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大雨 02
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黒い腫れ物の世界。
純一は「家」の外、いや世界の風景をそう心の中で呼んでいた。
多くの家屋は耐腐食剤を練り込んだリキッドラテックスを何重にも外壁に塗装してある。
だが均一の厚みを持った綺麗な塗装ではない。
素人の仕事だ。
でこぼこで、その質感故にグロテスクでさえある。
個人が「殺しの雨」の合間を縫って塗装したものなのだ。
今のように、専用の塗装業者が現れるまではこの作業は大変なものだった。
「殺しの雨」に怯えながら、まず中和剤を家屋全体に塗布する、それからリキッドラテックスだ。
この一連の作業が一回で完成する事はまずない。必ず途中で「殺し」が降る。作業中であってもだ。
低濃度の「殺し」なら良いが、高濃度の「殺し」に降られたら、文字通り死人が出る。
それでも人々はこの作業を止められない。
この作業を放棄することは「家」を失うことなのだ。
今や「世界」の中に家があるのではない。「家」の中に世界があるのだ。
何人かの人間とすれ違う。
午前中は「大丈夫」と国が予報を出している。
純一の長年鍛えた観察力で、赤錆た鉄板のような空を見ても「殺し」は降らないと言い切れる。
だのに、あらゆる人間が軽重の差はあれ、防護服を着込んでいる。
土砂降りの雨の中で、死者のダンスを踊り狂いながら皮膚を剥がれ肉を溶かされ、やがて骨さえも腐らせてしまう死に様が、誰の意識の中にも、強く刷り込まれているのだ。
それでも人々は外に出ざるを得ない。
ある者は、地下農園に、ある者は発電所に、まだ安全なシールド加工された地下連絡通路で結ばれていない最低限の生活の基盤を支える施設に向かって。
又、ある者は、この「外出」というリスクをマネーチャンスに変えるために。
海浜公園跡が見えてきた。
自宅から徒歩で三時間を少し上回る程度で到着した、始め考えていたより随分と早い、「歩き」としては良い出来だった。
純一は、歩きながらケイコとの関係の清算の方法を考え続けていた。
女としてはケイコは変態だが魅力的な存在だ。
だが一緒に所帯を持てる女ではない。
答えは決まっているのだが、今まで結論を出せずにいたのは、決してケイコの肉体的な魅力に未練があるだけではなかったからである。
純一が、ケイコという社長令嬢に見初められるという奇跡を起こしたからこそ、今の妻である淳子との結婚があったのだ。
社長が開くプライベートパーティーに純一が呼ばれる頃には、純一とケイコの結婚は半ば公然のものとして成立していた。
勿論、誰もがその結婚が長続きしないこと、純一は、とどのつまりは会社から放逐されるであろう事を予測してでの話だが。
しかし人々の予想は、このプライベートパーティに招かれたある資産家の一人娘の登場によって大きく塗り替えられてしまった。
彼女の名前を淳子という。
今の妻だ。
淳子はケイコと同じ年であり、彼女たち二人は友達とは言えないまでも、何度か顔を合わせた間柄だったそうだ。
淳子はこのパーティ会場で出会った純一に一目惚れしたらしい。
らしいというのは純一にその実感がまったくないからだ。
後に淳子にそう言われたからそうなのだと思っているだけの話だ。
そしてそれぐらい淳子は印象の薄い女でもあった。
結局、紆余曲折を経て純一は淳子と結婚した。
暫くして「何故、自分と結婚した?」と聞いたら、「さあ、あの時、私がおぼこかったからかしら。それとも、単純にあの人のものなら、なんでも横取りしたかったからかしら。でも後悔はしてません。」と謎めいた微笑み付きで淳子は笑ったことがある。
人々は、純一と淳子の結婚を、自然な成り行きと評価しているのだが、冷静に考えてみれば、純一を略奪したのは、気性の激しいケイコではなく、おっとりした淳子のほうなのである。
「打算で女を乗り換えてしまった。」
純一にはその罪の意識が未だにある。
それに、純一はどういう訳か、妻の淳子に不透明さを感じる時があるのだ。
ケイコは屈折していて、扱いづらいし、性格的にはお世辞にも可愛い女とは言えない。
だが、心が読める、読めるような気にさせる女なのだ。
それに対して淳子は、おっとりとした素直な女だ。
それだけのように思うが、二年も一緒に生活していると、思いがけない面がちらりと顔を覗かせる。
彼女が仮面を被っているとは言わない。 ただ心の底が見えないのだ。
ケイコとの関係は淳子との結婚の後も続いている。
単純に肉体的な関係だ。
それも常軌を逸した変態行為がそのほとんどだ。
帰宅した後も、純一の身体に肉体的な変調が残っている事は沢山あった。
それらは勘の良い女なら、少し観察を丁寧にするだけで判るようなものだった。 中にはケイコがわざとそれを狙ったものさえあった筈だ。
それでも淳子は、純一の不倫に気付かない。気付かない振りをしているのだろうか?
