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8月12日:真夏の蜃気楼
しおりを挟む昨夜は、一睡もできなかった。草のこすれる音が聞こえると目を覚まし、すぐさま窓に上がってクロの名を呼んだ。そんなことを繰り返していたら、いつの間にか夜が明けていた。
「クロ……。」
僕は、ベッドに寝たまま首を持ち上げて、窓を見た。
「今日は、来るかな。」
重い腰を上げて、窓を目指す。足取りは、寝不足のせいかおぼつかない。それでも窓にたどりつくと、あの窓の向こうにクロがいるのではないかという小さなシャボン玉が、胸の奥をふわふわ漂っていた。
だけど、シャボン玉は音を立ててはじけた。クロの場所で、スズメたちが遊んでいる。
あの場所には、クロがいたんだ。
クロと出会ってからの日々が、僕の頭の中を駆け巡った。毛づくろいしている姿、機嫌の悪そうな顔、刺すような金色の目、レディが連れ去られた時の背中と、再会したときの幸せそうな顔。僕にとってはすべてが大切で失いたくないない宝物だけど、クロがここにいなければ、それらの宝石は輝かない。
僕は肩を落した。
人間が涙を流すのはきっと、こんなときなんだ。
クロ、君に会いたい。なぜ来ないのだろう。きっと何か理由がある。そうだ、そうに違いない。保健所に連れて行かれたなんて、そんなのあるわけない。
僕は、心が折れそうになる自分を、必死に説得した。
ぼんやりと世界を包み込んでいた朝靄は、天使が吸いこんだかのように姿を消し、すがすがしく爽やかな朝の陽射しは、じりじりとした真夏のそれに変わっていく。
「……今日も、暑くなるな。」
それは、光が変わる瞬間。僕の一番好きな時間だ。神様が世界にくれた、魔力を帯びた特別な時間だ。
だから、奇跡が起こる。
――おい、坊主。
部屋に声が響いた。
そして、この声を僕は知っている。
僕は慌てて、声の主を探して辺りを見た。
――聞こえないのか。
圧倒的な存在感を放つ『彼』は、僕の真後ろにいた。ゆらりと立ち上がった黒い影。
間違いない。レディを探しに行ったあの日保健所で出会った、黒いラブラドール・レトリーバー。
「キング!」
彼は僕の憧れであり、僕の尊敬する犬だ。
「覚えていてくれたのか、ありがとうよ。」
身体の奥から湧いてくる喜びで飛び跳ねたかったけれど、どうしても、素直に喜べない一点があった。キングは、もうこの世に存在しないはず。どうして、僕の目の前にいるのだろう。
「時間がねえんだ。」
考え込んでいると、キングが、あの日と同じように『時間がない』と言った。僕は、その言葉で我に返った。
キングは、僕のいる窓の下まで足音を立てず歩いて来ると腰を下ろし、僕の目をまっすぐ見た。
「キング、どうしてここに……。」
「坊主が、泣いているのが見えたんだよ。」
「……毎日会いに来てくれる友だちが、どうしてなのか昨日から来ないんだ。」
「黒猫の坊主だろ?」
キングは、クロを知っていた。
「ずっと上から見ていたぜ。『友だち』だからな。」
キングは僕から目をそらし、むずがゆそうに身をよじった。
たとえ幻でも、目の前にいるのは間違いなくキングだ。僕は、彼の気持ちに素直に甘えた。
「お前にとってあの黒坊は、大好きな友だちなんだろ? 大切な仲間なんだろう?」
まっすぐ尋ねられ、僕はさっきのキングと同じように身をよじった。
「うん。クロは僕の大切な友だちだ。なくしたくない、宝物だ。」
「それなら、信じて待つんだ。」
キングの目は、生きていたときと変わらない、心を包み込む暖かを持った強い目をしている。
刺すような目のクロとは対称的だ。
「信じて?」
「ああ、そうだ。」
キングは、微笑みをたたえていた。
「もう命のない俺とは、また会えると信じていたんだろう?」
彼の言う通りだった。共に歩む仲間として、また同じ時を過ごせると信じていた。
「だから、俺はここに来ることができたんだ。」
ガチガチに固まっていた僕の心は、お風呂で身体を温めているときのようにほぐれていった。
「キング……。」
高まっている僕の心を伝えたかったけれど、どう伝えていいのか分からず、まっすぐキングの目を見た。
「おう。その目は、もう大丈夫だな。安心したぜ。」
言いながら、キングが立ち上がった。行ってしまう! 僕は、とっさに呼び止めた。
幽霊なのだ。ずっと一緒にいてもいいじゃないか。
「健太。気持ちは嬉しいが、俺は死んでるんだ。命ある世界には、長くいられないんだよ。最初にそう言っただろ? 時間がないってな。」
そうだ。彼は確かに言っていた。キングのことを何も考えていない身勝手な自分を、僕は恥ずかしく思った。
「心配するな。また会えるさ。そうだろ?」
包み込む言葉と微笑みという、最高のプレゼントを僕にくれた。そして彼は、音もなく消えていった。
まるで、真夏の蜃気楼のようだった。
*⋆꒰ঌ┈┈┈┈┈┈┈┈┈໒꒱⋆*
「キングと会ったのは、それが最後だ。」
「健太さんを忘れていなかったんですね。」
目を閉じた鳶は、感慨深そうにつぶやいた。
「想いってのは、強いものなんだな。」
鴉は照れくさそうに、一瞬だけ鳶に目をやった。
鴉と鳶。
彼らの間にも、小さな友情の双葉が顔を出したのかもしれない。
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