのに、まったく力になれない。
とても悔しい。
「ユズちゃん、こんなところにいたのね。」
遠くから人間の声が聞こえ、僕に寄りかかっていたロシアンブルーが声の主へ顔を向けた。よどんでいた瞳に、希望の輝きが戻った。
「まあ、ユズちゃん。」
おそらくこの人間が、泥だらけの聖母の『お母様』なのだろう。『お母様』は、ユズと呼ばれたロシアンブルーを少し乱暴に抱き上げた。
状況も事情もまったく飲み込めないままふたりをぼんやりと眺めていると、『お母様』が凄い形相で僕を睨みつけた。
「ちょっとあんた! うちのユズに何をするの!」
ユズの『お母様』に突然怒鳴られ、僕は目を白黒させた。
「うちのユズちゃんは、そりゃあ世界一美しくて賢いわ。だから好きになっちゃうのも分かるけど、そこは『ミブン』をわきまえて欲しいわね。」
怒られている理由がさっぱり分からない。僕を凄い形相と剣幕に圧倒され、僕は後ずさりをした。
「お母様、私の赤ちゃんはどこです? あの子たちをどこへ連れて行ったのです?」
ユズは『お母様』の腕の中で必死に子猫の居場所をたずねている。でも人間は僕らの言葉を理解できない。ただ、ニャーニャー鳴いているように聞こえるだけ。
だから、とんでもない勘違いを招くこともある。
「ユズちゃん、やっぱりあなたもこんな小汚いオス猫にしつこくされて嫌だったのね? 分かるわぁ。あなた、私に似てとても美人だから、振り向かないオトコはいないのよね。それであなた、隣の家のみすぼらしい三毛猫に無理矢理せまられて、赤ちゃんができちゃったのよね? でも、安心して。あのオス猫の子どもたちは、みんな保健所に連れて行っちゃいましたからね。あなたには、お母様がちゃんと、素晴らしいお婿さんを見つけてあげますからね。」
保健所に、子猫を連れて行った……?
保健所に、子猫をみんな……?
「いやぁあああああああああああ!」
美しいロシアンブルーの悲痛な叫び声だけが、むなしく響いた。
ユズはおそらく、保健所がどういう場所なのか理解していない。しかしもう二度と、赤ちゃんにお乳を飲ませてあげることはできないのだと、悟ったのだろう。
『人間たちが、用済みになった飼い猫飼い犬を捨てる、ゴミ箱さ。』
いつかクロが言っていたあの言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。
*⋆꒰ঌ┈┈┈┈┈┈┈┈┈໒꒱⋆*
私の話が終わっても、誰も口を開かなかった。やり場のない悲しみだけが、その場に漂っていた。
「本当に愚かなんだな、人間は。」
沈黙を破ったのは、鴉だった。
ユズの物語は鴉にとってはつらいものだろう。彼には大切な家族がいる。立派に旅立った子どもたちもいるのだ。
鳶は、私の話が信じられないのか首を小刻みに振っている。
「もしかして、さっき健太さんが言っていた、健太さんが知らなかった人間の世界って、このこと?」
「ああ、そうだよ。人間の残酷な顔だ。私は、そんな人間たちを、たくさん知ることになった。」
鴉は、聞くに耐えないような表情で目をそむけた。
しかし、鳶は違っていた。キラリと輝く瞳を私に向けていた。
「聞きたくない。でも、聞かなきゃいけない。ボクたちは、知らなきゃいけないんだ。」
「その通りだよ。」
私はにっこり笑って大きくうなずき、物語を続けた。
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