底が見えなかった。
だが、いずれにしてもケイコと切れるのなら、今が最後のチャンスだろう。
純一は、この雰囲気は「殺しの雨」が降り出す直前の空模様によく似ていると感じていた。
海浜公園跡の、天井の抜けたコンクリートの建物の中にケイコは異様な防護服を着て立っていた。
「重ゴム」と呼ばれる重装備の防護服は、様々なコーティングを施された肉厚の硬質ゴムを素材にしているため、柔軟性が少ない。
しかもその上、中に包む人体を完全に密封する必要があるために、外観は人型をしたシェル状になる場合が多いのだ。
頭部は勿論、全てを包むヘルメット型だが、顔面については視界を確保するためガラスのバイザー部分を大きく取ってあるものが多い。
結果的に、「重ゴム」を着込んだ人間は、性別不明の大人びた黒いキューピー人形のような見てくれになる。
だがケイコの「重ゴム」は、金の力にものをいわせた特別のオーダーメイドなのだろう。
その人型のシルエットは極端な「女性」のデホルメを持っていた。
それに頭部にはヘルメット代わりに薄くてぴったりとした半透明の全頭型のゴムマスクを付けている。
ケイコにしてみれば自分の美貌を無骨なヘルメットで隠すことなど許されない事なのだろう。
ただ緊急の場合に備えて、目元を大きくガラス面で取ったガスマスクだけはその顔に張り付けざるを得なかったようだ。
純一は「家」の外、いや世界の風景をそう心の中で呼んでいた。
多くの家屋は耐腐食剤を練り込んだリキッドラテックスを何重にも外壁に塗装してある。
だが均一の厚みを持った綺麗な塗装ではない。
素人の仕事だ。
でこぼこで、その質感故にグロテスクでさえある。
個人が「殺しの雨」の合間を縫って塗装したものなのだ。
今のように、専用の塗装業者が現れるまではこの作業は大変なものだった。
「殺しの雨」に怯えながら、まず中和剤を家屋全体に塗布する、それからリキッドラテックスだ。
この一連の作業が一回で完成する事はまずない。必ず途中で「殺し」が降る。作業中であってもだ。
低濃度の「殺し」なら良いが、高濃度の「殺し」に降られたら、文字通り死人が出る。
それでも人々はこの作業を止められない。
この作業を放棄することは「家」を失うことなのだ。
今や「世界」の中に家があるのではない。「家」の中に世界があるのだ。
何人かの人間とすれ違う。
午前中は「大丈夫」と国が予報を出している。
純一の長年鍛えた観察力で、赤錆た鉄板のような空を見ても「殺し」は降らないと言い切れる。
だのに、あらゆる人間が軽重の差はあれ、防護服を着込んでいる。
土砂降りの雨の中で、死者のダンスを踊り狂いながら皮膚を剥がれ肉を溶かされ、やがて骨さえも腐らせてしまう死に様が、誰の意識の中にも、強く刷り込まれているのだ。
それでも人々は外に出ざるを得ない。
ある者は、地下農園に、ある者は発電所に、まだ安全なシールド加工された地下連絡通路で結ばれていない最低限の生活の基盤を支える施設に向かって。
又、ある者は、この「外出」というリスクをマネーチャンスに変えるために。
海浜公園跡が見えてきた。
自宅から徒歩で三時間を少し上回る程度で到着した、始め考えていたより随分と早い、「歩き」としては良い出来だった。
純一は、歩きながらケイコとの関係の清算の方法を考え続けていた。
女としてはケイコは変態だが魅力的な存在だ。
だが一緒に所帯を持てる女ではない。
答えは決まっているのだが、今まで結論を出せずにいたのは、決してケイコの肉体的な魅力に未練があるだけではなかったからである。
純一が、ケイコという社長令嬢に見初められるという奇跡を起こしたからこそ、今の妻である淳子との結婚があったのだ。
社長が開くプライベートパーティーに純一が呼ばれる頃には、純一とケイコの結婚は半ば公然のものとして成立していた。
