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8月18日:健太とクロ
しおりを挟む――クロが帰ってくる。
昨日、レディが僕に伝えた。クロは僕に、話したいことがあるらしい。どんな話なのか分らないけれど、クロに会えるというだけで、僕の心臓は今にも飛び出しそうになほど踊っていた。
そんな僕たちを気遣って、ユズは今日、ここには来ない。だから、ふたりでじっくり話ができる。
僕は、目を閉じて風を感じた。心を澄ませば、いろいろ伝わってくる。木々の緑、若い稲穂のざわめき、スズメの遊ぶ声、秋を感じる果実の香り。自然に目を向ける喜びを教えてくれたのは、クロだった。
「おい。」
聞きなれた僕の大好きな声。目を開けると、いつもの場所にクロがいた。
金色の目が、僕を見ている。
「どうした? 一週間で俺を忘れたか?」
クロがここにいる。
その想いが、僕の喉に蓋をして、思うように言葉が出てこなかった。
「忘れたり……、するもんか。」
僕は、固く閉ざされた喉の蓋をようやく開けた。
「クロこそ、どうして来なかったの? 僕、ずっと待ってたんだよ。」
クロは、嬉しそうに微笑んだ。
「すまなかったな。ちょっと独りで考えたいことがあったんだ。心配かけたな。」
金色の目は、今までとは違う輝きを放っていた。
「こんな俺でも、」
前置きが苦手な話し方は、クロの不器用さの表れなのかもしれない。
「こんな俺でも、連れて帰りたい、一緒に暮らしたいという人間がいるんだ。知っての通り、俺にとって人間は憎む対象で、一緒に暮らす対象じゃない。だから無視をしようと思ったんだが、どういうわけか心に引っかかってな、無視できなかった。」
クロは、そっと目を閉じた。
「……お前と、初めて出会った日だった。」
僕は、クロと初めて会った日を思い出した。
当時の僕は、まだ自分のことを人間だと思っていた。あの日、スズメを眺める楽しみを奪ったと、見なれない黒猫に対して怒っていた。
しかし、そんな僕に言ったその黒猫の言葉が、今の僕を支えている。
『お前、幸せか?』
あの日、クロは初めて自分を気にかけてくれる人間と出会ったのだ。
幸せなのかどうかというあの日の質問は、僕を通して自分に向けたものだったのかもしれない。
「人間は憎い。一緒に暮らすなどもってのほかだ。だが、俺の心は自分でもよく分らない複雑な動きをしたんだ。だから無視できなかった。そんなときだったよ。窓辺にいるお前を見つけたのは。お前は猫嫌いかもしれないが、人間と暮らす家猫は、俺にとっては人間同様憎い存在だ。だが何となく、こいつとなら話ができるかもしれない。そう思ったんだ。」
クロは、僕から目をそらした。クロの、照れたときの仕草だ。
「まあ、なんだ。おかげで、いろいろ知ることができた。感謝している。」
「僕だって。クロからいろいろ教えてもらったよ。」
僕はクロをまっすぐ見た。
「本当に、本当にありがとう。」
クロは何も言わずに僕をにらんだ。僕がよく知っているクロの、照れ隠しの行動だ。
たった一週間なのに、何年も会っていないようだった。しかし、僕もクロも、この一週間で大切なことを学び成長している。僕はそれをしっかり感じた。
「この一週間、お前が教えてくれたこともあわせて、いろいろ考えた。そして、人間を信じてみると決めたんだ。」
クロは、迷いのないとても晴れやかな目をしていた。
「俺、その人間と暮らしてみるよ。なれるかどうか自信はないが、なってみるさ『家族』ってやつに。」
クロの口から発せられた言葉そのものが、僕は嬉しかった。
「だから……、」
喜ばしいはずなのに、クロの顔は曇っている。
クロの沈黙が、僕を不安にさせる。
「どうしたの?」
全身が心臓になったのではないかと思うほど脈打ち、肉球は脂汗がにじんでいた。
クロがふと顔を上げ、僕を見た。金色の目は光を失っている。
「だから、もう、ここには来られない。」
ここには来られないって、どういうこと……?
本当はその答えを知っているのに、僕の心は理解を拒んでいた。クロの言葉を受け入れられなかった。
「でも、クロ……、」
もしかしたら、と言いかけた言葉を飲み込んだ。
野良猫から飼い猫になるということは、そのくらいの覚悟が必要なのだ。クロは、家族を手に入れる代わりに自由を失うのだから。
それは、僕が一番知っている。
ユズのように、自由に外を歩いている飼い猫もいるが、僕のように、自由に外を歩けない飼い猫もいる。
クロの飼い主がどっちなのかは分からないけれど、いつも通り明日も会えるという軽い約束はできないのだろう。
クロの気持ちが、痛いほど伝わった。
「うん、分った。」
僕は、しっかりとうなずいて、笑った。
「だって、クロも僕のこと大好きなんだもんね。離れたくないんだもんね!」
「なんだと!」
クロは、金色の目を大きく見開いて慌てている。悪ぶっているけれど、本当はとてもシャイで素直な、可愛いヤツなのだ。
僕は、思い切り笑った。秋の香りが漂う夏の終わりの風に、わだかまりや寂しさを連れて行ってもらうように。
「いつか、会えるよ。……必ず、会える。」
クロは、下を向いて泣いていた。涙なんて出ないけれど、僕には分かる。僕も同じ気持ちだから。
電化製品の電源を入れたときのような、ブゥンという音があたりに響いた。
「あれ? この辺だと思うんだけど。」
遠くから女の人の声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。
「来たな。俺の、新しい家族だ。」
僕は、クロの視線を追った。
「あの人!」
「知っているのか?」
「見かけただけだけど、覚えてるよ。」
クロの新しい家族だというその人は、以前お姉ちゃんの書斎の窓から見た、何かを探して走る女子高生だった。
あのときと同じ、セーラー服とお下げ髪。
「あんな風に、毎日俺に会いに来るんだ。」
クロは、その人を不安と期待の入り混じる瞳で追った。
「クロ、行きなよ。」
爽やかな夏の風に、僕は言葉を乗せた。
「僕の大好きなクロの旅立ちだもん。お祝いしなきゃ。」
クロは下を向き、ゆっくりと立ち上がった。
「クロくん! クロくん! いないのかな?」
女子高生は、草むらや木陰など、声をかけながらくまなく探している。
「あの名前以外には、反応しないようにしているんだ。」
クロは、新しい家族を見つめていた。
「お前との一ヶ月を忘れないために……。」
振りかえったクロの瞳は、やさしさで満ちていた。
「ありがとうな、健太。」
その言葉を残し、究極の照れ屋は、新しい家族の元へと旅立って行った。
*⋆꒰ঌ┈┈┈┈┈┈┈┈┈໒꒱⋆*
ねえ、クロ。
きっとまた、君に会える日が来るよね。
いつの日か、僕はもう一度君と出会って、
今度は、もっともっと長い時間を共にしたい。
ねえ、クロ。
君は僕。
そして、僕は君
僕は誓うよ。
もう一度、僕は君と出会って、
この美しい青空の下を、
緑の野原を、君と、思う存分、走るんだって。
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