勿論、誰もがその結婚が長続きしないこと、純一は、とどのつまりは会社から放逐されるであろう事を予測してでの話だが。
しかし人々の予想は、このプライベートパーティに招かれたある資産家の一人娘の登場によって大きく塗り替えられてしまった。
彼女の名前を淳子という。
今の妻だ。
淳子はケイコと同じ年であり、彼女たち二人は友達とは言えないまでも、何度か顔を合わせた間柄だったそうだ。
淳子はこのパーティ会場で出会った純一に一目惚れしたらしい。
らしいというのは純一にその実感がまったくないからだ。
後に淳子にそう言われたからそうなのだと思っているだけの話だ。
そしてそれぐらい淳子は印象の薄い女でもあった。
結局、紆余曲折を経て純一は淳子と結婚した。
暫くして「何故、自分と結婚した?」と聞いたら、「さあ、あの時、私がおぼこかったからかしら。それとも、単純にあの人のものなら、なんでも横取りしたかったからかしら。でも後悔はしてません。」と謎めいた微笑み付きで淳子は笑ったことがある。
人々は、純一と淳子の結婚を、自然な成り行きと評価しているのだが、冷静に考えてみれば、純一を略奪したのは、気性の激しいケイコではなく、おっとりした淳子のほうなのである。
「打算で女を乗り換えてしまった。」
純一にはその罪の意識が未だにある。
それに、純一はどういう訳か、妻の淳子に不透明さを感じる時があるのだ。
ケイコは屈折していて、扱いづらいし、性格的にはお世辞にも可愛い女とは言えない。
だが、心が読める、読めるような気にさせる女なのだ。
それに対して淳子は、おっとりとした素直な女だ。
それだけのように思うが、二年も一緒に生活していると、思いがけない面がちらりと顔を覗かせる。
彼女が仮面を被っているとは言わない。 ただ心の底が見えないのだ。
ケイコとの関係は淳子との結婚の後も続いている。
単純に肉体的な関係だ。
それも常軌を逸した変態行為がそのほとんどだ。
帰宅した後も、純一の身体に肉体的な変調が残っている事は沢山あった。
それらは勘の良い女なら、少し観察を丁寧にするだけで判るようなものだった。 中にはケイコがわざとそれを狙ったものさえあった筈だ。
それでも淳子は、純一の不倫に気付かない。気付かない振りをしているのだろうか?
底が見えなかった。
だが、いずれにしてもケイコと切れるのなら、今が最後のチャンスだろう。
純一は、この雰囲気は「殺しの雨」が降り出す直前の空模様によく似ていると感じていた。
海浜公園跡の、天井の抜けたコンクリートの建物の中にケイコは異様な防護服を着て立っていた。
「重ゴム」と呼ばれる重装備の防護服は、様々なコーティングを施された肉厚の硬質ゴムを素材にしているため、柔軟性が少ない。
しかもその上、中に包む人体を完全に密封する必要があるために、外観は人型をしたシェル状になる場合が多いのだ。
頭部は勿論、全てを包むヘルメット型だが、顔面については視界を確保するためガラスのバイザー部分を大きく取ってあるものが多い。
結果的に、「重ゴム」を着込んだ人間は、性別不明の大人びた黒いキューピー人形のような見てくれになる。
だがケイコの「重ゴム」は、金の力にものをいわせた特別のオーダーメイドなのだろう。
その人型のシルエットは極端な「女性」のデホルメを持っていた。
それに頭部にはヘルメット代わりに薄くてぴったりとした半透明の全頭型のゴムマスクを付けている。
ケイコにしてみれば自分の美貌を無骨なヘルメットで隠すことなど許されない事なのだろう。
ただ緊急の場合に備えて、目元を大きくガラス面で取ったガスマスクだけはその顔に張り付けざるを得なかったようだ。
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